休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)
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2024/05/11

キリストの足を髪で洗った女


 
イエス・キリストの逸話は、実はきちんと時系列で頭に入っていません。
 
キリストの逸話が多く残されている当時の社会状況を鑑みようとしても、いまの私ではその頃の事情が分かりませんので、2024年まで日本という宗教観が独自の場所で生きていた自分の来し方の範囲での解釈と、前置きさせていただきますが。
 
私はその中でも、マグダラのマリアの逸話が強く胸に焼きついています。
凄まじいまでの献身を、この逸話に感じるからです。
 
また、奇縁とでも申しましょうか、私が好きだからそういった糸をたぐり寄せるんでしょうけど、そうと知らずにマグダラのマリアを洗礼名に持つ方と、けっこう仲良くしてたこともあるんですね。
 
授業で習った範囲での古代史からの情報に照らし合わせてこの逸話を捉えてみると、足を髪で洗う場合、それは水ではなく香油で洗います。
 
ここに出てくる香油は、現代では、良い香り付きのヘアオイル兼ボディオイルのことを指していると、私は捉えています。
 
できる限り足を水で洗うよりもきれいにしたい気持ちが表している心理は、香油というものが、マグダラのマリアその人が持っていた中で、”1番、美しいものだったのではないか”と、私は解釈しています。
 
もし敬意が、手に取ることができるものだった場合、何を自分から差し出せるかと考えると、とにかくもっとも自分の意識の中で尊いものを洗うのですから、洗うという行為の中に敬意を点在させて、相手への尊敬を表現しなければなりません。
 
みなさんだったら、どうされるでしょう。
 
自分が持っているものの中で、もっとも美しいもので、相手への敬意を洗う場合、私も、多くの方々も、おそらくマグダラのマリアと同じ選択をするのではないでしょうか。
 
”もっとも美しいもの”とは何かを考えてみると。
それは自分が持っている1番値打ちがあるものではなく、自分が持っているもので、自分を確実に美しくしてくれるものだと思うんですよね。
 
私の発想では、それは化粧品です。
その当時の女性は、香油をつけた髪をくしけずり、自分の頭髪に艶と香りを与えていました。
 
それは身だしなみを整えて外に出ること(人に合うこと)は、社会的にも、自分の清浄を見せ、価値観の社会インフラに参加する資格(この場合は意思)を持っている、社会側からその意思があると認識される行動でもあります。
同時に、自分が対峙する世界というものに向けてのリスペクトを示し、他者を説得する行為だったんです。
 
大切なお客様が来るとき、部屋をまずは掃除するでしょう?
文化価値観は星の数ほどあれ、あまり汚泥をさらに強調して相手を迎える気持ちはないはずです。
 
自分を客とした場合も、世界というドアの前に立ち、中に入りその社会に参加する訪問者であれば、自分を綺麗にしてそこに行くのは、自分をその世界に招いた相手に対する礼儀の気持ちと、自分がいま手をかけているドアの向こうに広がる、相手の世界への敬意を表現するものです。
 
もし敬意を手に取ることが出来た場合、いったい何でそれを洗うのか。
 
自らを必ず美しくしてくれ、その清浄の表現ができる、化粧品という美のツールでそれを洗う選択も、また当たり前の行動になります。
 
そして自分の中で1番、敬意を払われる場所にある頭髪、で、敬意を洗うことは、非常に精神的な行為だとも言えます。
 
裸足で道を歩いてきたイエスの足の泥を、自身の髪で拭い、香油をつけて清潔にするんです。
 
”もっとも良いもの”で、もっとも崇高な(マグダラのマリアにとって)イエスキリストの足を、自身の中で1番美しくしている部分で洗うんですね。
 
この説話は、一部の研究では、非常にセクシャルな描写として解釈されていますが、私は、ものすごく清潔なマグダラのマリアの高い精神性を表現していると感じています。
 
エロティシズムの暗喩であれば、肌だと思うんです。
肌を使って拭うはずなんです。泥を。
 
ですが、説話では、切った髪で洗うのではなく、維持したままの頭髪で拭うんです。
そこにイエスキリストの足の汚れと同化したいまでの、強い崇敬を感じます。
 
私は、おそらくマグダラのマリアは、本当にイエスキリストの足を拭って、キリストの足の泥と同化したかったんだと思っています。
 
過去に私が図書館で触れた文献では、マグダラのマリアは娼婦だったのではないか? とされている解釈が記憶に残っています。
ただの妖婦だったとか、それもなんとなくあります。
 
そこからわかることは、
とにかく、その女性は聖女ではなかったんです。
 
聖女ではない女性が、自分のような卑しく汚泥にみちた者は、イエスキリストに直接触れることも許されないと考えており、自らの髪で、自らの不浄の赦しを乞うた、のだろうと思います。
 
そしてその赦しを乞うこと自体が、それすらも罪であるという、とても厳しい内省の行為が、自分の髪でイエスキリストの足を洗うという行為に現れたのではないでしょうか。
 
なぜそこまでの内省を、マグダラのマリアは持っていたんでしょうか。
 
マグダラのマリアが、キリストの足についていた汚れと自分を同化してまで赦されたかった事って、たぶん、救われたい自分への自罰だったんでしょうね。
 
マグダラのマリアはセックスワーカーだったとも、セックスワーカーを象徴する当時の賤業に就いていたともされています。
 
賤業とはなんでしょう。
売ることをあさましいとされている、ありとあらゆるものです。
 
愛、性交、クリエイティブ、遺骸から取出し再生させたもの、天から享受されていると言われ、畏怖とともに世に放たれ続けるもの、外界からやってくる訪問者達がもたらす、新しくて、世界のすべてを変えてしまうもの。
  
私は、マグダラのマリアは、卑しさという社会的ビジョンの体現者としても描かれていると深読みしています。
 
マグダラのマリアは、己が決して救われてはならないと、それを望むことすら悪とされている価値観と経済の社会構造の中に居ながら、そこから抜け出せない自身の宿命を、その体躯で売っていました。
 
価値のない自分が、社会で1番価値のないものを売りながら、自分をかろうじて生かしている。
 
簡単に想像しても、その世界には自己を肯定するものの一切がなかったでしょうね。
 
マグダラのマリアは、キリストの足についていた汚れを自分の髪に宿す事で、やっと自分の価値を認められたんじゃないでしょうか。
 
そして奇妙な奇蹟をそこに存在させた。
 
罪人とされてしまったもっとも聖なる存在の足の汚れを、この世でもっとも汚れていると信じている自分自身で洗うことで、相手に焼きつけられた罪を相殺してしまったんでしょうね。
 
そして、そうであっても、それは香油で落ちる汚れですから、キリストの泥と同化しても、それは永遠ではない。
 
永遠などやってこない自分が、思わず駆け寄り敬意を払わずにおられなかった相手に、本当の意味で祈りを知らない自分が、奇蹟を起こす祈りを起動させた。
 
マグダラのマリアは、自分に救いがやって来ないことぐらい知っていたんです。
 
そんなことくらいわかっていたはずなんです。
娼婦でしたから。
 
自身が存在していること自体が罪である構造に生きる、原罪そのものの自分が、一体どうしたら、聖なるものしか立ち入れない、この「聖体拝受の聖堂」に入れるのか。
 
それは、祈りしかなかったんじゃないかと考えます。
しかも祈り方も、祈りの言葉も、よくは知らない層だったのではないでしょうか。
 
彼女は、「聖体拝受の聖堂」にやってきた訪問者だったんです。
 
香油をつかって足を髪で洗うという、行為そのものが、マグダラのマリアにとっての祈りの動作だったんだと思うんです。
 
マグダラのマリアはおそらく、ただの女として祈ったんでしょうね。
 
「どうかこの人の罪を私に拭わせて下さい。」
 
ただ、それだけだったんです。
だから、なけなしの香油と自分の持つ髪で、キリストの足を洗った。
 
その行為は、マグダラのマリアにしかできない祈りだったし、聖なる者しか救われないとされていた、裁きの聖堂のドアを叩く行為だったんでしょうね。
 
これって、マグダラのマリアにしか出来ないことですけど、他の人でも真似できる。
マグダラのマリアの視点を想像すると、もっとも穢れているのは自分です。
けれど、多くの市井の人々も、穢れを持たないものはいない。
 
そして、もっとも穢れているものが敬意の表現として、無知の祈りを始めるのは、マグダラのマリアにしかできない。
香油を使って、キリストの足を髪で洗うというのは、最初の祈りだったんですよね。
 
彼女は、キリストへの祈り方のルールを変えてみせたんです。
思わずやった行為で、そこに曇りひとつない心を示したんです。
ありったけの崇敬を捧ぐ自ら、というものを。
 
私は、マグダラのマリアは、ゲームチェンジャーだったんだと思います。
 
だから、私は、とてもマグダラのマリアに惹かれるんだと思います。
 
それとこれは私見というか、もう私発信のフィクションになってしまっているとご了承いただいた上で、先を続けますが。
 
人々が娼婦に石を投げるのを見て、イエスキリストは磔にされる前に、「罪を犯したことがない者だけが、この者に石を投げよ」と、その娼婦を助けたという逸話が別にあります。
 
おそらく、マグダラのマリアは、石を投げられていた娼婦と同一人物か、同じコミュニティの人間だったんだと思います。
確か、二通りの説を私が読んだことがあるか、そう思っているかです。記憶違いでしたら申し訳ありません。
 
私はこの二通りの説の中で、マグダラのマリアは、石を投げられていた娼婦と同一コミュニティの人物説を支持していて、身内を助けた恩人に向かって、ただまっすぐであったマグダラのマリアの熱い気持ちが、とてもキリストを巡る女性の説話の中で、とても人間じみていると思います。
 
リアルですらある。
 
マグダラのマリアって洗礼名では、「マリア・マグダライア」という発音なんだそうです。
 
私は、彼女の髪は、長く、美しい黒髪であったのだろう、となぜだか思います。
 
その洗礼名を持つ人は、確か、薄茶色の美しい長い髪の持ち主でした。
なのに私はどうしても、マグダラのマリアは、豊かな長い黒髪でキリストの足を香油で洗い、もっとも美しく、人間にできる全部での崇敬の心で、再びキリストに洗礼を行い、同時に、自らも洗礼を受けたのだと、想像しています。
 
マグダラのマリアには名前がありません。
 
当時の社会でも、名を持つものは少数か、ごく限られた存在で、多くの人々は呼び名しかなかったのではないでしょうか。
マグダラのマリアも、マグダラにいるマリア。またはマグダラに住むマリア、という呼び名を持っているだけです。
 
名もなき者が、キリストの足についた罪を拭い、知らず知らずにキリストの罪と自分の罪という穢れを相殺して、キリストをもう一度、洗礼してみせた。
新たな名を与える洗礼ではなく、穢れをゼロにする洗礼です。
 
マグダラのマリアは、おそらく文字を知りません。
だから名前を与えることはできなかった。
きっとキリストの名を書くこともできなかったでしょう。
 
彼女は自分が何をやったかもわかっていない上、きっとキリストのそばに駆け寄った自分が抱いて居た、自分の中の敬意が本当はなんであったかを、本能でよく知っていたんじゃないですかね。
 
それはよくある、誰もが知るとされているもの。
そして過去に、聖堂では不浄とされていたもの。
 
彼女は、それをキリストに教えたんでしょうか。
教わったんでしょうか。
彼女は、それがいったいなんであるか、本当に理解していたんでしょうか。
 
私見ながら、
史上初のゲームチェンジャーが、ジーザス・クライスト・スーパー・スターの罪を消した。
それをやってのけたのは、名前のない女だった。
 
彼女には、たぶん、名前なんていらなかったんじゃないかな、なんて私は思います。
 
キリストの足を髪で洗った結果として、聖人しか入れない聖堂を、彼女は全世界に拡大してみせました。
 
境界も名前も資格も価値もいらない、この世のすべてに、祈り方を知らぬとも、救済と救済を受ける資格があるという証明、市井の誰もがそれが実行可能であることを、高らかに実現した。
 
実現された後は、聖堂にも、罪を代わりに背負った者にも、罪を体現させられ続けていた者にも、個別の識別など必要ありません。
識別のための名前がいらなくなった世界が、突然、マグダラのマリアによって発明された。
 
彼女はそれほどの世知の賢者だったのでしょうか。
可能性の愚者、フールだったのでしょうか。
市井の者に身をやつした天使だったのでしょうか。
 
私は、そうは思いません。
マグダラのマリアは、きっとただの女だったのでしょう。
  
『ただそこにいて、めぐり逢ったから、足を髪で洗っただけ。』
 
そう思っていたのではないでしょうか。
 
ーーーそして、
本当は、思わずそうしてしまった彼女の気持ちが、きっと誰よりもわかったから、その人は、市井のものには到底無理な、とんでもない奇蹟を起こし、彼女の手柄にしてみせたのではないでしょうか。
 
なんにせよ、
 
キリストの足を髪で洗った女は、マグダラのマリアという呼称でこの再生と赦しの説話に記述されるのみで、彼女の正確な名も、彼女に名前があったのかどうかについての記述も、最初の物語には登場しません。
 
よい1日を。
 
マリア・マグダライアの1人に捧ぐ。
 
 

 

 
 
追記
 
以前、私はクリエイター達に向かってこのブログ上で怒りをぶつけました。
 
宛先は、無理解と意図的な誤解をわざと喧伝する悪意に向けてでした。
 
悪意以外の、クリエイティビティー全部とクリエイションの申し子である方々全員に、本稿の追記をもちまして、足りない言葉を補わせていただき、不快な気持ちにさせてしまった時間をお詫びいたします。
変わらぬ敬意を込めて。
 
20240511 10:14 エナメルと現在名乗っているバカ女より。
 
 
20240511 22:06 誤字や文章を直しました。
20240512 15:32 誤用を直しました。
 
 
 
 
 
 

2024/05/09

薔薇の名は、レイニー・ブルー

 

レイニー・ブルー

信用している人に、
「誰かのイメージで薔薇を育てるの、それやめろ!」 
と言われて、
「・・・はーい。」と軽くふてくされながらも、
まあ、確かにそーですね。と思ったんです。
なので、大っぴらに言えませんが、ARMYさん達の薔薇でもあります。
 
薔薇でもあります、と書いたのは、これを購入した頃、もうこちらのジャンルを離れようとなんとなく決めていたからなんです。
結局、ファンフィクションを作ってから正式に離脱することにしたので、それはまだ先ではあるんですが。
 
ベランダの素敵な名前を持つ小さな庭に、雨の要素をどうしても入れたくて、それでレイニー・ブルーという名前に惹かれて購入しました。
つる薔薇だしな、と躊躇する気持ちはあったんですが、 雨といえばやはりブルウですので、庭にいつもブルウの雨が降っている一角を作りたくて育てています。
 
実際、もう少し大きいのかな、と思っていたら、小ぶりの八重桜を思わせる薔薇で、私は咲き始めの姿が好きです。
 
 
レイニー・ブルー全景
 
こちらのレイニー・ブルーも非常に美しい薔薇でして、咲き始めはこうして写真に撮ると、オブジェのような、モダンさと上品さが混ざったアーティスティックな姿になります。
 

レイニー・ブルー遠景  

開ききるとこんな感じです。
レイニー・ブルーの1番花は、1日で開ききりました。
 
こういう八重桜を思わせる、ティッシュで作った花のような姿の薔薇を育てるのは初めてで、もっと可愛らしい雰囲気になるのかと思っていたら、アジア風のエキゾチックさがあり、購入して良かったです。
 
ご覧のように、気品あふれる紫色を持つ薔薇ですが、これは青薔薇です。
なので、レイニー・ブルーという、なんともしっとりとした雰囲気の名が冠されています。
 
これは私の勝手な想像ですが。
この薔薇を開発した方は、雨の日に蒼く染まる世界がお好きだったかもしれません。
 
素敵な名前を持つ小さな庭に、雨を呼べて、満足しています。
 
以上、薔薇の名は、レイニー・ブルー、でした。
 
 

おまけ 開ききったピエール・ドゥ・ロンサール

 
 20240509 09:30 文章を直しました。

 
 

2024/05/06

素敵な名前を持つ小さな庭:五月雨

 
雨の中のブラウン・シュガー

連休最終日、私の住む街は、朝から明るい雨が降っていました。
 
2輪ともブラウン・シュガー

朝早くに目が覚め、呼ばれたような気がして素敵な名前を持つ庭に出ると、温かい五月の雨がとても静かな中、降っていました。
 
ブラウン・シュガーもそうですけれど、こっちベクトルの薔薇は、その時の最高気温、最低気温で赤系の色の出かたが違うんだそうです。
 
このブラウンシュガーは、昨年の秋に開花していた記憶があるのですが。そのときはもっと茜色に近かったように思います。
ですが、素敵な名前の小さな庭で晩秋・冬・春を過ごした後、このように強い赤みを持った花が開きました。
前回の冬は、比較的暖かったような思い出があります。
つまり温かいと赤みが強く出るのが、ブラウンシュガーなのかもしれません。


雨のピエール・ドゥ・ロンサール

今朝の雨は、少し琥珀がかった色の光を持っていたので、少し淡く色が乗っていますが、明るい雨の日のなんともやわらかい光を残しておきたくて、補正で全部消さないでおきました。
私の小さな庭で花開いたピエール・ドゥ・ロンサールが甘受する天上からの”さいわひ”が、素敵なものであるといいのだけれど。
 

雨のビオラ

素敵な名前の小さな庭の冬と春を彩ってくれたビオラの寄植えもそろそろシーズンの終わりを迎えています。
少し4月は家の中のことに夢中になっていたため、あまり剪定や花がら摘みを行えませんでした。
そのせいでかなり徒長してしまい、全体が下の土が見えるほど倒れて咲いていたんですね。
 
それで考えた挙げ句、麻ひもで周りを囲んで軽く結わえて束ねて、茎が伸びたまま生育させています。
 
遠くから見ると、少しだけイングリッシュ・ガーデンの風情があって、なかなかお気に入りです。 
 

雨のピンクパッション(クレマチス)

我が家の巨大なクレマチスはいまちょうど盛りで、次々に大きな蕾が立ち上がり、美しく爛熳です。
 
クレマチスってどうしてこうも惹かれるのかな、と思うと、どこか神秘的なんですよね。
メッセージに象がもしあれば、クレマチスの形で花開くのかな、と思います。
 
 
雨の中のピンクパッション


 
 
私、ピンクパッションがこんなに充実して咲いて、なんだか園芸やってて良かったな、としみじみと熱い心が自分の中にも存在しているのを感じています。 
 
どうしてかわからないんですけれど。
この部屋に来たときに、庭を作ろう、と、どこかで決めていたようにいまでは思います。
 
この部屋のベランダは、とても嫌な記憶がある場所で、最初は植木を置き始めたとき、ものすごくナーバスになったりしていたんですが、ご近所の方々の寛容な沈黙に支えられて、少しずつ充実してきました。
 
シンボルツリーも植えて、せめて近隣の方々の窓から、あの庭は今日はどうだろう? という潤いを提供できないだろうか、という気持ちもありました。
でも毎日カーテンを開けて、庭の様子を無心で眺めているのは、やはり私なんですよね。 

きっと私は、ずっと自分だけの庭が欲しかったんですね。

良かったです。
園芸という趣味を持てて。
 
 
以上、 素敵な名前を持つ小さな庭:五月雨、でした。



20240508 21:48 誤字を直しました。

 
 

2024/05/05

薔薇の名は、ピエール・ドゥ・ロンサール

 

ピエール・ドゥ・ロンサール


 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
 
ゴールデンウイーク半ばです。
 
暑いですね。
私の住む街では、昨日ぐらいから日中の最高気温が上がりエアコンをつけました。
 
いきなり鮮やかな初夏が始まり、少々面食らっているので、なんだか1日コーヒーが飲みたくて仕方がなかったですし、夜はコンビニエンスストアでビールを買ってきて、遅い夕食と共に楽しみました。

衣替えついでに小さな部屋を自分の専用スペースにしようと色々と動いています。
でもなかなか思うように進まず、限られた空間をいかに自分好みにするか頭をフル回転させています。
 
落ち着いた雰囲気でいて植物を少々飾れて、疲れたら少し休憩するコーヒーテーブルと小さな椅子を探しているんですが、これがなかなかないんですよね。

 

前からのピエール・ドゥ・ロンサール

以前、記憶が動画である。と書いたんですが。
実は私のイメージというのは、色のついた出来上がりの絵なんですね。
 
なので、このデザインの椅子。という明確な輪郭はあるものの、実際はネット検索の画像で好みのものをピックアップするので、イメージと違うものばかりに行き当たってしまうんです。
当たり前なんですけれど。
イメージが絵なので。
別に絵画の習いがあるわけではないんですけれど。
みなさんのイメージって絵ですか? それとも写真でしょうか?
医学系の新書を読み解けば、そういったことが書かれているんでしょうか。

 

明るめに調整をいれたピエール・ドゥ・ロンサール

 
さて、本日は、もうすでにしつこくしつこく写真が出ているように(笑)、ピエール・ドゥ・ロンサール祭りとなっております。

 
ピエール・ドゥ・ロンサールは、薔薇栽培に手を出した者の多くが好む薔薇としてとても有名な薔薇です。
一軍の薔薇ということなんですね。
そういう薔薇の著名なコンテストでは、すでに殿堂入りの薔薇です。
 

私は最初は、へえ、そんなもんかな、程度だったんですが。
薔薇の鉢植えがどんどん増えて行くにつれて、ピエール・ドゥ・ロンサールの魅力に気付き、昨年大苗を手に入れて、育てていました。
それが今朝、たくさん出ている蕾の中から5輪ほどが開花していました。
そのひとつを切ってきて、しつこくあらゆる角度から撮影しているのが、今日の写真です(笑)


ななめ後ろからのピエール・ドゥ・ロンサール
 

美しいでしょう?
なんとも上品で瀟洒で気品ある薔薇なんですよね。
これで頑丈というギャップがあって、そんなところも好きです。
 
なんとか開花にこぎ着けた感想は、想像を超えた美しさと繊細さがあり、鮮やかすぎないおとなしめの色で、まるで大人の美しい女性を見かけたような華やぎが胸をよぎります。
 
ご想像のとおり薔薇のハイシーズンは4月末から5月で、素敵な名前の小さな庭の薔薇達はたくさんの蕾をつけており、この一週間で一斉に1番花が咲くようです。
ひっそりした私の小さな庭が、一時的に豪華絢爛な庭になる予定です(笑)
 
やっと体調とコンディションが安定してきたので、素敵な名前を持つ小さな庭に出ると、曇り空の中強い風が吹いていて、雨の匂いがしていました。
五月雨の降る庭がピエール・ドゥ・ロンサールの初日かと、胸ときめかせていたんですが、いまのところ雨はまだやって来ていません。
 

ピオラの開花期も、もうすぐ終わりです。

天気予報によると夜過ぎには雨が落ちてくるそうなので、今夜は雨の音を聞きながら初夏の夜を過ごすので、お供は読書とほんの少しのお酒にしようか、それともカジュアルにビールにしようか、嬉しさの"つもり"を感性を全開にして味わっています。
 
夏は苦手ですが、初夏の強くなった日射しの中、美しい午後をただ贅沢に窓の外を見ながら過ごすのも、とても美しい時間の持ち方ですよね。
 
最高気温に合わせて、私は、今日、サーティーワンのアイスクリームをUber Eatsで頼もうかな、と思っています。
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごし下さい。


 

 20240505 19:39 誤字を直しました。