今日のポストは、映画「マディソン郡の橋」へのネタバレだらけですので、いつか観ようと思ってたんだよね、と言う方は、なにもお読みにならないでくださいね。
ありとあらゆるネタバレを今日はしまくります!←(笑)
こういうことは普段しないんですが、ネタバレをしてあっても、とても繊細で素晴らしい、そしてものすごく考えさせられる映画ですので、興味を持たれたらぜひご覧になってみて下さいね。
私は、この映画は、観た人によって解釈が分かれる映画だと考えています。
そして観た後も、ストーリーの記憶が10年20年単位でときどき蘇り、「あれはこうだったのではないか?」「あの部分で描かれていたのは、この心理ではないか?」
と延々考え続けられるという、すさまじい耐久性を持っている映画だと、知っているので、この映画を私はとても強くおすすめいたします。
映画マディソン郡の橋は、アマプラで現在400円でレンタル配信中です。
いま配信されているかどうかを「マディソン郡の橋」で
Google検索したら、最初の検索候補に「マディソン郡の橋 気持ち悪い」があって、え? という気持ちでいっぱいです。
全然、気持ち悪いところはありません。
この映画がどれだけ耐久性があり、問いかけが続く映画であるかを証明するために、あえて調べず、記憶だけで書きますけれど。
映像は、乾いた押さえた静かなトーンで彩られ、どぎついベッドシーンなんかありもしない、上品でしっかりした、人生というものは何か、生涯の愛とは何か、パートナーシップとは何か、家族とは何か、献身とは何か、というですね、生きているとだいたいの人がそのことについて考えるだろう命題について、ものすっごい思考されている映画です。
また、気持ち悪いとあるのはですね、想像するに、それが若くない、青年期後半(35歳とか40歳とかそのくらい?)の男女のめぐりあいと別れと約束のようなものを描いているので、若くて美しい人々が美しく出会い美しく愛を語り美しく選択をする、みたいなのしか恋愛イメージは認めない!という価値観があるのかもしれませんね。
(すごく真剣に観ている映画を、検索候補というデータの多数決の結果でディスられたので、若干ムカついています。狭量な人間で、すいやせん!)
映画「マディソン郡の橋」はですね、私の観る限り、純愛だからいいでしょ? と不倫を肯定するのでも、パートナーがいるのに別の相手と愛を交わすことを、これだったらいいでしょ? と肯定する映画でも、長い人生に約束を交わした恋愛感情が、一生続くと信じて疑わない人達にむけて懇願する映画でも、断じてない! という解釈をしております。
この映画の背景を、当時、私が過ごしていた現実で観測した記憶を書くと。
原作は小説で、世界的ベストセラーになった本です。
どうしてここまで多くの人達の胸を打ったかというと、当時の風潮では、純愛のひとつの形、を静かに描いた小説ということでした。
日本でも大ベストセラーで、書店にいくたび平台に山積みになっていて、どんどん減っていくというぐらいブームになっていたと記憶しています。
私は原作は未読です。
どうやらこれは悲恋モノらしい、という認識しか私はしておらず、読まなくてもいいかな、と思っておりました。
で、その後、映画になって、確かレンタルで観たんですけれど、観終わった後、小説を読んだ後のような、すごい感慨といっていいものが胸に沸き起こってきて、いま私が観たのは、ただの悲恋モノではない、という体感がありました。
私は、映画「マディソン郡の橋」は、一人の女性が生きて死ぬまで、一体自分という存在をどう考えていたのか、どのように見つめ続けていたのか、という記録だと考えています。
この映画が私の心に残っている理由は、彼女の自己視点は、映画で彼女の人生を観た私個人ですら、彼女が思っていた人生の姿はまるで違うものなのだ、という自意識がもたらす自己肯定感の低さと、人が生きていく日々というものの立体感と厚みでした。
これはいま自分が若いから感傷かな、それともこれが若さという思い上がりなのかな、と、あれこれ言葉にしないで考え続けていたんですけれど、やはり、この映画が私に伝えたことは、
人の人生というものは、たとえ本人が願っていたとしても、他者の視線で語ることも、記憶することも決してとらえることができない広大なものであり、本人にも自分の人生の姿はとらえられないまま、わからないままで最後まで選択をしていくのだ、
と思ったんです。
憶えている限りの映画「マディソン郡の橋」に出てくる男と女は、アメリカの少しだけ田舎に住む、経済的に余裕が少しある主婦の元に写真家の男が訪れ、この一帯の景色を撮りたいから、土地勘があるならこの辺りのことを教えてもらえないだろうか、という出会いだったように思っているんですが、間違いでしたらごめんなさい。
二人にはそれぞれ家族があり、彼女には子供もありました。
そして、その時だけ、夫と子供は1週間だけ家を留守にしていた。
やがて、二人は、精神的な距離を少しずつ縮めていき、愛し合うようになります。
けれど、1週間というタイムリミットが迫る中、二人はそれぞれが迷い苦しんだ後、別れを選択します。
それきり二度と会うことはありませんでした。
やがて月日が流れ、彼女は歳を取り、夫を看取り、子供達を立派に育て上げ、死を迎えます。
その葬儀が終わり、立派に育ち、それぞれ人生を進み、成功したもの、そうでもないもの、家庭を持つものは持っている、そんな彼女の子供達が遺言をひらくところから、映画は始まります。
子供達の疑問は、なぜ一般的でない火葬を母は選んだのだろう、というものでした。
やがて、その遺言書には、彼女と写真家の男との1週間だけの恋愛の記憶が記されており、あれきり二度と会わなかった男は、実は自分の死後、1週間だけ恋人だった二人の思い出の場所、橋から眺める景色が好きだった川に、自分の灰を撒いて欲しい、と遺し、それが叶えられたことを彼女はその後、知り、自分は夫とあなた達に人生を捧げた、だから、死んだ後は、彼の望み通り、そばにいることを選びたいから、自分を火葬しその灰を、同じ場所に撒いてくれ。
というものでした。
子供達は葛藤しますが、やがて、彼女の望みを叶える選択をします。
それでこの物語は終わりです。
色々な解釈があると思います。
永遠の愛は、時間ではない。
純愛というものは、こういうものではないのか。
家族が見ている姿は本当の自分ではない。
これが魂のパートナーというものなのだろうか。
なじる声もあったと記憶しています。
生涯、家族をあざむきつづけたのか。
いくらなんでも最後に知らせるなんてひどいだろう。
だったら最期まで黙っておくべきだ。
子供達が可哀想。
死ぬ前に、子供に仕返しをしたのか。
記憶している中からの声なので、私の想像から出ているかもしれません。
当時、声が大きい人達は、この物語に熱狂しポジティブに語っていたので、世間的にも、あんな物語をと言うのではなく、これもひとつの愛の形だよね、という雰囲気だったと思います。
私は、その熱狂がだいたい収まった後、映画を観て、
「本当に彼女は男のことを、毎日、肌身離さず憶えていたのだろうか?」
という疑問を持ちました。
そして、その疑問の答えは、いまだわかっていません。
素晴らしい映画というものは、そういうものを手渡すからです。
時間が来てしまったので、明日へ続きます
憶えている限りの映画「マディソン郡の橋」に出てくる男と女は、アメリカの少しだけ田舎に住む、経済的に余裕が少しある主婦の元に写真家の男が訪れ、この一帯の景色を撮りたいから、土地勘があるならこの辺りのことを教えてもらえないだろうか、という出会いだったように思っているんですが、間違いでしたらごめんなさい。
二人にはそれぞれ家族があり、彼女には子供もありました。
そして、その時だけ、夫と子供は1週間だけ家を留守にしていた。
やがて、二人は、精神的な距離を少しずつ縮めていき、愛し合うようになります。
けれど、1週間というタイムリミットが迫る中、二人はそれぞれが迷い苦しんだ後、別れを選択します。
それきり二度と会うことはありませんでした。
やがて月日が流れ、彼女は歳を取り、夫を看取り、子供達を立派に育て上げ、死を迎えます。
その葬儀が終わり、立派に育ち、それぞれ人生を進み、成功したもの、そうでもないもの、家庭を持つものは持っている、そんな彼女の子供達が遺言をひらくところから、映画は始まります。
子供達の疑問は、なぜ一般的でない火葬を母は選んだのだろう、というものでした。
やがて、その遺言書には、彼女と写真家の男との1週間だけの恋愛の記憶が記されており、あれきり二度と会わなかった男は、実は自分の死後、1週間だけ恋人だった二人の思い出の場所、橋から眺める景色が好きだった川に、自分の灰を撒いて欲しい、と遺し、それが叶えられたことを彼女はその後、知り、自分は夫とあなた達に人生を捧げた、だから、死んだ後は、彼の望み通り、そばにいることを選びたいから、自分を火葬しその灰を、同じ場所に撒いてくれ。
というものでした。
子供達は葛藤しますが、やがて、彼女の望みを叶える選択をします。
それでこの物語は終わりです。
色々な解釈があると思います。
永遠の愛は、時間ではない。
純愛というものは、こういうものではないのか。
家族が見ている姿は本当の自分ではない。
これが魂のパートナーというものなのだろうか。
なじる声もあったと記憶しています。
生涯、家族をあざむきつづけたのか。
いくらなんでも最後に知らせるなんてひどいだろう。
だったら最期まで黙っておくべきだ。
子供達が可哀想。
死ぬ前に、子供に仕返しをしたのか。
記憶している中からの声なので、私の想像から出ているかもしれません。
当時、声が大きい人達は、この物語に熱狂しポジティブに語っていたので、世間的にも、あんな物語をと言うのではなく、これもひとつの愛の形だよね、という雰囲気だったと思います。
私は、その熱狂がだいたい収まった後、映画を観て、
「本当に彼女は男のことを、毎日、肌身離さず憶えていたのだろうか?」
という疑問を持ちました。
そして、その疑問の答えは、いまだわかっていません。
素晴らしい映画というものは、そういうものを手渡すからです。
時間が来てしまったので、明日へ続きます