イエス・キリストの逸話は、実はきちんと時系列で頭に入っていません。
キリストの逸話が多く残されている当時の社会状況を鑑みようとしても、いまの私ではその頃の事情が分かりませんので、2024年まで日本という宗教観が独自の場所で生きていた自分の来し方の範囲での解釈と、前置きさせていただきますが。
私はその中でも、マグダラのマリアの逸話が強く胸に焼きついています。
凄まじいまでの献身を、この逸話に感じるからです。
また、奇縁とでも申しましょうか、私が好きだからそういった糸をたぐり寄せるんでしょうけど、そうと知らずにマグダラのマリアを洗礼名に持つ方と、けっこう仲良くしてたこともあるんですね。
授業で習った範囲での古代史からの情報に照らし合わせてこの逸話を捉えてみると、足を髪で洗う場合、それは水ではなく香油で洗います。
ここに出てくる香油は、現代では、良い香り付きのヘアオイル兼ボディオイルのことを指していると、私は捉えています。
できる限り足を水で洗うよりもきれいにしたい気持ちが表している心理は、香油というものが、マグダラのマリアその人が持っていた中で、”1番、美しいものだったのではないか”と、私は解釈しています。
もし敬意が、手に取ることができるものだった場合、何を自分から差し出せるかと考えると、とにかくもっとも自分の意識の中で尊いものを洗うのですから、洗うという行為の中に敬意を点在させて、相手への尊敬を表現しなければなりません。
みなさんだったら、どうされるでしょう。
自分が持っているものの中で、もっとも美しいもので、相手への敬意を洗う場合、私も、多くの方々も、おそらくマグダラのマリアと同じ選択をするのではないでしょうか。
”もっとも美しいもの”とは何かを考えてみると。
それは自分が持っている1番値打ちがあるものではなく、自分が持っているもので、自分を確実に美しくしてくれるものだと思うんですよね。
私の発想では、それは化粧品です。
その当時の女性は、香油をつけた髪をくしけずり、自分の頭髪に艶と香りを与えていました。
それは身だしなみを整えて外に出ること(人に合うこと)は、社会的にも、自分の清浄を見せ、価値観の社会インフラに参加する資格(この場合は意思)を持っている、社会側からその意思があると認識される行動でもあります。
同時に、自分が対峙する世界というものに向けてのリスペクトを示し、他者を説得する行為だったんです。
大切なお客様が来るとき、部屋をまずは掃除するでしょう?
文化価値観は星の数ほどあれ、あまり汚泥をさらに強調して相手を迎える気持ちはないはずです。
自分を客とした場合も、世界というドアの前に立ち、中に入りその社会に参加する訪問者であれば、自分を綺麗にしてそこに行くのは、自分をその世界に招いた相手に対する礼儀の気持ちと、自分がいま手をかけているドアの向こうに広がる、相手の世界への敬意を表現するものです。
もし敬意を手に取ることが出来た場合、いったい何でそれを洗うのか。
自らを必ず美しくしてくれ、その清浄の表現ができる、化粧品という美のツールでそれを洗う選択も、また当たり前の行動になります。
そして自分の中で1番、敬意を払われる場所にある頭髪、で、敬意を洗うことは、非常に精神的な行為だとも言えます。
裸足で道を歩いてきたイエスの足の泥を、自身の髪で拭い、香油をつけて清潔にするんです。
”もっとも良いもの”で、もっとも崇高な(マグダラのマリアにとって)イエスキリストの足を、自身の中で1番美しくしている部分で洗うんですね。
この説話は、一部の研究では、非常にセクシャルな描写として解釈されていますが、私は、ものすごく清潔なマグダラのマリアの高い精神性を表現していると感じています。
エロティシズムの暗喩であれば、肌だと思うんです。
肌を使って拭うはずなんです。泥を。
ですが、説話では、切った髪で洗うのではなく、維持したままの頭髪で拭うんです。
そこにイエスキリストの足の汚れと同化したいまでの、強い崇敬を感じます。
私は、おそらくマグダラのマリアは、本当にイエスキリストの足を拭って、キリストの足の泥と同化したかったんだと思っています。
過去に私が図書館で触れた文献では、マグダラのマリアは娼婦だったのではないか? とされている解釈が記憶に残っています。
ただの妖婦だったとか、それもなんとなくあります。
そこからわかることは、
とにかく、その女性は聖女ではなかったんです。
聖女ではない女性が、自分のような卑しく汚泥にみちた者は、イエスキリストに直接触れることも許されないと考えており、自らの髪で、自らの不浄の赦しを乞うた、のだろうと思います。
そしてその赦しを乞うこと自体が、それすらも罪であるという、とても厳しい内省の行為が、自分の髪でイエスキリストの足を洗うという行為に現れたのではないでしょうか。
なぜそこまでの内省を、マグダラのマリアは持っていたんでしょうか。
マグダラのマリアが、キリストの足についていた汚れと自分を同化してまで赦されたかった事って、たぶん、救われたい自分への自罰だったんでしょうね。
マグダラのマリアはセックスワーカーだったとも、セックスワーカーを象徴する当時の賤業に就いていたともされています。
賤業とはなんでしょう。
売ることをあさましいとされている、ありとあらゆるものです。
愛、性交、クリエイティブ、遺骸から取出し再生させたもの、天から享受されていると言われ、畏怖とともに世に放たれ続けるもの、外界からやってくる訪問者達がもたらす、新しくて、世界のすべてを変えてしまうもの。
価値のない自分が、社会で1番価値のないものを売りながら、自分をかろうじて生かしている。
簡単に想像しても、その世界には自己を肯定するものの一切がなかったでしょうね。
マグダラのマリアは、キリストの足についていた汚れを自分の髪に宿す事で、やっと自分の価値を認められたんじゃないでしょうか。
そして奇妙な奇蹟をそこに存在させた。
罪人とされてしまったもっとも聖なる存在の足の汚れを、この世でもっとも汚れていると信じている自分自身で洗うことで、相手に焼きつけられた罪を相殺してしまったんでしょうね。
そして、そうであっても、それは香油で落ちる汚れですから、キリストの泥と同化しても、それは永遠ではない。
永遠などやってこない自分が、思わず駆け寄り敬意を払わずにおられなかった相手に、本当の意味で祈りを知らない自分が、奇蹟を起こす祈りを起動させた。
マグダラのマリアは、自分に救いがやって来ないことぐらい知っていたんです。
そんなことくらいわかっていたはずなんです。
娼婦でしたから。
自身が存在していること自体が罪である構造に生きる、原罪そのものの自分が、一体どうしたら、聖なるものしか立ち入れない、この「聖体拝受の聖堂」に入れるのか。
それは、祈りしかなかったんじゃないかと考えます。
しかも祈り方も、祈りの言葉も、よくは知らない層だったのではないでしょうか。
彼女は、「聖体拝受の聖堂」にやってきた訪問者だったんです。
香油をつかって足を髪で洗うという、行為そのものが、マグダラのマリアにとっての祈りの動作だったんだと思うんです。
マグダラのマリアはおそらく、ただの女として祈ったんでしょうね。
「どうかこの人の罪を私に拭わせて下さい。」
ただ、それだけだったんです。
だから、なけなしの香油と自分の持つ髪で、キリストの足を洗った。
その行為は、マグダラのマリアにしかできない祈りだったし、聖なる者しか救われないとされていた、裁きの聖堂のドアを叩く行為だったんでしょうね。
これって、マグダラのマリアにしか出来ないことですけど、他の人でも真似できる。
マグダラのマリアの視点を想像すると、もっとも穢れているのは自分です。
けれど、多くの市井の人々も、穢れを持たないものはいない。
そして、もっとも穢れているものが敬意の表現として、無知の祈りを始めるのは、マグダラのマリアにしかできない。
香油を使って、キリストの足を髪で洗うというのは、最初の祈りだったんですよね。
彼女は、キリストへの祈り方のルールを変えてみせたんです。
思わずやった行為で、そこに曇りひとつない心を示したんです。
ありったけの崇敬を捧ぐ自ら、というものを。
私は、マグダラのマリアは、ゲームチェンジャーだったんだと思います。
だから、私は、とてもマグダラのマリアに惹かれるんだと思います。
それとこれは私見というか、もう私発信のフィクションになってしまっているとご了承いただいた上で、先を続けますが。
人々が娼婦に石を投げるのを見て、イエスキリストは磔にされる前に、「罪を犯したことがない者だけが、この者に石を投げよ」と、その娼婦を助けたという逸話が別にあります。
おそらく、マグダラのマリアは、石を投げられていた娼婦と同一人物か、同じコミュニティの人間だったんだと思います。
確か、二通りの説を私が読んだことがあるか、そう思っているかです。記憶違いでしたら申し訳ありません。
私はこの二通りの説の中で、マグダラのマリアは、石を投げられていた娼婦と同一コミュニティの人物説を支持していて、身内を助けた恩人に向かって、ただまっすぐであったマグダラのマリアの熱い気持ちが、とてもキリストを巡る女性の説話の中で、とても人間じみていると思います。
リアルですらある。
マグダラのマリアって洗礼名では、「マリア・マグダライア」という発音なんだそうです。
私は、彼女の髪は、長く、美しい黒髪であったのだろう、となぜだか思います。
その洗礼名を持つ人は、確か、薄茶色の美しい長い髪の持ち主でした。
なのに私はどうしても、マグダラのマリアは、豊かな長い黒髪でキリストの足を香油で洗い、もっとも美しく、人間にできる全部での崇敬の心で、再びキリストに洗礼を行い、同時に、自らも洗礼を受けたのだと、想像しています。
マグダラのマリアには名前がありません。
当時の社会でも、名を持つものは少数か、ごく限られた存在で、多くの人々は呼び名しかなかったのではないでしょうか。
マグダラのマリアも、マグダラにいるマリア。またはマグダラに住むマリア、という呼び名を持っているだけです。
名もなき者が、キリストの足についた罪を拭い、知らず知らずにキリストの罪と自分の罪という穢れを相殺して、キリストをもう一度、洗礼してみせた。
新たな名を与える洗礼ではなく、穢れをゼロにする洗礼です。
マグダラのマリアは、おそらく文字を知りません。
だから名前を与えることはできなかった。
きっとキリストの名を書くこともできなかったでしょう。
彼女は自分が何をやったかもわかっていない上、きっとキリストのそばに駆け寄った自分が抱いて居た、自分の中の敬意が本当はなんであったかを、本能でよく知っていたんじゃないですかね。
それはよくある、誰もが知るとされているもの。
そして過去に、聖堂では不浄とされていたもの。
彼女は、それをキリストに教えたんでしょうか。
教わったんでしょうか。
彼女は、それがいったいなんであるか、本当に理解していたんでしょうか。
私見ながら、
史上初のゲームチェンジャーが、ジーザス・クライスト・スーパー・スターの罪を消した。
それをやってのけたのは、名前のない女だった。
彼女には、たぶん、名前なんていらなかったんじゃないかな、なんて私は思います。
キリストの足を髪で洗った結果として、聖人しか入れない聖堂を、彼女は全世界に拡大してみせました。
境界も名前も資格も価値もいらない、この世のすべてに、祈り方を知らぬとも、救済と救済を受ける資格があるという証明、市井の誰もがそれが実行可能であることを、高らかに実現した。
実現された後は、聖堂にも、罪を代わりに背負った者にも、罪を体現させられ続けていた者にも、個別の識別など必要ありません。
識別のための名前がいらなくなった世界が、突然、マグダラのマリアによって発明された。
彼女はそれほどの世知の賢者だったのでしょうか。
マグダラのマリアは、きっとただの女だったのでしょう。
そう思っていたのではないでしょうか。
ーーーそして、
本当は、思わずそうしてしまった彼女の気持ちが、きっと誰よりもわかったから、その人は、市井のものには到底無理な、とんでもない奇蹟を起こし、彼女の手柄にしてみせたのではないでしょうか。
なんにせよ、
キリストの足を髪で洗った女は、マグダラのマリアという呼称でこの再生と赦しの説話に記述されるのみで、彼女の正確な名も、彼女に名前があったのかどうかについての記述も、最初の物語には登場しません。
よい1日を。
追記
以前、私はクリエイター達に向かってこのブログ上で怒りをぶつけました。
宛先は、無理解と意図的な誤解をわざと喧伝する悪意に向けてでした。
悪意以外の、クリエイティビティー全部とクリエイションの申し子である方々全員に、本稿の追記をもちまして、足りない言葉を補わせていただき、不快な気持ちにさせてしまった時間をお詫びいたします。
20240511 10:14 エナメルと現在名乗っているバカ女より。
20240511 22:06 誤字や文章を直しました。