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うっかりカツカツやって来て、うっかり居ない。( By O.)
 

2024/02/04

今日は立春です。(ピエロ的思考)


 
・・・どんな精神状態でも、だいたいはこうして文章が書けます。
どうしてかはわからないけれど、特に訓練もしてないし、アマチュアだから、私はどこかやっぱり壊れているんだと思います。
 
それがね、警戒されたり薄気味悪く思われたりしていた原因なのかもしれない。
 
 
けれど、こうして文章を書いたり、日曜版を書いたりすることで、私もきっと修復されているのかもしれません。
 
WIN WINですね。(冗談も言えます。無表情だけどね)
 
さて、日曜版です。
 
今日は立春なんだそうです
 
七十二候では、東風解凍 (とうふうこおりをとく) なんだそうです。
 
手づくり 二十四節気 平野真理子著 ハーバーコリンズ
007ページ 参考および引用
 
同書 006ページによると、古代中国では、女性が色糸でツバメを作って髪に飾る習慣があったと記されている。とあります。
また、ツバメは日本では夏の季語である、とも。
 
私もですね、ツバメって春の感じなんですね。
どうしてかな、と思うんですけれど、単に春によく見かけていたような記憶があるんです。
あまりツバメのことを知らないので、それは私のイメージの記憶だけで、本当は、日本でよく見かけるのは初夏なんでしょうか。
 
ツバメで想起するのは、子安貝とアンデルセン童話の幸福の王子です。
 
幸福の王子のことをずっと憶えているのは、この物語がよくわからないままだったからなんです。
 
もしご存じなくて、読んでみようかなと思われるのでしたら、実は、あまりおすすめしません。
私の読解でアレなんですけれど、多分、これはバッドエンドなんだと思うんですよね。
なのであらすじも書きませんけれど。
 
そこにツバメが出てくるんです。
このよくわからないことを延々考えるクセを持った、バカの考え休むに似たりのポンコツ体現者としては、たまに思い出して、これは一体、どういう話なんだろう。と考えています。
 
そして、このツバメは一体何しに出てきたんだろう? とよく思うんですよね。
 
物語、幸福の王子の主人公の王子は(王子が主人公なんです)、おそらく、愚かさ、無知さ、世間知がないことは大罪である、という象徴として描かれていると思うんですね。
 
私の記憶では、ツバメは最後に王子に一輪の草花を持ってきて、ぽいって上空から落として、飛び去っていくんです。
 
多分、希望のシンボルとして登場したんだと思うんですけれど、銅像で動くことが出来ない王子に向かって、草花を一輪、落としてみせるという、なんとも残酷なことを、ツバメの鳥の習性として、なんの感情も込めないまま、それを行うんです。
 
私は、王子の哀しさはどうであれ、王子が銅像であること自体は、王子のせいではないのだから、確かツバメと王子は知り合いという設定ですので、ツバメは王子の存在そのものが揶揄と侮蔑の対象であったことを明かしているんですね。
 
この話は、相互理解の限界や、よくありがちな種族?を超えた友情などあるはずもない、向こうはこっちの存在そのものを憎悪しているんだ。
しかも習性のように当たり前に事実としてあるのだ。
ということを最後に言っているのかな? と思うんです。
 
溺れる者は藁をも掴む、という言葉がありますけれど。
私もね、藁をも掴んだことがそれこそ何度もあって、それは全部、リアルワールドでの関係性からそうしたんですけれど。
結局、藁を手放したんです。
そして、藁はもういいかな、という気持ちでいたし、いまもいます。
 
別に自罰傾向からそうしているんじゃなくてですね。
本当に溺れているんだろうか、とある日、なんとなくだけど実感したんです。
それが言葉になるなら、2024年の私は、こう言語にするんですけれど。
 
あの・・・、助けを求めてはいけないとか、治療をしてはいけないとか、そういうことでは絶対ないですよ?
 
多分、水か砂か知らないけれど、溺れているんだろうし、それは事実なんだけど、いいや、もう潜っちゃえ!って(笑)、思ったんです。
 
もうせっかくだから、底のほう見ちゃおっかな~? って、なんかそう思ったんだと思うし、いまもそういうところがあります。
 
この先もね、あなたはこんなに不幸ですよ、とか、可哀想なんですよ、とか、おかしくってたまらないんですよ、とか、わざわざ伝えに来て、ショックを受けるのを観察してですよ?
 
そういう人が、自分と向き合うといいことがありますよ? と、こわい感じの、信じ込んで何も聞こえない、こわい感じの明るい目つきで、ものすごい笑顔で、近寄ってくる人が、私の人生にはたくさんいるんでしょうけど。
 
そういうときは、こいつはツバメなんだな。と、しっかり見ていようと思います。
 
みなさんも、ツバメだな、と思う人に出会ったら、気をつけて、その人が何をして何を選ぶのか見るといいですよ。
 
こちらを見て、ああはなりたくない、って一番思ってるその人の正体こそがツバメなので、自分で選んだ草花を決して手放さず、わざと届かないところに落としてみせる希望に、にっこり笑ってお断り、と言って、さっさと立ち去りましょう。
 
今日は、ちょっとスパイスの効いた話をしましたが、アンデルセンって世の中が大嫌いだったんだろうか? とダークファンタジー要素のことをときどき考えています。
 
ダークファンタジー的なもので私が連想するのは、ダークチョコレートです。

今日は、ダークチョコレートがかかったチョコケーキを珈琲と一緒に楽しんで、ちょっと怖いけれど、残酷さを世の中に放ったアンデルセンについて、変な人だったんだろうな、と思ってみるのも楽しいかもしれませんね。(そーお?)
 
それでは、今日はこんな感じになりましたが
(笑)
素敵な日曜日をお過ごしください。
 
 
 
 
 
 
 
 

こちらも削除します。


だいたい一日、掲載をしたので、届いたでしょうから、

同様の対処をします。

 

お知りになりたければメールでご連絡ください。

 

削除します。


こうしてリアクションを返すと、また関わってしまうので、
削除します。
削除した内容と、時間、掲載時間は、普段も記録をだいたい取っていますが、
今回は、スクリーンショットを公開しておきます。

2024/02/03

2024年の恵方は、東北東


 
ごめんなさい、予定を変更して本日は、恵方巻きの話題です。
 
普段は、もうほとんどお酒を飲まなくなっているんですけれど、昨日、近所を歩いていたら、焼き鳥のすごくいい匂いが漂ってきて、
「うおーーーっ!! 今夜は絶対に焼き鳥とビール!絶対絶対、焼き鳥とビール、これ一択のみ!!」
という世界線に飛び込んでしまい、コンビニでビールを買って、行ったことなかったんですけど、この近所では老舗の渋い焼き鳥屋さんに電話を掛けてもらい、予算を伝えて、持ち帰りはできますか?とお訊きしたら、受けてくださったので、おまかせでお願いし、指定時間にお店に取りに行って、ビールと焼き鳥で一杯やってしまいましたはーーっ!
 
焼き鳥がすっごい美味しくって、誰にもこちらのお店のことは教えるつもりはありません。 ご了承ください。(小人物)
 
で、もうずっとお酒を頻繁に飲めなくなっていたので、まんまと二日酔いです。
 
私としては映画「マディソン郡の橋」についてさらに熱く語りたかったんですが、さすがに二日酔いだと文章が組み立てられないので、今日、恵方巻きの日だし(節分です)、この話題にします。すみません。
 
きっと私は肝臓で文章を書いているのでしょう。(名言出たコレ)←迷言です。表現は正確に!
 
 
恵方巻き セブンイレブン取り扱い

 

私が購入したのは、こちらの恵方巻きです。
恵方巻きってご存じだとは思うんですけれど、日本文化圏ではない方向けに説明させていただくと。
 
毎年、2月3日は節分といって、こちらの文化圏では厄災が家の中に入ってこないように、
「鬼はーそとー! 福はーうちーー!」
(鬼は外、福は家(うち))
と割とデカい声で言いながら、家中に(家屋の形式によっては庭先まで)大豆を威勢良く投げてまく、という知らない方にしたら、シュール極まりない風習があります。
 
しかも、日本は家の中に入るときは靴を脱いで家の中に入り、掃除も掃除機をかけて床とか畳を濡らした布で拭き上げる生活様式ですので、まいて畳に落ちた豆を拾い、拾った人の年齢の数だけ食べる、までがワンセットです。
 
・・・どん引かれた方の姿が目に見えるようですが、何をやってるのかというと、厄払いをやっているんです。
 
いつの間にか家の中に入り込んでしまったり、持ち帰ってしまっただろう災いを、家から出し、福という幸運と守護を家の中に呼び込む儀式なんです。
 
そうです、日本では災いというもの、福とよばれる幸運と守護(または加護)は、目に見えない存在である、というのが基本前提です。
 
けっこうカジュアルなセレモニーなので、気楽に誰でもやりたい人はやっています。
また、神社仏閣でも大々的にやるところもあるし、お店、芸能関係でもやります。
 
これは私のなんとなく、なんですが、本気で、
「家の中に災いが!大変! 2月3日まで待って、豆を家中にまいて外に追い出さなくちゃ!」
と本気で思っているわけでは当然なく、縁起をかついでいるんです。
 
これ以上、説明するとどこかに提出するレポートみたいになってしまいますので、お知りになりたい方は、
ウィキペディアの節分についてと縁起についてを、GoogleChromeでご覧になってください。
 
ウィキペディア 節分
https://w.wiki/3drY
 
ウィキペディア 縁起
https://w.wiki/93$h
 
 
で、豆をまくのはわかったけれど、恵方巻きって? というのはですね。
恵方巻きっていう巻き寿司があるんですよ。
それを、その年の2月3日に恵方と定められた方角(これは毎年変わります)に向いて立ったまま、丸ごと一本、黙って食べるという、同じく節分にまつわる風習が、確か関西地方にあったんです。(諸説あります。こちらもウィキペディアをご覧ください。)
 
ウィキペディア 恵方巻き
https://w.wiki/3YXV
 
それが日本中に広まって、いまでは各地のコンビニエンスストア、スーパー、デパートの食品売り場で2月3日の前日2月2日に大々的に発売されています。
 
これも縁起担ぎですから、やりたい人は購入して、2月3日当日に恵方を向いて、黙々と立ったまま食べて縁起を担ぐわけです。
 
・・・一体、日本人は何をやってるんだ?
と思われるでしょうが、我々、日本人もそう思っています。

 
けれど、気持ちとしては、季節の行事という感覚、やっておいてラッキーを呼び込む要素を押さえておきたい。
子供がいるお宅では、日本的な精神性を養う情操教育の一環として、という様々な理由で、やる人はやる。という感じです。
 
豆をまいて、拾って食べる。もしくは、部屋の中をちゃんと掃除していても、いくらなんでもそれはちょっと・・・、という気持ちも勿論ありますので、大体、まく豆はまく豆として、歳の数だけ食べる豆は別のまいてない豆(大豆を煎ったもの)か、豆菓子を食べるに、現代では落ち着いているようです。
 
後日 付記
ここで突然ですが、アマゾンから2月3日に送信された非常に有用なメールをご紹介いたします。
なので、来年の2月3日に豆まこうかな、という方々は、ぜひこちらを参考になさってくださいね。
 
 引用 ここから

  

   豆は6つになってから 

 
乳幼児は「節分の豆」に要注意 
●豆やナッツ類など、硬くてかみ砕く必要のある食品は5歳以下の子どもには食べさせないでください。 
●ミニトマトやブドウ等の球状の食品を丸ごと食べさせると、窒息するリスクがあります。乳幼児には、4等分する、調理して軟らかくするなどして、よくかんで食べさせましょう。 
●食べているときは、姿勢を良くし、食べることに集中させましょう。 
●節分の豆まきは個包装されたものを使用するなど工夫して行い、子どもが拾って口に入れないように、後片付けを徹底しましょう。 

*実際の事故事例やその他の注意事項、応急処置方法等は上記リンクからぜひご確認ください
*本メールは以前にお買い上げいただいた商品に関連する、外部機関からの製品安全情報をご紹介するものであり、特定のメーカーや特定商品についての安全性や危険について注意喚起するものではありません。
 引用ここまで。
アマゾンより2024年2月3日送付メールより
 
そして、子供がはしゃいで喜ぶので(または喜ぶフリをして親に気を遣ってくれるので)、子供がいる家庭では主に豆まきを、いない家庭または単身者でやりたい人は、恵方巻きをセレクトするんじゃないでしょうか。
 
子供がいるご家庭では、豆まき & 恵方巻き をやって、恵方巻きは美味しいお店のものを買ったり、巻き寿司のなかにかわいらしいキャラクターが描かれているものを食べたり、
 
ーーー、ちょっと待って。
巻き寿司の中にキャラクターを描けるのか???
と驚きすぎないでください。
 
ここをどこだと思ってるんですか? 
不思議の国ニッポンですよ
 
職人文化の国です。手仕事の国です。
寿司の中にキャラクターを描くなんて、お茶の子才々です。←簡単きわまりない、大したことのない、という意味の日本の古びた言い方です。そろそろ滅亡しかけています。
 
続けますが、アニメ、漫画等、キャラクターが描かれた恵方巻きを食べたり、恵方巻きは巻き寿司だから、この際、手巻き寿司にして、皆でわいわい食べたらいいよね。ついでにピザも頼んでジュースもあけちゃう?
と、2月3日に楽しく、それっぽいことをしたら、なんかもうきっとオッケー!という、なにがなんだかわからないことになっています。
 
いろいろと、いろいろなものが、だいたい寛容なんです。
(ズバリ)
 
それが現代日本です。
 
いつでも、観光にいらしてください!(このセンテンスには宣伝が含まれます。)←全部、宣伝ですよね?
 
 
私は、さっきセブンの恵方巻きを食べました。
美味しかったです。
セブンのは、お米がそこまでギュッとしてないので食べやすいんですよ。
巻き寿司単体としても美味しいですしね。
なにより、ここだけの話、短いからあっさり食べ終えられます。(日本人の情緒とは?)
 
やってみようかな? という気持ちでしたら、まだ本日中は取り扱いがあるところにはあると思いますし、なんだったらカッパ巻きでもいいと思いますしね。(いままで書いてきた内容は一体?)
 
巻き寿司は恵方巻きも含むモノですから、だったらお寿司屋さんでもいいわけですしね!
ついでに握りも食べちゃえば、きっとWINWIN!(なぜ恵方巻きをハッキング?)
 
それでは、良い、2月3日を!
 
以上、2024年の恵方は、東北東、でした。
 
 
 
20240203 13:19 わかりにくい箇所を直しました。
 
 
 
 
 
 
 

2024/02/02

一人の女性が自分をどう見ていたかの記録 ~映画:マディソン郡の橋についての雑感 1~


 
今日のポストは、映画「マディソン郡の橋」へのネタバレだらけですので、いつか観ようと思ってたんだよね、と言う方は、なにもお読みにならないでくださいね。
 
ありとあらゆるネタバレを今日はしまくります!←(笑)
 
こういうことは普段しないんですが、ネタバレをしてあっても、とても繊細で素晴らしい、そしてものすごく考えさせられる映画ですので、興味を持たれたらぜひご覧になってみて下さいね。
 
私は、この映画は、観た人によって解釈が分かれる映画だと考えています。
 
そして観た後も、ストーリーの記憶が10年20年単位でときどき蘇り、「あれはこうだったのではないか?」「あの部分で描かれていたのは、この心理ではないか?」
と延々考え続けられるという、すさまじい耐久性を持っている映画だと、知っているので、この映画を私はとても強くおすすめいたします。
 
映画マディソン郡の橋は、アマプラで現在400円でレンタル配信中です。
 
いま配信されているかどうかを「マディソン郡の橋」で
Google検索したら、最初の検索候補に「マディソン郡の橋 気持ち悪い」があって、え? という気持ちでいっぱいです。
 
全然、気持ち悪いところはありません。
この映画がどれだけ耐久性があり、問いかけが続く映画であるかを証明するために、あえて調べず、記憶だけで書きますけれど。
 
映像は、乾いた押さえた静かなトーンで彩られ、どぎついベッドシーンなんかありもしない、上品でしっかりした、人生というものは何か、生涯の愛とは何か、パートナーシップとは何か、家族とは何か、献身とは何か、というですね、生きているとだいたいの人がそのことについて考えるだろう命題について、ものすっごい思考されている映画です。
 
また、気持ち悪いとあるのはですね、想像するに、それが若くない、青年期後半(35歳とか40歳とかそのくらい?)の男女のめぐりあいと別れと約束のようなものを描いているので、若くて美しい人々が美しく出会い美しく愛を語り美しく選択をする、みたいなのしか恋愛イメージは認めない!という価値観があるのかもしれませんね。
(すごく真剣に観ている映画を、検索候補というデータの多数決の結果でディスられたので、若干ムカついています。狭量な人間で、すいやせん!)
 
映画「マディソン郡の橋」はですね、私の観る限り、純愛だからいいでしょ? と不倫を肯定するのでも、パートナーがいるのに別の相手と愛を交わすことを、これだったらいいでしょ? と肯定する映画でも、長い人生に約束を交わした恋愛感情が、一生続くと信じて疑わない人達にむけて懇願する映画でも、断じてない! という解釈をしております。
 
この映画の背景を、当時、私が過ごしていた現実で観測した記憶を書くと。
 
原作は小説で、世界的ベストセラーになった本です。
どうしてここまで多くの人達の胸を打ったかというと、当時の風潮では、純愛のひとつの形、を静かに描いた小説ということでした。
日本でも大ベストセラーで、書店にいくたび平台に山積みになっていて、どんどん減っていくというぐらいブームになっていたと記憶しています。
 
私は原作は未読です。
どうやらこれは悲恋モノらしい、という認識しか私はしておらず、読まなくてもいいかな、と思っておりました。
で、その後、映画になって、確かレンタルで観たんですけれど、観終わった後、小説を読んだ後のような、すごい感慨といっていいものが胸に沸き起こってきて、いま私が観たのは、ただの悲恋モノではない、という体感がありました。
 
私は、映画「マディソン郡の橋」は、一人の女性が生きて死ぬまで、一体自分という存在をどう考えていたのか、どのように見つめ続けていたのか、という記録だと考えています。
 
この映画が私の心に残っている理由は、彼女の自己視点は、映画で彼女の人生を観た私個人ですら、彼女が思っていた人生の姿はまるで違うものなのだ、という自意識がもたらす自己肯定感の低さと、人が生きていく日々というものの立体感と厚みでした。
 
これはいま自分が若いから感傷かな、それともこれが若さという思い上がりなのかな、と、あれこれ言葉にしないで考え続けていたんですけれど、やはり、この映画が私に伝えたことは、
人の人生というものは、たとえ本人が願っていたとしても、他者の視線で語ることも、記憶することも決してとらえることができない広大なものであり、本人にも自分の人生の姿はとらえられないまま、わからないままで最後まで選択をしていくのだ、
と思ったんです。
 
憶えている限りの映画「マディソン郡の橋」に出てくる男と女は、アメリカの少しだけ田舎に住む、経済的に余裕が少しある主婦の元に写真家の男が訪れ、この一帯の景色を撮りたいから、土地勘があるならこの辺りのことを教えてもらえないだろうか、という出会いだったように思っているんですが、間違いでしたらごめんなさい。
 
二人にはそれぞれ家族があり、彼女には子供もありました。
そして、その時だけ、夫と子供は1週間だけ家を留守にしていた。
やがて、二人は、精神的な距離を少しずつ縮めていき、愛し合うようになります。
けれど、1週間というタイムリミットが迫る中、二人はそれぞれが迷い苦しんだ後、別れを選択します。
それきり二度と会うことはありませんでした。
やがて月日が流れ、彼女は歳を取り、夫を看取り、子供達を立派に育て上げ、死を迎えます。
その葬儀が終わり、立派に育ち、それぞれ人生を進み、成功したもの、そうでもないもの、家庭を持つものは持っている、そんな彼女の子供達が遺言をひらくところから、映画は始まります。
 
子供達の疑問は、なぜ一般的でない火葬を母は選んだのだろう、というものでした。
やがて、その遺言書には、彼女と写真家の男との1週間だけの恋愛の記憶が記されており、あれきり二度と会わなかった男は、実は自分の死後、1週間だけ恋人だった二人の思い出の場所、橋から眺める景色が好きだった川に、自分の灰を撒いて欲しい、と遺し、それが叶えられたことを彼女はその後、知り、自分は夫とあなた達に人生を捧げた、だから、死んだ後は、彼の望み通り、そばにいることを選びたいから、自分を火葬しその灰を、同じ場所に撒いてくれ。
というものでした。
子供達は葛藤しますが、やがて、彼女の望みを叶える選択をします。
それでこの物語は終わりです。
 
色々な解釈があると思います。
 
永遠の愛は、時間ではない。
純愛というものは、こういうものではないのか。
家族が見ている姿は本当の自分ではない。
これが魂のパートナーというものなのだろうか。
 
なじる声もあったと記憶しています。
 
生涯、家族をあざむきつづけたのか。
いくらなんでも最後に知らせるなんてひどいだろう。
だったら最期まで黙っておくべきだ。
子供達が可哀想。
死ぬ前に、子供に仕返しをしたのか。
 
記憶している中からの声なので、私の想像から出ているかもしれません。
当時、声が大きい人達は、この物語に熱狂しポジティブに語っていたので、世間的にも、あんな物語をと言うのではなく、これもひとつの愛の形だよね、という雰囲気だったと思います。
 
私は、その熱狂がだいたい収まった後、映画を観て、
「本当に彼女は男のことを、毎日、肌身離さず憶えていたのだろうか?」
という疑問を持ちました。
 
そして、その疑問の答えは、いまだわかっていません。
 
素晴らしい映画というものは、そういうものを手渡すからです。
 
時間が来てしまったので、明日へ続きます
 
 
以上、一人の女性が自分をどう見ていたかの記録 ~映画:マディソン郡の橋についての雑感 1~でした。