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うっかりカツカツやって来て、うっかり居ない。( By O.)
 

2023/11/23

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第11夜 横顔 ***

 
 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第11夜 横顔  ***
 

 
 
 

 

 

 

 
 横顔 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)

作詞:作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲 / 瀬尾一三 (Ichizo Seo)

クレジット Wikipedia MIGNONNE より
 
 
なんで大貫妙子イベントなのに、初期の楽曲をお前は取りあげないんだ!とお怒りの方々もおられると思いますが、それは全部終わってから、私が取り上げた楽曲の年譜をよーくよーくよーくよーくご覧になっていただいてですね。
大貫妙子に夢中になった小さな私にまで届くほどの、当時の日本国内で、いかに大貫妙子がオールラウンダーでありつつも、メジャー市場で自身の活動をどのように描いていったか、どう格闘していったか、の材料にしていただければと思います。
 
何でもできる人というのは、何でもできるのですが、それをどのようにやっていくか、というひとつひとつの選択と決定に、その人の音楽活動に対する姿勢が分かりますよね。
 
そこの所をよく踏まえた上で、今回のイベントを情報のひとつとしていただきたい!(いや口調・・・。)
ただのセンチメンタルでやってるんじゃあないんです!(センチメンタルと何かあったの?)
 
私は「横顔」というひとつの楽曲が、大貫妙子の楽曲の中で1番好きです。
 
同じ方はたくさんおられますよね!嬉しいです!
シティポップ最高!
 
こちらの「横顔」は、いかようにも解釈ができる楽曲です。
素晴らしいですね!
解釈の幅がある程度あり、どうしても言葉を尽くして説明したくなる気持ちをグッと堪えて、どこで止めて作品とするのか。
どこまでで自身が構築した世界を委ねるのか。
そこが手腕の見せどころだと、私は思います。
 
色々な評論や解釈、レビューを読んで、同じだな、と思ったり、こういう風に聴くこともできるのか、と驚かれたり、私個人としては、自由に好きに聴いて、ご自分だけの「横顔」という楽曲を胸の中に取り込んでくださればいいな、と思っています。
なぜなら、私もそうしているからです。
 
それは大貫妙子がオールラウン(以下強制略)←わかったわかった。
 
どうして大貫妙子の初期の楽曲から世界中で、大貫妙子について、その頃のシティポップと呼ばれる楽曲、考え方、美しい言葉群、描かれた状況が愛好されるのか、というと、それはその当時のクリエイター、ミュージシャン達が、世界中で現在も愛聴されることに耐えられるものを作っていたからです。
 
そして、誰も信じていなかった、世界で日本の音楽を日本語で鳴らす、ということに全力に取り組んでいたからです。
真剣にそれをやっていたからです。
なにもかもに一切、諦めの姿勢で言い訳したり、物分かりのいい顔をせず、自分たちが信じる音楽を作ったんです。
その結果が時を超えて出ているだけです。
 
私は当時を知りません。知っているけれど知りません。
けれど、幼少期、叱られながらも、現在は作詞家としても日本国内でその実力を余すところなく発揮し続けてきた、実は、「はっぴいえんど」でもある松本隆(Takashi Matsumoto)の歌詞をずっとノートに書き写していました。
どんなに邪魔されても私はやめなかった。
 
それはくだらない、とされていたし、馬鹿馬鹿しいとされていたし、歌詞は詩に決して届かないものだし、なにより日本国内の若い文学的要素はいつも馬鹿にされていた。
その前提が世の中にあった。
音楽でもそれはあり、日本語で歌うということは、格好の悪いことで、知的ではない、本物を知らない、ひ弱な青年文士を気取って、大衆性も持っていないブルジョア作法でしかない。
そういう批判がありましたし、嘲笑がありました。
私の周囲の小さな現実には、それがありました。
私は文化の中心地にいませんでしたので、実際はどうであったのかは、興味があるならお調べになってくださいね。
 
どうしてそんなことになっていたのか、よく分かりません。
 
その潮流の中心におられた方々は、別に刺し違える気概で常にガツガツやっていたのでは、おそらくなく。
単に、自分が良いと思うことに誠実であったのだと思いますし、探し続けることをやめなかったのだろうと、思います。
そして自分たちの表現が、仕事としてどのように成り立つのかを考え続けておられたのではないでしょうか。
表現を愛する1部の方達が大嫌いな経済という仕組みに、勇敢に取り組んでいた結果が伝播して、遠くの私の元にやってきていたんです。
本当によかった。そっちの方に進んでくださって!
 
少し大きくなって大貫妙子の歌詞を書き写し始めた時、私はこの人を多分ずっと聴き続けるし、影響を強く受けるだろうな、と、小さな胸に感じました。
だから絶対に、大貫妙子から影響を受けていることを、この先も受け続けることに、簡単であってはならない、と思いました。
 
あっさり、何でもかんでも、大貫妙子が言うとおりにし、大貫妙子が選ぶことを真似し、大貫妙子の劣化完コピーになってはならない、と強く思ったし、それは未来の自分への小さな約束でもありました。
 
いろんな音楽を聴こう。もっと知ろう。そうしながら、せめて私のいた小さな現実で、あの人、音楽に詳しいほうだけど、そういう人が好きだっていう大貫妙子は、好き嫌いはともかく、凄い人なんだよ。
そう言われるようになろう。
そう思いました。
 
私は知っていました。
何を知ろうと、何にハマろうと、大貫妙子は1歩も引かないだろう。
いつかそれが証明される。
 
ご存知の通り、大貫妙子の音楽活動は、ランキングトップを走る活動ではありません。
大貫妙子自身は、メジャーというマスのなかに入ることも厭わないミュージシャンです。
それでも、本当に長い間、成績という面で、大貫妙子は苦渋を舐めてきました。
私たちリスナーは、それでも大貫妙子が表現し続ける世界を支持し続けていました。
 
それが不思議なことに、なんと2023年現在、大貫妙子というワードでイベントをやった途端、私がやっているような小さなブログでも、違う言語圏の人たちが来てくれる。
 
これは証明という結論だと私は思っています。
 
大貫妙子を、みなさんが証明してくださった。
私はそれがとても嬉しいです。
 
大貫妙子が創ってきた楽曲の中で、「横顔」という曲が私は、1番好きです。
みなさんは大貫妙子ではどの曲が好きですか?
 
それはみなさんのどんな気持ちにクリティカルだったんでしょう。
みなさんが手に取った大貫妙子のアルバムは、どんな感じでどんな気分になられましたか?
それはアナログ盤ですか? C Dですか? デジタル音源ですか?
 
カセットテープでしたら、聴く用と保存用に2つ買うことをお勧めします。
テープは聴いているうちに音が伸びてしまい、最初に録音したときとは似ても似つかない音になります。
のびたテープで再生される音を聴きながら、録音した当時の音に修正しながら、耳を傾ける、という記憶力の訓練にはなるけれど、よくわからないことになりますので、これは覚えていってください。
 
みなさんは今、どこにいて、なにをされてますか?
どのように世界を見て、どのような現実を生きて、その暮らしの中で建てた、きっと素敵な部屋の中で、いつ、どんな時に大貫妙子を聴かれていますか?
 
スピーカーの前で膝を抱えたり、リラックスしたソファの上で、椅子のそばにコーヒーテーブルを持ってきて、お気に入りの飲み物を入れて、ガジェットで歌詞を表示しながら聴いていますか?
その言葉は、みなさんが大切にしている母国語で、でしょうか。
それとも、Google Chromeで翻訳された言葉で、でしょうか。
それとも、翻訳できる言葉にご自身の言葉がなくて、ワンクッション置いた英語から聴かれてるんでしょうか。
 
今は夏ですか? 春ですか? 冬ですか? それとも美しい秋ですか?
今日はどんな日でしたか?
昨日は何がありましたか?
明日は仕事ですか?
それともお休みですか?
 
好きな人はいますか?
嫌いになったことはなんですか?
楽しいことはなんですか?
面白かったことはなんですか?
止めていることはなんですか?
始めようと思っていることは?
その窓から見える景色はどんな感じですか?
 
あなたがそっと見つめる「横顔」を持っている人は、どんな人ですか?
 
 
大貫妙子を見つけてくださって、ありがとう。
私たちができなかった、仇をとってくれてありがとう!
 
大貫妙子は最高です。
 
時間や場所や国や言語を越えて、そのことを共有できる現在がとても嬉しいです。
 
なにより、分かち合えるイメージが記憶に残り、繰り返し繰り返し、いつか、どこかで、あなたの中で再生され続ける。
そんな、奇跡ともいえる、いまが全部につながっていくきっかけになる、テクノロジーに感謝しつつ。
 
大きな声でその人が笑ったら、なぜか自分も、そっと楽しくなる毎日を、想い出を、未来の予感を、どうか大切にしていてください。
 
それが何であるのかは、あなたご自身が大事に決めていい。
 
 
良い時間を。
 
 
 
Butterfly Just Dance  エナメル
 
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第11夜 横顔  *** でした。
 
 
 
 
それでは、それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!
 
 
 
20231123 22:17 文章をなおしました。
 
 
 
 

2023/11/22

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第10夜 お天気いい日 ***

 
 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第10夜 お天気いい日  ***
 
 
 

 
  

 
   
 
 
 
お天気いい日 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
作詞 / 羽仁未央 (Mio Hani)
作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲 / 鈴木さえ子 (Saeko Suzuki)

 
アルバム「アフリカ動物パズル」収録
クレジット Wikipedia 「アフリカ動物パズル」 より
https://w.wiki/8EUN
 
 
いまクレジットを調べて大貫妙子の作詞でないことに、驚きまくっています。
いまのいままで、この楽曲はいつも通り大貫妙子の手によるものだとばかり思っていました。
 
作詞をされた羽仁未央の中に、どうしてこの世界があったのかは私は存じません。
驚いて羽仁未央の来歴をWikipediaで読みましたが、作品を読んでいないので、お天気いい日の世界が何とも推察できません。
ちなみに同アルバム収録の「裸足のロンサム・カウボーイ」「ソーン・トゥリーのうた」の作詞も羽仁未央の手によるものです。
 
アルバム「アフリカ動物パズル」については、前述したリンクをご覧になっていただければと思います。
 
「アフリカ動物パズル」については、私は、映画のサウンドトラックという説明が書いてあったかどうかもあまり記憶しておりません。

理由は、インストゥルメンタル(歌のない楽曲)が多く収録されており、大貫妙子のサウンドを読み解く上で、このアルバム制作前にアフリカに旅をしていますので、圧倒されるものに触れた後の大貫妙子が、どのようにそれを新しいサウンドで表現していったか、という興味を、私はあまり持てなかったんです。
 
アルバム全体を通して何回か聴いた時に、繰り返しますが、大貫妙子の著書を題材に、映画が創られ、そのサウンドトラックである。という事前情報を入れていなかったので、どうしてソーン・トゥリーのうたが英語詞なのか、お天気いい日は一体、誰の何のイメージなのか、わからなかったんです。音と歌詞でうまくイメージできなかったんです。
 
実は、今回のイベントで取り上げるために、私のフェイバリット大貫妙子特集簡易版を、iTunesのプレイリストに作ったんですけれど、そこにも「アフリカ動物パズル」の楽曲のことは忘れていて、入れてなかったんです。
 
それが、昨日の「ベジタブル」の投稿を書くときに、ひょんなことから、「お天気いい日」の音を聴き、そうだった。そうだった。と慌てて、今朝、「お天気いい日」と「ソーン・トゥリーのうた」の歌をダウンロード購入して、プレイリストに追加したんですね。
 
それが、どうもうまく言葉が出なくて、「地下鉄のザジ」にするべきだっただろうか、と後悔していた矢先に、大貫妙子の歌詞ではなかったことがわかって、すごく納得できています。
 
なぜ大貫妙子は、アフリカ滞在後に、「お天気いい日」のサウンドだけを創ったんでしょう。
おそらく、圧倒的なものに触れた体験が、まだ歌詞になる程消化できていなかったし、体験自体を寝かせる時間が足りなかったのかもしれません。
 
羽仁未央の詩世界が大貫妙子の楽曲に合っていないということを言っているのではなく、wikiによるとエッセイストだった羽仁未央の方が、体験を言語化して洗練させるまで練るスピードが早かったのだろうな、と私は考えています。
 
面白いですよね。クリエイターによって、詩に到達するまでの感覚が違う可能性がわかって。
 
もしかしたら、アフリカ滞在時の体験を記した大貫妙子の著書を映像化した羽仁未央というフィルターを通して、「アフリカ動物パズル」というアルバムが生み出されたので、その世界観を最も確実に「お天気いい日」のメロディに言語化できたのが、羽仁未央だったのかもしれませんね。
 
以前、当ブログで、何曜日が好きか考えたこともなかったけれど、水曜日が好きです。と答えましたが。
いま考えると、当ブログの時差であっても、これだけ出てくる言葉、感じたこと、思ったことで違いがあります。
多分、私の中に「お天気いい日」の女の子が好きな曜日が眠っていたから、パッと浮かんだのが水曜日だったのかもしれません。
 
ブログというのは、2023年のネットでとても遅い、スロウなメディアですけれど。
その遅いメディアであっても、情報公開するスピードが現実世界に比べれば早い方なので、旧ツイッター・Xの情報伝播スピードとアプリケーション上での経済のスピードは、比べ物にならないほど早く、それがなぜか現実に繋がっているのって、なかなか不思議で面白いですよね。
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第10夜 お天気いい日  *** でした。
 
 
それでは、それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2023/11/21

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第9夜 ベジタブル ***

 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第9夜 ベジタブル  ***
 
 
 
 
 
 

 

 

 

ベジタブル / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲 / 坂本龍一 (Ryūichi Sakamoto)
アルバム 「copine」収録
 
クレジット Wikipedia ベジタブル より
 
 
 
意外にも、ベジタブルを当ブログで取り上げるのは初めてです。びっくり。
 
こちらは、シングルカットされていた曲で、この楽曲で大貫妙子のことを連想する方は結構おられるのではないでしょうか。
 
C M曲で、日本が誇るコスメブランド資生堂のルージュの宣伝に使用されていました。
私は、当時のこのC Mは観ていないと思うんですが、どうしてか口紅の宣伝に使われていたことは知っていて、大貫妙子が手がけた美しい語句が散りばめられた歌詞に、美しいものへのイメージをよく膨らませています。
2023年現在でも、私のフェイバリットソングのひとつです。
 
大貫妙子とアレンジに参加している坂本龍一が、年月に耐えうる強度を、この楽曲に込めたのだな、と感じていますし、多くの方々にとっても、春を祝福する楽曲としてお馴染みなのではないかと思います。
 
 
「降りしきる花びらで
 街中 夢から醒めたら」
 
ベジタブル / 大貫妙子(Taeko Onuki)より
歌詞提供 Misixmatch 様
 
ベジタブルの詩の中で、「降りしきる花びら」というセンテンスの美しさ、典雅さといったらないんですけれど。
 
こちらのイメージは、いったいどこから大貫妙子の頭の中の世界にやってきたのだろう。とよく考えていました。
 
日本では春になると桜が咲き誇り、白く小さな花びらを散らす景色に、見た人は皆、胸を膨らまします。
 
この景色がイメージ元となって、降る花びらというものは、冬の寒さに眠っていた世界を目醒めさせる、という、楽曲の物語世界の土台になったのだろうか。
 
または、詩人:八木重吉(Jyūkichi Yagi)の詩集「貧しき信徒」にある、「花がふってくると思う」という詩篇からのイメージだったのだろうか。
 
と、八木重吉を読んでいた頃は、偶然なのか、この世界からのウィンクなのか、と胸ときめかせたものです。
 
花がふってくると思う 八木重吉
 
花がふってくると思う
花がふってくるとおもう
この 手のひらにうけとろうとおもう
 
八木重吉 「貧しき信徒」より
八木重吉詩集 鈴木 亨 編
1967年12月10日 株式会社 白凰社
1992年 1月20日 新装版 第16刷P61より抜粋
 
Wikipedia 八木重吉 (Jyūkichi Yagi)
 
 
「花がふってくる」のは、夜だと思うか。昼だと思うか。
そういう話をしていたことがあります。
 
感性が鋭く、服のセンスがとにかく抜群に秀れていたその人は、「夜だと思います」と言いました。
私は、昼だと思う、と言ったんですが。
それを言われた後、夜に花が降ってくる方が美しいし、何より画的にも完成されている。
と、自分のセンスの無さがとても恥ずかしかったことを記憶しています。
 
確かそれ以降は、彼女を真似て、夜だと思う、と言っていたんですが、そもそも、私は、どうして昼だと思ったのだろう、と考えると、ベジタブルを聴いていたからだ、と今日、ベジタブルについて書くために、あれこれ情報を準備している時に、はた、と気がつきました。
 
八木重吉が見ていた花は、白だったのだろうと私は思っていたんですが、それは花であって花びらではありません。
けれど、私はどうしても、「花が降ってくると思う」と空を見つめている時に降ってくるのは、花びらのように思われてしかたありません。
 
この差異は、祝福が降ってくると思う感覚と、報せが降ってくると思うという感覚の差なのではないかな、と思いながら、この絢爛でもあるベジタブルという楽曲をうっとりと聴いています。
 
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第9夜 ベジタブル  *** でした。
 
 
 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!
 
 
 20231122 07:24 文章をなおしました。
 
 
 
 

2023/11/20

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第8夜 Tema Purissima ***


 

Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第8夜 Tema Purissima  ***

 

 


 
 

 

 


 
Tema Purissima / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲 / Marty Paich
 
クレジット Wikipedia Purissimaより
https://w.wiki/8D5g

 
 
じゃあ、Purissimaの話に入りましょーか!(口調は盗用です。)←このスタイルも盗用です。
 
私が、Purissimaについてみなさんに言いたいことは、たったひとつです。
 
このアルバムのプロモーションで、当時F Mラジオ曲で大貫妙子のPurissima特集が組まれたんですが、その時のラジオD Jが、
「大貫さんて・・・、女性の心の中に住む妖精なんじゃないでしょうか!」
と感激しながら思わず口に出したひと言に対し、ラジオの前の大貫妙子を愛聴するリスナーが、
「おっしゃる通り!」
と、全員スタンディングオベーションを贈ったはずという話だけです。
 
プロモーションというと、プロモーションですから、それは大貫妙子に対する思わずのひと言ではなく、あくまでも準備された言葉なのでは?
と心配される方もいると思います。
 
いまは、私はラジオをアプリケーションradikoで聴いておらず、個人的な事情で私の部屋の中に相変わらず燦然と輝きを放っているトランジスタ・ラジオのスイッチを入れていないんですけれども。
 
ラジオというのは、色々と世の中の経済の仕組みに順応しながらも、そうであっても、1本、きっちり芯が通っている、非常にインディペンデントな部分が残りまくっているメディアでもあります。
当時、その番組は、プロモーションもあるけれど、これは良いですね!とラジオ側がガッチリ握手をしないと、かからないという顔も持っている「ハズ」だったんです。
真偽の程は別に大して重要ではありません。
 
大切なのは、その番組で、大貫妙子を招いて、Purissimaの特集を組んでも良い、と判断された上での放送だったということなんです。
 
ラジオは往々にして、そういう「これだ!」という楽曲をいち早く放送したり、アルバムを特集したり、ミュージシャンを招いたりして、生放送をしたりなんかしちゃったりなーんかしちゃってりして、あれ聴いた? と街のウワサになる放送をする、飛び道具的なメディアの顔を持っているんです。
 
なので、この時、大貫妙子本人を前にして、Purissimaの楽曲を聴いたD Jが思わず口にした言葉は、全世界の大貫妙子愛聴者達が全員、前々から思っていたことを放送を通じて、言語化できた、大変エポックメイキングな瞬間だったんです。
 
「大貫さんて・・・、女性の心の中に住む妖精なんじゃないでしょうか!」
 
そういうわけで、今日は、大貫妙子は綺麗なのに、なぜ綺麗とあまり言われていなかったのか。
という、みなさんの言うに言えないご心配について、私の個人的な見解を書きます。
 
楽曲「Tema Purissima」については、みなさんが思ってらっしゃるように、アノ曲で「壮大な伏線」が張られていますので、その楽曲の時に書きたいと思います。お楽しみに!←寝て食べたので、無駄に元気。
 
事実として、大貫妙子は綺麗です。
ビューティフルです。グレーテストです。神秘的です。
植物的であり、繊細であり、雰囲気があり、楚々としており、知的であり、健康的であり、たおやかであり、物憂げでもあり、しなやかであり、芯が強く、キッパリとしている時はキッパリとし、穏やかである時は穏やかな、美人なんていうチンケな漢字は当てはまらない、佳人です。
その上、音楽的な才能に満ち溢れ、ミュージシャンズ フォー ミュージシャンとたまにやっかまれながらも、その実力を、現在の日本のシティポップが世界中で聴かれちゃってるよ、大変だ! 現象で、きっちり結果を出して証明してみせたんです。

 

・・・まぁ、私の熱烈愛の表現はここまでとして。


大貫妙子が美しい人である、という事実をですね、当時のメディアは決して書こうとしなかったんです。
 
理由は、当時の日本では、綺麗な人に綺麗だということは、お仕事の世界では侮辱にあたるからだ。
と信じられていたからです。
 
これだから、日本人っていうのはシャイで困りものなんだよ。と思われますか?
 
そうでしょうか。
 
思うんですけれどね。
仕事しに行ってるのに、しつこくしつこく、あなたはグッドルッキングだ、と言われることって、面倒くさくないですか?


この面倒くさいというのを、もう少しくだけた感じで話すとですね。


「いや、私の家にも鏡あるし、一応、年頃を経て生きてきてるわけだし、C Mにも出たことあるし、そんなにまずいルックスではないだろうくらいは自覚はあるよ。褒めてくれてるのもわかってるよ。その点についてはありがとう。あなたも素敵でクールよ。
でもね。
私は私の気分を良くするためにメイクして服着てここに仕事しに来てるんだけども、あなたがそこまでしつこく言う必要、ある? 本当にある? 私が綺麗なことはあなたに何か関係ある? ここにいる人全員が、あなたのその審美眼の感想を聞かなきゃならない理由は何かあるんですか?」


という面倒くささなんです。
 
それをね? くどくどくどくど、仕事場で誰もに説明して回って、「今から大貫妙子がここにやってくるから、みんな、綺麗だと言わないようにしようね! 言った人はハッピー・アイスクリーム!(誤用)」とは言えないですよね。
 
そして、綺麗な人というのは、本当によく、自分以外の相手が抱く逆の面倒くささの発露から、不愉快な思いをたくさんしているんですよ。
 
それは、相手が、綺麗な人を綺麗だと認識した瞬間、

「自分は外見の綺麗さなんかに態度は変えませんよアピール」

をされるわけです。
 

嫌なことを言われやすかったり、他の人よりもぞんざいに扱われたり、急に毒づかれたり、
まるで、その時だけその人達は、「小学校低学年が、自分が相手を意識してしまったことをひた隠しにする、下手くそな照れ隠しのつもり」の態度と言動を、綺麗な人に向かってあからさまにすることで、
「これをやることで自分はどの人にも公平な態度を貫きますよ」
宣言をご本人じゃなく、周囲の人全員に、または心の中にある世間に向かって、するんです。
 
これは性を問わずあります。
多分、世界中でお馴染みの、綺麗な人々の共通体験なのではないでしょうか。
 
私の住んでいる日本という国でも、あまりにもその態度に辟易して、木村拓哉(Takuya Kimura)という、スーパースターグループ
smapに所属していた中でも、ハンサムでセクシーで有名だった男性が、テレビで発言したことがあるくらいなんですよ。
 
彼の場合は、独身時代、友人達と遊びに行ったお店で、女の子達に「木村拓哉です」と自己紹介した瞬間、知らない人はいない名前ですから、それまで素敵だった女の子達のいく人かは、急に、目の前に立っている木村拓哉を鼻で笑って、あからさまに顔を背けて肩をすくめるような態度をとっていたそうなんです。
 
「私はあんたのことをうっとり見たり、すぐにわーきゃー言わないわよ」アピールですね。
 
それは自分の中にもある「木村拓哉はセクシーでハンサムで抗えない魅力を持っている」という価値観に、抵抗しないとならない理由が彼女達にはあったのだし、肩をすくめる態度を取ることで、私は「綺麗な顔には特別扱いをしません」アピールを、誰も気にしていない全世界に対してしていたんですね。
 
どうしてそこまでしないとならないんでしょうか。
 
それは、美しさというものを目の前にした時、どう振る舞えばいいか、の訓練ができていないからです。
 
訓練ができていないから、美しさというものをどう消化したらいいかわからないし、どう声をかけ、どう態度に現せばいいか、その正解がわからないからです。
 
その上、その正解がわからない言い訳を、相手は自分の美しさを知っているだろうから、自分の魅力に相手が組み敷かれるはずだと信じ込んで慣れているお前、私は他の女とは違うんだから、いい気になるなよ、と釘を刺してあげる模範的な態度である、という妙ちきりんなすり替えを行うんです。
 
そして、そう思うのは自分だけではなく、他の人も同じだろうから、自分が信じている、美しさに対抗できない人間の態度と違う振る舞いをする人間を、凄まじい嗅覚で見つけ、その相手までも、

美しさというものを前にした時の振る舞い方が自分と他者では違う事実が、それは不自然であると信じなければ自分が保てない。

その反応を大声で喚き立てないといけない。

そうしなければ、世の中の、美しさというものを目の前にした時の訓練ができていない他の人間に対して、不公平になってしまう、と思っているからなんです。
 
そうですね。ここまで書くのなら、私は絶世の美女なんでしょう。聞いたことないですけど。
 
続けますが。
 
この不公平である。と思い込んでいる感情は、結局は、美しさというのは平等ではない、ということを認めているんですけれども。
その平等ではないことを、どうにかして公平にしないといけない、という、よくわからない使命感なんですね。
 
わからないから、これは正しいのだ。と思いたいし、人間は顔ではない、ということを証明する態度を、自分は貫ける、これこそが最も知的な態度だと思っているんです。
 
美しさを前に、知的であろうとすること自体、美しさが本能からの反射であるという前提にしたがっているんですから、その人達は、美しさを前にすれば、本能的な衝動に抗えないと信じているんです。
 
そんな普遍的な、絶対的な美しさ、そうそうこの世に存在するはずないんですけれどねー。
だから芸術ってものが滅びないんだし。
 
優勢遺伝の話なら、確かにそれは本能でもあるんでしょう。私は門外漢なので、欲望ということでさっくり進めていきますが。
 
じゃあ、なんだって好みのタイプっていうのが存在するんでしょう。
 
それは、自分の本能や遺伝子情報からの、このタイプを攻略すると、未来にいいことが待っているよ、という予言ですよね。
今風に言うと、提案かもしれない。
 
その提案に是非とも従いたいのが、欲望であり本能だと私は考えていますが。
 
美しさを前にした時の態度が訓練されていないのは、その人達が美しさが存在している現実と本能からの提案を整理できていないだけの話であって、そんなことは綺麗な人達にも、綺麗な人にあっさり綺麗ですね。と言える人間にも、綺麗な人に綺麗だといちいち言っても、いまこの状況に関係ないし、とわかっている人達にも、全然関係ないし、目の前に美しさが存在する。このことは別に、誰に対しても不公平でもなんでもないという、訓練結果のたまものなんですよね。
 
そのことを大貫妙子と一緒に仕事をしてきた人達は、あえて口に出さずとも知っていたのではないんでしょうか。
 
そして、メディアの人達も、その大いなる世知慣れた経験上、大貫妙子を綺麗だと取り上げることは、大貫妙子の仕事と活動の邪魔になる、ということをよくご存知だったからではないか、と私は考えています。
 
大貫妙子は、綺麗であると称されないことで、おそらく、綺麗に不慣れな、たくさんのあれやこれやから、守られてきたのだし、自身の著書にあるように、当時の日本社会で生活する1人の女性として、ただでさえ不愉快な思いをしていたのに、その上、パブリックな場所で、つまらない不平等信仰から投げつけられる余計な荷物を背負わされずに済んでいる自分が、いったい何の知恵によって守られていたのかを、よくわかっていたのではないでしょうか。


その知恵がどこからくるものなのか、私はよく知りませんので、それがなんなのかは分かりません。
 
ただ、そこからくる態度の名前は、大貫妙子の仕事、という才能と結果と実力に対する、尊敬というものの形である、と、国内在住の大貫妙子愛聴者達と同様に、当時、制服を着ていた私もまた、知っている1人です。
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第8夜 Tema Purissima  *** でした。
 
 
 
 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!


 
 
  
 
 
 

それは何も問題じゃない。

 
夜中に目が覚めてしまったので、お茶を飲みながらZOZOの古着を見たりしていたんですけれど。
 
何だか、顔もこわばっているし、頭の中も硬くなってる感じ(あくまで感じです。)だし、どうしちゃったかな。張り切りすぎたかな。と、気になっていることを少し調べたりしていました。
 
それですごく好きだな、と思う文章に行き着いて、ずっとそれを読んでいました。
 
なるほどな。と思ったり、そうなんだな。と思ったり。
 
読み終わるころには、気がつけば、表情がすっかり柔らかくなった感触が戻ってきていて、頭の中もスッキリしていました。
 
いつからかはわからないけれど、読んでくださるみなさんが心配してくださっていた状態に、私は、確かに入りこんでいたのがよくわかりました。
 
すごく、刺々しい、よくない、怒りに似た気持ちが、心全体を覆ってしまっていたみたいです。
 
やさしい気持ちになれて、そんな気持ちになったのが、とても久しぶりだったことにも気がつけました。
 
すごいことですよね。
 
そうやって、大袈裟な言い方だけど、読むものを冷静にさせたり、クスッと笑わせたり、優しくて穏やかで、いま私は元気ではないけれど、ああ大丈夫だ。と思わせることができる、聡明さ、健康的な価値観、しっかりしたメンタリティ。
 
そういうものが、一読しただけで伝わってくる。
 
何ひとつ、よくないものの欠片すらない内容。
 
私見ながら、全くもって愛情の成分しかない、その文章を読めたことを、私にどうやら祝福を与えてくれているらしい、「偶然の神様」のような、何かのタイミングとリズムに感謝しつつ、目が醒めたような心持ちでいます。