休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)
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2024/02/02

一人の女性が自分をどう見ていたかの記録 ~映画:マディソン郡の橋についての雑感 1~


 
今日のポストは、映画「マディソン郡の橋」へのネタバレだらけですので、いつか観ようと思ってたんだよね、と言う方は、なにもお読みにならないでくださいね。
 
ありとあらゆるネタバレを今日はしまくります!←(笑)
 
こういうことは普段しないんですが、ネタバレをしてあっても、とても繊細で素晴らしい、そしてものすごく考えさせられる映画ですので、興味を持たれたらぜひご覧になってみて下さいね。
 
私は、この映画は、観た人によって解釈が分かれる映画だと考えています。
 
そして観た後も、ストーリーの記憶が10年20年単位でときどき蘇り、「あれはこうだったのではないか?」「あの部分で描かれていたのは、この心理ではないか?」
と延々考え続けられるという、すさまじい耐久性を持っている映画だと、知っているので、この映画を私はとても強くおすすめいたします。
 
映画マディソン郡の橋は、アマプラで現在400円でレンタル配信中です。
 
いま配信されているかどうかを「マディソン郡の橋」で
Google検索したら、最初の検索候補に「マディソン郡の橋 気持ち悪い」があって、え? という気持ちでいっぱいです。
 
全然、気持ち悪いところはありません。
この映画がどれだけ耐久性があり、問いかけが続く映画であるかを証明するために、あえて調べず、記憶だけで書きますけれど。
 
映像は、乾いた押さえた静かなトーンで彩られ、どぎついベッドシーンなんかありもしない、上品でしっかりした、人生というものは何か、生涯の愛とは何か、パートナーシップとは何か、家族とは何か、献身とは何か、というですね、生きているとだいたいの人がそのことについて考えるだろう命題について、ものすっごい思考されている映画です。
 
また、気持ち悪いとあるのはですね、想像するに、それが若くない、青年期後半(35歳とか40歳とかそのくらい?)の男女のめぐりあいと別れと約束のようなものを描いているので、若くて美しい人々が美しく出会い美しく愛を語り美しく選択をする、みたいなのしか恋愛イメージは認めない!という価値観があるのかもしれませんね。
(すごく真剣に観ている映画を、検索候補というデータの多数決の結果でディスられたので、若干ムカついています。狭量な人間で、すいやせん!)
 
映画「マディソン郡の橋」はですね、私の観る限り、純愛だからいいでしょ? と不倫を肯定するのでも、パートナーがいるのに別の相手と愛を交わすことを、これだったらいいでしょ? と肯定する映画でも、長い人生に約束を交わした恋愛感情が、一生続くと信じて疑わない人達にむけて懇願する映画でも、断じてない! という解釈をしております。
 
この映画の背景を、当時、私が過ごしていた現実で観測した記憶を書くと。
 
原作は小説で、世界的ベストセラーになった本です。
どうしてここまで多くの人達の胸を打ったかというと、当時の風潮では、純愛のひとつの形、を静かに描いた小説ということでした。
日本でも大ベストセラーで、書店にいくたび平台に山積みになっていて、どんどん減っていくというぐらいブームになっていたと記憶しています。
 
私は原作は未読です。
どうやらこれは悲恋モノらしい、という認識しか私はしておらず、読まなくてもいいかな、と思っておりました。
で、その後、映画になって、確かレンタルで観たんですけれど、観終わった後、小説を読んだ後のような、すごい感慨といっていいものが胸に沸き起こってきて、いま私が観たのは、ただの悲恋モノではない、という体感がありました。
 
私は、映画「マディソン郡の橋」は、一人の女性が生きて死ぬまで、一体自分という存在をどう考えていたのか、どのように見つめ続けていたのか、という記録だと考えています。
 
この映画が私の心に残っている理由は、彼女の自己視点は、映画で彼女の人生を観た私個人ですら、彼女が思っていた人生の姿はまるで違うものなのだ、という自意識がもたらす自己肯定感の低さと、人が生きていく日々というものの立体感と厚みでした。
 
これはいま自分が若いから感傷かな、それともこれが若さという思い上がりなのかな、と、あれこれ言葉にしないで考え続けていたんですけれど、やはり、この映画が私に伝えたことは、
人の人生というものは、たとえ本人が願っていたとしても、他者の視線で語ることも、記憶することも決してとらえることができない広大なものであり、本人にも自分の人生の姿はとらえられないまま、わからないままで最後まで選択をしていくのだ、
と思ったんです。
 
憶えている限りの映画「マディソン郡の橋」に出てくる男と女は、アメリカの少しだけ田舎に住む、経済的に余裕が少しある主婦の元に写真家の男が訪れ、この一帯の景色を撮りたいから、土地勘があるならこの辺りのことを教えてもらえないだろうか、という出会いだったように思っているんですが、間違いでしたらごめんなさい。
 
二人にはそれぞれ家族があり、彼女には子供もありました。
そして、その時だけ、夫と子供は1週間だけ家を留守にしていた。
やがて、二人は、精神的な距離を少しずつ縮めていき、愛し合うようになります。
けれど、1週間というタイムリミットが迫る中、二人はそれぞれが迷い苦しんだ後、別れを選択します。
それきり二度と会うことはありませんでした。
やがて月日が流れ、彼女は歳を取り、夫を看取り、子供達を立派に育て上げ、死を迎えます。
その葬儀が終わり、立派に育ち、それぞれ人生を進み、成功したもの、そうでもないもの、家庭を持つものは持っている、そんな彼女の子供達が遺言をひらくところから、映画は始まります。
 
子供達の疑問は、なぜ一般的でない火葬を母は選んだのだろう、というものでした。
やがて、その遺言書には、彼女と写真家の男との1週間だけの恋愛の記憶が記されており、あれきり二度と会わなかった男は、実は自分の死後、1週間だけ恋人だった二人の思い出の場所、橋から眺める景色が好きだった川に、自分の灰を撒いて欲しい、と遺し、それが叶えられたことを彼女はその後、知り、自分は夫とあなた達に人生を捧げた、だから、死んだ後は、彼の望み通り、そばにいることを選びたいから、自分を火葬しその灰を、同じ場所に撒いてくれ。
というものでした。
子供達は葛藤しますが、やがて、彼女の望みを叶える選択をします。
それでこの物語は終わりです。
 
色々な解釈があると思います。
 
永遠の愛は、時間ではない。
純愛というものは、こういうものではないのか。
家族が見ている姿は本当の自分ではない。
これが魂のパートナーというものなのだろうか。
 
なじる声もあったと記憶しています。
 
生涯、家族をあざむきつづけたのか。
いくらなんでも最後に知らせるなんてひどいだろう。
だったら最期まで黙っておくべきだ。
子供達が可哀想。
死ぬ前に、子供に仕返しをしたのか。
 
記憶している中からの声なので、私の想像から出ているかもしれません。
当時、声が大きい人達は、この物語に熱狂しポジティブに語っていたので、世間的にも、あんな物語をと言うのではなく、これもひとつの愛の形だよね、という雰囲気だったと思います。
 
私は、その熱狂がだいたい収まった後、映画を観て、
「本当に彼女は男のことを、毎日、肌身離さず憶えていたのだろうか?」
という疑問を持ちました。
 
そして、その疑問の答えは、いまだわかっていません。
 
素晴らしい映画というものは、そういうものを手渡すからです。
 
時間が来てしまったので、明日へ続きます
 
 
以上、一人の女性が自分をどう見ていたかの記録 ~映画:マディソン郡の橋についての雑感 1~でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2023/07/02

Moon River

 


 

日曜日なので、穏やかな内容を書いています。

 

オードリー・ヘプバーンの映画で好きなタイトルを挙げるとすると、たくさんのかたが「ローマの休日」を挙げると思いますし、「マイ・フェア・レディ」を挙げる方もおられると思います。

 

私は実はなんと「ローマの休日」は、内容は知ってるし、セリフも知ってるけれど、嫌いな人が好きだと言ってた映画だったので、あんな奴が好きな作品なんか断じて観るもんか、と決めていたこともあって、結局、いまだに観ていないという、全世界でも珍しい人類の1人です。

 

その代わり、私は、「ティファニーで朝食を」がとても好きです。

 

理由は、オードリーが都会的でシックだからとか、映画の世界観がおしゃれだとか、そういうポイントもとても素敵だけれど、この映画の物語にとても胸を打たれてしまったからです。

 

まだ観ていない方のために、ネタバレをしないで書きますけれど。

 

私は、それまで映画を観て泣く場合、ここが感動ポイントですよ。今からそこに向かって盛り上げていきますよ。はい、盛り上がってきましたよ。じゃあ、泣いてください!

という映画で、わりとあっさり泣いてしまうタイプでした。

 

(お陰様で、この頃は涙が出るようになりました。ちょっと波があり過ぎですけれど、涙が出るようになったのだから、とても進歩していると思っています:))

 

でも、私はこの「ティファニーで朝食を」を観てる時、劇中にとても有名すぎるほど有名な主題歌「Moon River」が出てくるシーンがあるんですけれど。

そのシーンを観た時、知らないうちに泣いてる自分に気がついて、とても驚いたんです。

 

どうして泣いたのか、当時の私にはよくわかりませんでした。

感動的なシーンではないんです。

どちらかというと、微笑ましいシーンとされている場面なんです。

 

でも、私は、そのとき画面に流れていた言語化できないものと、白字の字幕にあった日本語訳詞と、かろうじてリスニングできた英語の歌詞の断片に触れた時、こみあげてくるものが押さえきれず、涙を流してしまったんです。

 

観終わった後、しばらくして、私は、この映画と「Moon River」という楽曲が持っている、哀しさ、に心打たれたのだと、わかりました。

 

みなさん、ご存知の通り、名曲「Moon River」はあまり多くを語っていない、とても暗示的で、同時に明示的な世界が歌われています。

 

その中の一部分、「Two drifters off to see the world」の日本語字幕が「2人の流れ者」になっていたんです。

けれど、私はその時はっきりと「いや、これは『2人の愚か者』が正しい」とわかったんです。

 

それは若者だった私の、傲慢さでもあったし、柔軟な感性だったのかもしれないし、ただの勘違いだったのかもしれません。

 

正解は調べていません。

いまもこれを書くにあたって、検索しようかな、と思ったんですけれど、やっぱり、あの時感じた自分を大切にしたくて、検索するのをやめました。

 

だから、自分の誤訳をそう信じ込んでいるかもしれないですし、映画の中の時代背景から「2人の流れ者」のほうが、作品世界に合っているのかもしれません。

 

ただ、私にとって、「ティファニーで朝食を」のあのシーンは、原作者のトルーマン・カポーティからの、この世界と世界を往く人々へ向けられた、とても温かい眼差しだと、強く感じるものがあったんです。

 

正直言って、この映画が映画として群を抜いていないのはわかっています。

作りも雑だし、ファッション映画と言われても仕方のない作りだし、おかしなところもすごく多い。

 

でも、私は、この映画が持つおかしな部分は、世界という世の中や人生が持つ、奇妙さやおかしさと、とても似通っていると思うんです。

 

この世界に無数に存在する人生というものは、確かに、なんだか作りが雑で、奇妙で、おかしい。

 

「ティファニーで朝食を」食べるなんて本当は無理なのに、それがタイトルになっている、おかしな世界に住む、とっても素敵な女の子が、なんだか奇妙な世界の中で、優しく、でもドライに歌う「Moon River」という楽曲の歌詞に出てくるのは、

 

本当はみんなどこかでわかっていること、

 

だったのかもしれません。

 

人というものは、愚かだ。

だからこそ、終わるとわかっている人生を進んでいける。

 

映画を観ている私達が、実際に住んでいる、この奇妙でおかしさを必ず併せ持つ現実を進むのにふさわしいのは、やはり「流れ者」ではなく「愚か者」という言葉だと、私は思います。

 

そして、人は誰でも皆、孤独を1人、持っていくしかないんだけれど、

1人で抱えきれない時もあるから、

そんな時は、2人がいい。

 

それでうまくいくのなら、

漕ぎ出したボートをなんとかなる方向に進ませることができるのなら、

願わくば、1人よりは2人がいい。

 

そんなことを、若者だった私は、「ティファニーで朝食を」のあのシーンに触れて、胸の真ん中に取り込んだのかもしれません。

 

人生というものの本質を語る、抜群の表現に触れて、その苦さと優しさ、根底にある哀しさに沁みたから、思わず涙がこぼれたのでしょう。

 

いまでも、現実で私が抱えている問題に苦しくなると、「Moon River」を聴いて胸を詰まらせたり、どこからか「ティファニーで朝食を」の冒頭のシーンを探してきて、ただ繰り返し見つめながら、どうしてこのシーンを撮ったのかな、などと色々想像します。

 

正解は検索すれば、原作を読めば、伝記を読めば、ムック本を読めば、きっと載ってるけれど。

 

私は、たぶんずっとその解答を知ろうとしないまま、そのときどきで、自分が過ごしている人生から返ってくる、返信する宛のないモールス信号のようなものを受信して、愚か者として生きていくのだと思います。

 

月のどこかにきっとある、金色に滲む河を想いながら。

 

 

 

それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。

 

 

 

 

注記:本文中に吉野弘さんの「祝婚歌」の口調が出てきてしまっています。お好きな方、ごめんなさい。まだの方、もしおられましたら、ぜひこちらも読んでみてくださいね。素晴らしい詩です。

 

 

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2022/04/10

わからなかった台詞

 


 

 

プレリュードOp.28-7(ショパン)

演奏 三船優子 

 

以前、わからなかったことのほうがよく覚えている、と書きました。

 

今回もその話です。

 

「櫻の園」という邦画があるんですけれど。

 

私はこの映画が大好きで、ネット検索をかけたら、1990年に公開された映画だったそうです。

最近ではリメイクもされているようですが、今回話題にしているのは90年公開のほうです。

 

非常に、静かな、美しくて、ある種のリアリティとフィクションがうまく混ざり合った、とても繊細でいて、一時期の瑞々しさを焼きつけるのに成功した、稀有な作品で、いまでも心の中に大切に残っている映画のひとつです。

 

ただ、この映画の台詞で、わからないな、と思った台詞があるんです

 

あたし、毎年毎年、同じように咲く桜って、なんか許せないっていうか・・・。

こっちは次々、卒業していくっていうのに、全然変わらないなんて。そんなの。」

 (映画:櫻の園 より)

 

参照リンク

人生論的映画批評・続 様

https://zilgz.blogspot.com/2013/09/90.html

 

私、この台詞を聞いた時、ああ、大変な台詞を聞いてしまったと、少し唖然としたんですね。

でも、同時に、私にはわからないんだな・・・、ということが、はっきり分かったんです。

 

私にとって桜というのは、毎年同じように咲く、とても嬉しい存在なので。

 

でも、わからなくても、これは、この鋭い感性は、絶対に記憶しておかないとダメだ。と強く思ったのも覚えています。

 

それで、わからないまま、私は、この台詞とともに、後に名作と言われる、映画「櫻の園」を、ずっと胸に持ってきています。

 

映画の内容については、特に何か書いたりはしません。

私にとってこの映画は、言語化するにはとても繊細すぎる、してしまうと、言葉にした端からどんどん違っていってしまう、そういう種類のものだからです。

 

素晴らしく、力のある評論や感想が、参照リンク先のブログ様をはじめ、フィルマークスの映画「櫻の園」の感想コーナーにたくさんあるので、懐かしい方はそちらを、興味のある方は、よかったら、映画のほうをご覧になってみてください。

 

20220409現在、WATCHAU-NEXTで配信されているそうです。

 

ーー、今年も、私は幸運なことに、お花見に行くことができました。

 

あたし、毎年毎年、同じように咲く桜って、なんか許せないっていうか・・・。」

 

毎年、この台詞を思い出しては、

薄く色づいた白い花を見上げて、息を呑むたび、

 

私には、わからないな・・・。

けれど、やっぱり、絶対に忘れてはならないことだな。

 

と、誓いのように、また想って、大切に胸にしまっています。

 

 

以上、わからなかった台詞についてでした。

 

桜前線、北上中のようですね。

お花見は行かれましたか?

 

たまには古い映画を観て、しばし別世界に身を置いてみる日曜日というのも、いいのではないでしょうか。

 

それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。

 

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2021/10/26

映画「グッド・ウィル・ハンティング / 旅立ち 」感想(ネタバレあり)

 


 

1997年 アメリカ映画

 

名作といわれる作品でも、なぜか観ないできてしまうことって結構あると思うんですが、私にとっては、この作品がそうでした。

 

「グッド・ウィル・ハンティング」というタイトルとロビン・ウィリアムズが出演している映画、ということまで頭に入っていながら、おそらく当時、あとで観ようと思って、そのまま先送りにしていた映画です。

 

きっかけは、YouTubeで映画紹介をしているチャンネルでこの映画がおすすめに上がってきて、そのサムネイルを見て興味を持ったんですが、調べると、それが名前だけ覚えていた「グッド・ウィル・ハンティング」で、ああ、そういえばまだだったなと、この間、時間を作って観ました。

 

素晴らしい作品で、早く観ておくんだったなと、エンドロールを見ながら、いままで観ないできた時間をとても後悔しました。

 

教授クラスが解く数学の難問を、大学の清掃員の青年がひと晩で解いてしまう、 という、とても痛快で刺激的な物語の始まりなんですが。

 

ストーリーがとてもよく練られた、会話劇が中心の、当時のボストンを舞台に幾つかの階層の人々の姿をとてもリアルに描きながら、

・天才というものが出会ってしまった人々に与える影響とはどういうものか

・才能というものの正体とは、なんなのか

・喪失が訪れてしまった人間はその後どういう選択をするのか

・再生とは何か

という、

人生で多くの人が不意に目の当たりにするテーマを、主人公ウィルの青春期とその終わり、そして新たな始まり、までを描くことで、鮮やかに切り取った名作でした。

 

とても良かったのが、登場人物ひとりひとりの人生全部を、その役の俳優さんたちがそれぞれ緻密に解釈して演じていて、映画で描かれている物語は、あくまでもそれぞれの人物の1時期の姿に過ぎないのだと、観ている者に実感させる作りなところです。

 

なので、これはフィクションなんですが、映画を観終わったあと、それぞれの登場人物の日常は、この世界の中ではこの先もずっと続いていくものなんだな、という体感がすごくあって、すごい作品だなと思いました。

 

主人公のウィルを演じるのは、映画「ボーン・アイデンティティ」でお馴染みの、当時は無名の俳優だった、若かりし頃のマッド・デイモンで、ウィキによると、実はこの作品の脚本を、劇中でもとても重要な親友役を演じているベン・アフレックと共同執筆したんだそうです。

これで2人は、アカデミー賞とゴールデングローブ賞の脚本賞を受賞しています。

脚本化までにかなりの年月を費やしているところも、かなりよく練られたストーリーと世界観の要因ではないでしょうか。

 

私がこの作品を好きなのは、人生に突如としてやってくる、個人が抱えている問題への救済や、そしてチャンスというものが、決してロマンチックに描かれていないところなんですよね。

 

むしろ、それはすごくいびつな形で現れるし、もっと生々しく人生に関与し、その後も個々の体験を照らし出すものは照らし続けていくという、作中を通して貫かれているザラついた現実感覚があるところが、私はとても好きです。

 

これはあくまでも物語ですし、やっぱりその物語性というものがあってこそ、初めて映画として機能するという部分があるんですけど。

そのフィクションの中での現実感を、美しく、どこか寂れている街ボストンを舞台に、これでもかいうくらいリアルさを保ったままストーリー展開をしていったことが、逆に、ウィルのとても儚くて美しい1時期を鮮烈に描き出すことに成功したのではないか、と思いました。

 

あまりにもナイーブで苛烈な、切ないまでに聡明な主人公ウィルを演じたマット・デイモンは、その後、決して破滅的な人生を送ることなく、素晴らしい俳優人生と安定したプライベートを送っているので(ウィキより)、どうかご安心ください(笑)。

 

「グッド・ウィル・ハンティング / 旅立ち 」

いい映画でした。

 

お時間がある時に、ぜひ。

おすすめです。

 

 

 

 

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