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うっかりカツカツやって来て、うっかり居ない。( By O.)
 

2023/11/19

書いて良かったです。

 
ただの罵倒でしかない本文を削除しました。 
20231216 11:39

追記
そんなに精神状態悪い感じしますか?
うーん。
 
私としては、誰でも知ってる作家の誰でも知ってる作品あげたことで、結構、簡単だと思ってるんですが。 
悪くなると、もっとねじくれたセレクトをするので、自分では特に危ない感じはしていません。

でも、ここを読んでくださるみなさんが、1番、私の状態をよくご存知ですので、しばらくは、通常投稿やイベント以外は控えますね。
 
教えてくださり、ありがとうございました。
ちゃんと食べて、寝ますね。
どうか、温かくしてお過ごしください。
嬉しかったです。


 
 

2023/11/18

書いた理由

私も言わないでおこうと思っていたんです。
 
黙って、自分だけがわかってる、激しい怒りの気持ちを持っていたら、それでいいし、沈黙は金だと私は思うので。
 
で、そうしていたら、なんか、果てしなく誤解・曲解されていくし、無表情で、しら〜っと数年間、無反応でいても、いつまでも続けてくるし。
 
どうすりゃ気が済むのさ。と思っていたんですけれど。 
 
よくわからないけれど、怒らせたいんだろうな、と見ていたので、じゃあ、そろそろ感情を出してみようかな、と思いました。
 
それで、10年以上くらいぶりに(もっとかな?)、ちょっと本当に怒ってみようかな。と思って、ネットで怒ってみました。
 
 

いま応援している方達のライブイベントやコンサートにも行くつもりもありません。

なので、必要なところに登録をしてません。
 
何か、国内で、私の興味がある会? 集まり? みたいなのがあっても、まず行かないと思います。
 

 
明日は日曜版とイベントの投稿を予定しています。
よかったら読んでいただけると嬉しいです。 
 
怒ると疲れますね。ぐったり。
 
追記
 


ちょっと疲れてるんです。新しく書こうと思っている物語のネタに引っ張られてるだけです。

 
 
 

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第6夜 若き日の望楼 ***

 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第6夜 若き日の望楼  ***
 
 
 
若き日の望楼 / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子(Taeko Onuki)
編曲 / 坂本龍一(Ryūichi Sakamoto)
 
クレジット Wikipedia 「ROMANTIQUE」より
https://w.wiki/6D6e
 
 

アルバム「ROMANTIQUE」収録。
Wikipediaを見ると、大貫妙子のこのアルバムについての考えがたくさん記述されています。
それだけ誤解もあったのだろうし、曲解されたのかもしれませんね。
私は前述したように、まず聴いて、自分がどう思ったか、感じたか、を大切にするので、もしアルバム「ROMANTIQUE」を未聴の方は、私は、聴いてから、そちらを読まれるのをお勧めします。
 
確か、私も、最初に大貫妙子を聴いたのは、「ROMANTIQUE」だったのではないでしょうか。
それ以前に、F Mラジオで大貫妙子の「ピーターラビットとわたし」をエアチェックしていて、知ってはいたんですが、ちょうどその頃、シャンソンを聴いてみたかったので、確か、お店の人に日本のシャンソンでニュー・ミュージック寄りの好みを伝えて、出してきてもらったのが、大貫妙子の「ROMANTIQUE」だったような記憶があります。
その頃、まだ小学生だったので、お店の人もすごく困ったと思います。
でもこれ、阿川泰子(Yasuko Agawa)をたどっている最中に、隣のコーナーに「ROMANTIQUE」が置いてあって、なんかヨーロッパっぽいし、と思って、手に取ったのかもしれません。
 

 

 
それで「ROMANTIQUE」の中で、シャンソンではないかと思ったのが、「若き日の望楼」です。
同アルバム収録曲の「BOHEMIAN」の歌詞にシャンソンという言葉が出てくるし、大貫妙子ってきっとシャンソン歌手なんだろうけど、別の曲も創る人なのだろう、くらいの認識です。
でも、おかしいなと思ったのが、「若き日の望楼」って、ギターが出てくるんですけれど。
そのギターの音触がロックの音なんですよ。
あれ? と思って。
それで確かお店に行って、大貫妙子の他のアルバムジャケットを見て、それで大貫妙子がギター(ベース?)と一緒に写っていたのを見て、まず間違いなく、この綺麗な人は、シャンソン歌手ではないな、と1人、納得をしておりました。
 
さあ、綺麗だと書いてしまいました。
もしかして、みなさんは、どうして大貫妙子が才能があり、楽曲も声も文章も語りも素晴らしいだけでなく、美しいということを誰も何も言わないんだ!
大貫妙子は辛い思いをしていたのではないのか? 
と心配に思っている方がおられるかもしれませんが。
えー、これも今回のイベントで取り上げる予定ですけれど。
さっくり書くと。
日本社会には、特に文化人系と言われる世界の中にある、ごく一部の考え方なんですけれど。
正直であることを尊ぶ風潮のわりには、綺麗な人のことを綺麗だとする、ことが、なんというか、相手を軽んじていることにつながる、という警戒心が存在しているみたいなんです。
そういうことには惑わされずに、こっちはあなたをきちっと評価しているんですよ!アピール。なんですけれど。
これは、女性に限らず、いろいろな性の方にも共通して存在しているんですよ。実は。
 
だから、大貫妙子について、綺麗である。ということを言ったり書いたりするのは、よくないことだぞ? 
そういうことを言うのは、違うんじゃないかしら?
という風潮があったんだと私は思っています。
この話は、きちんと、あのぅ、書きますので。
どうかご心配なさらないでくださいね。本当に大丈夫ですから。
 
「若き日の望楼」を聴くにあたって、やっぱりシャンソンのことを私がどう捉えているかという話をした方がいいと思います。
で、日本には、Wikipediaによるとシャンソン歌手も数多くおられたそうなんですけれど。
子供だった私の耳にも届いてきたほどのシャンソン歌手といえば、五輪真弓(Mayumi Itsuwa)による「恋人よ」をカバーした淡谷のり子(Noriko Awaya)とエディット・ピアフの愛の讃歌を歌唱した越路吹雪(Hubuki Kosiji)だったんです。
このお二人は、私見ながら、歌手という使命を生きた方達でした。
なので、ジャンルで括ることは失礼である、と言われるのは百も承知なのですが、日本におけるポピュラーシーンにおけるシャンソンというもののさわりだけでもと思って、このように記述することをどうかお許しいだたければと思います。
詳しくはWikipediaのシャンソンをご覧ください。
 
Wikipedia シャンソン 
https://w.wiki/3M6n
 
 
昨日の投稿で、私はシャンソンを運命の傍観者の視点、と書きましたが。
私の理解が間違っていなければ、シャンソンというのは、大きく全体を捉えると、詩を吟ずるもの、でいいはずです。
上記に出したWikipediaのシャンソンの項目に、
 
シャンソン(フランス語: chanson)は、中世の吟遊詩人をルーツとした歌曲と、フランス語の歌曲の総称である。

Wikipedia シャンソンより
https://w.wiki/3M6n

 
とあるので、勇気を出して(笑)続けますが。
 
日本には、「とはずがたり」(問わず語り)というジャンルがあります。
ジャンルでもあり、書名でもあるんですけれど。(本ではなく巻き物です。)
1313年に成立したものとされている後深草院二条(Go Hukakusain no Nijyou)の手によるものです。
で、この「とはずがたり」というのは、自身の体験を語る形式の物語で、当時新しい形式として、長い間、宮中で発禁本だったという(笑)、いつの頃も、センセーショナルであるものは、最初は、なんということを書くんだ!というお叱りを受ける象徴となっている事例なんですが。
 
こちらは、何もそんな大変なことが書かれているわけではなく、紫式部(Lady Murasaki Sikibu)の源氏物語(Tale of Genji)に影響を受けているとされる、そうですが、私は教科書に載っていたかどうか、かなりあやしい記憶しかないんですが、多分、読んだりはしていたはずです。
  
「とはずがたり」と言うのは、Wikipediaにあります通り、「問わず語り」と表記し、自発的に物語ることなんですね。
 
で、シャンソンは、歌曲なんですけれど、私は語るための歌であると考えています。
それは表現としての歌の根幹部分の在り方として、なるべくしてなった、姿だと思うんです。
その形式を引用して、大貫妙子が語ったのは、とても遠い時代だと感じるほど、客観の過去でした。
 
アルバム「ROMANTIQUE」って、多分、すごく売れたんだと思うんです。

瞬間的なチャート順位ではなく、ロングセラーでも、セールスはトップに入るものではないでしょうか。

楽曲の中で、歌われ、語られているのは、過去が物語りになるほど遠くなってしまった記憶で、それが事実かどうかという話すら霞むほど、この楽曲で表現されていたのは、「過去」ではないでしょうか。
 
これは私のとてもロマンティックな想像なんですけれど。
 
大貫妙子が過ごしていた多感な若者期って、日本ってすごく熱を帯びていた時代だったのではないでしょうか。

私は、文献や映像を遡ることでしかわからないんですけれど、おそらく、あちこちで熱が充満していた時代で、大貫妙子自身は、その頃、というものを完全に過去だと思っていて、特に過去に理由を持たなかったんじゃないでしょうか?
 
私はその時代を描いた映像作品として、
当時を若者として生きた男と過去として当時を知っているだけの若い女性が、偶然、男がそのとき恋人と暮らしていた部屋に住んでいたことから、酔って昔を懐かしんで、当時の部屋までやってきて、その当時のやり方で鍵の隠し場所を探り当ててしまい、部屋のドアを開けて、今にも警察に電話しようとする、今の部屋の持ち主と、なぜか奇妙なひと晩を部屋の向こうとこっち側で過ごす、というドラマが、とても好きです。
 
また、ドラマ「反乱のボヤージュ」がとても好きです。
 
配信されていないのがとても残念なんですが。
私がこの二つのドラマが好きなのは、私にはわからないその時代を、過去であるが、いまだ熱を帯びているものが残っている、ものとして描いているのが、非常に現実的だと思ったし、記憶に対して真正面に対峙した、当時の日常から未来という現在に繋がっている、としているところです。
 
そこに、過去以外はない、という捉え方の流儀と言いましょうか、とても私にとっては咀嚼しやすい切り出し方だったんです。
  
なので、ウィキにあるように、大貫妙子が「若き日の望楼」について、このアルバムリリースの3年後に、あえて語っているのだから、この時代は、やはり特殊で、個人の時間と、共有の時間が、縄のように編まれているような、そんな、特異であり、誰もが持つ、2度と来ない熱い日々の中に、黎明期の精神の色彩を放っているのだという、聴き方と捉え方を、私は、しています。
 
「若き日の望楼」って、アルバム「copine」でもフランス語でカバーし直したりしているところを見ると、大貫妙子にとってこの時期は、青春時代の経過として、決してデコレーションしなくともいい、自分を取り巻く世界に、身ひとつで全力でぶつかっていけた、過ぎ去りし日のワンエピソード。それ以上でもそれ以下でもない、とにかくもまっさらな世界だったのではないでしょうか。
 
” パンとワインで仲間たちと過ごした ”

(若き日の望楼 / 大貫妙子(Taeko Onuki)より)
 
それが一体、どのようなものか子供だった私は知りたくて、自分が若者になった時に、ワインとパンでたくさんの夜を過ごしました。

正直、ワインにはカマンベール・チーズかプロセスチーズ。時々、ボイルしたウィンナーかサラミの方が好きでしたし、ビールと柿の種の方が、自分にはピッタリだな、と思いながらも、結構な期間、真似していたことは、楽しかった記憶として私の中に、大貫妙子の楽曲が運び込んでくれた、大切な財産になっています。

 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第6夜 若き日の望楼  *** でした。

 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!

 
 
 
 






小林秀雄 / 考えるヒント1 冒頭部分のさっぱりした感想


 
 
早速Amazonで小林秀雄の考えるヒント全巻(文庫版)とあとなんだったか、面白そうなタイトルの文庫を取り寄せて、さっきおそるおそる開いてみました。
 
おそるおそる開いた理由は、吉本隆明の初期代表作を昔開いたら、冒頭の3行が、自分が3年くらい考えないと、とてもじゃないとわからないし、その基準点に行かないとどうにも読解できないことが、さらっと書かれていて、そこをわかろうとした時点で、え、これ、私、次の行に進めるの3年後ってこと?
と呆然としたからです。
その時間経過がおそろしすぎて、怖くてすぐ閉じたんですが。
運よく、その後、テレビがまだ部屋にあった頃だったので、生前の吉本隆明が講堂でお話ししている番組をメモをとりながら観たんですが、そのメモが、いらない紙で作ったリサイクルなメモが、大変な数になってしまい、これを繰り返し観ても、私がこの講演内容を理解できる日は、もう来ないだろう、という、不明の実感だけがわかったという、そこらのホラーよりもよっぽどホラーな現実だった経験からです。
結局、わからない、ということがわかった!という苦笑の体験でした。
その瞬間、吉本先生のことを、福澤諭吉かよ!と突っ込んだんですが、まさにそれは言い得て妙でした。
それくらい巨人だったわけですね。
 
いや、私の物差しの話です。
あのー、吉本先生のことを書いたり、言ったりすると、すぐ怒りんぼの人が一気に大集合してきて、このやろう!先生のことをそんな風に軽んじるな!的なことが発生するので、うっさいなー!と思いながらも、ビクビクしてそそくさと立ち去る(イメージ)が私のようなものとしては、基本姿勢です。
 
愛が熱いのは、いいんですけど。いいんですけども。
 
お馴染みになるのは、軽んじることではないんですよ。
ポピュラーであることは、決して堕落ではないんです。
 
ポピュリズム(で合ってますか?)は、対象と同一化しながら、対象を貶めるという、安心を得る逃避行動の結論ではありません。
違います。
 
アイデンティティの投影をせねばならない人間というのは、こんなにまず頑固ではありませんし、自分のスタイルを貫く宣言のタイヘン便利極まりない、「私は私」という現代用語を多用しません。
簡単に言うと、自己流に咀嚼して、読解を試みることで、より書物に記されている過去の一定数の平均値を叩き出そうという、「わかりやすく説明すると」を自分でやってるんです。
 
愛の問題は、私はよくわからないし、逃げますけど。
熱い愛が狭量であるという表現は、思考の伝播、その対象の存在が生涯をかけて証明していった、いわば存在証明のあれこれを、広範囲に流布することを、とても遮る行為ではないでしょーか!
 
私は、そういう考え方の人間なので、まずそこをご理解いただきたい!(いや誰?)
 
難しい書物を所有し、難しそうな漢字を並べ立てると、まるで自分がものをよく考え、深く理解し、特別な思考の持ち主のように、勘違いしそうになりますね。
これは音楽の話をするときにカタカナ用語を多用した場合と同じ、タイポグラフィの問題であって、自分の思考の力量の話でもなんでもないことを、自戒を込めて、書いておきます。
私のことを言っています。(うんざり)←みなさんとても寛容で親切だったのに、何が現実であったんだよ?(笑)
 
いや、学級会恐怖症(便利に言うな~(笑))なので、つい。
 
あんまり当てこすりとか書いてきた覚えはないんですけれど。
なんつーか、大昔に、身も知らないネットのこっち側の人間に、ご自身の生活も活動も不明だったとある方が、第一声で「僕は死なない」とまでおっしゃっていただけて、私は自分の恥に身がすくむ思いだったと同時に、そのお気持ちがとてもありがたかったことがあったんです。
このような方がおられることに、胸が熱くなったんですけれども。
で、その方の活動への批判とか異論とか、そういうのは全然、なんとも思わないんですけれども。
それは俎上の思考への論議であるので、私が出る幕でもないから、時々目にしても特になんとも思いませんでした。
私自身も、意を唱えたこともたった2行でしたけど、ありましたし。
 
でもですね。
どなたとか、そういう話ではなく、世の中という非常にデカいものの、成り立ち方の傾向・クセについて書きますけども。
 
先見の明とか最初からわかっていたとか、先駆者の自伝映画みたいなもので、無理解な群衆が繰り返し描かれているのを観て、自分は先駆者側で、石が投げ込まれてガラスガッシャーン!みたいな家の中のシーンで、自分はわかっているから!的な、立ち位置の人が必ず出てくるんですけれども。
まず間違いなく、自分もそっち側だ!つって思いたい気持ちは私にもありますけど。
 
数のカウントをしたら、群衆の方が圧倒的に多いわけで、それは統計なんですよね。
 
それが実際に、この現代にもちょいちょい起こっていて、他のことで、私もわからないから、群衆の側で首をかしげたり、おかしくねーか?みたいなことを書いたり言ったりしたこともあるんですけれども。
それでもね?
 
その方は批判されることもたくさんあったようですけど。
現在、私でもわかる程度に、その方が主張して、その方が実行していたことが、結局、それは正解だった、っていうことがあったんですよ。
そして、その方が成功をおさめているのは、知ってる人は知ってるはずなのに、そのことは丸無視で、変じゃないかなぁ、とは、若干苦々しい気持ちではいます。
 
いちいち謝罪とか間違っていた表明をしろとか、そんなんじゃないんですよ。
学級会じゃあるまいし。
 
でも、自分も群衆の側にいるのかもしれない、ということは、もうちょっと前提として持っておくべきじゃないんでしょーか。私も含めて。
 
そして自分は常に、割られたガラスの中にいる人間だ、そのはずだ、っていう前提を知らず知らずのうちに信じ込んでいることは、王様は裸だ!と言っていた少年のイメージだけに同化して、自分をそこまで信じ込むというのは、危険じゃないですかね?
とは思っています。
 
私がそう思うのは、こんな知りもしないくだらねー奴に、胸の熱くなることをしてくださった、その方の人柄の部分であり、俎上の議論の着地点から、私が思考した結論でもなんでもないから、私の目ん玉にも銀紙がぎゅうぎゅうに詰まってることは、自覚しております。
 
ただ、葉っぱ1枚で暮らしたがっている人が、そうするのはその人の勝手であって、私は別に関係ないからなんとも思わないけれど。
それを人に圧力のように、さも真理のように、ただ単にその人達が信じ込んでいる正しいマナーだっていう話なだけのことを、いつまでもいつまでもお題目のように唱えちゃあ、自分は必ず割れたガラス窓の部屋にいる人間である、と疑いもしないのは、私は現実見てない人だなとしか思わないし、かなり傲慢なように、2023年現在は見えています。
 
解がいつまでたってもわからない私に、投げるロープの一端として、その言葉をおっしゃってくださった方々のことを言っているのでは、もちろん、ありません。
 
これをポジショントークというのなら、フェアであることを追求していく先というのは、一体、何を切り出すのかな、という正真正銘の、純度100パーの疑問を、いまは抱く感じです。
 
あの日、やじられたことや、からかわれたことなんかとっくに忘れてて、私が、苦い気持ちを抱いているのは、このことだけです。
 
それとこれは世界の方に申し上げたいことなんですが。
 
すぐに恋愛とか欲情とか欲望とかに結びつけたいのは、それは単にあなたご自身の価値観であって、人が途轍もない美しい人間を前にしたら必ず恋愛感情を抱くものだ、誰もが多数決でセクシーである、かっこいいと判断するあらゆる条件を持っている人間を前にしたら、人は自分の理性に打ち勝てないだろう、っていう思い込みを自己紹介に使うのはご自由だとは思います。
ただ、この国にいる、恥ずかしい人間の私は、そういうことは小学生の時に済ませておいてくれ、としか思っていません。
 
そして、そこに明らかに「みくびり」というものが存在していることを、もう少し自覚していただけると、助かるなとは思っています。
 
私は、やみくもに尊敬を全面に押し出してくる物事や人には、警戒心しか抱かず、その場をそそくさと立ち去るタイプのものですけれど。
 
 
小林秀雄の冒頭部分の感想に戻ります。
 
それで、お前、そんなんでよく小林秀雄だな!という突っ込みがまた世界中から寄せられるわけですが、まあ、冒頭部分に、、なんと小林秀雄はエドガー・アラン・ポーを原文で読んでいた上に、その翻訳を学生の時に売ってお金を稼いでいたのだから、なんとも格好の良いインテリジェンスな遊び方だなと、感心しました。
まだまだ冒頭の部分ですけれども、ポーのことは肯定的に語っていて良いんだ!と、エドガー・アラン・ポーや江戸川乱歩の怪奇冒険譚をよく読んでいた、制服を来ていた小さな私を肯定してもらえた気がして、でーすーよ・ねー? とニヤニヤしています。
 
また小林秀雄の顔を見て、ハンサムだしねぇ、と思われる方は思われるかもしれませんが、私は本を買う時に初めて小林秀雄の顔を知りましたし、とてもスノッブなルックスで素敵だな、と思いますが、好みは、荻原朔太郎かな?(笑)
 
 
 
 
 
 

2023/11/17

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第5夜 しあわせな男達へ ***

 
 Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第5夜 しあわせな男達へ  ***
 
 
 
 
 
 
 
 
しあわせな男達へ / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子(Taeko Onuki)
編曲 / 清水信之(Nobuyuki Shimizu)

 
昨日に引き続き、アルバム「copine」収録曲となっております。
アルバム「copine」についての情報は、Wikipediaの「copine」をぜひご覧ください。
 
参照リンク
Wikipedia 「copine」 https://w.wiki/8Aej
 
アレンジャーの清水信之(Nobuyuki Shimizu)は、日本のポップシーンを主に編曲家として牽引している大変な方で、現在ジャズミュージシャンとして活躍している大江千里(Senri Oe)のポップミュージシャン期や飯島真里(Mari Iijima)や平松愛理(Hiramatsu Airi)そしてEPO(【epo】)の出世作「う、ふ、ふ、ふ」のアレンジなどが、シティ・ポップというジャンルを愛聴しておられる方にとってはわかりやすいキーワードではないでしょうか。
 
発音記号 参考リンク
GSET Academy 様
【音声付き】英語の発音記号一覧|英語の「音」に挑戦してみよう!
https://gset.co.jp/academy/pronunciation-symbol/
 
 
Wikipediaによると大貫妙子や山下達郎(Tatsurou Yamashita)と同期のミュージシャンで、編曲家へも進まれたそうです。
清水信之が編曲として携わっているミュージシャンは星の数ほどいるんですけれど、主に大貫妙子や山下達郎、坂本龍一が切り開いたミュージックシーンの後続世代達との関わりが深いようです。
詳しくはWikipedia 清水信之のページをご覧ください。
新しい日本のポップミュージシャンやシティ・ポップの楽曲の発見があるかもしれません。
個人的には、池田聡(Satoshi Ikeda)の「モノクローム・ヴィーナス」がおすすめです。
 
参照リンク
Wikipedia 清水信之(Shimizu Nobuyuki)
https://w.wiki/8Aej
 
 
「しあわせな男達へ」は、窓から床に落ちる六角形が連なる光を思わせる、美しいピアノの音から始まります。
その第1音から、非常に明るく、静かでくつろいだ視線がこの楽曲のテーマであることをリスナーに伝えてきます。
 
大貫妙子の楽曲の特徴として、歌詞の発音、言葉の持つ意味とメロディラインの調和や融合があげられると思うんですが。
この「しあわせな男達へ」もその大貫妙子のスダンダードなエッセンスを強く表現できている1曲ではないかと、個人的には考えています。
 
日本から新しく発信されているBento Waveの提唱者である、みのミュージックのみのさんが、歌詞は詩ではなく、歌詞である。という考えを動画内で示されたことがあります。
私もそれには、自分の誤った認識をあらためる良い機会となったのですが。
大貫妙子の愛聴者としては、大貫妙子の歌詞はメロディラインに乗った状態では歌詞ですが、文字単体としては詩である、という認識をしています。
 
余談ですが。
現在、みのミュージックチャンネルでは、松本隆(Takashi Matsumoto)が出演し、みのさんと「HAPPY END」や「風街ろまん」(こちらの表記は、最初は漢字とひらがなの「風街ろまん」でお願いします。後続としてカッコ内にKazemachi Romanと表記してください。個人的なこだわりです!)について、語っています。(20231117現在)
 
ぜひ、自動翻訳をお住まいの地域の言語に設定して、ご覧ください。
私も、時間を作ってソッコー視聴してきます!
私はただの視聴者です!(いいから落ち着けよ。)
 
参照リンク

YouTubeチャンネル みのミュージック 様
https://www.youtube.com/channel/UCDkAtIbVxd-1c_5vCohp2Ow
 
 
「しあわせな男達へ」の歌詞ですが。
文字表記された詩を読むと、いままで大貫妙子が取り扱ってきた情景、想い、時間の経過、シチュエーションとは、全く異なる世界観であることがわかる、と思います。
 
これは、大貫妙子の全worksの言葉をチェックしたわけではないので、私が勘違いをしていたら申し訳ないのですが。
おそらく、こういった俯瞰の世界観を大貫妙子が言語化し、詩に推敲し、メロディに乗せたことは「copine」以前にはなかったという認識です。
 
もちろん、「若き日の望楼(ぼうろう)」(明日やります)の後半でも試みられてはいるんですが。
 
完全に第三者、小説でいうなら、登場人物以外のことを話す、自己紹介していない透明人間なアイツ。の視点というのは、昨日触れた、大貫妙子の得意分野だといっていい、物語世界を楽曲内で再構築する視点以外では、これが初ではないでしょうか。
 
これは大切なことです。
これは大切なことです。(2回目)←(笑)
 
大貫妙子の歌詞世界と詩作という切り口で、登場人物の視点を考えた場合、大貫妙子は「若き日の望楼」で試みたシャンソンの手法を、運命の傍観者の視点を、その後も発展させていったと判断してもいいのではないでしょうか。
 
いいですか。
「ピーターラビットとわたし」では、詩のなかに「わたし」は出てきませんよね?
これを便宜上、傍観者の視点と定めます。

ですが、アルバム「copine」以前の大貫妙子の楽曲には、必ず登場人物に語り部の大貫妙子が憑依する視点があるはずなんです。
ですが、アルバム「copine」は、ファーストトラックの「タンタンの冒険」で、大貫妙子の得意分野であるといってもいい、当時、すでにお馴染みであった物語世界の再構築での傍観者の視点を披露し、「Siena」の詩では「あなた」と呼びかけてはいますが、完全に登場人物から離脱し始めるんです。
 
「OUT OF AFRICA」では、登場人物はいませんが、視点はあくまでも私なわけです。私の視点が詩のなかに登場しています。
そして視点は、私の解釈ですけれども、アフリカの情景のそばで様々な謳歌を描写しています。
 
「Jacques-Henri Lartigue」では、最後に本を閉じる人間として出演しています。
ですが、ここではこの手の持ち主が誰なのかは限定されていません。
けれど、歌詞を聴き、この描写の人称がおそらくは大貫妙子の視線である、とリスナーがイメージしやすい造りになっています。
 
・・・大丈夫ですか?(笑)
ついてきて下さいよ?(笑)
 
すごく大事なことを書いています。
うわ、ナード出てきたコレ。と引かずに、是非とも、この話についてきて下さい!(熱烈)
これはとても重要なことです!
 
大貫妙子の楽曲内でのカメラワークの推移が、このアルバム内の楽曲で、徐々に移行する、という表現がなされているんです。
 
そして、「しあわせな男達へ」では、完全に俯瞰からの視線となって、楽曲世界が象られているんです。
 
で、最終トラック「野辺」では、日本の古い言葉、文語長の語り口で、一貫して、無人の世界が歌われているんです。
 
これは完全に、私の個人的な解釈の範囲になってしまうんですけれど。
物語世界を再構築する、という大貫妙子の得意技であるらしい手法、当時の商業ミュージックシーンでお馴染みの、大貫妙子といえばこれ!の傍観者の視点の手法から、楽曲ごとに視点を自由自在に動かし始め、最後の楽曲で、物を語る世界、物語りそのもの「だけ」を、音楽で、ただ構築してみせたんです。
大貫妙子が存在しないで物語る世界を、「野辺」で生み出したんです。
 
これは大貫妙子の発明ではなく、みなさんもお馴染みの、マザーグースや童謡、日本では唱歌の世界で取られている、誰もそこにいないのに、世界が物語られる、詩作の手法です。
名前は、不勉強で申し訳ないんですが、私は知りません。
 
この手法を、1985年の日本の、商業的成功を目指して創られたアルバム内で、「タンタンの冒険」という物語の再構築の視点でスタートしたアルバム「copine」という作品集が、最終的には、唄の始まりに存在する童謡・唱歌によく見られる、詩作の手法に回帰しながら、自分が出演しない、人称のない、ただの物語り、として独立性と独自性を同時に併せ持った楽曲「野辺」をそこで構築して、このアルバムは終わるんです。
 
簡単に言うと、大貫妙子にとって、視点の移動や人称の移動くらい、なんでもない創作である、ということを、あっさりとやってのけたんです。
 
そりゃ、こんなことをあっさり、やすやすとやれば、大貫妙子が1985年の時点で、1目も2目も置かれていたミュージシャンであった理由が、おわかりになるのではないでしょうか。
 
そして、アルバム「copine」がいかに凄まじいアルバムであったかを物語る、非常に重要なポイントでもあります。
ただし、これは大貫妙子にとっては、本意の方向性ではなかったそうです。
つまり、この時点で大貫妙子がとてもやりたかったことではない創作レベルで、このアルバムのクオリティだということです。
 
正直申し上げて、今日の楽曲は「野辺」でも良かったんですが、「しあわせな男達へ」のなかで、カメラワークの情景として表現されている大貫妙子の視点が、非常に自由自在に楽曲の中で構築された空間内を動き回り、最終的には屋外のかなり高い上空まで移動しているのが、はっきりわかるという点で、私は、楽曲の好みもさることながら、1番、愛聴者の皆さんに伝わりやすいという判断から、この楽曲を選びました。

本日、「しあわせな男達へ」をなぜ取り上げたか、わかっていただけた時点で、私見に満ち溢れた本日の投稿を終わります。
 

以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第5夜 しあわせな男達へ  *** でした。
 
 
 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカでは朝の8時に、お会いしましょう!

 
 
2023111722:16 わかりにくい点を補足しました。 
2023111808:58 誤字をなおしました。