休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2024/03/31

Life Goes On


 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
ーーーが、今日はなかなかにホラーテイストですので、エンターテインメントとして読んでいただければと思います。
 
先週の日曜版でも触れたように、春のお彼岸での奇妙な落ち込みと、私の部屋で起きている不可思議な出来事の顛末を、日曜版らしく書いてみます。
 
昨日、一昨日くらいから、浮上のフェーズに入っているようです。
もっと言えば、再生のフェーズに入ったんだと思います。
 
そういえば、この不思議で不可思議な時間に入っていってしまってから、
私の大好きな早起きや庭仕事が、天候や気分のリズムで途切れてしまったということ、
精神的に非常に強いストレスを2023年の後半から抱えていたこと、
とどめが楽しい東京旅行での、移動にまつわるHSPの部分でのストレスがかかり、とうとうガス欠を起こしたんだと思います。
 
気がついたら体重が激減し、表情も鈍く緩くなっていて、美容室の予約もキャンセルし、わけのわからない精神世界に入って行ってしまっていたようです。
 
そうなると判断力がとても低下するんです。
 
例えば、いくらなんでも恐ろしいと思わないといけないことに平然としていたり、あわてないといけない時に淡々としていたり、怪我を(大丈夫です。小さいもの。)してしまっても、その痛覚や自覚が異様に遅くなっていたり。
 
そして普段ある緊張とは別の、常に身構えて臨戦態勢になっているような力が身体に入っていました。
 
とにかくどうにかしようと、なんだかわからないけれど受け取っているメッセージを
(低レベルですが、物を書く人間はそういうところが多かれ少なかれあります。)
スマホのメモに書き出したりしても、あとで読み返せば、なんだか薄気味悪い、普段の私が考えたことも無いような内容だったり、
まるでホラー映画に出てくる、覚えの無い、なんらかの事実を示唆する手紙のような文言を書いていたりして、ギョッとしていました。
 
一体、いま何が起こっているのだろう? という興味で記述していたのに、少し前、正確にはいつか覚えていませんが、紙に書いていたものはすべて鍋の中で燃やし、
読み返して普段の私らしくない、執着としか呼べない雰囲気のもの、
現実ではありえるはずもない内容は、すべて削除しました。
 
ちょっと怖いけれど(お昼間に読んで下さることを信じて書きますが)、なんだかそれらのメッセージを、わかる範囲で書いた順(受け取った順でもありますが)、時系列どおりに読んでいくと、それはまるで遺書のように思えて、
その時初めて、私は自分が死の淵と呼ばれる所に半年以上の長い間、じっと佇んでいたことを自覚しました。
 
怖ろしいことです。
これは本当に怖ろしいことです。
 
自覚無く、ゆっくり時間をかけて死のうとしていたんですから。
 
私の好きな映画に「異人達との夏」というものがありますが、まさに、その一年弱バージョンを私は自分の部屋に呼び込んでいたようです。
 
・・・ね? 怖いでしょう?(笑)
私も自分で書いてて怖いです!←苦笑
なので、エンタメとして読んで下さいね?
 
まあ、端的にいうと、自分で自分を淘汰しようとしていたんだと思います。
 
で、ここからが、ロマンチストでもある私の苦笑モンの展開が始まるんですが(笑)
 
(ええ、怖いんで、明るく書くバージョンに切り替えました。)
 
なんかですね、東京から帰ってきた途端、励まされたり、いい叱られ方をしたり、教示されたりし始めたんです。
 
さすがに、これなんだろう? と思って、正直、その場では失礼があってはいけませんから(何に対してだよ!)、礼を尽くして対応するんですけど、全部、判断保留にし始めたんです。
なにもかもを。
 
多分、薄々、なにかがいま私の元にやってきて、なんらかを強く伝えようとしている。というのを察知していたんだと思います。
しかも、おそらく数十人単位で。
 
・・・ほらーー、怖いでしょう? ね、怖いですよね?
私、途中でパートナーに、実は・・・、と話したら、必死で、そんなことはない!無い!なあーーい!って否定しまくってましたもん(笑)
 
HSPのみなさん、仲間のアカウントはこちらです!
でも怖いんでそういうメールは送ってこないで下さい。(きっぱり)
 
 
もーね、お祓いに行こうと密かに心に決めていたんですけどね。
なかなか都合が合わなくて行けないんですね、これが。
(それもホラー映画の展開的によくあるパターン)
 
しかもですねー、パートナーと一緒にダイニングでなんか立ち話していたら、テーブルに置いておいたスマホの音がなんか急に止まって、二人とも一瞬、黙ってチラッと見て何事もなかったかのように話したり、毎晩、なんらかが訪ねてきて愛を告白したりですね。
 
あっ!いま引きましたね。ドン引きしましたね?
ええ、私が一番、ドン引きしてました!
ちゃんと対応していましたけど。(それはもう怒鳴りつけて追い払ったりしたほうが良かったのでは?)
 
家鳴りもすごいし、うちマンションなのに。
受け取ってる励ましのメッセージの間に、ちょいちょい怖い感じの具体的なメッセージが入ってたりとかですねー!
 
私、なんか悪ふざけのターゲットにされてる?
誰か旅行中に部屋に何か仕掛けて面白がってる?
って考えたんですけど、誰もそんなお金のかかることなんかしないし。
 
もう、わけがわからなくてですね。
 
でも、一番、怖いのは、それを平然と受け取ったり、受け流したりして、対応し続けている自分だったんですよ!
 
多分、簡単にいうと、ノイローゼと多分、なんらかにガチで呼ばれていたんだと思うんですー!
(解釈は自由です。エンタメとして読んで下さい。あくまでもエンタメとして!)
 
で、最終的に、私、気をつけろ!気をつけろ!ってすっごい言われ始めたんです。
そのなんらか達に。(複数なのが、もう!(涙))
 
そして、生きなさい、生きなさいって、すっごい説得されはじめたんですよ。
 
え、いや、別に死ぬ気なんかさらさらないですけど?ってこっちはキョトンとしてるんですが。
とうとう、
お前はいま死の淵にいる。気をつけろバカ!
バカ!信じるな!信じるなバカ!ってすっごい言われて。
ていうか、もう最後は怒られて。
 
君の役割は再生だ。自分を助けろ!って言われたところで、これはもう、この不思議な、なんだかわかんない感激ストーリーに乗ろう、と思ったんです。
 
ここまで言われるなら、
とにかく、そうしようと思ったんです。
 
極めつけは、
来るな! 来んじゃねーよ!っていうのと、
お前なにやってんだよ、バカじゃねーのか。って気楽に立ち話してて(気にしないで下さい。極限状態でのなんらかとの会話のことです。ええ気にしないで下さい)、楽しくって窓辺で笑って話してる途中に、
「行くな!」
ってすっごい大きな声が聞こえて、それで一日、好きな音楽聴いてぼんやりしてて、少し眠って朝になって、今これを書いています。
 
・・・、なんかアレですよね。
 
もうちょっと綺麗な日本語で話せないのか、と(笑)
なんで、ここまで悪口雑言?
ていうか、なぜ、そこまでバカ連発?
とか、色々言いたいことはありますが。
 
私、多分、助けていただいたんだと思いますし、まあ言い方と見方を変えれば、自分の本能が、変な精神世界に入り込んでしまっていた自分の意識を呼び戻し続けて、それに成功したんだと思います。
 
びっくり。←それはびっくりするわ。
 
 
・・・私、何かプレゼントされていたんですよね。
 
なにか、おそらくは、本当は名前の無い大いなる存在、としか私には正直、認識できないものに。
 
目が覚めて、早朝、ベランダに出て晴れ渡った空を見上げた後、ダイニングに戻って。
 
お別れをちゃんと言いたかったのかな、とか、
ありがとうございましたって言いたかったのかな、とか、
なんでそんなことになったんですか、私、未だに全然納得できないですよ、とか。
 
そういうことを言いたかったのかなって頭で考えた後、
私、泣き崩れちゃって、
そして不意に口をついて出てきたのが、
「なんで助けに来んだよ・・・」
だったんです。
 
きっとね、とある、ヘンテコ極まりない物語を通過させられたんだと思います。
 
どうしてかわからないけれど、きっとそうだったんだと思います。
助けを二度と呼ばなくなっていたから。
 
 
きっと誰かが言うでしょう。
それは君、奇蹟というものだよ。
 
誰かはこう言うでしょう。
君は、メッセンジャーなんだろうね、多分ね。
 
ひょっとしたらこう言うかもしれない。
それは、なんだか凄まじい程の友情の物語に酷似しているね。
 
こうかもしれない。
それは、長い約束の始まりかもしれないな。
 
それから、みんなでしめし合わせたように、こう訊ねるでしょう。
 
・・・それで結局、君は誰にも助けを求めなかったの?
 
なので、あらかじめ、ここで答えておこうと思います。
 
 
さあ。
私が黙ってても、いっつも聞こえてる心当たりがドンピシャで来てくれたんで、
この世界一美しい物語の解答は、もういいじゃないですか。
 
だって私は生きてて、いまこれを書いているんだから。
 

 
無事、戻りました。ご心配をおかけしました。
 
「もう、大丈夫です」
 
 
 


 
  
 
 
 
 
 
 

2024/03/29

気になる言葉

あまりにも落ち込みすぎてて、本当によくありません。
 
なんか自分でもおかしいと思い始め、ちょっと対処をし始めました。
 
私、さっき何が怖いのかな、と思って、口に出して見てたんですね。
あまりこういうの良くないけど。
小さな声で。
で、結局、怖い、何かされる、でその後の言葉が出てこないんです。
それで、しばらく黙っていたら、なんか暗くて乱暴で残酷な言葉ばかりが想起してきて、それに取り囲まれているイメージがあるんです。
 
どうしてこんなこと思ってるのかな、とふと思ったときに、きっと私は、世界が(この世)が恐ろしいんだ。恐ろしくてたまらないんだ。と気がつきました。
 
で、この弱っているお彼岸のとき、
妙で不可思議な体験の中に、
「君が思っているほど世界は醜悪ではない。」
という言葉があったんです。
 
まあきっと、何かの本かなんかで読んだんだと思うんですけど。
 
私は、その言葉を真正面に据えたとき、ただ黙っているんですね。
その言葉自体と対話しようともしないし、「でもですね」とも言おうとしない。
本当かな? とまでもいかず、ただ黙って少し距離を取ってそれを眺めている。
 
どうしてかわからないんですけど。
 
たぶん、その言葉が私に無関係なんだ、というイメージの現れなんだと思うんです。
 
誰も、私にそのように世界を教えようともしないし、私自身も、その言葉が私に投げかけられていると思うのが、心底怖いんですね。
 
私は、いつ、いかなる時でも、良いメッセージを受け取ったなら、全力で帰そう! と決めたばかりだったんです。
実は、今朝。
 
で、「君が思っているほど世界は醜悪ではない。」
という言葉を目の前に置いたときに、それは私にとって良いメッセージじゃないんですよ。結局。
だから、距離をとってじっと眺めている。
問いかけ、ですらないんです。
思考を促すものでも無い。
 
これは中々、問題だな、と思いました。
 
私、いつも美しい景色とか、いろいろ好きなものをあげるくせに、いつも、この言葉を良いメッセージとして受け取っていないみたいなんです。
 
過去はもう過去として。
 
私、きっとこれから、「世界を愛するということ」を、それこそ死に物狂いで学ばなければならないんですよね。
 
「世界を愛しなさい。」というメッセージでもあるんですけれど。
 
これ、私、人に対してしか、しかもちょっぴりしか愛が出せなくて、そんな広くて大きいもの相手に、無いし、出せないと思ってるんです。
 
時々なにか突然、愛せる!って思えるときがあるんですけれど、すぐその後に、暗くて嘲るような言葉に取り囲まれてしまうんです。
 
で、そういう、多分ですけど、私に本当に必要なメッセージを受け取れないまま、何か、違うメッセージを受け取ってしまうんです。
 
「なぜ気がつかなかったのか」とか、
「どうしてできなかったのか」とか、
「全部うそだよ」とか、
「とか言って、お前を許すと思うのか」とか、
「もう何も言葉を発するな」とか、
「お前が悪いから仕方が無いんだよ」とか、
「○○しないから、お前のせいで、今の辛い状況から(ひっそりしています。精神的にです。)抜け出せないんだよ。」
とか、
「これは一生続く。なにやっても無駄」とか。
 
書き出してみるとわかるんですけど。
 
お前は一体、
どーしたんだよ! 
 
何がどーなって、
そんなこと考えちゃってんだよ! 
 
って、思いますよね?
当然です。
 
これ、私が、潜在的にも、無意識にも、
暗いメッセージしか受け取らないからなんです。
ここから出て行け、というメッセージしか、受け取ろうとしないんです。
 
良いメッセージを一時的に受け取って、反射的に私が知っている中で一番良いメッセージを返しても、後で、ああ、あれは揶揄われたんだ。バカにされてるんだ。かつがれたんだ。
そんなことあるわけないのに、分かってんのに、なんで私はすぐああやって良いメッセージを返して、返した自分を嘲笑うんだろう?
と思うんです。
 
それは、誰も私からの良いメッセージを受け取らないし、誰も、私の言うことなど聞きたくないし、理解したくも無い、が普通と思っているんです。
 
そう。
世界を愛さないどころか、世界と向き合っても、対峙しても、それ以前に、自分が世界に含まれてもいないんです。
 
どうしたんでしょうね?
 
ちょっと自分でもびっくりです。
 
しかもそのことに、この歳になるまで気がつかなかったんです。
 
とにかく、どうしたらいいかわからないから、
ここから始めようと思います。
 
私、いま気分的に、全然、前向きでもなんでもないんですけど。
こうして書き出すと、なんかけっこうヤバい所に立って居るみたいなんですけど。
 
これをまずどうにかするために、とりあえず今日の晩ご飯の肉を焼いてきます。
そして、Agust DのLife Goes Onを昨日から? とにかくずっと繰り返し聴いているんですけど、さらにずっと聴き続けて、最終的に顔がSUGAさんに似ちゃうまで、聴いてみようと思います。←大丈夫ですか?

そりゃ、心配されるわ!(何回聴いても似ないしね。)←いやそれじゃねーよ!!
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 

ご連絡

かなり精神的に参っていて、
気持ち悪くなっている文章や、
思い込みとしか思えない部分を削除しました。

 

2024/03/28

チューリップが満開です。

 

ピンクグラデーションのチューリップ 切り花


ちょっと強い写真になってしまってますが、これはこれでいいかなと思います。
 
このピンクグラデーションのチューリップは、名前がわからないんです。 
タキイネット通販で購入したんですけれど、やっぱり桃色種とだけしか購入履歴にありませんでした。
私が購入したのは、秋半ばくらいで、チューリップの球根特大20個セット 桃色種 です。

綺麗でしょう?
こういうアンティークな色味がとても好きなんです。
 
こちらは寄せ植えに仕込んでいて、3月半ば頃、開花し始めたはずです。
 
チューリップって背が高いので、寄せ植えとの高低差のバランスが悪くなりがちですよね。
それで愛読している植物本かサイト様かに、植えつけるときに底に近い位置にチューリップの球根、その上に花苗を植えておくとバランスが取れますよ、とありまして、さっそく真似しました。

最初芽吹いた時は、すごくチューリップが短くて、底の方に置きすぎたのかなと、しょんぼりしていたんですけれど、花を開かせながら上に伸びていって、現在は本当にちょうど良い高低差になっています。
 
私の住む街では数日温かい雨が降っていたらしく(作業に夢中で気がつかなかった)、その間に、開花していたチューリップが雨の透明な重さで折れたり、花びらが開きすぎたりしていたのを生けました。
 
同じくピンクグラデーションのチューリップ 切り花
 
あまりにアンティーク色の強いピンクなので、こうして開きすぎてしまっても、なんだかオブジェのように私には見えるので、部屋の中にひっそりと飾っています。
 
実は私、あまりチューリップが好きではなかったんです。
 
嫌い、まではいかないけれど、花季も短いだろうし、すぐ花びらがびろーん、となってしまって、部屋に飾ってもすぐ処分せねばならないから、手を出さなかったんですね。
 
でも、春先の素敵な名前を持つ小さな庭のことを考えたら、やっぱりチューリップがあったほうが、ぱっと明るくなると思いまして植えておいたら、想像以上の素敵な姿と色味で、来年もタキイネット通販でチューリップ球根争奪戦に参加しようと心に決めています。
 
本からの情報ですが。
おしゃれな球根や人気の種類は、だいたい秋に出回るんだそうです。
そこまでタイムトライアルに参加したことは無いんですけれど、もし球根やってみようと思われる方は、秋口の球根情報にご注意ください。
 
櫻・・・、は咲いたんでしょうか?←苦笑
(ここのところ作業と調べ物ばかりで時事がわかっていません)
 
私の住む街では、朝晩が去年より冷え込むような気がしています。
まだストーブが手放せません。
でも天気予報を見ると気温は例年通りとあるので、今年はあまり温暖化の影響を受けないのかな、とは思っています。
 
3月最終週、あちこちで春本番直前の胸が高鳴る季節が、柔らかい光をまとって移り変わっていく、短くも最高の数日間ですので、どうぞゆったりとお過ごし下さい。 




 
 
 
 
 

 

2024/03/24

お彼岸の庭・泣きたいときには大いに泣く。

 

ビオラ グラーデーションが出てきました。

 

日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
3月に入り、ベランダにある、素敵な名前を持つ小さな庭がなんだか活気づいて来ました。
 
私のコンディションが少しだけ落ち着いている時間が増え始めたので、なるたけ1日に1回は庭に出て、午後や早い夕方の時間を過ごしています。
 
でも実は全体的にはコンディションがなかなか安定せず、なんだか毎日涙を流しています。
それにお彼岸ということもあって、いつもよりさらにセンチメンタルになっています。
 
どうしてそこまで関わりのない方々(現実に)相手に、思い入れを強く持ってしまうのかというと、多分私は、彼岸に渡られた恩人というものを今まで持ったことが無かったからなんだと思うんです。
 
この間、教わったことなんですが。
とても後悔していて、申し訳なく思っていることで、現在ではどうにもできない場合、謝りたい気持ちを持ち続けているのは、 過去にお詫びに伺いたがっている、ということとして切り出されます。
 
そして、仮に過去にお詫びに伺うとしますよね。(細かいことは置いておいて)
 
でもそれって相手はどこにも居ないんだそうです。
いつ行っても、過去の相手はどこかに出かけている。
いつ行ってもです。
留守では無く、「相手は、いつもどこかに出かけている」ん
ですって。
 
「過去に詫びに行けたとして。
 自分が、過去にいる相手の所にいつ行っても、相手はいつもどこかに出かけている。」

なぜなんでしょう?
それは、現在から自分が過去に行くことが、現在から過去に出かけているように、過去のその人の元に行っても、その人は常にその人の現在にいるからです。
過去を基準にして考えると、「いつも現在に出かけている状態」なんですね。

お墓に伺っても、それはある意味、そこにあるのはその人の「現在」ではない。
 
当たり前といえば当たり前なんですけれど、過去に謝罪には伺えないし、過去に感謝しに伺えないんですって。
 
それはそうですよね。
当たり前のことなんですけれど、反省し続けてもその人に会うことはできないんですよね。
だから、私は教えていただいた言葉、
「(それ以上)反省しなくても良いから、一生恩に着なさい」という親切をとてもありがたく、胸に抱えさせていただいています。
 
 
ピンクのチューリップが綻んでいます。

何かで読んだわけでは無く、ある意味、お声をかけていただいて知った言葉なんですけれど。
きっとあまりに私がしょぼくれていて、見かねてのことだったんだと思います。
 
よく考えれば、この頃、食事を摂るのが煩わしくて、なんだか痩せるというよりけっこうやつれているので、少しでも元気出そうかな、とは思っていたんですけれど。
 
でもなんだか、無理に元気なふりをするより、部屋の中で思い切り泣いた方がいいや、と考えを切り替えて、変な話ですけれど、泣くに任せています。
 
 
アルバコエルレアオクラータが開花しました。
 
辛いときや落ち込んでいるとき、あまりに1人きりで落ち込みすぎてはいけないけれど、私はわりかし1人でひっそり悲しんでいたいタイプです。 
 
寂しいことや悲しいことって、過ぎると危険ですが、私は人にそういった感情を預けるよりは、1人でしっかり受け止めていたいんです。
 
昔、小説で読んだんですけれど、こういう状態の時ってなにかと不思議なことが起こったり、不可思議な体験があったりするんだそうです。

実は今年は、春のお彼岸に入ってから、私にもそういうことが頻発しているんですが、どれもきちんと礼を尽くして自分に従って対応しています。
 
きっと何年も経った後、あのときの時間は、弱っていたから、なんだか妙に都合のいいことが起こっていたんだな、とわかると、小説で読んで、そういうもんだと、もう知っているので、きちん、きちん、と対応して、窓を開けて換気したり、お香を焚いたり、神棚を掃除したり、そうやってひっそり1つずつやっていっています。
 
 
木香薔薇(白)の苗木
 
昔は、悲しいことを隠して明るいものばかり書いているつもりだったんですけれど、今回はもう元気なフリはやめようと思いました。
 
今更、心配かける相手もいないし、私の性分をご存じの方はご存じの方で、「ああ、きっとそういう風にするんだろうな」とそっとしておいて下さると分かっていますので。
 
時々、声をあげて泣いてしまう時がありますが(部屋で1人の時間に)、なんだ。いま自分は思い切り泣きたかったんだな、とわかって、むしろ良かったです。
 
なんだかずっと緊張して過ごしていたので、自分の悲しさをちゃんと悲しもうと思いました。
 
 
羽衣ジャスミンのつぼみ
 
さっきからしれっと、それは、つる性の植物では? というものの苗木が写っていますが(笑)
 
そうなんです。
つるを這わすのは、今年の秋冬前になりそうですけれど、素敵な名前を持つ庭の空中にも花を育てようと思っています。
空間で庭を見てみると、案外、小さなスペースがあるんですよね。
そこを有効利用してみようと計画中です。
 
 
美しいピンクグラデーションのチューリップとビオラ
 
私、今まで、悲しいとかこういう所で言って、読んで下さる方にそんなことをお伝えして、心配かけたりするのって本当に嫌いで、ずっと元気なフリばかりしていたんです。
 
でも、悲しいなら悲しいと言ったほうが、きっとそっちのほうがいいんだろうな、と思いました。
泣いているなら、泣いています。と言って、どう悲しみと付き合っているのか、どう涙を流しているのか、ちゃんと書いた方が、変な心配をかけなくて済むのでは無いかと思いました。
 
思いつめるタイプの方や、おひとりでいま過ごされている方にはおすすめはしませんが、私はパートナーが居ますし、思いつめそうになったら、至芸で笑わせて下さる方をはじめ、なんだかもったいないことに、気にかけて下さる方々が居て下さいます。
 
なら、悲しみながら、変な話ですけど、生活をゆっくり静かに動かしつつ、悲しい時間を過ごしています、と。
泣いていますが、それは確かにそうなんだけど、それでもやっぱり、へーきなんですよ、と、お伝えした方が、なんだか私らしいと思いました。
 
日曜版としては異例の、悲しみについて、涙についての話でしたが。
 
悲しいことはそう怖がらなくても良いのだ、ということがなんとなく分かってきましたので、今日はこのような話にしました。
 
悲しくないのに悲しまなくても、全然、大丈夫ですので(笑)、
お彼岸あけの春の日をどうか、穏やかに、ゆっくり楽しんで下さいね。
 
そろそろ櫻です。
確か、コノハナノサクヤビメ木花之佐久夜毘売)という櫻の神様が日本におられますね。
とても見目麗しい姫神様だったようで、櫻のなかにそんな永続を重ねてみるのも良いかもしれません。
 
ウィキペディア コノハナノサクヤビメ 
 
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごして下さい。
 
 
来年の春のお彼岸は、おはぎとちらし寿司を作ろうかななんて思います。
「いらねーよバカ!」と、さっそく天国から2トラックで言われそうですが(笑)
 
 
20240324 13:29 文章を補填し、いくつか直しました。
 
 
 
 
 
 

2024/03/21

竹むらの揚まんじゅう

 

名店 おしるこ 竹むら

 
池波正太郎のエッセイを読んで、
どうしても食べてみたかったのが、
甘味処の老舗 竹むらの揚まんじゅう(あげまんじゅう)。
 
けっこう長い間、お酒を控えていたんですけれど、去年頃?から少しずつ日常生活にお酒を戻すようになっています。
池波正太郎は、お酒も大好きな方でしたが、お酒の後に甘いものを好んだんだそうです。
中でも大好物だったのが、こちらの竹むらの揚まんじゅうです。
 
 
竹むら 揚まんじゅう お持ち帰り 6ヶ入り
 
こちらは、こし餡が入ったお饅頭を注文されてから揚げて下さいます。
そのため、通信販売はできません。
お持ち帰りも同様で、外に出て包みを触るとほの温かく、憧れの温度を感じられてとても嬉しかったです。
 
 
化粧箱はこのようになっています。

 
 
ホテルに帰って、持参したポットでお茶を入れて、大事に大事にその夜は2個にして、残りは明日の朝のお楽しみに取っておこうと思ったんですが、食べたら最後、あっという間に全部食べてしまいました。
 
揚げてあるのに、と思われるかもしれませんが、菜種油(なたねあぶら・菜の花から取れる油)を少し混ぜてある油で揚げられているようで(個人の感想です。違ったらごめんなさい)、さっぱりと風味が強すぎず弱すぎず、からり、と揚げてあって、とても美味しかったです。
 
お酒の後に甘いものですが、池波正太郎は揚まんじゅうを始め、江戸と東京がこしらえる甘味を酩酊の後楽しんだようで、実は私は、お酒の後にシフォンケーキと、コーヒーまたは紅茶派です。
 
好きなシフォンケーキは、やはり全体に、甘みはあっても甘さが強くなく、こっくりした質感が軽さで包まれているのが好きです。
 
2024年の現在はそうでもないかもしれませんが、俗に日本ではお酒を呑む人は、甘いものを好まないのが常である、とされてきました。
 
池波正太郎は、その中でも、やわらかく自分の嗜好をつらぬき、「そんなものは、(呑んだ後に)よせ」と言われていたそうですが、その景色すらも懐かしくはあっても、攻撃とも疎外とも思わず、ゆったりと個別の嗜好を楽しんで憚らなかった(はばからなかった)ことが、なんだか時を超えて、読者の私にむかって気軽に手を振っていただいたようで、紙面越しにじんわり嬉しかったです。
 
お店の中でも楽しむことがもちろんできます。
私達が伺ったときは、老若男女、静かに、和やかに、美味しいものを楽しんでおられましたよ。
 
確か、現金決済ですので、事前に調べられて行かれることをお薦めします。
クリームソーダ、トコロテン、粟ぜんざい、みつ豆の見本が、店内のレジの下に並んでいて、別途メニューもありました。
 
 
お店の外に椿が咲いていました。(2月訪問時)

 
そんなに、いつも名店ばかりを巡っておりませんが、今回の東京旅行では、短い滞在期間の間、美味しいお店ばかりに伺えて、美味しいものを自分のタイミングで食べるって大事だな、と思いました。
 
あと東京のお店や街は、どこもとにかく清潔にきちっとしています。
すっきりと片付けてあり、さっぱりと客を迎えます。
 
色々な考え方があると思いますが、私は、客としてそういった環境を維持されている、硬質な価値観の豊かさが、東京の気風(きっぷ)のさすがを感じ、とても気持ち良かったです。
 
美味しい美味しいビーフカツレツのことは、また機会を作って、書きますね。
食べログの感想で、地球で一番美味しいビーフカツレツだと思っています。とあり、私も同意見です。


以上、竹むらの揚まんじゅう、でした。


 
 
 

 
 
 

2024/03/20

暮らしの違い・本日の雑感

 

好物の焼きプリン

 

絵本作家であり、世界中で愛された「ターシャの庭」を作られたターシャ・テューダーさんのことを、ひとつ前の投稿で触れましたが、今、さらにお名前を違って表記していたので、こっそり直した後、これを書いています。(ターシャさん、ごめんなさい。)

 

いま、強いものに触れることが出来ませんので、ターシャさんに関する情報も薄めをあけて調べていました。

調べようと思ったきっかけは、私とはスタイルは違うけれど、本当に素晴らしくて繊細さと自然への受容溢れる庭のことを知りたいな、という気持ちと、こちらのターシャさんの人となりを語る文に魅せられたからです。


頑なに古い暮らしを守っていた人のように思われていますが、ターシャは私たちの想像以上に、柔軟に現在の生活と合理的に融合していました。

電気が通れば洗濯機や冷蔵庫は取り入れ、ニューハンプシャーでは照明も電灯でした。なんと、車も80歳まで運転していたそうです。

でも、ろうそくの光がとても好きだったので、電気が通った後も、電気スタンドをいくつか使っただけで、部屋の照明にはろうそくを使っていたようです。

このように、ターシャは、電気や水道等、近代設備はもちろん使用していましたが、最小限に留め、暖炉とベッドとロッキングチェアー、薪オーブンがある昔ながらの生活を好み、豊かに暮らしてました。

 

LOVE GREEN

ターシャ・テューダーが過ごした「輝きの庭」と憧れのスローライフ より

 

かねてから思っていることに、自分なりの暮らしを守っている人達への「誤解」のことがあります。
 
私は、自分の暮らしている環境を維持するために、C級ではありますが、けっこう長く、暮らしというものを運転しています。
その中で、私も若干、アンティークなもの、古くさいもの、の雰囲気が好きなので、自分が実行できる範囲で取り入れているんですが、
当たり前ですけれど、電子レンジもレンチンパスタもレトルトも、ガンガン利用しています。
 
なので、少し古い生活を好む人、穏やかさを快適とする人達への勝手なイメージを、新しいものをすべて否定したり、便利を憎み、非効率こそが人間本来の姿である、という考えに取り込もうとするのは、とてもズレていると思います。
 
自分のスタイルに合わないものを暮らしの中に取り入れない、というのは、ただ単に、日常の中で生活面での選択をしているだけ、なんですね。
 
だから、すごく寒いのに暖房を使わないとか、自分にとっての実用外の謎ルールに縛られて、無理をしながら受け入れない暮らしをしているんじゃないんです。
そうなんだと思うんです。
 
アレルギーとか、色々な事情で、飲む薬を変えることはしていても、病気になれば当然医師に掛かり、処方された薬を飲む現代生活が、まず基本にあり、その生活を便利である、と切り出して罪悪感を持たせるのは、本当の意味で、暮らしというもののリアルを知らない人がやることだと、私はひっそり思っています。
 
なので、ターシャさんが単にろうそくの灯りが好きだったから蝋燭を取り入れ(確か手作りされてましたよね?)、同時にスタンドで電気の光を部屋の中に置いていたことを知って、私の言葉で言うと、
自分を攻撃しない光、空間、ファブリック選びをしていただけなんだろうな、と、ターシャさんの静かな暮らしを、2024年の感覚でも捉えることが出来て、暮らしの中で常々思っていたことに赤ペンで○をつけていただいたような気持ちになりました。

暮らし・生活って、合理的で柔軟でないと、回せないんです。

そこに回している人、関わっているその時々の人、季節ごとの感性に、星の数ほど選択がある。

それが哲学なのか、思想なのかは、
触れた人と瞬間的に融合してその人が感じた化学反応なので、
スロウライフを取り入れている人をいちいち揶揄することも、
精神性を重視したインテリアをそろえている人を嗤うことも、
私のようにラクチンてきとーライフを送っている人を怒ることも、
その核にある、
「暮らすには、合理的で柔軟であることが、まず必要」
 という部分をしっかりわかって居れば、
そんなトンチンカンなことはなくなるのでは無いかな、と思いました。
 
わからないことは、決していけないことでは無いですし、大いに間違うことは、私個人としてはとても良いことだと思います。(シャレにならないことではない範囲で)
 
ただ、分からないのに、分からないかもしれないという自分を微塵も疑わず、人を否定したりジャッジしたりするって、すごく危険だし、なにより大きなお世話だし、正直、傲慢ですよね。
 
分かってないからそんなこと言えるし、できるんでしょう?
人に大きなお世話をしようとする前に、
少しくらい自分を疑ってみたらどうなんですか?
 
と、私は狭量なので、ついこっそりムカついたりしています。
いいですけどね。
立派な人になりたいワケじゃ、全然無いから。←大昔、なんらか自分の中であった模様。
 
「『立派な人になりなさい。』
 そう言うアナタがなりなさい。」
 
昔、好きだったポップスの歌詞です。
 
ホント、そうだよね! ←励まされた過去が甦っている模様。

 
20240324 1:18 文章を直しました。
 
20240324 1:44 大昔、立派な人になれないし、どうしてもなろうとしない自分を責めていた若者時代を思い出したので、誤解を招かないように文章を追加しました。
・・・なぜそんなことを考えていたんでしょう?(笑) (若者ってそういうもんだから)

 
 
 

 

 


春一番とクレマチスがよくわからない、良い魔法

 

クレマチス ピンク・パッションの新芽

 
クレマチスも無事、冬越えができました。
 
・・・、クレマチスも育てています。←(笑)
 
写真は、風があってピントがうまく取れず、処理で誤魔化しています。
これは悪い例です。撮り直すのが一番の良策です。 
 
薔薇はけっこうがんばって情報をアップデートし続け、どうにかこうにかビギナー2年目なんですけれど。
 
私は正直、 
クレマチスというものが、
よく分かりません(笑) 
 
何回読んでも、頭に入ってこないんですよ。(興味が無いのでは?)
いや、あるんですよ。ちゃんと、興味はあります。
ただ、クレマチス界の大まかな体系って、なんだか全然馴染みが無くて、繰り返し読んで、そのときは一応、頭に入っているみたいなんですが、すぐわからなくなるんです。
(それは理解をしていないということ)
 
で、もう全体を把握しようとするのを止めて、とにかく我が家のクレマチスに集中しようと思いまして、
とりあえず私の小さな庭にあるのは、新旧両枝咲きのクレマチスである、と認識して、後はあまり考えないようにしようと思います。
 
馴染みの無い方は、し・新旧両枝咲き? と戸惑われると思いますが。
私もずっと戸惑っています!(笑)
 
枝は一本なんですよ。蔓ですけれど。
で、新旧で両枝なので、よくわかんない両枝は置いておいて、たぶん古い、前回伸びた蔓からも花が咲くタイプ、なんだろうと、思うことにしました。←勝手
 
新と旧???
前に花が咲いた茎や蔓からは、花は咲かないものなんですか?
とさらに混乱されると思いますが。
そういう種類の薔薇もあります。←クレマチスの話をしていたのでは?
 
ね? わからないでしょう?
よくわからないんですよ。クレマチスって。
 
しかもですね、花が終わったら剪定するのが、わりかし植物ではお馴染みなんですけれど。
クレマチスは、いくつか体系の中の種類によって、
剪定する場所が違うそうなんです。
 
ね? わからないでしょう?(2回目)
で、ですねー、もうよく分からないから、
とにかくウチのクレマチスってピンク・パッションって名前だから、
「ピンク・パッションは、どこでもピンク・パッションの気分次第で、好きな場所に花をつけるものである。」
で、それ以上考えるのを止めて、もう全体を理解しようとするのを止めようと思います。
(そんなに理解が追いつかないのに、なぜ育てようと思ったのか)
 
いや、クレマチスが欲しかったんですよ。
けっこう長い間、クレマチスを育ててみたい、と思いながら生きていて(壮大)、あれこれ植木を購入している時に、
そうだ、クレマチス育てよう。
と気がついて、ひとつ購入したのが、ピンク・パッションです。

櫻色だし、なんかダリアにも似ているし、春から秋にずっと花をつけるらしいし、ウチのベランダに蝶を呼んでくれるので、遠巻きに首を傾げながら、おそるおそる雑に育てています。(細かく育てようにもやり方がわからないので、結局雑な育て方に・・・)


クレマチスって私にはとても神秘的に見えるんです。
なんだか、どこか妖しさを秘めていて、とても洗練された魅力があります。
植物ってどれもちょっと怖い面があるように私は思っていて、それが美しく形を持った存在として、クレマチスはそこの一番打者のように感じるんですね。
 
たくさん種類があって、なんだかすごく通好みの形のものもあるようで、正直、これがベランダに咲いていたら怖いな・・・、というデザイン(と言ってもいいと思います)のものもたくさんあります。
 
薔薇もそうで、私は、実は赤い、よくお馴染みの、先の尖った薔薇で大輪のものは、なんだかよく見るとその中に顔がついているように思えて、怖いんですね。
(アンタの想像のほうが怖いよ!)
 
背中を向けてるとうっかり喰われそうと思えたり。(それ、なんてリトルショップインホラーズ?) 

大きすぎるのが原因だと思うんです。
・・・、育てている方ごめんなさい。(いま気がつきました)
 
多分ですね、私の中に花の大きさに対する先入感があるんだと思うんです。固定観念ともいえます。
 
それ以上、大きいと、意識では、これも花で、ダイナミックで、とても美しいと分かっているんですけれど、なんかもう知能を持っているように見えてしまうんです。
どこか、植物って肉感的だからではないでしょうか?
 
・・・フォローじゃないですよ?(そう書くから、フォローじゃなくなるのでは?)←そもそもフォローになっていないような。

なので、逆に、小さめの花が怖いかたもおられると思うんですよね。
 
慣れの問題かもしれません。(きっとそう)
 
今日、私の住む街では、春一番が吹いているようです。
天気アプリのマークばかりで、詳細を読んでいないので、二番とか三番かもしれませんが。
春の風が吹くと、語感で、私は「西の魔女が死んだ」という本のタイトルを思い出します。
 
名作と名高いこの本はまだ未読です。
本屋さんにいる体(てい)での予感で、これはもっと後になって私は読んだ方がいいと決めている本です。
タイトルだけでずっと、このような物語なんだろうな、と色々想像しているんですけれど。(本買えない人あるある)

きっと西の魔女はいわゆる良い魔女で、よくイメージされている大鍋をぐつぐつ煮込んでいるのではなくて、不可思議と不思議の現実を、きちんと暮らしているのではないだろうか。と私は期待に胸を大きく膨らませています。

この頃、やっとお名前がわかったんですけれど。
ターシャ・テューダーさんという、絵本作家で素晴らしいガーデナーさんがおられたんですね。
 
随分前にテレビでその暮らしの断片を見かけたとき(CM?)、この方は良い魔女なんだな、と贈り物のような、暮らしを生きるその偉大な姿に、大好きになってしまったことがあります。
 
魔女というと、私の住んでいる東洋とは違って、世界ではよくないイメージの言葉のようですが。
勿論、この方を貶めているのでは当然なく、「良い魔法使い」、何らか、「とても大きく豊かなところからの報せ」のような感覚で、「白い魔女」「良い魔法使い」という暮らしの知性という印象をずっと持っています。
 
その後、色々な時間を経過して、私がベランダに小さな庭を作ろうと思ったのは、少しお見かけしただけのターシャ・テューダーさんの影響が、胸の内に沈み、静かな影響を発芽させたのかもしれません。
 
これは良い魔法、と言っていいと思いますし、私はどこかでそうだろうな、と信じています。
 
もしかしたら、良いもののうち、こういった静かで確かなものほど、浸透し、大きな影響を及ぼすには、とてもゆっくりな長い時間がかかるのかもしれません。 


 
このところ、不規則な状態の影響で、更新が、できるとき更新、やろうと思ったとき更新になっていましたが、また、意識的に無理せずに、お昼1時更新に戻そうと思います。
 
以上、 春一番とクレマチスがよくわからない、良い魔法、でした。
 
そろそろ列島でも櫻が開花し始めますね。
櫻の季節にいつも聴いたり、その年は聴く機会がなくても、ずっと心の中にある楽曲があります。
 
歌詞がとても好きです。
 
みなさんにとって、
丘の上で自分に手を振っている人はどなたですか?
 
私は昔、はじめてこの曲を聴いたとき、丘の上に居るのは、それは、誰でも無い誰かでした。
いまは、声に出しても出さなくても、どこに居ても、
また会おう、と言ってくださる方々です。

いつか会えるのだろうか、と、
もし心許なく思われているのであれば、
時間が掛かりすぎても、私でさえも巡り会えました。
 
だから、必ず会えます。 

まだ見ぬ約束は、確実に存在します。

 
きっと春一番の日に。
エナメル 20240320 12:53







20240320 21:31ターシャさんのお名前を誤表記しておりました。訂正してお詫び申し上げます。