休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)
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2024/03/20

暮らしの違い・本日の雑感

 

好物の焼きプリン

 

絵本作家であり、世界中で愛された「ターシャの庭」を作られたターシャ・テューダーさんのことを、ひとつ前の投稿で触れましたが、今、さらにお名前を違って表記していたので、こっそり直した後、これを書いています。(ターシャさん、ごめんなさい。)

 

いま、強いものに触れることが出来ませんので、ターシャさんに関する情報も薄めをあけて調べていました。

調べようと思ったきっかけは、私とはスタイルは違うけれど、本当に素晴らしくて繊細さと自然への受容溢れる庭のことを知りたいな、という気持ちと、こちらのターシャさんの人となりを語る文に魅せられたからです。


頑なに古い暮らしを守っていた人のように思われていますが、ターシャは私たちの想像以上に、柔軟に現在の生活と合理的に融合していました。

電気が通れば洗濯機や冷蔵庫は取り入れ、ニューハンプシャーでは照明も電灯でした。なんと、車も80歳まで運転していたそうです。

でも、ろうそくの光がとても好きだったので、電気が通った後も、電気スタンドをいくつか使っただけで、部屋の照明にはろうそくを使っていたようです。

このように、ターシャは、電気や水道等、近代設備はもちろん使用していましたが、最小限に留め、暖炉とベッドとロッキングチェアー、薪オーブンがある昔ながらの生活を好み、豊かに暮らしてました。

 

LOVE GREEN

ターシャ・テューダーが過ごした「輝きの庭」と憧れのスローライフ より

 

かねてから思っていることに、自分なりの暮らしを守っている人達への「誤解」のことがあります。
 
私は、自分の暮らしている環境を維持するために、C級ではありますが、けっこう長く、暮らしというものを運転しています。
その中で、私も若干、アンティークなもの、古くさいもの、の雰囲気が好きなので、自分が実行できる範囲で取り入れているんですが、
当たり前ですけれど、電子レンジもレンチンパスタもレトルトも、ガンガン利用しています。
 
なので、少し古い生活を好む人、穏やかさを快適とする人達への勝手なイメージを、新しいものをすべて否定したり、便利を憎み、非効率こそが人間本来の姿である、という考えに取り込もうとするのは、とてもズレていると思います。
 
自分のスタイルに合わないものを暮らしの中に取り入れない、というのは、ただ単に、日常の中で生活面での選択をしているだけ、なんですね。
 
だから、すごく寒いのに暖房を使わないとか、自分にとっての実用外の謎ルールに縛られて、無理をしながら受け入れない暮らしをしているんじゃないんです。
そうなんだと思うんです。
 
アレルギーとか、色々な事情で、飲む薬を変えることはしていても、病気になれば当然医師に掛かり、処方された薬を飲む現代生活が、まず基本にあり、その生活を便利である、と切り出して罪悪感を持たせるのは、本当の意味で、暮らしというもののリアルを知らない人がやることだと、私はひっそり思っています。
 
なので、ターシャさんが単にろうそくの灯りが好きだったから蝋燭を取り入れ(確か手作りされてましたよね?)、同時にスタンドで電気の光を部屋の中に置いていたことを知って、私の言葉で言うと、
自分を攻撃しない光、空間、ファブリック選びをしていただけなんだろうな、と、ターシャさんの静かな暮らしを、2024年の感覚でも捉えることが出来て、暮らしの中で常々思っていたことに赤ペンで○をつけていただいたような気持ちになりました。

暮らし・生活って、合理的で柔軟でないと、回せないんです。

そこに回している人、関わっているその時々の人、季節ごとの感性に、星の数ほど選択がある。

それが哲学なのか、思想なのかは、
触れた人と瞬間的に融合してその人が感じた化学反応なので、
スロウライフを取り入れている人をいちいち揶揄することも、
精神性を重視したインテリアをそろえている人を嗤うことも、
私のようにラクチンてきとーライフを送っている人を怒ることも、
その核にある、
「暮らすには、合理的で柔軟であることが、まず必要」
 という部分をしっかりわかって居れば、
そんなトンチンカンなことはなくなるのでは無いかな、と思いました。
 
わからないことは、決していけないことでは無いですし、大いに間違うことは、私個人としてはとても良いことだと思います。(シャレにならないことではない範囲で)
 
ただ、分からないのに、分からないかもしれないという自分を微塵も疑わず、人を否定したりジャッジしたりするって、すごく危険だし、なにより大きなお世話だし、正直、傲慢ですよね。
 
分かってないからそんなこと言えるし、できるんでしょう?
人に大きなお世話をしようとする前に、
少しくらい自分を疑ってみたらどうなんですか?
 
と、私は狭量なので、ついこっそりムカついたりしています。
いいですけどね。
立派な人になりたいワケじゃ、全然無いから。←大昔、なんらか自分の中であった模様。
 
「『立派な人になりなさい。』
 そう言うアナタがなりなさい。」
 
昔、好きだったポップスの歌詞です。
 
ホント、そうだよね! ←励まされた過去が甦っている模様。

 
20240324 1:18 文章を直しました。
 
20240324 1:44 大昔、立派な人になれないし、どうしてもなろうとしない自分を責めていた若者時代を思い出したので、誤解を招かないように文章を追加しました。
・・・なぜそんなことを考えていたんでしょう?(笑) (若者ってそういうもんだから)

 
 
 

 

 


春一番とクレマチスがよくわからない、良い魔法

 

クレマチス ピンク・パッションの新芽

 
クレマチスも無事、冬越えができました。
 
・・・、クレマチスも育てています。←(笑)
 
写真は、風があってピントがうまく取れず、処理で誤魔化しています。
これは悪い例です。撮り直すのが一番の良策です。 
 
薔薇はけっこうがんばって情報をアップデートし続け、どうにかこうにかビギナー2年目なんですけれど。
 
私は正直、 
クレマチスというものが、
よく分かりません(笑) 
 
何回読んでも、頭に入ってこないんですよ。(興味が無いのでは?)
いや、あるんですよ。ちゃんと、興味はあります。
ただ、クレマチス界の大まかな体系って、なんだか全然馴染みが無くて、繰り返し読んで、そのときは一応、頭に入っているみたいなんですが、すぐわからなくなるんです。
(それは理解をしていないということ)
 
で、もう全体を把握しようとするのを止めて、とにかく我が家のクレマチスに集中しようと思いまして、
とりあえず私の小さな庭にあるのは、新旧両枝咲きのクレマチスである、と認識して、後はあまり考えないようにしようと思います。
 
馴染みの無い方は、し・新旧両枝咲き? と戸惑われると思いますが。
私もずっと戸惑っています!(笑)
 
枝は一本なんですよ。蔓ですけれど。
で、新旧で両枝なので、よくわかんない両枝は置いておいて、たぶん古い、前回伸びた蔓からも花が咲くタイプ、なんだろうと、思うことにしました。←勝手
 
新と旧???
前に花が咲いた茎や蔓からは、花は咲かないものなんですか?
とさらに混乱されると思いますが。
そういう種類の薔薇もあります。←クレマチスの話をしていたのでは?
 
ね? わからないでしょう?
よくわからないんですよ。クレマチスって。
 
しかもですね、花が終わったら剪定するのが、わりかし植物ではお馴染みなんですけれど。
クレマチスは、いくつか体系の中の種類によって、
剪定する場所が違うそうなんです。
 
ね? わからないでしょう?(2回目)
で、ですねー、もうよく分からないから、
とにかくウチのクレマチスってピンク・パッションって名前だから、
「ピンク・パッションは、どこでもピンク・パッションの気分次第で、好きな場所に花をつけるものである。」
で、それ以上考えるのを止めて、もう全体を理解しようとするのを止めようと思います。
(そんなに理解が追いつかないのに、なぜ育てようと思ったのか)
 
いや、クレマチスが欲しかったんですよ。
けっこう長い間、クレマチスを育ててみたい、と思いながら生きていて(壮大)、あれこれ植木を購入している時に、
そうだ、クレマチス育てよう。
と気がついて、ひとつ購入したのが、ピンク・パッションです。

櫻色だし、なんかダリアにも似ているし、春から秋にずっと花をつけるらしいし、ウチのベランダに蝶を呼んでくれるので、遠巻きに首を傾げながら、おそるおそる雑に育てています。(細かく育てようにもやり方がわからないので、結局雑な育て方に・・・)


クレマチスって私にはとても神秘的に見えるんです。
なんだか、どこか妖しさを秘めていて、とても洗練された魅力があります。
植物ってどれもちょっと怖い面があるように私は思っていて、それが美しく形を持った存在として、クレマチスはそこの一番打者のように感じるんですね。
 
たくさん種類があって、なんだかすごく通好みの形のものもあるようで、正直、これがベランダに咲いていたら怖いな・・・、というデザイン(と言ってもいいと思います)のものもたくさんあります。
 
薔薇もそうで、私は、実は赤い、よくお馴染みの、先の尖った薔薇で大輪のものは、なんだかよく見るとその中に顔がついているように思えて、怖いんですね。
(アンタの想像のほうが怖いよ!)
 
背中を向けてるとうっかり喰われそうと思えたり。(それ、なんてリトルショップインホラーズ?) 

大きすぎるのが原因だと思うんです。
・・・、育てている方ごめんなさい。(いま気がつきました)
 
多分ですね、私の中に花の大きさに対する先入感があるんだと思うんです。固定観念ともいえます。
 
それ以上、大きいと、意識では、これも花で、ダイナミックで、とても美しいと分かっているんですけれど、なんかもう知能を持っているように見えてしまうんです。
どこか、植物って肉感的だからではないでしょうか?
 
・・・フォローじゃないですよ?(そう書くから、フォローじゃなくなるのでは?)←そもそもフォローになっていないような。

なので、逆に、小さめの花が怖いかたもおられると思うんですよね。
 
慣れの問題かもしれません。(きっとそう)
 
今日、私の住む街では、春一番が吹いているようです。
天気アプリのマークばかりで、詳細を読んでいないので、二番とか三番かもしれませんが。
春の風が吹くと、語感で、私は「西の魔女が死んだ」という本のタイトルを思い出します。
 
名作と名高いこの本はまだ未読です。
本屋さんにいる体(てい)での予感で、これはもっと後になって私は読んだ方がいいと決めている本です。
タイトルだけでずっと、このような物語なんだろうな、と色々想像しているんですけれど。(本買えない人あるある)

きっと西の魔女はいわゆる良い魔女で、よくイメージされている大鍋をぐつぐつ煮込んでいるのではなくて、不可思議と不思議の現実を、きちんと暮らしているのではないだろうか。と私は期待に胸を大きく膨らませています。

この頃、やっとお名前がわかったんですけれど。
ターシャ・テューダーさんという、絵本作家で素晴らしいガーデナーさんがおられたんですね。
 
随分前にテレビでその暮らしの断片を見かけたとき(CM?)、この方は良い魔女なんだな、と贈り物のような、暮らしを生きるその偉大な姿に、大好きになってしまったことがあります。
 
魔女というと、私の住んでいる東洋とは違って、世界ではよくないイメージの言葉のようですが。
勿論、この方を貶めているのでは当然なく、「良い魔法使い」、何らか、「とても大きく豊かなところからの報せ」のような感覚で、「白い魔女」「良い魔法使い」という暮らしの知性という印象をずっと持っています。
 
その後、色々な時間を経過して、私がベランダに小さな庭を作ろうと思ったのは、少しお見かけしただけのターシャ・テューダーさんの影響が、胸の内に沈み、静かな影響を発芽させたのかもしれません。
 
これは良い魔法、と言っていいと思いますし、私はどこかでそうだろうな、と信じています。
 
もしかしたら、良いもののうち、こういった静かで確かなものほど、浸透し、大きな影響を及ぼすには、とてもゆっくりな長い時間がかかるのかもしれません。 


 
このところ、不規則な状態の影響で、更新が、できるとき更新、やろうと思ったとき更新になっていましたが、また、意識的に無理せずに、お昼1時更新に戻そうと思います。
 
以上、 春一番とクレマチスがよくわからない、良い魔法、でした。
 
そろそろ列島でも櫻が開花し始めますね。
櫻の季節にいつも聴いたり、その年は聴く機会がなくても、ずっと心の中にある楽曲があります。
 
歌詞がとても好きです。
 
みなさんにとって、
丘の上で自分に手を振っている人はどなたですか?
 
私は昔、はじめてこの曲を聴いたとき、丘の上に居るのは、それは、誰でも無い誰かでした。
いまは、声に出しても出さなくても、どこに居ても、
また会おう、と言ってくださる方々です。

いつか会えるのだろうか、と、
もし心許なく思われているのであれば、
時間が掛かりすぎても、私でさえも巡り会えました。
 
だから、必ず会えます。 

まだ見ぬ約束は、確実に存在します。

 
きっと春一番の日に。
エナメル 20240320 12:53







20240320 21:31ターシャさんのお名前を誤表記しておりました。訂正してお詫び申し上げます。


 
 



 
 
 
 

2024/03/08

くどくど言われるのはお好きですか?


なんか昨日の夜投稿したのが、変な雰囲気なので、言ってることはそのままで、文章全体のムードを後で書き直しますね。(読み返したら特に問題はなかったので、書き直すのはやめますー。20240308 19:45 追記)

みなさんは、くどくど言われるのはお好きですか?
私は嫌いです。
 
普段、あまりものがすぐに分からない人間なので、繰り返し教えていただけることに感謝して暮らしています。
そうでないと、わからないままのことが増えていって、私がとても困るので、本当はじれったい気持ちもあるのでしょうに、根気よく教えていただけることに申し訳ない気持ちと、分かるまで付き合ってくださる親切なお気持ちに、とてもとても感謝しています。
 
私が、くどくど言われているな、と思うことは、
一回か二回言えばわかること。
シンプルなこと。
をくどくど言われるのは本当に嫌です。
これはみなさん、そうではないでしょうか。
 
だから分かったって言ってるでしょ? 
なんでそんなに何回も言うの? 
なんて言って欲しいの? しつこいよ!
と私も思っています。
 
現実生活では、多くの人が、何度も同じことを相手に言わないように気を遣っておられますよね。
また、ネットでも、間違いを教えてあげるときは、それとなく教えてあげたり、誰かが教えていたらもう言わなかったりという気遣いをあちこちで見かけています。
 
ということは、
何度も同じことをくどくど言うっていうのは、すっごい相手に失礼だし、不愉快にさせるし、自分もやりたくないこと。
だと、みなさん整理ができてるんですよね。
 
先日、芸人さんが薬剤師さんの薬を渡す前の説明について、患者さん側のあるあるをツイートされたんですか?
インタビューだったのかもしれませんが。
 
それについて、すっごい多くのツイッター(X)の方々が、その方のアカウントにわんさか押し寄せて、
違いますよ。薬剤師さん側ではあれは義務(でしたよね?)で、ご本人達もそれを施行されているんですよ? 以前、お医者さんの処方ミスでのとても大きな事件が発端となって、薬剤師さん側でも二重のブロックをかける。と患者さんを守るために決まったことなんですよ。
と教えてあげてたんですね。
(正確な詳細は、各自Google検索をして調べてみて下さいね。)

で、それは多くの場合は、単に親切だったんだろうな、と私は思いました。
けれど、傍から見てたら思いっきり炎上のような事態そっくりになってしまっていて、すぐその方は謝罪されたのに、まだまだ延々と教え続ける親切が押し寄せるから、とうとう謝罪文まで投稿されていたようです。
 
間違えないようにしなければならない。
のは、そうですが。
ささいなミスすら許さない。
毎回の投稿を、試験と同じレベルで、正誤の確認をしましょう。というのは、理想論です。

その理想を追求するのは勝手ですが、人に押しつけることじゃないですよね。
 
そして、私はよくやるんですが。
間違っていたら、
あ、違ったようです。ごめんなさい。
と、ひとこと書けば、ネットでも、
あ、違ってたの分かったんだね、よかったね。
で済むものなんです。
 
今回はおそらく、あ、ご存じないんだ。お教えしなければ。という親切な気持ちが、あっちこっちで生じたことなので、きっとその芸人さんはとても好かれているんですね。
 
けれどその中には、間違えやがってこの野郎!という気持ちの人も混ざっていたんだろうな、というのは、これを読んでくださっているみなさんがお分かりの通りです。
 
その芸人さんが、どうして患者側のあるあるを言ったのが分かったか、と言うと、

私が実際、高熱でインフルエンザと診断していただいたお医者さんの下の階にあった処方箋薬局で、
フラフラになっている私に薬剤師さんが、
「大丈夫ですか?大丈夫ですか? いま勝手に読みますから、返事しなくて大丈夫ですよ。このお水飲んで待っててください。すぐ済みますからね!」
とおっしゃって下さり、一気に確認事項を読み上げ、薬のアレルギー歴だけ、私にうなづいてもらうのをしっかり確認したあと、目にも止まらぬ早さで持ちやすいように薬をまとめて、
「少し休んでいかれても大丈夫ですよ?」
と、とても親切で思いやりのある、臨機応変な対応をしてくださったことがあるから、です。
 
以前も確か書いたと思うんですが。
知らないだろうから。という前提ですぐものを判断するのは、近年生きている全員の悪い癖です。
私も同じことをやって恥ずかしかったことがあります。
 
そして今回は親切が押し寄せ、その中に、知らないのぉ? 有名人のくせにこの野郎! 薬剤師さんわぁ! という人も混ざっていて、そういう人達に限って、案の定、声が大きいみたいですね。
 
とうとう謝罪文まで出されたその方のコメント欄に、薬剤師さん達が、
いいんですよ。いいんですよ。私達の役割を世の中に知っていただく良い機会になりました。
と、かばわれる始末になっていたことを、付け加えて、
 
ネットにはたくさん、たくさん人がいますので、
あっ!と思っても、他の方がもう言ってるかな? 
とちょっと確認する癖付けをするようにしたら、
こういったことは少なくなるんじゃないでしょうか?
という提案をして、今日の投稿を終わります。
 
みなさんは、どう思われますか?
 
 
 
 
クロッカス なんと、昼間は花びらが開き、夜になると美しく閉じます。

 
 
 
 
 
 
 
 

私は、人を子供扱いは、しません。

私は、もういい年のババアなんですが。
 
色々と事情がありまして、余裕がないときは実年齢にそぐったように言動が伴わないときが多々あります。
 
それは私が、小林秀雄が批判しているように、いつまでも青年時の精神からどこにも進めていない、自分の未熟さの証拠でもありますし、気が小さいので、すぐ過敏に主に怒りの反応が、余裕が無いときほど出てしまいます。
 
なのに、それは絶対、家の中でしか出しません。
 
一人の時に、架空の目に見えない相手にむかって、すっごい文句を言ったりして、どんどん調子が悪くなっていったりします。
(私にはこのやり方は向いていませんので、お薦めしません。でも声に出して一人でいるときに怒ることはきっといいことだと思います。専門家に聞いてみてください。)
 
どういう時に余裕がなくなるかと言うと、ストレスが掛かっているときです。
 
だからあまりストレス状態に身を置くことを好みません。
 
そういう感じなので、すごく自分の実年齢に伴わない幼さが恥ずかしいですし、どうしたらいつも泰然としていられるのだろうか、という課題は、実は10代半ばから続いているものです。

そして平気なフリは子供の頃からとても上手な為、本当は嫌だと思っていることが、自分にとってこれは嫌なことである、と認識するのに、数日とか数ヶ月、最悪、年単位で掛かるときがあります。
というより、いつもそうなんです。(*)
 
だから、すごく後になって、これは怒っていいのだ、と思い立ち怒ってしまったり、怒り慣れていない上、気が小さいで、怒りだしたらどこまで怒っていいか分からなくなり、強く動揺し、その後、すごく後悔したり、いや、あれでいいんだ。とこれまた数日は思い悩みます。
 
とにかく、あまり感情を波立たせたく無いし、そういう場所や状況に行きたくないんです。
 
けれど、ひとつだけこんな状態でも、良いことがあります。
 
それは、どんな相手であっても、自分より年下の人達を、子供扱いは絶対にしない、ということです。
 
そうした方が良いのかな? という時は、お姉さんぶったりしますが、普段はだいたいフラットでいたいし、そうでないと精神的に動揺しますので、私は、年下の方々を、特定しないたくさんの人達と限定しなければならない時に、「小さい子達」と、パートナーの前でだけ、しかも家の中でだけ、言うときがありますが、正直、全然、小さい子達だとは思っていません。
 
理由は、若者だったとき、誰彼構わず年下扱いをし、自分が上だと精神的なポジションを取らないと、話も出来ない(私も会話が苦手ですが。)、自我を肯定できず、つまらない優位を取ることだけが目当ての、とても不愉快な人達を幾人か見たからです。
 
なので、ああいうのは、やめよう、と思い今に至ります。
 
ただ、年齢も年齢ですので、年若い方を捕まえて、同年代や近い世代のように振る舞うのも、相手を困らせるだけですし、自分でもそういう感じは薄気味悪いと思ってしまうので(私の個性に合っていないんでしょうね)、それはしないようにしています。
 
なので、間を取って、できるだけフランクに気軽な感じで、でも丁寧に、面白可笑しく接したり、接せられたらいいな、と思って日々暮らしています。
 
私は年上、年下、構わず、支配的な態度を取られない限り、相手が、その方の親切な話し方や態度を取ることは、感謝したまま特になんとも思いません。
 
相変わらず、何が何だかよくわかりませんが。
もしかして誤解されているかもしれない、と思い、説明してみました。
 
 
*嫌なことをされているのに喜んだりはしません。自分の嫌なことを、嫌なことだと認識して意識に取り出すことが、子供の時から上手くいかないほうなんです。
うすら寒くポジティブになんでも一度は捉えるのでもなく、うまく言語化できませんが、白っぽく鈍くそのままその時間や出来事が、ずっと停止して残っているんです。
残っていることも、明確に何が残っているのかわかりません。ただ停止して残っている。それがいくつもある。
そういう状態です。 
 
 

20240308 02:33 (*)の注記を追加しました。
20240308 21:36 誤字と句読点やセンテンスを追加したり修正したりしました。