早速Amazonで小林秀雄の考えるヒント全巻(文庫版)とあとなんだったか、面白そうなタイトルの文庫を取り寄せて、さっきおそるおそる開いてみました。
おそるおそる開いた理由は、吉本隆明の初期代表作を昔開いたら、冒頭の3行が、自分が3年くらい考えないと、とてもじゃないとわからないし、その基準点に行かないとどうにも読解できないことが、さらっと書かれていて、そこをわかろうとした時点で、え、これ、私、次の行に進めるの3年後ってこと?
と呆然としたからです。
その時間経過がおそろしすぎて、怖くてすぐ閉じたんですが。
運よく、その後、テレビがまだ部屋にあった頃だったので、生前の吉本隆明が講堂でお話ししている番組をメモをとりながら観たんですが、そのメモが、いらない紙で作ったリサイクルなメモが、大変な数になってしまい、これを繰り返し観ても、私がこの講演内容を理解できる日は、もう来ないだろう、という、不明の実感だけがわかったという、そこらのホラーよりもよっぽどホラーな現実だった経験からです。
結局、わからない、ということがわかった!という苦笑の体験でした。
その瞬間、吉本先生のことを、福澤諭吉かよ!と突っ込んだんですが、まさにそれは言い得て妙でした。
それくらい巨人だったわけですね。
いや、私の物差しの話です。
あのー、吉本先生のことを書いたり、言ったりすると、すぐ怒りんぼの人が一気に大集合してきて、このやろう!先生のことをそんな風に軽んじるな!的なことが発生するので、うっさいなー!と思いながらも、ビクビクしてそそくさと立ち去る(イメージ)が私のようなものとしては、基本姿勢です。
愛が熱いのは、いいんですけど。いいんですけども。
お馴染みになるのは、軽んじることではないんですよ。
ポピュラーであることは、決して堕落ではないんです。
ポピュリズム(で合ってますか?)は、対象と同一化しながら、対象を貶めるという、安心を得る逃避行動の結論ではありません。
違います。
アイデンティティの投影をせねばならない人間というのは、こんなにまず頑固ではありませんし、自分のスタイルを貫く宣言のタイヘン便利極まりない、「私は私」という現代用語を多用しません。
簡単に言うと、自己流に咀嚼して、読解を試みることで、より書物に記されている過去の一定数の平均値を叩き出そうという、「わかりやすく説明すると」を自分でやってるんです。
愛の問題は、私はよくわからないし、逃げますけど。
熱い愛が狭量であるという表現は、思考の伝播、その対象の存在が生涯をかけて証明していった、いわば存在証明のあれこれを、広範囲に流布することを、とても遮る行為ではないでしょーか!
私は、そういう考え方の人間なので、まずそこをご理解いただきたい!(いや誰?)
難しい書物を所有し、難しそうな漢字を並べ立てると、まるで自分がものをよく考え、深く理解し、特別な思考の持ち主のように、勘違いしそうになりますね。
これは音楽の話をするときにカタカナ用語を多用した場合と同じ、タイポグラフィの問題であって、自分の思考の力量の話でもなんでもないことを、自戒を込めて、書いておきます。
私のことを言っています。(うんざり)←みなさんとても寛容で親切だったのに、何が現実であったんだよ?(笑)
いや、学級会恐怖症(便利に言うな~(笑))なので、つい。
あんまり当てこすりとか書いてきた覚えはないんですけれど。
なんつーか、大昔に、身も知らないネットのこっち側の人間に、ご自身の生活も活動も不明だったとある方が、第一声で「僕は死なない」とまでおっしゃっていただけて、私は自分の恥に身がすくむ思いだったと同時に、そのお気持ちがとてもありがたかったことがあったんです。
このような方がおられることに、胸が熱くなったんですけれども。
で、その方の活動への批判とか異論とか、そういうのは全然、なんとも思わないんですけれども。
それは俎上の思考への論議であるので、私が出る幕でもないから、時々目にしても特になんとも思いませんでした。
私自身も、意を唱えたこともたった2行でしたけど、ありましたし。
でもですね。
どなたとか、そういう話ではなく、世の中という非常にデカいものの、成り立ち方の傾向・クセについて書きますけども。
先見の明とか最初からわかっていたとか、先駆者の自伝映画みたいなもので、無理解な群衆が繰り返し描かれているのを観て、自分は先駆者側で、石が投げ込まれてガラスガッシャーン!みたいな家の中のシーンで、自分はわかっているから!的な、立ち位置の人が必ず出てくるんですけれども。
まず間違いなく、自分もそっち側だ!つって思いたい気持ちは私にもありますけど。
数のカウントをしたら、群衆の方が圧倒的に多いわけで、それは統計なんですよね。
それが実際に、この現代にもちょいちょい起こっていて、他のことで、私もわからないから、群衆の側で首をかしげたり、おかしくねーか?みたいなことを書いたり言ったりしたこともあるんですけれども。
それでもね?
その方は批判されることもたくさんあったようですけど。
現在、私でもわかる程度に、その方が主張して、その方が実行していたことが、結局、それは正解だった、っていうことがあったんですよ。
そして、その方が成功をおさめているのは、知ってる人は知ってるはずなのに、そのことは丸無視で、変じゃないかなぁ、とは、若干苦々しい気持ちではいます。
いちいち謝罪とか間違っていた表明をしろとか、そんなんじゃないんですよ。
学級会じゃあるまいし。
でも、自分も群衆の側にいるのかもしれない、ということは、もうちょっと前提として持っておくべきじゃないんでしょーか。私も含めて。
そして自分は常に、割られたガラスの中にいる人間だ、そのはずだ、っていう前提を知らず知らずのうちに信じ込んでいることは、王様は裸だ!と言っていた少年のイメージだけに同化して、自分をそこまで信じ込むというのは、危険じゃないですかね?
とは思っています。
私がそう思うのは、こんな知りもしないくだらねー奴に、胸の熱くなることをしてくださった、その方の人柄の部分であり、俎上の議論の着地点から、私が思考した結論でもなんでもないから、私の目ん玉にも銀紙がぎゅうぎゅうに詰まってることは、自覚しております。
ただ、葉っぱ1枚で暮らしたがっている人が、そうするのはその人の勝手であって、私は別に関係ないからなんとも思わないけれど。
それを人に圧力のように、さも真理のように、ただ単にその人達が信じ込んでいる正しいマナーだっていう話なだけのことを、いつまでもいつまでもお題目のように唱えちゃあ、自分は必ず割れたガラス窓の部屋にいる人間である、と疑いもしないのは、私は現実見てない人だなとしか思わないし、かなり傲慢なように、2023年現在は見えています。
解がいつまでたってもわからない私に、投げるロープの一端として、その言葉をおっしゃってくださった方々のことを言っているのでは、もちろん、ありません。
これをポジショントークというのなら、フェアであることを追求していく先というのは、一体、何を切り出すのかな、という正真正銘の、純度100パーの疑問を、いまは抱く感じです。
あの日、やじられたことや、からかわれたことなんかとっくに忘れてて、私が、苦い気持ちを抱いているのは、このことだけです。
それとこれは世界の方に申し上げたいことなんですが。
すぐに恋愛とか欲情とか欲望とかに結びつけたいのは、それは単にあなたご自身の価値観であって、人が途轍もない美しい人間を前にしたら必ず恋愛感情を抱くものだ、誰もが多数決でセクシーである、かっこいいと判断するあらゆる条件を持っている人間を前にしたら、人は自分の理性に打ち勝てないだろう、っていう思い込みを自己紹介に使うのはご自由だとは思います。
ただ、この国にいる、恥ずかしい人間の私は、そういうことは小学生の時に済ませておいてくれ、としか思っていません。
そして、そこに明らかに「みくびり」というものが存在していることを、もう少し自覚していただけると、助かるなとは思っています。
私は、やみくもに尊敬を全面に押し出してくる物事や人には、警戒心しか抱かず、その場をそそくさと立ち去るタイプのものですけれど。
小林秀雄の冒頭部分の感想に戻ります。
それで、お前、そんなんでよく小林秀雄だな!という突っ込みがまた世界中から寄せられるわけですが、まあ、冒頭部分に、、なんと小林秀雄はエドガー・アラン・ポーを原文で読んでいた上に、その翻訳を学生の時に売ってお金を稼いでいたのだから、なんとも格好の良いインテリジェンスな遊び方だなと、感心しました。
まだまだ冒頭の部分ですけれども、ポーのことは肯定的に語っていて良いんだ!と、エドガー・アラン・ポーや江戸川乱歩の怪奇冒険譚をよく読んでいた、制服を来ていた小さな私を肯定してもらえた気がして、でーすーよ・ねー? とニヤニヤしています。
また小林秀雄の顔を見て、ハンサムだしねぇ、と思われる方は思われるかもしれませんが、私は本を買う時に初めて小林秀雄の顔を知りましたし、とてもスノッブなルックスで素敵だな、と思いますが、好みは、荻原朔太郎かな?(笑)