休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/08/31

DIVA from JAPAN : Akina Nakamori ー 飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜(Akina Nakamori)ー


 
 
 
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(「中森明菜 ラッカーマスターサウンド」
 「Akina Nakamori Lacquer Master Sound 」
  でサーチするとこの盤が出ます。)
 
 
どちらも、2022ラッカーマスターサウンドMIXのライブ盤となります。
会場はYOMIURI LAND EAST.
 
ライブ盤ですが、歌唱中に歓声は入っておらず、中森明菜の当時の生歌唱がどれほどものすごいかがよくわかります。
 
 
飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜(Akina Nakamori)
 
作詞・曲 井上陽水(Yousui Inoue)
編曲 萩田光雄(Mitsuo Hagita)
 
レーベル:ワーナーパイオニア
 
 
そうです。ここで「飾りじゃないのよ涙は」です。
 
このイベントの最終日は明日を予定していますので、最後に取り上げるだろう曲は、もちろん「アノ楽曲」となります(笑)。
 
 
日本には、井上陽水というレジェンドがいます。
ご存知の方も多いと思います。
メロディ、歌詞の世界観、その詩情、歌唱力、ミュージシャンとしての才能の輝き。
どれをとっても「他の追随を許さない」圧倒的な伝説的存在です。
 
英語圏に向けては、2019年に日本文学研究者であるロバート・キャンベル氏によって、井上陽水英訳詩集が出されていますね。
 
Amazon リンク
 
「井上陽水英訳詩集」
ロバート・キャンベル著
(Robert Campbell)
 
 
 
なぜ、なかなか明菜さんの話にならないのかというと、それくらい井上陽水という人物は、音楽界において最重要人物のひとりであり、巨人だからです。
 
その井上陽水が「飾りじゃないのよ涙は」の作者だと知り、多くの方々は、「ああ!」と非常に深い納得があったと思います。
私もその1人でした。
 
 
おそらく、Google Chromeで来られている方や、お住まいの国の言葉に当ブログの文章を訳されている方は、「飾りじゃないのよ涙は」が母国語に翻訳されて表示されていると思います。
 
ですが、私個人のこだわりとして、この楽曲のタイトルは、ぜひ「KAZARI jya nai noyo NAMIDA wa」と覚えていただきたい。
 
 
それほどに、当たり前の言葉の組み合わせで、この楽曲が持つ、「壊れた渇き」を圧倒的に表現しているタイトルは類を見ないし、タイトルひとつ取っても井上陽水の作家性、独創性の独壇場なんですね。
 
ただの楽曲ではないですし、聴衆にとっても「一時期だけに消費される楽曲では断じて無い」、とても強い楽曲です。
 
 
私は、初めて中森明菜が「飾りじゃないのよ涙は」を歌唱するのを、体育館前に集っていた女子達が持つラジカセから流れるのを聴いて、「今度の明菜ちゃんの新曲はこれなんだ!」と度肝を抜かれたのを強烈に記憶しています。
 
「とんでもない楽曲を歌ったんだ。もう明菜ちゃんじゃなくて、中森明菜というアーティストになったんだ。」
と、その時の私は腹のど真ん中で知ったのですが。
 
同じ意味合いのことがWikipediaの「飾りじゃないのよ涙は」のページに書かれていたので、あの頃の私の感覚は、絶対に1人きりではなかったんだ!と、とても勇気づけられる思いです。
 
 
中森明菜の代表曲として「飾りじゃないのよ涙は」は、2023年の現在も支持されているはずですけれど、私は、中森明菜の代表曲にして問題作、という表現をしてもいいくらいの、非常にセンセーショナルな歌唱だったと考えています。
 
この楽曲がどういう経緯で明菜さんの元にやってきたのかはわからないのですが、私は聴衆の1人として、「少女A」のカタキを「飾りじゃないのよ涙は」で討ったのではないかとずっと思っていました。
 
誤解のないように書きますが。
中森明菜というシンガーの道程を語る上でも、キャリアを語る上でも、「少女A」はとても重要な楽曲ですし、優れた楽曲です。
 
ただあの頃の「中森明菜」と「チーム中森明菜」は、「少女A」で時代に描写されたアキナというイメージを、持て余していたのではないかと思うんです。
 
「少女A」の後続曲がどれも全部優れているのに、どこか同じイメージを繰り返すだけで、この方向、
街にいる孤独な少女、というイメージを消化するのに、「飾りじゃないのよ涙は」という楽曲が出てくるのを、中森明菜と「チーム中森明菜」は待っていたんじゃないでしょうか。
 
すべて私の勝手な想像であり、憶測ですけれど。
 
中森明菜というシンガーを見た時、かならず起こる胸の奥がかすかに痛んで疼く感じ。
胸騒ぎに似た切なさが、もっとドライに存在している、あの感じ。
 
それが「飾りじゃないのよ涙は」の歌詞に登場する、「街を漂流する、寂しい、すこし壊れた状態の女の子」のキャラクターとピッタリ一致したんだと思うんですよね。
 
 
この女の子は、自分のことを「あたし」ではなく「わたし」と発音します。
その差は、彼女が自分のことを「1人の人間として独立した人格である」と、すでに自覚しているからこそ「わたし」と発音しているのではないでしょうか。
 
「あたし」は、自意識にピッタリとくっついていて、自分の姿がよく見えない情熱的な哀しさをもつ、一人称だと私はとらえています。
 
でもこの女の子は、彼女は、違う。
「彼女は」とても頼りない場所にいながらも、自分を確かに保っていて、彼女は流されていかないんです。
 
 
私は泣いたことがない
灯の消えた街角で
速い車にのっけられても
急にスピンかけられても恐くなかった
赤いスカーフがゆれるのを
不思議な気持ちで見てたけど
私 泣いたりするのは違うと感じてた
 
(中略)
 
私は泣いたことがない
本当の恋をしていない
誰の前でもひとりきりでも
瞳の奥の涙は 隠していたから
 
いつか恋人に会える時
私の世界が変わる時
私 泣いたりするんじゃないかと感じてる
きっと泣いたりするんじゃないかと感じてる
 
 
(飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜(Nakamori Akina) 作詞 井上陽水 (Yousui Inoue)
歌詞提供 Uta-Net 様
https://www.uta-net.com/song/1266/より
 
 
スリルにも流されないし、恋らしきものにも流されない。
 
いつか、を予感しながらも、彼女は涙を求める情緒に対して、常に乾いた態度を崩さず、
 
 
飾りじゃないのよ涙は HA HAN
好きだと言ってるじゃないの HOHO
真珠じゃないのよ涙は HA HAN
 
きれいなだけならいいけど
ちょっと悲しすぎるのよ 涙は
 
飾りじゃないのよ涙は HA HAN
かがやくだけならいいけど HOHO
ダイヤと違うの涙は HA HAN
 
さみしいだけならいいけど
ちょっと悲しすぎるのよ 涙は
 
 
(飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜(Nakamori Akina) 作詞 井上陽水 (Yousui Inoue)
歌詞提供 Uta-Net 様
 
 
と、「本当は泣きたいんだろ?」とかいう情緒を誘う、浅慮や下心を、カラッと突っぱねるわけです。
 
この時の彼女はどういう表情なのかなと、歌詞を読まれて疑問に感じる方もおられると思いますが。
そういう方は、ぜひ、中森明菜の歌唱を聴いてみてください。
 
私は、中森明菜の歌唱を聴き、
 
この彼女は顔だけで笑って、
「飾りじゃないのよ涙は」
そう言ってのけたと、思います。
 
 
 
 
明日が「DIVA from JAPAN : Akina Nakamori」という当ブログのイベントの最終日となります。
みなさんが、あの曲が出ていない・・・、と思われてる曲だといいのですが。
 
 
それでは、明日の夜7時に、またお会いしましょう。
 
 
 
 
 
 
 
20230831 21:52 萩田光雄氏のお名前のローマ字表記の誤字をなおしました。大変失礼しました。
 
20230831 22:03 誤字をなおしました。 
20230901 00:30 文章をなおしました。 
 
 

2023/08/30

DIVA from JAPAN : Akina Nakamori ー 北ウイング / 中森明菜(Akina Nakamori)ー


 
 
 
 
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(「中森明菜 ラッカーマスターサウンド」
 「Akina Nakamori Lacquer Master Sound 」
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どちらも、2022ラッカーマスターサウンドMIXのライブ盤となります。
会場はYOMIURI LAND EAST.
 
ライブ盤ですが、歌唱中に歓声は入っておらず、中森明菜の当時の生歌唱がどれほどものすごいかがよくわかります。
 
 
北ウイング / 中森明菜(Akina Nakamori)
 
作詞  康珍化 (Kan Chinfa)
注:weblioの表記に倣うものとする
作曲 ・ 編曲 林哲司 (Tetsuji Hayasi)
 
 
中森明菜の楽曲にはいくつか特徴があります。
 
そのひとつに「ドラマティック」という要素があるのは、どなたも異論はないだろうと思います。
 
「北ウイング」は、タイトルを明菜さん本人がつけた、とWikipediaの「北ウイング」のページにあるので、当時の明菜さんご自身も、自分の歌唱曲にはドラマの要素がある自覚があったのではないかと、私は考えています。
 
 
「北ウイング」の歌詞から楽曲を解釈してみると。
 
この楽曲は「運命」に引き寄せられた恋人達のクライマックスシーンまでを描いていますが、私はいつも「北ウイング」に出てくる主人公2人のラストシーンはハッピーエンドだったのか、そうではなかったのかに思いを巡らせるのを、「北ウイング」という楽曲の余韻として楽しんでいます。
 
素晴らしい楽曲を元にした、ドラマや映画や小説や漫画が創られることがあります。
 
ですが私は、「北ウイング」の場合、楽曲自体が登場人物も、小道具も、舞台も、セリフも、主人公の想いも、全て過不足なく描かれている、とてつもなく完成形に近い世界を聴衆の頭の中に描き出すので、これ以上は必要ないと思っています。
 
明菜さんのような、美しく聡明で、強さを秘めた情熱を持つ女性が、「すべてを捨てて」飛び込む相手は、おそらく、運命的で強力な、逆らえないほどのもので結びついている存在なのでしょう。
 
よく、人は恋に落ちると、どうにも抵抗できない引力を相手に感じたり、まるで遠い昔からこの相手こそが自分の運命であると、とても大きな存在から決定されていたかのような、惹かれ方をする体験を持ちます。
 
そしてその多くは恋の終わりには、あんなにまで鮮烈だった、あの感情すべては錯覚だったのだろうか、と、胸の中が空っぽになってしまいます。
 
ただ唯一の例外、相手が「本当に運命の相手である場合」をのぞいて。
 
 
私は、明菜さんの歌唱を聴いて何度も頭の中に描画される「北ウイング」の物語が、ハッピーエンドに向かわない結末であるとは、どうしても思えません。
 
それは歌詞の中で語られているように、
 
 
いちどは あきらめた人
心の区切りの Teardrops
都会の灯り ちいさくなる
空の上で 見降ろす
(中略)
 
Love Is The Mystery
翼ひろげて
光る海を 超えるわ
 
すこし不安よ
 
 
日付けが塗り替えてゆく
苦しいだけのきのうを
あなたが住む 霧の街が
雲の下に 待つのね
(後略)
 
 
(北ウイング / 中森明菜Akina Nakamori
 作詞 康珍化 (Kan Chinfa)
 歌詞提供 Uta-Net 様
 
 2人が離ればなれの道を選んだのは、どういう理由や状況だったのかは、リスナーの想像にゆだねられていますが。
 
上記の部分で描写されているように、
 
一度は相手をあきらめ別の道を生きた主人公が、自分の選択を「苦しいだけのきのう」と胸の内で告白するほど、2人の愛にはたくさんの試練がもうすでにあった、と示唆されています。
 
そして主人公が最終的に選んだのは、すべてを捨てて彼のもとへ行くことでした。
 
その選択へ向かうまでに、一度別の道を生きることにしたわけですから、
 
燃え上がっているだけの恋愛の末路にある、
ラストシーンから始まった現実に、あっけなく2人は押しつぶされ、
あれほど焦がれた想いが、いまとなっては胸の中でひらひらと舞い落ちる、1枚のそらぞらしい紙に記された、とるに足りないただの事実の記録になってしまう道を歩むとは、
ちょっと思えないんですよね。
 
 
私は、この楽曲に出てくる2人は、年齢のいった、大人の2人だとイメージしています。
 
なので、運命に翻弄されながらも、2人は自分たちの想いをもっと落ち着いた現実的なものとして、断固として胸に持っていたのではないでしょうか。
 
だからこそ、歌詞の中で主人公が洩らす「すこし不安よ」という本音が、滑走路をふちどる無数のライトと、宝石の街を超えながら闇を往く、夜間飛行とオーバーラップし、この歌詞を聴いた瞬間、リスナーの心もまた、瞬時に離陸するのだと、私はとらえています。
 
 
さて、この北ウイングというのは、Wikiによると、日本にある成田国際空港の第一ターミナルの北部分の呼び名、なんだそうです。
 
そして、楽曲に出てくる便は
 
日本航空の成田発アンカレッジ経由ロンドン・ヒースロー国際空港行きのJL401便ではないか
 
Wikipedia 北ウイングより

 

 
 
と言われているそうです。
 
 
便がはっきり特定されていないこと、クリエイターチームや明菜さんもそのことにあえて言及しないところが、「北ウイング」という楽曲を愛するリスナーに対し、非常に繊細な心づかいをしてくださる、とても素敵な方々だなと胸が温かくなりました。
 
そうかもしれないけれど、そうではないかもしれない。
そうではないかもしれないけれど、そうかもしれない。
 
あえて言葉にされていない、運命の恋人達の結末もまた、聴いた人の数だけ、その胸にドラマティックな2人の運命を、2023年のいまでも描き続けている。
 
ーーーごくごく少なめに言って、
中森明菜が歌唱した永遠の名曲、それが「北ウイング」だと。
 
ずっと私は、そう思っています。
 
 
 
それでは、明日の夜7時に、またお会いしましょう。
 
 
 
 
 
 
 

2023/08/29

DIVA from JAPAN : Akina Nakamori ー I MISSED "THE SHOCK" / 中森明菜(Akina Nakamori)ー


 
 
 
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どちらも、2022ラッカーマスターサウンドMIXのライブ盤となります。
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ライブ盤ですが、歌唱中に歓声は入っておらず、中森明菜の当時の生歌唱がどれほどものすごいかがよくわかります。
 
 
I MISSED "THE SHOCK" / 中森明菜(Akina Nakamori)
 
作詞 Qumico Fucci
作曲 Qumico Fucci
編曲 EUROX
 
レーベル:ワーナー・パイオニア
 
(Wikipedia I MISSED "THE SHOCK"より)
 
 
中森明菜の楽曲の中で、この「I MISSED "THE SHOCK"」に、なんと私は発売当初は気がついてなかったんですね。
 
どうして見逃したのか覚えていないんですけれど、発売後、しばらく経ったある日、有線放送かラジオから流れてきて、「なんて美しくてスタイリッシュなサウンドだろう!」と、とても驚いて以来、明菜さんの楽曲の中では1位2位を争う好きな曲です。
 
タイトルの「I MISSED "THE SHOCK"」は、Wikipediaによると、日本語に翻訳不可能とされているのだそうです。
 
 
「I MISSED "THE SHOCK"」のタイトルについて「日本語に翻訳不可能」と解説されており、中森自身も同様のコメントを残している。
 
Wikipedia I MISSED "THE SHOCK"より
 
 
2023年のいまなら、どう訳すのだろうと、信頼している機械翻訳をいくつか試したんですが、どれもあまり意味をなさない結果が返されました。
 
ただ、日本語に翻訳できないけれど、言わんとするニュアンスは確実に伝わってくる、なんとも不思議なフレーズです。
 
 
私はこのフレーズを「I Missed」と「"THE SHOCK"」の二つにわけて主人公の気持ちと結びつけています。
 
楽曲自体も初めて聴いた時、Gazeboの「I Like Chopin」やSHAKATAKUの潮流と同質の、「水に包まれた中の孤独」を連想しました。
 
 
繰り返されるフレーズ、「lonely night in the rain」が点滅する、雨の夜が沁み込み更けていく中、主人公がとても静かに、自分の想いに閉じ込められていく様が徐々に浮かび上がってきて、上質な短編小説のような世界観が溢れ出していくのが、とても好きです。
 
これはもう私個人の解釈なんですが。
この楽曲は、主人公が、愛はこわいほど対等だけど、愛は均等では決してない。ことを思い出してしまった瞬間を描いているのだろうと、感じています。
 
自分の中に満ちた愛をつなぎ留めていたものを失ってしまった、そんな夜。
 
降り続く雨は、きっと銀糸のように細く、息苦しいまでに美しかったのでしょうね。
 
 
それでは、明日の夜7時に、またお会いしましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

追記します。


 
日本にはB級映画というジャンルがあります。
それはクオリティが低いという意味ではなく、王道ではない、マニアックな映画、というふうに私はとらえており、そういう意味で使っています。
 

書き方でおわかりの通り、私はB級映画を非常にリスペクトし愛好しています。
それは、こういう個性的な感覚があってもいいのだ、大通りを行くだけでなく、こうして道を曲がったり、小道にはずれたりしてもいいのだ、と肯定されるからです。
 
実は先日、頭を休めるために、Amazonプライムで配信されているドキュメンタリー映画「占いタクシー」のひとつのエピソードを観ました。
作品の説明文を読んで、私はてっきり、ふざけたシニカルな笑いもある中で最後はほろり、とさせる、ハートウォーミングなコメディタッチな映画だと思っていたのですが。
 
とても真面目な、それでいて人生の機微を描き出す、超A級ドキュメンタリー映画でした。
 
私個人のいい映画の基準は、観終わった後、「みんながみんな、それぞれ幸せになれるといいよね」という気持ちになれる映画です。
 
「占いタクシー」のひとつのエピソードで描かれていたものはネタバレになるから書くのは控えますが。
とても、いい映画でした。
 
いま私は色々とあれこれやっている途中で、感激して気持ちが大きく揺れ動くと、その軌道修正に時間がかかる状態なので、それは少し困るんですね。
 
なので、いまやっていることが落ち着いたら、「占いタクシー」を楽しみに観ようと思っています。


以上の付記を「この頃のネット受信事情とか色々と嫌いについて」に追加します。
 
ドキュメンタリー映画「占いタクシー」
私は、好きです。
 
 
 
 
 




2023/08/28

DIVA from JAPAN : Akina Nakamori ー TATTOO/ 中森明菜 (Akina Nakamori) ー


 
 
 
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TATOO / 中森明菜(Akina Nakamori)
 
作詞 森由里子 (Yuriko Mori)
作曲 関根安里 (Anri Sekine)
編曲 EUROX
 
(Wikipedia TATOO 中森明菜 より)
 
 
中森明菜といえば、この楽曲を真っ先に思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
 
それくらい、中森明菜にしかできない、歌えない、唯一無二の楽曲だったので、明菜さんの代表曲と言ってもいいと思います。
 
この楽曲の衣装はボディ・コンシャスなミニドレス(以下ボディコン)でしたが。
ヘアスタイルが、バーレスク文化やキャバレー文化を思わせる、ヘアバンドでアップヘアをまとめてるのを見て、私は、ショウ・ガールのイメージだったのではないか、と思っていました。
 
ですが、今回、TATOOの話をするにあたって、Wikipediaを見ると、楽曲のプロデュースもしていた明菜さんはこの衣装をボディコンとして、それを着るしかないと判断した、とあったのでボディコンでいいんでしょうね。
 
楽曲のパフォーマンスって、もちろんそれはフィクションなんですが。
 
私は、TATOOのパフォーマンスって、中にもうひとつの舞台があるという設定があって、どこか懐かしい架空のナイトクラブでステージに立つ、ショウ・ガールのパフォーマンスを見ている体(てい)なんだと思っていたんです。
劇中劇のようなものとして。
 
そのショウ・ガールはもちろん、クラブいちばんの売れっ子で。
 
そういうふうに、TATOOのパフォーマンスをする明菜さんを見ていました。
 
その後の明菜さんのTATOOパフォーマンスでの衣装に、ガーターベルトを着用しているものもあるので、あながちそのイメージは間違ってはいないとは思うんですけれど。
実際はどうなんでしょうか。
 
聴けばお分かりのように、ギラギラに暴発する女っぷり溢れる歌詞世界で、さすがの明菜さんもこの楽曲をパフォーマンスする時は、誰でも架空とわかる演出をしたのだろうな、と思うほどの、美しくって危険でヤバくってゾクゾクする街を舞台に、恐ろしいほど綺麗で肝が据わったオンナが挑発する、アジテーション極まりない一曲です。
 
都会にはびこる
哀れなアイドロイド
口説き上手の
チープなレプリカ
ハートの萎えた
男はいらない
 
(中略)
 
手頃なプレイで
麻痺したエモーション
感動したくて
女はアジテーション
言葉じゃなくて
Soulを感じたい
 
(中略)
 
都会はSweet Drug
いかさまパラダイス
孤独にまみれて
恋もパラノイア
優しささえ
毒入りのジェリービーンズ
 
(TATOO / 中森明菜(Akina Nakamori) 作詞 森由里子(Yuriko Mori) 
Misixmatch様 https://www.musixmatch.com/ja提供歌詞 一部漢字変換エナメル)
 
私が住んでいる日本だけでなく、おそらく女性性を持つ世界中の人々が、こういう衝動を内に隠しているのではないでしょうか。
 
それは絶対零度の激情であったり、煌びやかな情動であったり、紅蓮の慕情であったり。
 
触れれば大火傷を負う、
女性性を持つ誰にでもあるけれど、誰も知らない、
けれど男という性を持つものは、皆、知っている、
オンナにしかない、たまらないあの熱。
 
その隠し持っている危険な顔の目を開いて、世界を見つめると、このような歌詞になると私は思います。
 
ときどき自分を含め何もかもが、ニセモノでちゃちくってバカみたいに思えてしまって、全世界に向かって、
 
いま時代という
ぬるいベッドなんか這い出て
さあ わしづかみで
愛をとってごらん
 
(TATOO / 中森明菜(Akina Nakamori) 作詞 森由里子(Yuriko Mori) 
Misixmatch様 https://www.musixmatch.com/ja提供歌詞 一部漢字変換エナメル)
 
 
と扇動したくなる気持ち。
 
なんだかわからないけれど、そんなもんじゃねぇだろ!と煽りたくなる、そういう心持ちを、これほど痛快に謳ってみせた楽曲は、私は、後にも先にもTATOOしかないと思います。
 
サビの部分でこの主人公は「Show me your real love」と続け「その胸に消えないバラを咲かせろ」と訴えかけます。
 
そのバラがなにかは、未だ私にはわかりません。
 
ただTATOOを聴くたびに、どうにも胸の奥でグラッとたぎるものがあるんですが、同時に爽快でもあるその反応がある限り、なんとなく、「アタシはまだ大丈夫」と思えるんですよね。
 
みなさんはTATOOを聴いて、どう感じられるでしょうか。
 
 
さて、TATOOという楽曲の話が出たので、本当のタトゥーについて有用な知識をシェアします。
 
私は自分では入れてませんが、タトゥーは賛成派です。
いままでちゃんとした情報がまとまっているものに、私は出会ったことがなかったんですけれど。
 
さっきグーグルで検索したら、雑誌コスモポリタン様がとても有用で親切な情報をあげていましたので、参考リンクとして以下に出しておきます。
 
タトゥーを考えられている方は、絶対に目を通しておいてください。
 
参考リンク
 
後悔しないために!初めてタトゥーを入れる前に知っておくべきこと
 
スタジオに予約を入れる前に、不安と疑問をきちんと解消して!
 
COSMOPOLITAN 様
 
 
 
 
それでは、明日の夜7時に、またお会いしましょう。
 
 
 
 
 
 20230828 19:11 文章をなおしました。
 

2023/08/27

DIVA from JAPAN : Akina Nakamori ー サザン・ウインド / 中森明菜 (Akina Nakamori) ー


 
 
 
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(「中森明菜 ラッカーマスターサウンド」
 「Akina Nakamori Lacquer Master Sound
  でサーチするとこの盤が出ます。)
 
 
どちらも、2022ラッカーマスターサウンドMIXのライブ盤となります。
ライブ盤ですが、歌唱中に歓声は入っておらず、中森明菜の当時の生歌唱がどれほどものすごいかがよくわかります。
 
 
サザン・ウインド / 中森明菜(Akina Nakamori)
 
作詞 来生えつこ (Etsuko Kisugi)
作曲 玉置浩二 (Kouji Tamaki)
編曲 瀬尾一三 (Ichizou Seo)
(ウィキペディア サザン・ウインドより)
 
 
今回このイベント(当ブログの突然始まって突然終わるよくわからないイベント)のためにクレジットを見たら、なんと作詞は来生えつこさんで玉置浩二さんが作曲されていたんですね!
(玉置浩二さんは安全地帯のフロントマン、ソロとしても大活躍中)
 
編曲の瀬尾一三さんもWikipediaによると、あの曲もこの曲も!という名アレンジャー、プロデューサーだったということでびっくりです。
 
この曲が好きになった理由は、「聴いた人全員が好きになるべくして創られてたから」だとわかり、なんだか嬉しさいっぱいです。
 
 
中森明菜さんは、ウィキによると衣装もメイクも初期の段階から自分でやっていたそうで、私はそのことは知りませんでした。
(Wikipedia 中森明菜 より)
 
でも、明菜さんの衣装が好きだったので、私が覚えている範囲でのサザン・ウインドの衣装の話をすると。
 
確か、全体に柄の入った、綺麗なグリーンとかブルーのくるぶしより少し上の丈のドレスで、上半身部分はボディコンシャスになっていて、とても素敵だったと記憶しています。
そして、歌詞に出てくるように「カンカン帽子」を斜めにかぶってのサザン・ウインドの初披露だったと思います。
 
(いまウィキでカンカン帽子とパナマ帽を調べたんですが、私が覚えているのはカンカン帽子だったと思うんですけれど、間違って覚えている可能性があります。違っていたらごめんなさい。)
 
 
衣装についての私の考えですけれど。
私は衣装というものは、楽曲をまとったシンガーが表現している世界観を観衆に伝える、とても重要な演出方法だと思っています。
 
なので、表現者として非常に高度なセンスと実力を持っていた中森明菜さんは、衣装やメイク、振り付けをいかに自分自身にフィットしたものにして、楽曲の演出を手足のように表現できるかを、非常に重要視していたのではないでしょうか。
 
そのへんも、明菜さんの考えや価値観についてのインタビューがあれば、とても読んでみたいですし、強い興味があります。
 
 
私の覚えているサザン・ウインド披露時の明菜さんは、
とにかくすっごく嬉しそうで、弾けるような笑顔で、心から楽しそうにサザン・ウインドを歌っていたので、視聴者の私はテレビの前で、この楽曲のことが明菜ちゃんは大好きなんだな、と一緒に嬉しくなっていました。
 
 
楽曲自体も、無国籍でいて、綺麗な女性のリゾートで心浮立つさまを描写していて、映画のような町で少しだけ冒険してみようかどうしようか、開放的になっている洒脱な気持ちを歌っている作品だと、私は解釈しています。
 
 
この楽曲が大人になってもずっと好きなのは、来生えつこさん、玉置浩二さん、瀬尾一三さんが創り上げたサザン・ウインドという楽曲の世界を、中森明菜が唄うことで、もっと先の上質な世界観にまで昇華しているからだと、無理やり言葉にするとそういうことになります。
 
 
この楽曲を聴いて、旅心を刺激されるひともいれば、洗練された女性の少しだけの危うさに憧れるひともいると思いますし、もっと別の聴き方もたくさんあると思います。
 
 
その中で、私は、煌めく心を宿している女性のひと夏、という映画のワンシーンのような、優雅にひとりの時間を遊んでいる女性の物語りをいつも連想します。
 
 
なので、サザン・ウインドの歌詞に出てくるお酒が「果実酒」という漢字表現がなされていることにいつもうっとりしながら、決して現実では同じものを飲むことができない、この美しい女性が贈られたお酒を夢見ては、中森明菜の歌唱に聴き惚れています。
 
 
それでは、明日の夜7時に、またお会いしましょう。
 
 
 
 
 
20230827 19:29 誤字と文章をなおしました。
20230828 18:09 文章を追加しました。
20230828 18:29 文章を追加しました。