休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2024/05/14

映画の半券、ジャックダニエル練習中

 

 

このところ部屋の模様替えをしていて、ずっと家の中がトンデモナイコトになっています。
 
自分でも忘れていたんですが。
環境が変わった頃に、荷ほどきをしていない段ボールを積んで、ちょっとした簡易置き台にしていたんですね。
あと、これは今すぐいらないや、という物が入っている段ボールもそのままにして置いてたんです。
 
そうすると、実際は段ボールが置きっぱなしになっているのに、 目のほうが慣れてしまって、インテリアに馴染んでしまって気がつかなくなるマジックがかかっていたんです。

それで、たまたまその部屋を自分の部屋にしようと思い、あれこれやっていたら、色々なものが出てきて、なんだこれ? と、あれこれ見つけてちょっと笑いました。
 
なかでも、どうしてこれを取っておこうと思ったんだろう・・・、というものから、思い出のものまで出てきて、自分の気持ちのアップダウンがとてもめんどくさかったです。
 


こちらは映画「犬神家の一族」の半券です。
 
この頃、リバイバルではなく、市川崑監督自ら、過去作をリメイクされての「犬神家の一族」だったんです。
石坂浩二さんの金田一耕助で、すっごい良くて、私は喜び勇んで、ちょいと映画好きみたいな格好で、窓口に「犬神家の一族、一枚!」と張り切ってお金をパシッと置いたら、
「来ーたーなー!」
というニヤリ顔で映画館の年配の方が迎えてくれて、なんだかいっぱしの映画ファンとして認めてもらえた気持ちになれて、すごく嬉しかったのを覚えています。
 
時代は移り変わり、私の住む街では、街中の映画館が姿を消してしまい、中心部から少し外れたところにひっそりあるという具合になってきました。
 
映画館で映画を観るのは、私にとって長い間、とても大切なことだったんですけれど。
もう娯楽が、映画館での上映作品ではなく、作品単体になってしまい、私も、前は話題作は全部見たい派だったのが、療養期間中から、ネット配信でセレクトするようになり、この頃では、時々映画を観たりする程度になってきました。

先日、美容師さんとそういう話になって、やはりアマプラでレンタルして観たり、なんだっけな・・・、なんか配信サービスで観ているけれど、時間的に一気見は無理なのでいくつかは解約してしまったそうです。
 
生活パターンも年齢もだいぶ違う方なんですが、私も同じ方向で映像娯楽から遠ざかり気味だったので、個の時代もどんどん突き進んでいるんだな、と感慨深かったです。
 
私は基本的に個別の1人でしか居られない人間なんですけれど、娯楽が個になっていって、すごく助かると同時に、
たくさん人が居るけれど、みんなそれぞれ別々にただ居る。
そういう空間が減ってしまうことは、少し思っていたのとは違う進み方をしていると感じています。
 
共有でもなく、一体でもなく、てんでばらばらで、それで良い。というものを体現していたのが、私にとって映画館だったので、この先、個別の娯楽が行き着く先はどこになるのかな、と果てしない気持ちになっています。
 
ハイボールセットだそうです。
 
部屋の模様替えとその片付け物にかかりっきりになっているので、昨日も私はUber Eatsのお世話になっていました。
1人分だけだと、この場合の時間的なコスト、疲労具合などを鑑みて、Uberのほうが結局はラクですし、負担が少ないんですよね。

そんなときに、ジャックダニエルを覚えてはどうか、という言葉を思い出し、そうだ、ジャックダニエルやってみよう!と遅くまで開いている酒屋さんを探すと、取り扱いがあったので、ジャックダニエルとハイボールに必要な炭酸水のセットがあったので、そちらをお願いしました。
 
私は随分前に、ハイボールを作っていただいて初めて飲んだはいいけれど、ひどいことになってしまって以来、ハイボールをちゃんと飲むのは初めてでした。
 
それでネットでハイボールの作り方を調べて、まだウイスキー(バーボンもスコッチもウイスキーなんだそうです。???)も不慣れなので、ワンフィンガーって確かこうだったような? と見よう見まねで氷を入れたグラスにバーボンを入れて、炭酸水を注いで、一度だけかき混ぜて飲んだら、ものすごく美味しくてびっくりしました。
 
ジャックダニエルは甘いお酒なんだそうで。
そのせいか、ウイスキーの苦手な匂いはまったくなく、まろやかで芳醇で香り高い中に、炭酸水の切れ味が加わって、なんとも美味しい飲み物でした。
 
あまりにも美味しくて二杯目も作ってみたんですけれど、やはりそんなにまだ飲めないので、ショートグラスに一杯とちょっとだけ、が初めてのジャックダニエル体験でした。
 
今夜もハイボールをちょっぴりだけ飲んでみようと思っています。
 
美味しいですね。ハイボール。
ジャックダニエルのハイボールは初心者用とされているらしく、私にはぴったりでした。
おつまみは焼き鳥屋さんのアラカルトにして、ちょこちょこ食べていたんですけれど、すぐ胸がいっぱいになってしまって、そんなに食べられませんでした。
 
私見ながら、ジャックダニエルのハイボールにはナッツが合うんじゃないでしょうか。
それと森瑶子のエッセイにあったとおり、とても苦いダークチョコレートがいいと思います。
変化球としてアイスクリームも合うかも。
 
なるほど、ウイスキーは食事にも合うし、お酒単体を味わうのにも向いていますね。
 
こうなってくると、何を合わせるのか、というおつまみ談義に花が咲くのも頷けます。
 
ちなみに森瑶子はエッセイだけで小説は未読です。
 
私がジン好きなのも、森瑶子のエッセイを読み、ジンをまず憶えるのだ!と心に誓った少女期があったからです。
 
といってもロングドリンクばかりなんですけれど。
この頃、色々とお酒を教えていただいているので、今度はジン単体をロックで楽しんでみようと思います。
 
お酒はこうしてあれこれ試して楽しんでいる程度が、いまは好きです。
 
若者だった頃は、阿呆のように飲んでいましたが、あんな飲み方ではお酒がどうのというより、単に酔っ払って楽しい気持ちになりたかったんだと思います。
 
大人になってお酒を飲むときの仲間に、1時期ではありますが、私はとても恵まれていて、楽しい時間をたくさん過ごしました。
 
またみんな、それぞれがまあまあ貧乏気味で、お店で楽しむのも良かったけれど、誰かの部屋に集まって、持ち寄った料理やおつまみと映画と音楽で、ビールや背伸びしたお酒を飲んで、ただ色んな話をして盛り上がっていました。
 
全員、寂しかったし、誰もがどこか退屈しながら、そうやって集まって、無為な時間を過ごしていました。
 
同じように、私も、これはそうやって集まって騒いで楽しいフリをして、ただ毎週末をやり過ごしているのだ、と感じていて、明け方の街の中、じゃあねーと手を振って解散した後が、いつもなんだかとても切なかったのを記憶しています。
 
跡形もなく過ぎ去ってしまい、 信じられないような先の未来のいまに、ふと思い出すと、あれもまた、楽しかったんだな、とあっさり思えるから不思議です。
 
ところで、噂の域として小耳に挟んだので、話半分どころかハナシ1/4で捉えていただきたいんですけれど。
 
1人で若い女の子がバーでお酒を楽しんだり、少人数の仲良しと街で普通に遊んでいたのを、男漁りをしていたのだ、としか思えない人って、一体、どこの時代錯誤地底人なんでしょう。
いまだにそういった洞穴って現実にむかって出口があいてるんですね。
 
いくらなんでも失礼ですよ?(にっこり)
 
 
以上、 映画の半券、ジャックダニエル練習中、でした。

<お酒は、節度とルールを守りましょう。>
 
 
 
 
 
 
 

2024/05/12

憧れが贈られてくるシステムに、理由がルージュになって売られている。

  
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
今日は、私の住む街は朝から雨です。
明るくて温かい雨が降っていて、名前のない小さな庭の薔薇達を濡らしています。
薔薇は、いまが盛りです。
 
この頃、高い化粧品に戻っています。
もう年齢的にそういうものを使う自分を許そうというのもありましたし、疲れ果てているときはやはりこういったものの方がやつれて見えないように思うんですよね。
 
私は、こういうデパコスと呼ばれる化粧品は、コロナ前は店頭で購入して、店頭のお客さんの練習をしていました。
けれど、コロナ後、生活が変わって、シャネルとディオールはずっと通販で購入しています。
 
今日は、シャネルの通販で買うと、どんな感じなのかをご紹介しますね。
 
シャネルはオフィシャルサイトで購入できます。
CHANEL 公式サイト
https://www.chanel.com/jp/?gad_source=1
 
オフィシャルサイトの向かって左上にあるメニューを開き、メークアップに飛ぶと、そこには美しい化粧品群が並んでいますので、興味があったりお好きなものをクリックして買えるシステムです。
 
購入するときは、アカウントを持たなくても購入できるシステムもあります。
支払いはカード決済と代引きです。
私は代引きでお願いしています。
繰り返し購入するのであれば、アカウントを作っておくと色々と便利です。
 
包装はギフト包装と通常包装が用意されていて、私は通常包装です。
 
すると、こんな感じで届くんですね。
 


 
そうです。
布製のポーチに入っています。こちらは無料でこの仕様です。
素敵ですよね。
 


そして、中は、こんな感じです。
緩衝材が入っている中にそっと置かれています。
私は今回、久しぶりにシャネルをきちんと使おうと決めての購入だったので、アイシャドウとルージュを3本買って、もうあと1年は何も買わなくても良いようにしています(笑)
 
 
レ キャトル オンブル 268 カンドゥール エ エクスペリヤンス


通販の良さって、そちらの商品を隅から隅まで見て、何があるのか、しっかりわかるようになっていることなんですよね。
 
シャネルは特に、商品ラインナップがとても素敵で、新製品もいいけれど、ロングセラー商品も魅惑的で、映画やトップモデルさん達が使っているアイコニックな商品ってシャネルのだったの? とときめくのもよくあることです。
 
また、あまり大きく取り上げられていなくとも、シングルアイシャドウが素敵だったり、リップのシリーズも艶やマットの商品展開も、全世界のシャネルユーザーがとても自分を綺麗にすることに真剣なおかげで、大変充実していると思います。
 
左から ルージュココ 430 MARIE / ルージュココフラッシュ 82 LIVE / ルージュココブルーム 112 OPPORTUNITY  /  すべてシャネル
 
 
私は、店頭できめ細かい接客をしていただき、日常生活の中であっても、シャネルを使っている、という価値を私の精神の中に創ってくれるサービスが好きです。
 
それは、私だけのための、勇気に似た精神性のようにいつも感じています。
 
高級な化粧品の正体というのは、ブランディングと呼ばれるイメージなどを挙げられるように、こういった形のないものだという認識はおそらく間違っていません。

けれど、シャネルの化粧品をおそるおそる購入し始めてから、私はたぶん、何か大きくそれまでとは違った場所に来ています。
 
何かはちょっとまだ、うまく言えないんですけれど。
 
それでも、シャネルのコスメを自分の顔に使うことで、自分が思う綺麗さ、を手にしているような実感があるんです。
 
奇妙なことですよね。
どうしてなのかわかりません。
 
でも、この綺麗さは、私がインディペンデントに手に入れた自由の中にあるのだ。と、
誰かが望む綺麗ではなく、私が決め、選び、纏う綺麗さだと、そう思うんです。
 
なぜかこのコスメは、私をいつも奮い立たせ、大切な人に会うときは必ず選ぶものであり続け、なにか私自身を証明してくれるような、そういったものでもあります。

<常に背筋を伸ばし、頭(こうべ)を垂れて、立っていなさい。>
 
という、いまでも心の中に残り続ける大切な基準点をクリアしているような気もします。
 
人によっては、女性に頭を垂れさせるように促すとは何事か、と叱られそうな、古い前時代的な訓示ではありますが、この言葉は、私の誇りです。
 
このような劣等生がこの言葉を知っているのは、恥以外何物でもないのですが、良い機会ですから、私が思う不屈の女性像とはこうである、と書いてみたいと思いました。
 
私はこの女性に、凜とした強い意志と、静かな闘志をみなぎらせた気品を感じ、この言葉の指し示す象(かたち)を信じ続けています。
 
この言葉を思い出すのは、なぜかシャネルのルージュを唇に乗せ、好きなフレグランスを纏うときです。
 
色々な闘い方、色々な意思表示の仕方があると思います。
 
私のような、愚かでナヨナヨしていて、軽薄で、すぐ浮かれて、いつも失敗ばかりの者は、たぶん大きな声でなにか女性について喧伝する資格もなければ、そうすることがふさわしいとも思われないでしょう。
 
けれど私は、いつもこの言葉を胸に持って立っています。
 
目を伏せ、わずかに微笑み、素知らぬふりで、好きな服をまとい、愛する人のことを想う場所から一歩も動かないまま、私はいつも、いかように言われようとも、いかように打たれようとも、このように立っていようと思います。
 
なぜこの言葉を伝えたのか。
時々考えながら、奥にいる人間がどのように在り続けるのが、本来の自由の象(かたち)なのか。
決して受け渡さないでいられるのか。
 
考え抜かれ、鍛え抜かれた言葉を伝えた実地の哲学に、感謝しながら、私は今日もシャネルのルージュを唇に乗せています。
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごし下さい。
 
 
 
 
20240512 18:24 文章を直しました。
 
 

With Love.

 
 
Memoire(メモワール)

 
We would like to thank you from the bottom of our hearts for your kindness.
I am living well.
Sometimes I inevitably lose my energy, but everyone gently calms me down and surrounds me with peaceful routines.
These days, I have started to wear brightly colored clothes.
I finally just realized that I have a long, long crush on someone, so I feel strangely warm and fuzzy.
Sometimes I also feel a very happy feeling that he is there for me.
When I think about it, I think that now is the best time for me, including the strange things that are happening.

I know you are very busy, but please take care of yourself.
And please continue to produce wonderful works.

I am very happy to know that there are people who care about me.
I am sure that I am the happiest person in the world.
From a fan



Translated with DeepL.com (free version)
 
 
御多忙中、御厚志を賜りましたこと心より御礼申し上げます。
元気に暮らしています。
時々、どうしても元気がなくなりますが、みなさんそっと静かにしてくださったり、穏やかな日常で私を包んでくれています。
この頃は、明るい色の服を着るようになりました。
やっと長い長い片想いを自覚したところなので、なんだか不思議に温かい気持ちでいます。
また時々、私のそばに居てくれる、なにかとても嬉しい気配も感じます。
そう思うと、やはり、いまは不思議なことも含めて、最善なのだろうと思います。
 
大変お忙しいと思いますが、どうかご自愛ください。
そして素晴らしい作品をまた生み出し続けて下さい。
 
心配してくださる方がいることを認識できて、とても嬉しいです。
私は、きっと世界で1番幸せ者なのだと思います。

ファンより
 

 

 
 

2024/05/11

キリストの足を髪で洗った女


 
イエス・キリストの逸話は、実はきちんと時系列で頭に入っていません。
 
キリストの逸話が多く残されている当時の社会状況を鑑みようとしても、いまの私ではその頃の事情が分かりませんので、2024年まで日本という宗教観が独自の場所で生きていた自分の来し方の範囲での解釈と、前置きさせていただきますが。
 
私はその中でも、マグダラのマリアの逸話が強く胸に焼きついています。
凄まじいまでの献身を、この逸話に感じるからです。
 
また、奇縁とでも申しましょうか、私が好きだからそういった糸をたぐり寄せるんでしょうけど、そうと知らずにマグダラのマリアを洗礼名に持つ方と、けっこう仲良くしてたこともあるんですね。
 
授業で習った範囲での古代史からの情報に照らし合わせてこの逸話を捉えてみると、足を髪で洗う場合、それは水ではなく香油で洗います。
 
ここに出てくる香油は、現代では、良い香り付きのヘアオイル兼ボディオイルのことを指していると、私は捉えています。
 
できる限り足を水で洗うよりもきれいにしたい気持ちが表している心理は、香油というものが、マグダラのマリアその人が持っていた中で、”1番、美しいものだったのではないか”と、私は解釈しています。
 
もし敬意が、手に取ることができるものだった場合、何を自分から差し出せるかと考えると、とにかくもっとも自分の意識の中で尊いものを洗うのですから、洗うという行為の中に敬意を点在させて、相手への尊敬を表現しなければなりません。
 
みなさんだったら、どうされるでしょう。
 
自分が持っているものの中で、もっとも美しいもので、相手への敬意を洗う場合、私も、多くの方々も、おそらくマグダラのマリアと同じ選択をするのではないでしょうか。
 
”もっとも美しいもの”とは何かを考えてみると。
それは自分が持っている1番値打ちがあるものではなく、自分が持っているもので、自分を確実に美しくしてくれるものだと思うんですよね。
 
私の発想では、それは化粧品です。
その当時の女性は、香油をつけた髪をくしけずり、自分の頭髪に艶と香りを与えていました。
 
それは身だしなみを整えて外に出ること(人に合うこと)は、社会的にも、自分の清浄を見せ、価値観の社会インフラに参加する資格(この場合は意思)を持っている、社会側からその意思があると認識される行動でもあります。
同時に、自分が対峙する世界というものに向けてのリスペクトを示し、他者を説得する行為だったんです。
 
大切なお客様が来るとき、部屋をまずは掃除するでしょう?
文化価値観は星の数ほどあれ、あまり汚泥をさらに強調して相手を迎える気持ちはないはずです。
 
自分を客とした場合も、世界というドアの前に立ち、中に入りその社会に参加する訪問者であれば、自分を綺麗にしてそこに行くのは、自分をその世界に招いた相手に対する礼儀の気持ちと、自分がいま手をかけているドアの向こうに広がる、相手の世界への敬意を表現するものです。
 
もし敬意を手に取ることが出来た場合、いったい何でそれを洗うのか。
 
自らを必ず美しくしてくれ、その清浄の表現ができる、化粧品という美のツールでそれを洗う選択も、また当たり前の行動になります。
 
そして自分の中で1番、敬意を払われる場所にある頭髪、で、敬意を洗うことは、非常に精神的な行為だとも言えます。
 
裸足で道を歩いてきたイエスの足の泥を、自身の髪で拭い、香油をつけて清潔にするんです。
 
”もっとも良いもの”で、もっとも崇高な(マグダラのマリアにとって)イエスキリストの足を、自身の中で1番美しくしている部分で洗うんですね。
 
この説話は、一部の研究では、非常にセクシャルな描写として解釈されていますが、私は、ものすごく清潔なマグダラのマリアの高い精神性を表現していると感じています。
 
エロティシズムの暗喩であれば、肌だと思うんです。
肌を使って拭うはずなんです。泥を。
 
ですが、説話では、切った髪で洗うのではなく、維持したままの頭髪で拭うんです。
そこにイエスキリストの足の汚れと同化したいまでの、強い崇敬を感じます。
 
私は、おそらくマグダラのマリアは、本当にイエスキリストの足を拭って、キリストの足の泥と同化したかったんだと思っています。
 
過去に私が図書館で触れた文献では、マグダラのマリアは娼婦だったのではないか? とされている解釈が記憶に残っています。
ただの妖婦だったとか、それもなんとなくあります。
 
そこからわかることは、
とにかく、その女性は聖女ではなかったんです。
 
聖女ではない女性が、自分のような卑しく汚泥にみちた者は、イエスキリストに直接触れることも許されないと考えており、自らの髪で、自らの不浄の赦しを乞うた、のだろうと思います。
 
そしてその赦しを乞うこと自体が、それすらも罪であるという、とても厳しい内省の行為が、自分の髪でイエスキリストの足を洗うという行為に現れたのではないでしょうか。
 
なぜそこまでの内省を、マグダラのマリアは持っていたんでしょうか。
 
マグダラのマリアが、キリストの足についていた汚れと自分を同化してまで赦されたかった事って、たぶん、救われたい自分への自罰だったんでしょうね。
 
マグダラのマリアはセックスワーカーだったとも、セックスワーカーを象徴する当時の賤業に就いていたともされています。
 
賤業とはなんでしょう。
売ることをあさましいとされている、ありとあらゆるものです。
 
愛、性交、クリエイティブ、遺骸から取出し再生させたもの、天から享受されていると言われ、畏怖とともに世に放たれ続けるもの、外界からやってくる訪問者達がもたらす、新しくて、世界のすべてを変えてしまうもの。
  
私は、マグダラのマリアは、卑しさという社会的ビジョンの体現者としても描かれていると深読みしています。
 
マグダラのマリアは、己が決して救われてはならないと、それを望むことすら悪とされている価値観と経済の社会構造の中に居ながら、そこから抜け出せない自身の宿命を、その体躯で売っていました。
 
価値のない自分が、社会で1番価値のないものを売りながら、自分をかろうじて生かしている。
 
簡単に想像しても、その世界には自己を肯定するものの一切がなかったでしょうね。
 
マグダラのマリアは、キリストの足についていた汚れを自分の髪に宿す事で、やっと自分の価値を認められたんじゃないでしょうか。
 
そして奇妙な奇蹟をそこに存在させた。
 
罪人とされてしまったもっとも聖なる存在の足の汚れを、この世でもっとも汚れていると信じている自分自身で洗うことで、相手に焼きつけられた罪を相殺してしまったんでしょうね。
 
そして、そうであっても、それは香油で落ちる汚れですから、キリストの泥と同化しても、それは永遠ではない。
 
永遠などやってこない自分が、思わず駆け寄り敬意を払わずにおられなかった相手に、本当の意味で祈りを知らない自分が、奇蹟を起こす祈りを起動させた。
 
マグダラのマリアは、自分に救いがやって来ないことぐらい知っていたんです。
 
そんなことくらいわかっていたはずなんです。
娼婦でしたから。
 
自身が存在していること自体が罪である構造に生きる、原罪そのものの自分が、一体どうしたら、聖なるものしか立ち入れない、この「聖体拝受の聖堂」に入れるのか。
 
それは、祈りしかなかったんじゃないかと考えます。
しかも祈り方も、祈りの言葉も、よくは知らない層だったのではないでしょうか。
 
彼女は、「聖体拝受の聖堂」にやってきた訪問者だったんです。
 
香油をつかって足を髪で洗うという、行為そのものが、マグダラのマリアにとっての祈りの動作だったんだと思うんです。
 
マグダラのマリアはおそらく、ただの女として祈ったんでしょうね。
 
「どうかこの人の罪を私に拭わせて下さい。」
 
ただ、それだけだったんです。
だから、なけなしの香油と自分の持つ髪で、キリストの足を洗った。
 
その行為は、マグダラのマリアにしかできない祈りだったし、聖なる者しか救われないとされていた、裁きの聖堂のドアを叩く行為だったんでしょうね。
 
これって、マグダラのマリアにしか出来ないことですけど、他の人でも真似できる。
マグダラのマリアの視点を想像すると、もっとも穢れているのは自分です。
けれど、多くの市井の人々も、穢れを持たないものはいない。
 
そして、もっとも穢れているものが敬意の表現として、無知の祈りを始めるのは、マグダラのマリアにしかできない。
香油を使って、キリストの足を髪で洗うというのは、最初の祈りだったんですよね。
 
彼女は、キリストへの祈り方のルールを変えてみせたんです。
思わずやった行為で、そこに曇りひとつない心を示したんです。
ありったけの崇敬を捧ぐ自ら、というものを。
 
私は、マグダラのマリアは、ゲームチェンジャーだったんだと思います。
 
だから、私は、とてもマグダラのマリアに惹かれるんだと思います。
 
それとこれは私見というか、もう私発信のフィクションになってしまっているとご了承いただいた上で、先を続けますが。
 
人々が娼婦に石を投げるのを見て、イエスキリストは磔にされる前に、「罪を犯したことがない者だけが、この者に石を投げよ」と、その娼婦を助けたという逸話が別にあります。
 
おそらく、マグダラのマリアは、石を投げられていた娼婦と同一人物か、同じコミュニティの人間だったんだと思います。
確か、二通りの説を私が読んだことがあるか、そう思っているかです。記憶違いでしたら申し訳ありません。
 
私はこの二通りの説の中で、マグダラのマリアは、石を投げられていた娼婦と同一コミュニティの人物説を支持していて、身内を助けた恩人に向かって、ただまっすぐであったマグダラのマリアの熱い気持ちが、とてもキリストを巡る女性の説話の中で、とても人間じみていると思います。
 
リアルですらある。
 
マグダラのマリアって洗礼名では、「マリア・マグダライア」という発音なんだそうです。
 
私は、彼女の髪は、長く、美しい黒髪であったのだろう、となぜだか思います。
 
その洗礼名を持つ人は、確か、薄茶色の美しい長い髪の持ち主でした。
なのに私はどうしても、マグダラのマリアは、豊かな長い黒髪でキリストの足を香油で洗い、もっとも美しく、人間にできる全部での崇敬の心で、再びキリストに洗礼を行い、同時に、自らも洗礼を受けたのだと、想像しています。
 
マグダラのマリアには名前がありません。
 
当時の社会でも、名を持つものは少数か、ごく限られた存在で、多くの人々は呼び名しかなかったのではないでしょうか。
マグダラのマリアも、マグダラにいるマリア。またはマグダラに住むマリア、という呼び名を持っているだけです。
 
名もなき者が、キリストの足についた罪を拭い、知らず知らずにキリストの罪と自分の罪という穢れを相殺して、キリストをもう一度、洗礼してみせた。
新たな名を与える洗礼ではなく、穢れをゼロにする洗礼です。
 
マグダラのマリアは、おそらく文字を知りません。
だから名前を与えることはできなかった。
きっとキリストの名を書くこともできなかったでしょう。
 
彼女は自分が何をやったかもわかっていない上、きっとキリストのそばに駆け寄った自分が抱いて居た、自分の中の敬意が本当はなんであったかを、本能でよく知っていたんじゃないですかね。
 
それはよくある、誰もが知るとされているもの。
そして過去に、聖堂では不浄とされていたもの。
 
彼女は、それをキリストに教えたんでしょうか。
教わったんでしょうか。
彼女は、それがいったいなんであるか、本当に理解していたんでしょうか。
 
私見ながら、
史上初のゲームチェンジャーが、ジーザス・クライスト・スーパー・スターの罪を消した。
それをやってのけたのは、名前のない女だった。
 
彼女には、たぶん、名前なんていらなかったんじゃないかな、なんて私は思います。
 
キリストの足を髪で洗った結果として、聖人しか入れない聖堂を、彼女は全世界に拡大してみせました。
 
境界も名前も資格も価値もいらない、この世のすべてに、祈り方を知らぬとも、救済と救済を受ける資格があるという証明、市井の誰もがそれが実行可能であることを、高らかに実現した。
 
実現された後は、聖堂にも、罪を代わりに背負った者にも、罪を体現させられ続けていた者にも、個別の識別など必要ありません。
識別のための名前がいらなくなった世界が、突然、マグダラのマリアによって発明された。
 
彼女はそれほどの世知の賢者だったのでしょうか。
可能性の愚者、フールだったのでしょうか。
市井の者に身をやつした天使だったのでしょうか。
 
私は、そうは思いません。
マグダラのマリアは、きっとただの女だったのでしょう。
  
『ただそこにいて、めぐり逢ったから、足を髪で洗っただけ。』
 
そう思っていたのではないでしょうか。
 
ーーーそして、
本当は、思わずそうしてしまった彼女の気持ちが、きっと誰よりもわかったから、その人は、市井のものには到底無理な、とんでもない奇蹟を起こし、彼女の手柄にしてみせたのではないでしょうか。
 
なんにせよ、
 
キリストの足を髪で洗った女は、マグダラのマリアという呼称でこの再生と赦しの説話に記述されるのみで、彼女の正確な名も、彼女に名前があったのかどうかについての記述も、最初の物語には登場しません。
 
よい1日を。
 
マリア・マグダライアの1人に捧ぐ。
 
 

 

 
 
追記
 
以前、私はクリエイター達に向かってこのブログ上で怒りをぶつけました。
 
宛先は、無理解と意図的な誤解をわざと喧伝する悪意に向けてでした。
 
悪意以外の、クリエイティビティー全部とクリエイションの申し子である方々全員に、本稿の追記をもちまして、足りない言葉を補わせていただき、不快な気持ちにさせてしまった時間をお詫びいたします。
変わらぬ敬意を込めて。
 
20240511 10:14 エナメルと現在名乗っているバカ女より。
 
 
20240511 22:06 誤字や文章を直しました。
20240512 15:32 誤用を直しました。
 
 
 
 
 
 

2024/05/09

薔薇の名は、レイニー・ブルー

 

レイニー・ブルー

信用している人に、
「誰かのイメージで薔薇を育てるの、それやめろ!」 
と言われて、
「・・・はーい。」と軽くふてくされながらも、
まあ、確かにそーですね。と思ったんです。
なので、大っぴらに言えませんが、ARMYさん達の薔薇でもあります。
 
薔薇でもあります、と書いたのは、これを購入した頃、もうこちらのジャンルを離れようとなんとなく決めていたからなんです。
結局、ファンフィクションを作ってから正式に離脱することにしたので、それはまだ先ではあるんですが。
 
ベランダの素敵な名前を持つ小さな庭に、雨の要素をどうしても入れたくて、それでレイニー・ブルーという名前に惹かれて購入しました。
つる薔薇だしな、と躊躇する気持ちはあったんですが、 雨といえばやはりブルウですので、庭にいつもブルウの雨が降っている一角を作りたくて育てています。
 
実際、もう少し大きいのかな、と思っていたら、小ぶりの八重桜を思わせる薔薇で、私は咲き始めの姿が好きです。
 
 
レイニー・ブルー全景
 
こちらのレイニー・ブルーも非常に美しい薔薇でして、咲き始めはこうして写真に撮ると、オブジェのような、モダンさと上品さが混ざったアーティスティックな姿になります。
 

レイニー・ブルー遠景  

開ききるとこんな感じです。
レイニー・ブルーの1番花は、1日で開ききりました。
 
こういう八重桜を思わせる、ティッシュで作った花のような姿の薔薇を育てるのは初めてで、もっと可愛らしい雰囲気になるのかと思っていたら、アジア風のエキゾチックさがあり、購入して良かったです。
 
ご覧のように、気品あふれる紫色を持つ薔薇ですが、これは青薔薇です。
なので、レイニー・ブルーという、なんともしっとりとした雰囲気の名が冠されています。
 
これは私の勝手な想像ですが。
この薔薇を開発した方は、雨の日に蒼く染まる世界がお好きだったかもしれません。
 
素敵な名前を持つ小さな庭に、雨を呼べて、満足しています。
 
以上、薔薇の名は、レイニー・ブルー、でした。
 
 

おまけ 開ききったピエール・ドゥ・ロンサール

 
 20240509 09:30 文章を直しました。

 
 

2024/05/08

香る橘:待ち人、来たる。


 
GIFT


 
 
この間、生まれて初めて、ラブレターをいただきました。
 
というか、そのメッセージの存在に気がついてからも、
そう判断することは、自惚れが過ぎるのではないか、とずっと精査している自分がいました。
 
ですがその人は、私のことが、とにかく良くわかる人でした。
 
私がうまくできなくて、心の底に持ったまま言葉にしないでいることを寸分違わず受け取り、すぐに取りなしてくれたり、
他の人が放った、大切にしていることについての言い方で、勝手に嫌だなと思って若干落ち込んでいることを、さっと言い直してくれたり、
わからないことを責めるのではなく、私の不明から来るわからないことをじっと受け止めてくださり、
折に触れ、解答を押しつけるのではなく、私自身の解答を出せるようにガイドを書いてくれていたり、
お手本と称してか、ご自分の価値観を書いたり。
時には、どうも問いかけてくれてもいたようです。
 
その人の、こちらに向けているらしいメッセージやミーニングやウインクのなにもかもが、この人は私の上位互換人格なのではないか? と驚くことばかりでした。
 
私はその人に、ただの知り合いレベルであっても、相手にされないと思っていました。
 
それくらい、いっぱしの大人で、軟派に見せかけた硬派中の硬派で、冗談がうまくって、優しさも洗練されていて、頭が良くって、どうしてか隠しているけれど、本当はすごくいい男なその人が、まず間違いなく私なんかを相手にしてくれるはずはない、と信じ込んでいたし、優しくしてくれるわけなんかないじゃないかと、思っていました。
 
表層意識でそう思うことすら自分に許せず、いま思うと、私は無意識の中で、ずっとその人のことが好きでした。
自分の行動の数々は、どう考えても恋愛感情を抱いて居る者のそれで、きっとお気づきだったのかもしれません。
 
友達っぽい妹のようになら、仲良くしてもらえるかも。
という期待がうっすらありましたが。
そんな安易な期待なんかすぐ見抜かれて、ぴしゃりと拒絶されるのが恐ろしくてたまらず、
 
結局、いつも遠巻きに、そっと眺めては、
目が合わないように慌ててうつむき、
その人が、ときどき私に宛ててさらっと書いて下さっているのではないか、という言葉を、
ご本人に確認もとることもできずに、
そうかな、でもやっぱりそうではないかな、と、ただそうやっていました。
 
その人のことを何も知りません。
検索しても細かい情報がヒットしないので、そういったことを公表するつもりはないのだとすぐ分かりました。
 
だから検索したことは、ほとんどなかったはずです。
私は、その人が望まない情報を勝手に調べるのは嫌でした。
 
昨年の秋頃から今年に入り、たまに検索しても、上位3つの情報をさっと眺めるだけでしたし、この頃、ようやっとその人の写真を探せるようになりました。
 
気がつくと、最初にその人のことを私が認識したときから、10年が経過していました。
10年の間に私は、その人は私のことなどもう憶えておられないだろう、と判断していました。
当然で、妥当な判断です。
 
そうであってもなお、無意識の中に在り続ける自分の片想いに自覚がないまま、私は日々を過ごしていました。
 
ですが、今年に入り、その人が私のことを忘れてなどいなかったこと、わかるように色々と解答や考え方を残しておいてくれたことを知り、挙げ句の果てに、ラブレターを下さっていたことを知りました。
 
その内容は、私の苦しいことをすべて取り除き、取りなして下さる中に、1番、伝えたいメッセージは、私というフィルターを通した言葉にすると、
「いい加減に気づけ! この”うすらトンカチ”」
でした。
 
なので、本稿のタイトルを持って、長い長い私の自覚のない片想いの結末と、生まれて初めてもらったラブレターへのお返事に変えさせていただきます。
 
生意気ですが、書き物専用のドアがついている小さな自室を作っています。
ささやかな窓からは、その人が愛した街を思わせる景色が見え、大好きな夕方の空が広がっています。
 
机の上に、あなたの写真を飾ります。
 
 
20240508 14:53 エナメル
 
 
 
 
 
 20240508 21:32 文章をなおしました。
 

2024/05/06

素敵な名前を持つ小さな庭:五月雨

 
雨の中のブラウン・シュガー

連休最終日、私の住む街は、朝から明るい雨が降っていました。
 
2輪ともブラウン・シュガー

朝早くに目が覚め、呼ばれたような気がして素敵な名前を持つ庭に出ると、温かい五月の雨がとても静かな中、降っていました。
 
ブラウン・シュガーもそうですけれど、こっちベクトルの薔薇は、その時の最高気温、最低気温で赤系の色の出かたが違うんだそうです。
 
このブラウンシュガーは、昨年の秋に開花していた記憶があるのですが。そのときはもっと茜色に近かったように思います。
ですが、素敵な名前の小さな庭で晩秋・冬・春を過ごした後、このように強い赤みを持った花が開きました。
前回の冬は、比較的暖かったような思い出があります。
つまり温かいと赤みが強く出るのが、ブラウンシュガーなのかもしれません。


雨のピエール・ドゥ・ロンサール

今朝の雨は、少し琥珀がかった色の光を持っていたので、少し淡く色が乗っていますが、明るい雨の日のなんともやわらかい光を残しておきたくて、補正で全部消さないでおきました。
私の小さな庭で花開いたピエール・ドゥ・ロンサールが甘受する天上からの”さいわひ”が、素敵なものであるといいのだけれど。
 

雨のビオラ

素敵な名前の小さな庭の冬と春を彩ってくれたビオラの寄植えもそろそろシーズンの終わりを迎えています。
少し4月は家の中のことに夢中になっていたため、あまり剪定や花がら摘みを行えませんでした。
そのせいでかなり徒長してしまい、全体が下の土が見えるほど倒れて咲いていたんですね。
 
それで考えた挙げ句、麻ひもで周りを囲んで軽く結わえて束ねて、茎が伸びたまま生育させています。
 
遠くから見ると、少しだけイングリッシュ・ガーデンの風情があって、なかなかお気に入りです。 
 

雨のピンクパッション(クレマチス)

我が家の巨大なクレマチスはいまちょうど盛りで、次々に大きな蕾が立ち上がり、美しく爛熳です。
 
クレマチスってどうしてこうも惹かれるのかな、と思うと、どこか神秘的なんですよね。
メッセージに象がもしあれば、クレマチスの形で花開くのかな、と思います。
 
 
雨の中のピンクパッション


 
 
私、ピンクパッションがこんなに充実して咲いて、なんだか園芸やってて良かったな、としみじみと熱い心が自分の中にも存在しているのを感じています。 
 
どうしてかわからないんですけれど。
この部屋に来たときに、庭を作ろう、と、どこかで決めていたようにいまでは思います。
 
この部屋のベランダは、とても嫌な記憶がある場所で、最初は植木を置き始めたとき、ものすごくナーバスになったりしていたんですが、ご近所の方々の寛容な沈黙に支えられて、少しずつ充実してきました。
 
シンボルツリーも植えて、せめて近隣の方々の窓から、あの庭は今日はどうだろう? という潤いを提供できないだろうか、という気持ちもありました。
でも毎日カーテンを開けて、庭の様子を無心で眺めているのは、やはり私なんですよね。 

きっと私は、ずっと自分だけの庭が欲しかったんですね。

良かったです。
園芸という趣味を持てて。
 
 
以上、 素敵な名前を持つ小さな庭:五月雨、でした。



20240508 21:48 誤字を直しました。

 
 

2024/05/05

薔薇の名は、ピエール・ドゥ・ロンサール

 

ピエール・ドゥ・ロンサール


 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
 
ゴールデンウイーク半ばです。
 
暑いですね。
私の住む街では、昨日ぐらいから日中の最高気温が上がりエアコンをつけました。
 
いきなり鮮やかな初夏が始まり、少々面食らっているので、なんだか1日コーヒーが飲みたくて仕方がなかったですし、夜はコンビニエンスストアでビールを買ってきて、遅い夕食と共に楽しみました。

衣替えついでに小さな部屋を自分の専用スペースにしようと色々と動いています。
でもなかなか思うように進まず、限られた空間をいかに自分好みにするか頭をフル回転させています。
 
落ち着いた雰囲気でいて植物を少々飾れて、疲れたら少し休憩するコーヒーテーブルと小さな椅子を探しているんですが、これがなかなかないんですよね。

 

前からのピエール・ドゥ・ロンサール

以前、記憶が動画である。と書いたんですが。
実は私のイメージというのは、色のついた出来上がりの絵なんですね。
 
なので、このデザインの椅子。という明確な輪郭はあるものの、実際はネット検索の画像で好みのものをピックアップするので、イメージと違うものばかりに行き当たってしまうんです。
当たり前なんですけれど。
イメージが絵なので。
別に絵画の習いがあるわけではないんですけれど。
みなさんのイメージって絵ですか? それとも写真でしょうか?
医学系の新書を読み解けば、そういったことが書かれているんでしょうか。

 

明るめに調整をいれたピエール・ドゥ・ロンサール

 
さて、本日は、もうすでにしつこくしつこく写真が出ているように(笑)、ピエール・ドゥ・ロンサール祭りとなっております。

 
ピエール・ドゥ・ロンサールは、薔薇栽培に手を出した者の多くが好む薔薇としてとても有名な薔薇です。
一軍の薔薇ということなんですね。
そういう薔薇の著名なコンテストでは、すでに殿堂入りの薔薇です。
 

私は最初は、へえ、そんなもんかな、程度だったんですが。
薔薇の鉢植えがどんどん増えて行くにつれて、ピエール・ドゥ・ロンサールの魅力に気付き、昨年大苗を手に入れて、育てていました。
それが今朝、たくさん出ている蕾の中から5輪ほどが開花していました。
そのひとつを切ってきて、しつこくあらゆる角度から撮影しているのが、今日の写真です(笑)


ななめ後ろからのピエール・ドゥ・ロンサール
 

美しいでしょう?
なんとも上品で瀟洒で気品ある薔薇なんですよね。
これで頑丈というギャップがあって、そんなところも好きです。
 
なんとか開花にこぎ着けた感想は、想像を超えた美しさと繊細さがあり、鮮やかすぎないおとなしめの色で、まるで大人の美しい女性を見かけたような華やぎが胸をよぎります。
 
ご想像のとおり薔薇のハイシーズンは4月末から5月で、素敵な名前の小さな庭の薔薇達はたくさんの蕾をつけており、この一週間で一斉に1番花が咲くようです。
ひっそりした私の小さな庭が、一時的に豪華絢爛な庭になる予定です(笑)
 
やっと体調とコンディションが安定してきたので、素敵な名前を持つ小さな庭に出ると、曇り空の中強い風が吹いていて、雨の匂いがしていました。
五月雨の降る庭がピエール・ドゥ・ロンサールの初日かと、胸ときめかせていたんですが、いまのところ雨はまだやって来ていません。
 

ピオラの開花期も、もうすぐ終わりです。

天気予報によると夜過ぎには雨が落ちてくるそうなので、今夜は雨の音を聞きながら初夏の夜を過ごすので、お供は読書とほんの少しのお酒にしようか、それともカジュアルにビールにしようか、嬉しさの"つもり"を感性を全開にして味わっています。
 
夏は苦手ですが、初夏の強くなった日射しの中、美しい午後をただ贅沢に窓の外を見ながら過ごすのも、とても美しい時間の持ち方ですよね。
 
最高気温に合わせて、私は、今日、サーティーワンのアイスクリームをUber Eatsで頼もうかな、と思っています。
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごし下さい。


 

 20240505 19:39 誤字を直しました。