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うっかりカツカツやって来て、うっかり居ない。( By O.)
 

2023/11/21

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第9夜 ベジタブル ***

 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第9夜 ベジタブル  ***
 
 
 
 
 
 

 

 

 

ベジタブル / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲 / 坂本龍一 (Ryūichi Sakamoto)
アルバム 「copine」収録
 
クレジット Wikipedia ベジタブル より
 
 
 
意外にも、ベジタブルを当ブログで取り上げるのは初めてです。びっくり。
 
こちらは、シングルカットされていた曲で、この楽曲で大貫妙子のことを連想する方は結構おられるのではないでしょうか。
 
C M曲で、日本が誇るコスメブランド資生堂のルージュの宣伝に使用されていました。
私は、当時のこのC Mは観ていないと思うんですが、どうしてか口紅の宣伝に使われていたことは知っていて、大貫妙子が手がけた美しい語句が散りばめられた歌詞に、美しいものへのイメージをよく膨らませています。
2023年現在でも、私のフェイバリットソングのひとつです。
 
大貫妙子とアレンジに参加している坂本龍一が、年月に耐えうる強度を、この楽曲に込めたのだな、と感じていますし、多くの方々にとっても、春を祝福する楽曲としてお馴染みなのではないかと思います。
 
 
「降りしきる花びらで
 街中 夢から醒めたら」
 
ベジタブル / 大貫妙子(Taeko Onuki)より
歌詞提供 Misixmatch 様
 
ベジタブルの詩の中で、「降りしきる花びら」というセンテンスの美しさ、典雅さといったらないんですけれど。
 
こちらのイメージは、いったいどこから大貫妙子の頭の中の世界にやってきたのだろう。とよく考えていました。
 
日本では春になると桜が咲き誇り、白く小さな花びらを散らす景色に、見た人は皆、胸を膨らまします。
 
この景色がイメージ元となって、降る花びらというものは、冬の寒さに眠っていた世界を目醒めさせる、という、楽曲の物語世界の土台になったのだろうか。
 
または、詩人:八木重吉(Jyūkichi Yagi)の詩集「貧しき信徒」にある、「花がふってくると思う」という詩篇からのイメージだったのだろうか。
 
と、八木重吉を読んでいた頃は、偶然なのか、この世界からのウィンクなのか、と胸ときめかせたものです。
 
花がふってくると思う 八木重吉
 
花がふってくると思う
花がふってくるとおもう
この 手のひらにうけとろうとおもう
 
八木重吉 「貧しき信徒」より
八木重吉詩集 鈴木 亨 編
1967年12月10日 株式会社 白凰社
1992年 1月20日 新装版 第16刷P61より抜粋
 
Wikipedia 八木重吉 (Jyūkichi Yagi)
 
 
「花がふってくる」のは、夜だと思うか。昼だと思うか。
そういう話をしていたことがあります。
 
感性が鋭く、服のセンスがとにかく抜群に秀れていたその人は、「夜だと思います」と言いました。
私は、昼だと思う、と言ったんですが。
それを言われた後、夜に花が降ってくる方が美しいし、何より画的にも完成されている。
と、自分のセンスの無さがとても恥ずかしかったことを記憶しています。
 
確かそれ以降は、彼女を真似て、夜だと思う、と言っていたんですが、そもそも、私は、どうして昼だと思ったのだろう、と考えると、ベジタブルを聴いていたからだ、と今日、ベジタブルについて書くために、あれこれ情報を準備している時に、はた、と気がつきました。
 
八木重吉が見ていた花は、白だったのだろうと私は思っていたんですが、それは花であって花びらではありません。
けれど、私はどうしても、「花が降ってくると思う」と空を見つめている時に降ってくるのは、花びらのように思われてしかたありません。
 
この差異は、祝福が降ってくると思う感覚と、報せが降ってくると思うという感覚の差なのではないかな、と思いながら、この絢爛でもあるベジタブルという楽曲をうっとりと聴いています。
 
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第9夜 ベジタブル  *** でした。
 
 
 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!
 
 
 20231122 07:24 文章をなおしました。
 
 
 
 

2023/11/20

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第8夜 Tema Purissima ***


 

Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第8夜 Tema Purissima  ***

 

 


 
 

 

 


 
Tema Purissima / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲 / Marty Paich
 
クレジット Wikipedia Purissimaより
https://w.wiki/8D5g

 
 
じゃあ、Purissimaの話に入りましょーか!(口調は盗用です。)←このスタイルも盗用です。
 
私が、Purissimaについてみなさんに言いたいことは、たったひとつです。
 
このアルバムのプロモーションで、当時F Mラジオ曲で大貫妙子のPurissima特集が組まれたんですが、その時のラジオD Jが、
「大貫さんて・・・、女性の心の中に住む妖精なんじゃないでしょうか!」
と感激しながら思わず口に出したひと言に対し、ラジオの前の大貫妙子を愛聴するリスナーが、
「おっしゃる通り!」
と、全員スタンディングオベーションを贈ったはずという話だけです。
 
プロモーションというと、プロモーションですから、それは大貫妙子に対する思わずのひと言ではなく、あくまでも準備された言葉なのでは?
と心配される方もいると思います。
 
いまは、私はラジオをアプリケーションradikoで聴いておらず、個人的な事情で私の部屋の中に相変わらず燦然と輝きを放っているトランジスタ・ラジオのスイッチを入れていないんですけれども。
 
ラジオというのは、色々と世の中の経済の仕組みに順応しながらも、そうであっても、1本、きっちり芯が通っている、非常にインディペンデントな部分が残りまくっているメディアでもあります。
当時、その番組は、プロモーションもあるけれど、これは良いですね!とラジオ側がガッチリ握手をしないと、かからないという顔も持っている「ハズ」だったんです。
真偽の程は別に大して重要ではありません。
 
大切なのは、その番組で、大貫妙子を招いて、Purissimaの特集を組んでも良い、と判断された上での放送だったということなんです。
 
ラジオは往々にして、そういう「これだ!」という楽曲をいち早く放送したり、アルバムを特集したり、ミュージシャンを招いたりして、生放送をしたりなんかしちゃったりなーんかしちゃってりして、あれ聴いた? と街のウワサになる放送をする、飛び道具的なメディアの顔を持っているんです。
 
なので、この時、大貫妙子本人を前にして、Purissimaの楽曲を聴いたD Jが思わず口にした言葉は、全世界の大貫妙子愛聴者達が全員、前々から思っていたことを放送を通じて、言語化できた、大変エポックメイキングな瞬間だったんです。
 
「大貫さんて・・・、女性の心の中に住む妖精なんじゃないでしょうか!」
 
そういうわけで、今日は、大貫妙子は綺麗なのに、なぜ綺麗とあまり言われていなかったのか。
という、みなさんの言うに言えないご心配について、私の個人的な見解を書きます。
 
楽曲「Tema Purissima」については、みなさんが思ってらっしゃるように、アノ曲で「壮大な伏線」が張られていますので、その楽曲の時に書きたいと思います。お楽しみに!←寝て食べたので、無駄に元気。
 
事実として、大貫妙子は綺麗です。
ビューティフルです。グレーテストです。神秘的です。
植物的であり、繊細であり、雰囲気があり、楚々としており、知的であり、健康的であり、たおやかであり、物憂げでもあり、しなやかであり、芯が強く、キッパリとしている時はキッパリとし、穏やかである時は穏やかな、美人なんていうチンケな漢字は当てはまらない、佳人です。
その上、音楽的な才能に満ち溢れ、ミュージシャンズ フォー ミュージシャンとたまにやっかまれながらも、その実力を、現在の日本のシティポップが世界中で聴かれちゃってるよ、大変だ! 現象で、きっちり結果を出して証明してみせたんです。

 

・・・まぁ、私の熱烈愛の表現はここまでとして。


大貫妙子が美しい人である、という事実をですね、当時のメディアは決して書こうとしなかったんです。
 
理由は、当時の日本では、綺麗な人に綺麗だということは、お仕事の世界では侮辱にあたるからだ。
と信じられていたからです。
 
これだから、日本人っていうのはシャイで困りものなんだよ。と思われますか?
 
そうでしょうか。
 
思うんですけれどね。
仕事しに行ってるのに、しつこくしつこく、あなたはグッドルッキングだ、と言われることって、面倒くさくないですか?


この面倒くさいというのを、もう少しくだけた感じで話すとですね。


「いや、私の家にも鏡あるし、一応、年頃を経て生きてきてるわけだし、C Mにも出たことあるし、そんなにまずいルックスではないだろうくらいは自覚はあるよ。褒めてくれてるのもわかってるよ。その点についてはありがとう。あなたも素敵でクールよ。
でもね。
私は私の気分を良くするためにメイクして服着てここに仕事しに来てるんだけども、あなたがそこまでしつこく言う必要、ある? 本当にある? 私が綺麗なことはあなたに何か関係ある? ここにいる人全員が、あなたのその審美眼の感想を聞かなきゃならない理由は何かあるんですか?」


という面倒くささなんです。
 
それをね? くどくどくどくど、仕事場で誰もに説明して回って、「今から大貫妙子がここにやってくるから、みんな、綺麗だと言わないようにしようね! 言った人はハッピー・アイスクリーム!(誤用)」とは言えないですよね。
 
そして、綺麗な人というのは、本当によく、自分以外の相手が抱く逆の面倒くささの発露から、不愉快な思いをたくさんしているんですよ。
 
それは、相手が、綺麗な人を綺麗だと認識した瞬間、

「自分は外見の綺麗さなんかに態度は変えませんよアピール」

をされるわけです。
 

嫌なことを言われやすかったり、他の人よりもぞんざいに扱われたり、急に毒づかれたり、
まるで、その時だけその人達は、「小学校低学年が、自分が相手を意識してしまったことをひた隠しにする、下手くそな照れ隠しのつもり」の態度と言動を、綺麗な人に向かってあからさまにすることで、
「これをやることで自分はどの人にも公平な態度を貫きますよ」
宣言をご本人じゃなく、周囲の人全員に、または心の中にある世間に向かって、するんです。
 
これは性を問わずあります。
多分、世界中でお馴染みの、綺麗な人々の共通体験なのではないでしょうか。
 
私の住んでいる日本という国でも、あまりにもその態度に辟易して、木村拓哉(Takuya Kimura)という、スーパースターグループ
smapに所属していた中でも、ハンサムでセクシーで有名だった男性が、テレビで発言したことがあるくらいなんですよ。
 
彼の場合は、独身時代、友人達と遊びに行ったお店で、女の子達に「木村拓哉です」と自己紹介した瞬間、知らない人はいない名前ですから、それまで素敵だった女の子達のいく人かは、急に、目の前に立っている木村拓哉を鼻で笑って、あからさまに顔を背けて肩をすくめるような態度をとっていたそうなんです。
 
「私はあんたのことをうっとり見たり、すぐにわーきゃー言わないわよ」アピールですね。
 
それは自分の中にもある「木村拓哉はセクシーでハンサムで抗えない魅力を持っている」という価値観に、抵抗しないとならない理由が彼女達にはあったのだし、肩をすくめる態度を取ることで、私は「綺麗な顔には特別扱いをしません」アピールを、誰も気にしていない全世界に対してしていたんですね。
 
どうしてそこまでしないとならないんでしょうか。
 
それは、美しさというものを目の前にした時、どう振る舞えばいいか、の訓練ができていないからです。
 
訓練ができていないから、美しさというものをどう消化したらいいかわからないし、どう声をかけ、どう態度に現せばいいか、その正解がわからないからです。
 
その上、その正解がわからない言い訳を、相手は自分の美しさを知っているだろうから、自分の魅力に相手が組み敷かれるはずだと信じ込んで慣れているお前、私は他の女とは違うんだから、いい気になるなよ、と釘を刺してあげる模範的な態度である、という妙ちきりんなすり替えを行うんです。
 
そして、そう思うのは自分だけではなく、他の人も同じだろうから、自分が信じている、美しさに対抗できない人間の態度と違う振る舞いをする人間を、凄まじい嗅覚で見つけ、その相手までも、

美しさというものを前にした時の振る舞い方が自分と他者では違う事実が、それは不自然であると信じなければ自分が保てない。

その反応を大声で喚き立てないといけない。

そうしなければ、世の中の、美しさというものを目の前にした時の訓練ができていない他の人間に対して、不公平になってしまう、と思っているからなんです。
 
そうですね。ここまで書くのなら、私は絶世の美女なんでしょう。聞いたことないですけど。
 
続けますが。
 
この不公平である。と思い込んでいる感情は、結局は、美しさというのは平等ではない、ということを認めているんですけれども。
その平等ではないことを、どうにかして公平にしないといけない、という、よくわからない使命感なんですね。
 
わからないから、これは正しいのだ。と思いたいし、人間は顔ではない、ということを証明する態度を、自分は貫ける、これこそが最も知的な態度だと思っているんです。
 
美しさを前に、知的であろうとすること自体、美しさが本能からの反射であるという前提にしたがっているんですから、その人達は、美しさを前にすれば、本能的な衝動に抗えないと信じているんです。
 
そんな普遍的な、絶対的な美しさ、そうそうこの世に存在するはずないんですけれどねー。
だから芸術ってものが滅びないんだし。
 
優勢遺伝の話なら、確かにそれは本能でもあるんでしょう。私は門外漢なので、欲望ということでさっくり進めていきますが。
 
じゃあ、なんだって好みのタイプっていうのが存在するんでしょう。
 
それは、自分の本能や遺伝子情報からの、このタイプを攻略すると、未来にいいことが待っているよ、という予言ですよね。
今風に言うと、提案かもしれない。
 
その提案に是非とも従いたいのが、欲望であり本能だと私は考えていますが。
 
美しさを前にした時の態度が訓練されていないのは、その人達が美しさが存在している現実と本能からの提案を整理できていないだけの話であって、そんなことは綺麗な人達にも、綺麗な人にあっさり綺麗ですね。と言える人間にも、綺麗な人に綺麗だといちいち言っても、いまこの状況に関係ないし、とわかっている人達にも、全然関係ないし、目の前に美しさが存在する。このことは別に、誰に対しても不公平でもなんでもないという、訓練結果のたまものなんですよね。
 
そのことを大貫妙子と一緒に仕事をしてきた人達は、あえて口に出さずとも知っていたのではないんでしょうか。
 
そして、メディアの人達も、その大いなる世知慣れた経験上、大貫妙子を綺麗だと取り上げることは、大貫妙子の仕事と活動の邪魔になる、ということをよくご存知だったからではないか、と私は考えています。
 
大貫妙子は、綺麗であると称されないことで、おそらく、綺麗に不慣れな、たくさんのあれやこれやから、守られてきたのだし、自身の著書にあるように、当時の日本社会で生活する1人の女性として、ただでさえ不愉快な思いをしていたのに、その上、パブリックな場所で、つまらない不平等信仰から投げつけられる余計な荷物を背負わされずに済んでいる自分が、いったい何の知恵によって守られていたのかを、よくわかっていたのではないでしょうか。


その知恵がどこからくるものなのか、私はよく知りませんので、それがなんなのかは分かりません。
 
ただ、そこからくる態度の名前は、大貫妙子の仕事、という才能と結果と実力に対する、尊敬というものの形である、と、国内在住の大貫妙子愛聴者達と同様に、当時、制服を着ていた私もまた、知っている1人です。
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第8夜 Tema Purissima  *** でした。
 
 
 
 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!


 
 
  
 
 
 

それは何も問題じゃない。

 
夜中に目が覚めてしまったので、お茶を飲みながらZOZOの古着を見たりしていたんですけれど。
 
何だか、顔もこわばっているし、頭の中も硬くなってる感じ(あくまで感じです。)だし、どうしちゃったかな。張り切りすぎたかな。と、気になっていることを少し調べたりしていました。
 
それですごく好きだな、と思う文章に行き着いて、ずっとそれを読んでいました。
 
なるほどな。と思ったり、そうなんだな。と思ったり。
 
読み終わるころには、気がつけば、表情がすっかり柔らかくなった感触が戻ってきていて、頭の中もスッキリしていました。
 
いつからかはわからないけれど、読んでくださるみなさんが心配してくださっていた状態に、私は、確かに入りこんでいたのがよくわかりました。
 
すごく、刺々しい、よくない、怒りに似た気持ちが、心全体を覆ってしまっていたみたいです。
 
やさしい気持ちになれて、そんな気持ちになったのが、とても久しぶりだったことにも気がつけました。
 
すごいことですよね。
 
そうやって、大袈裟な言い方だけど、読むものを冷静にさせたり、クスッと笑わせたり、優しくて穏やかで、いま私は元気ではないけれど、ああ大丈夫だ。と思わせることができる、聡明さ、健康的な価値観、しっかりしたメンタリティ。
 
そういうものが、一読しただけで伝わってくる。
 
何ひとつ、よくないものの欠片すらない内容。
 
私見ながら、全くもって愛情の成分しかない、その文章を読めたことを、私にどうやら祝福を与えてくれているらしい、「偶然の神様」のような、何かのタイミングとリズムに感謝しつつ、目が醒めたような心持ちでいます。




2023/11/19

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第7夜 黒のクレール ***


 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第7夜 黒のクレール  ***
 
 
 
 
 
 
 
 
 
黒のクレール / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲 / 坂本龍一 (Ryūichi Sakamoto)
 
Wikipedia 黒のクレール
 
 
大貫妙子を検索すると、楽曲プロフィールに日本では主に、この黒のクレールが代表曲に入っていることが多いです。

アルバム「Cliché」収録ということで、いま知りましたけど、クリシェって売れてたんですね。
 
「ピーターラビットとわたし」や「色彩都市」が収録されてて、私もカセットテープに録音してよく聴いていました。
私は、他には「LABYRINTH」が好きです。
 
アルバム「Cliché」のページには、大貫妙子自身がこのアルバムと収録曲をどう思っていたのか、という情報が盛りだくさんですので、ぜひご覧ください。
私も色々と初めて知れて嬉しかったです。
 
なかでもたくさんのアーティストの方々が大貫妙子の楽曲をカバーしているそうで、「色彩都市」が多いんですね。やっぱり。
私も、「色彩都市」というのは、とてもくつろいだ大貫妙子のイメージがあって、好きな曲です。
 
Wikipedia 「Cliché」
 
 
「黒のクレール」は1聴してフランスの海辺を連想するサウンドと歌詞世界だと私は思います。
前述したWikipediaの「Cliché」のページでは、大貫妙子はアルバム制作の前にパリに行っているので、伝えてくるイメージの正確さにも、舌を巻かれるかたが多いのではないでしょうか。
 
アレンジは盟友:坂本龍一ですが。
坂本龍一にしては、ずいぶん素直なアレンジをしたものだな、と私は思っていたんですけれど、これは大貫妙子の好みが強く反映されていたようですね。
こちらも「黒のクレール」ページを参照してください。
 
私は大貫妙子の頭の中にある、大貫妙子しか行くことが許されない、どこかに似ているどこでもない街や町は、おそらくパリの雰囲気に酷似しているのではないか、と考えています。
 
「Cliché」は1982年制作ですから、意外にも、その前に初めてパリに渡ったそうですので、才能というと簡単すぎますが、大貫妙子の意識というのは、イメージの輪郭がひどく正確なのではないでしょうか。
 
その後の未来で、大貫妙子はアフリカや南極まで足をのばしているので、おそらく、どこかに似ている、どこでもない街や町は、その後も拡大し続け、
ある通りでは「When I Met The Grey Sky」に出てくる様相を持ち、
ある街角では「いつも通り」に出てくる空っ風吹く東京のどこかによく似た通りのまま、
雄大な暁をもつ地平や音が降ってくる星空が見える窓がそこかしこにあり、自由に行き来ができるのかもしれません。
 
そう考えると、大貫妙子の頭の中にある、どこかに似ている、どこでもない街や町の中で、正確にリスナーの私達にイメージを手渡していく、このミュージシャンの感覚は、とても信頼できる感性だと思います。
 
私個人のイメージは、「黒のクレール」は、フランソワーズ・サガンが過ごしたことのある海辺だし、マリ・クレール誌が日本に浸透させたブランドイメージにあるような、明るいけれど、明るすぎない、どこかしら憂鬱な郊外の港。
そんな、機能しているけど寂れた、いつか見たことのある海にまつわる景色です。
その上、それがなぜかサローヤンの「パパ・ユー・アー・クレイジー」の海辺に繋がっていくんですよね。舞台はアメリカなのに。
 
「黒のクレール」で歌われているのは、恋の終わりですが、ここに出てくるソリティアでしかない、終わった恋の行方を占う、非常に退廃的なカードを繰る動作そのものが、哀しみや諦め、孤独、なのに心地よくさえある、孤立した「恋」の世界の象徴のようで、この楽曲をどうしてもエレガンスという装飾にしたかった大貫妙子の感覚に、礼賛だけを胸に、ただ黙って頷くのみです。
 
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第7夜 黒のクレール  *** 、でした。
 
 
 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!
 
 
 
 
 
 

いい靴


 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
 
インフィニティローズのピンク

 
 
 
永遠の名作 「花より男子」の素敵な登場人物:藤堂静が主人公つくしにこう言います。
 
「とびきりいい靴をはきなさい。いい靴は、はき主を素敵な場所に連れて行ってくれる」
 
参考リンク
Otajo 様
花より男子、SATC……『Ane Can』9月号には靴にまつわる名言集がズラリ
 
というわけで、今日は私が危ない目つきで、日々情熱的に愛している靴の話です(笑)
 
先日、靴はいいものを履いてください、と大きなお世話極まりないことを私信で書いたんですけれど。
 
「花より男子」の作中で言われている靴は、とてもいい靴。高い靴。の意味だと私は解釈しています。
 
高い靴というのは、みなさんご存知の通り、足にピッタリ合うサイズに、オーダーで注文して、履いてみると健康にとても良い、歩くときのあの辛い感じがあまり感じられない、と評判の靴のことですね。
 
その他にも、いい靴、というのは、自分が気に入った靴、というものがあると思います。
 
私は、靴は好きですが、自分の足型を持ってるほどではありません。
理由は、常に、オーダーで靴を作ると、それ以外が履けなくなってしまうからです。
 
経験がないので、想像するしかないんですが。
オーダーで靴を作るとき、デザインも自分の好みのものを描いてもらうと、その分、料金が上乗せされてしまうのは当然ですから、私は、そうそう靴にそんなにお金をかけられない層の人間です。
 
ただ、靴に無限にお金はかけられないけれど、素敵な靴というのは、そこそこやはり値段はします。
 
これは私の世の中に対するロマンティックな目線の産物なんですけれど。
 
3980円の靴でも、それが将来、有名デザイナーさんになる人が修行中でそのメーカーの中で仕事をしている可能性。
将来、素晴らしい職人さんとして独立する人が、そのメーカーの工場で携わっている可能性。
 
そういうものがあるかもしれない。
とは思っています。
 
実際、18の時に買った1980円のバレエシューズタイプのエナメルシューズは、かなり履き心地が良かったし、それから3年くらいは余裕で持ちました。
 
だから、お金をそんなにかけないで、素敵な靴を手にいれる、というのは、そう難しいことではないのではないかと思います。
 
いまとは物価が違うので、後で擦り合わせますけれども。
 
若者だった頃、いい靴、ヒールの靴はとりあえず1万円代のものから、という基準を私は持っていました。
 
そこらへんの靴は、とても履き心地がよく、履いて歩いても具合が悪くならず、履いた後、陰干しをして、手入れをして、大切に使っていたら、何年ももちました。
 
いまだと、店頭では、2万円くらいから、になるんでしょうか。
 
お馴染みの「みんな大好き2に0をつけた分の額を引くマジック」でいうと(笑)、19800円ですね。
それが大体、ネット通販では8千円代からで取り扱いがあるようです。
 
スニーカーなら、私の価値観ですけれど、メーカーのもの。
やはり足専門のメーカーのものが私には合っています。
 
私はABCマートで購入しています。
これも6千円から1万円前後。高くて(新し目のモデルで)1万五千円くらいから。
 
こちらは、必ず靴の中の中敷きも店員さんに見つくろってもらって、家に帰って、自分の足のクセに合わせて調整してから履いています。
 
私信で、いい靴をと言ったのは、デザインや品質もですけれど、靴は健康に強く影響があるからなんです。
 
足裏のツボの話もありますし、親指、爪、小指、土踏まず、踵、そのあたりの、足の悩み = 靴の悩みというのは、健康と体調とストレスに直結していますから。
オーダーで靴を作らないのであれば、既製品は必ず自分に合った微調節をしてから履く、というようにしています。
 
みなさんご存知の通り、健康中敷や100均で売っている靴のパットを駆使して、自分の足に合うように既製品を微調整してから履くと、かなり違いますよね。
 
私の場合は、車酔いのようになって気分が悪くなること、めまい、貧血、歩いた後の疲れ方が全く違いました。
 
なので、好きなデザインの靴を見つけたら、必ず、調整して、自分だけの靴にして、長く付き合うようにしています。
 
そろそろ12月ですね。
美味しいものを食べたり、お酒を飲んだり、部屋の中を心地よくしたり、好きなお茶を新しくあつらえたり、クリスマスシーズン限定のコーヒーを買ったりして、自分にプレゼントをしても、どこから見ているのかわからない厳しい自分から、なにかしら許可が出やすい(笑)、月です。
 
もし、いま特に欲しいものが思い当たらないなら、靴をご自身にプレゼントするというのはどうですか?
 
これをお読みになってくださっているプレゼントを探してる方々も、靴をプレゼントに選ぶ、というのは、とてもお互いにとって特別なことではないでしょうか。
サイズ、履く方の好み、履いていく所も一緒にプレゼントに含まれているので、愛情の腕の見せ所のように、私は思います。
 
 
寒くなってきましたね。
温かくして、美味しいものを食べて、とにかく無理をしないで、リラックスしながら、1年で最も世界がデコレーションされる月を過ごしましょう。
 
 
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。