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うっかりカツカツやって来て、うっかり居ない。( By O.)
 

2023/12/24

そばに、つゆをどのくらいつけるか


 
 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
今日は、お蕎麦の話題ですので、アレルギーをお持ちの方は、うどん、またはつけ麺と思って読んでいただければ、と思います。
 
2023年現在、家庭でのそばの旬は、冬です。
 
これは乾麺をお家で茹でて食べる時の話。
蕎麦の乾麺を鍋で袋に表示された時間通りに茹でて、最後、水でしめる時、水道水が1番、麺がしまる水温になるのが、冬だからです。
 
地域によって差がありますが、晩秋、冬、初春の、水道水で手を洗うと切れそうなほどになっていく、あの冷たさが、麺が1番、シコシコ、もちもちする水温だと、私は思っています。
 
なので、私は、主に冬にざる蕎麦を食べます。
温かいお蕎麦の場合でも、冷たい水道水で洗って、キュッとしまった麺をどんぶりに先に入れておいて、作ったり温めたりしたお蕎麦のつゆを上から掛けると、あ、これ! というお店でいただく温かいお蕎麦になるんですね。
 
ざる蕎麦の場合も同様で、しめた麺をお皿に盛って、麺つゆを好みの薄さに水で割ってつけて食べたり、付属のつゆを蕎麦猪口に入れて(なければ小さなグラス)、いつも通りにつけて楽しんでいます。
 
・・・お蕎麦ってなんであんなにうるさいこと言う人が多いんでしょうね。←(笑)
 
蕎麦にこだわりがある、うるさい、ではなく、人の食べ方に何だかあれこれケチをつけて、聞こえよがしに言う人ってたまに遭遇しますよね。
 
私は、完全に無視して食べるか、お蕎麦をすする、すすらない、で聞こえよがしに文句を言われた時は、「このあたりじゃ蕎麦をすすって食べないの?」と連れに言ったり、お店の人に訊いたりするようにしています。
(こういう時は、チキンなくせに、急に負けず嫌いスイッチが入るんですよね。お店出たり家に帰って、胸がドキドキし始めますけれど。)
 
すする、すすらないは、色々とデリケートな問題ですから、初デートの時や、初めて一緒にお蕎麦や麺類を食べにいく時は、「私はすする派(または、すすらない派)ですけど、どっちですか?」とお店の前で訊いておくといいのではないでしょうか。
 
私は基本すする派ですけれど、苦手な人には合わせます。
美味しさには、場所や体感や雰囲気が組み込まれますので。
 
お蕎麦は好きに食べましょう!
 
さて、お蕎麦を食べる時、つゆにお蕎麦をどのくらいつけたらいいか、緊張しませんか?
お蕎麦学級委員(勝手に命名)の目が怖くて。
 
私は、正直、うっさいなーと思ってる派なんですけれど。
その人がその人のお金払って食べてるんだから、好きなように食べればいいじゃない派です。
 
余計な口出しをする半可通が私は大嫌いですので、ここで池波正太郎先生をお呼びしたいと思います。(虎の威を借る狐)
 
以前、ご紹介したと思いますけれど、池波正太郎著「江戸前 通の歳時記(集英社文庫)」にですね、ちゃんと書いてあるんです!!
 
そばのつゆにしても、ちょっと先だけつけてスーッとやるのが本当だと言うけれど、これだって一概に言えないんだ。つゆが薄い場合はどっぷりつけていいんだよ。
(江戸前 通の歳時記 池波正太郎 酒肴エッセイ選集 高丘卓 編 第6刷 P157 より 引用)

 
はい!池波センセーからオッケー出ました!!
 
みなさん、つゆが薄い時は、お蕎麦をしっかりつけて食べていいんです!
これから、どんどんつけて食べてましょう!
 
詳細は本をぜひ読んでいただきたいんですけれど、要は口の中で蕎麦とつゆの味が「ちょうど良く」なれば、それでいいんだそうです。
 
美味しかったらいいんですよ。
美味しかったら!(なにがあったんだよ(笑))
 
池波正太郎は、東京・下町の出身で、お祖父様は江戸時代からの職人さんだったそうです。
幼少の頃からお祖父様にあちこちお店に連れていってもらっていて、出歩く時は必ず「祝儀袋」を持って外に出なさい、と教えていただいていたんだそうです。
(祝儀袋とはチップを入れる、とても小さな紙の封筒)
 
私は、以前、東京のお蕎麦の名店「薮(やぶ)」のお蕎麦セットをいただいたことがあるんですが。
麺をお家で茹でて水道水でしめて、付属の缶に入っている「薮」のつゆでいただくものでした。
確かに「薮」のおつゆはとても濃くて、よく言われている、蕎麦の先にちょん、とつけて食べるとちょうどいい味になるものでした。
 
どうしておつゆを濃くしてあるのか、そこは存じ上げないんですけれど、「江戸前 通の歳時記」の中で池波正太郎が言っているように、この食べ方が口の中でお蕎麦の味とつゆの味がちょうど良くなる食べ方、なんですね。
 
なので、つゆがそこまで濃くない場合は、お蕎麦はしっかりつけて食べていいのだし、美味しいと思う食べ方でいいんだ、と私も意見を同じくしました。
 
冷たいお蕎麦もうどんも、私はスーパーで売っている乾麺を茹でて、市販の麺つゆ(3倍濃縮)のつゆを水で割ったものにつけて食べています。
 
これは、乾麺のほうが、水道の水温に合わせて茹で時間の塩梅を変えられるからが大きいですし、食べたいときにお蕎麦を食べたいので、袋麺を買うとせわしない気持ちになるからです。
袋麺派の方は、冷凍庫に保存しているのかもしれませんね。
 
麺つゆは、そうは言ってもそこまでレギュラーにお蕎麦を食べていないので、保存のきく濃縮麺つゆにしています。(手作り派の方もおられますよね。)
 
この頃は、うどんは、カトキチの冷凍麺を冷凍庫にストックして、食べたいときにお鍋で温めたつゆに入れて、好きな具材をトッピングして食べています。
 
やっと寒くなってきたことだし、鍋焼きうどんもいいですよね。
 
先週は、ちょっとバタバタしていて、日中の時間配分も狂ってしまっていて、なんだか全然落ち着きませんでした。
でも、なんだったか温かくて具材の多いスープを飲んだら、緊張してガチガチになっていた体が、ほっと緩みました。
 
温かいものを口にしてみてくださいね。
それだけでだいぶ違いますから。
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。
 
 
 
 
 
 

クリスマス・イブ / 山下達郎 / Chiristmas Eve / Tatsurou Ymashita


 
 
 
 
 
昔、私にとても美しいものを渡してくれた人がいます。
 
それは「想い」と日本語表記する、淡い、とてつもなく、まっすぐな気持ちでした。
 
私は、その気持ちには答えられませんでした。
 
その人の気持ちに私は気づいておらず、あれ?と思うことはあっても、まさかな、という気持ちと、うまくいっている友人を失いたくありませんでした。
 
その人は、私が徐々に、気楽なカジュアルな誘いを断るようになっていたこと、だんだんと2人きりにならずにいったこと、友人としてのくだらないバカ話の電話も、こちらからかけなくなっていったことに、気がついてたと思います。
 
私は、その頃、別のグループで、恋愛の始まりの時期にいました。
その人がいるグループの皆に、
「好きな人がいる。うまくいきそう。」とか言って、
その話をした後に、その人の言動や雰囲気に、あれ?とはじめて気がついたように記憶しています。
 
私はおかしいな、変だな、と思っていても、深く考えず、また深く考えないでいて、それをその人にとってなかったことにする方が、私の勘違いにしても、そうでなくても、結局はそれで、どちらにとっても、その人のプライドにとっても良かったことになる、と、なんとなくそう感じていたんだと思います。
 
なにかの番組で、女性というものは、昔、自分に想いを寄せてくれた人のことを決して忘れない。というお話を聞いたことがあります。
その時のうっすらとした記憶では、それはその女性にとって勲章のようなもので、それを女性というものはいい気分で忘れないのだ。という笑い話でした。
 
きっとそういう気持ちもあるのだと思います。
でも、私の場合は、そうではありませんでした。
 
後になって、それがなんであったのか、それがどういうことであったのか、わかることがある。
 
私にとって、その人が正々堂々と告げてくれた気持ちは、私をその時だけの淡い気持ちであったとしても、大切に扱う人間だと判断してくださった尊さでした。
 
うまく、場を悪くしないでそっとこのままでいい、と、背伸びした振る舞いをしながら、どこかで、そう振る舞える自分を大人なのだと、自分の臆病さを見ようとせずに、よく聴いていた歌詞の世界で描かれる、映画のような洒脱さにすり替えて、それに酔ってしまいそうになっていた私の狡さを、その人はきっと気がついていたのだと思います。
 
その人がまっすぐに気持ちを伝えてくれた時、私は一瞬、あっけに取られて黙り込みました。
そして、精一杯、気がつかなくてごめんね。いま好きな人がいる。あなたとは付き合えない。と答えました。
 
あまりよく憶えていないんですけれど、すごく変な言葉で、言い淀みながら、うまい言葉ひとつ言えない、ふつうの言葉で、あたりまえのことしか言えなかったと記憶しています。
 
その人は、笑って、またね。と言ってくれました。
もう会うことはないと、2人ともわかっていました。
そんなことぐらい、よくわかっていました。
私も、じゃあ、また今度ね。と言いました。
それきりです。
 
時々、私は、その人のことを思い出します。
きっとその人は、ただ気持ちを伝えてくれただけで、まっすぐな人で、それはほんの取るに足らない淡い恋だっただけです。
それでも、私は、その人のことを思い出すたびに、彼はその時私に、世界で1番、美しい心をくれたのだと、そんな風に思っています。
 
「クリスマス・イブ」という楽曲は、日本で必ずクリスマスシーズンに流れる曲です。
 
名曲だったので流れていたのでしょうし、私も気がつくと12月24日には何度も耳にしていたので、愛聴されていたのだと思いますが、大きなきっかけとなったのは、J R東海のクリスマス・イブにちなんだ、遠距離恋愛カップルのやさしいひと幕を描いたC Mでした。
 
その楽曲にこの「クリスマス・イブ」が使われていて、その美しく、観た人をやさしい気持ちにさせるC Mが大ヒットし、その後シリーズが毎年製作されるようになった、と私は記憶しています。

きっとC Mの効果で、この楽曲は両想いのカップルをテーマに歌っているのだと思われている方も多いのですが、実は、片想いの曲なんですね。
 
解釈は人によりますけれど、主人公は想いを告げようとした夜に相手を誘って、雨のクリスマス・イブに待ちぼうけをしている歌だと、私は読解しています。
 
「心深く 秘めた想い かなえられそうにない」
  クリスマス・イブ / 山下達郎 より
 
優しい人達がこの楽曲の物語をたくさん創って、そう思い込んでいたのは主人公だけで、実は、相手は主人公に応えるためにやってきた、という物語を、時々見かけています。
 
ですが私は、ですが。
そうは思わないんです。
相手は、おそらく主人公の気持ちに気がついていた。
だから、行かなかった。
と考えています。
 
どうして行かなかったのかな、と考えると、
相手は、主人公の本気の気持ちに気がついてたからこそ、行ってはいけない。
本気だからこそ、ここで行っては、決して、いけない。
そう思っていたのだと思うんです。
 
この人には、本気で答えるべきだと。
それが相手の答え方だったんじゃないでしょうか。
 
冷たいと思われても、ひどい人間だと思われても、いや、むしろそう思われるほうがいい。
 
長い間、自分への気持ちを隠し持っていた相手のために、本当に、その気持ちには応えられない自分、を見せたのではないでしょうか。
主人公が愛していた人は、それほどまでに主人公に向かって誠実だったのではないでしょうか。
 
だからこそ主人公は、長い間見つめていた、本人よりも自分のほうがよく知っている相手が来ないことを、知っていたのではないでしょうか。
 
私は、そう思います。
 
時々、創作の世界で、片恋を告げる純粋な人間を嘲笑う人間が描かれます。
けれど、その相手は必ず1人じゃないんですよね。
誰かと一緒になって嘲笑っている。
 
それは、誰を嘲笑っているのかな、と思うんです。
 
まるで自分を嘲笑っているように、私には思えます。
 
まっすぐな気持ちに答えられない自分を、冗談にするしかない臆病な自分を、嘲笑っているように思えるんです。
あとで自分を責めるために。
あとで、自分を責める理由をつくるために、なんだか一生懸命にそうしているように見えます。
 
性善説を言いたいんじゃないんです。
ただ私は、そんな風に、そうなんだろうな、と苦笑いな心持ちで、そう、思います。
昔、私が、あっけにとられたからかもしれませんね。
 
世界で1番、美しい心をくれた人のことを、
その気持ちを、
心の奥底で笑うはずなど決してない、
と知っているからかもしれません。
 
 
いま好きな人はいますか?
もし、いま、いないのでしたら、
かつて好きだった人はいますか?
 
その人は、いまどこにいるんでしょう?
そして、その気持ちを想い出しているあなたは、
いまどちらにいるんでしょう?
 
不思議ですね。
人生というものは、とても不思議ですね。
 
その人がもし日本にいるのなら、きっと名曲「クリスマス・イブ」を聴いていることでしょう。
 
そして、24日のどこかの瞬間に、
あなたのことをきっと想う。
 
胸のどこかでも、意識のうえでも、
微笑みと一緒に、必ず、想います。
 
その事実を、私は知っています。
 
 
それでは24日です。
とても寒いですので、温かくしてお過ごし下さい。
 
メリー・クリスマス、みなさん!
 
 
 
 
 
 
 

2023/12/21

のびのびと頑張る。

この頃、くよくよしたり、落ち込んでいたりしたんですが。
どれも変に暗く受け止めたり、ネガティブだったりする自分が原因なので、
こりゃまた一体、どーしちゃったんだろう、と自分の状態の酷さに驚いていました。
まぁ、 そういう時期なんだろうな、と思っていたんですけれど。
 
こちらの女の子の「さすらいダンス」を拝見して、
そうだよね。
のびのびとした心持ちで、頑張るのだ、
という気持ちになれました。
ありがとう!
 
 以下はスクリーンショットです。
リンクは1番下となっています。
いいですよね。
ゆるくて、堂々としてて、伸びやかで。

 

 



 

@isin_odensin ぼちも彼氏欲しいい@michan #さすらい ♬ Sasurai - Tamio Okuda


https://www.tiktok.com/@isin_odensin/video/7294402538542091521?is_from_webapp=1&sender_device=pc&web_id=7314828903330874898




2023/12/18

イエローベースとブルーベース


 
そういえば、先日、私はパーソナルカラーはブルーベース冬らしい、ということがわかりました。
 
ずっとイエローベースだろう、と思っていたので、ものすごく驚きました。
 
特になんの根拠もなく、パーソナルカラーのチャートテストを調べるまでもなく、平ぺったい顔だし、青白いというよりは普通に黄色い肌だし、イエベだろうな、と思っていたんですが、違いました。
 
家に帰って、パーソナルカラーのブルーベース冬の色をみると、確かによく好んで着ている色が多かったですし、好きだけど似合わない色だなと諦めていたものもありました。
 
教えていただいた方は、私から見ると、青く透き通るような肌の色だったんですけれど、その方はイエローベースなんだそうです。
 
それで思ったんですけれど、イエローベースだとなんとなく思っている方が多いのではないでしょうか。
なので、年末年始、お時間がある時に、調べ直してみるのもいいかもしれませんね。
 
ちなみに、ブルーベースは勝ち組と言われていると、先ほど見たオフィシャルサイトに書いてありました。
ちゃんと、パーソナルカラーに勝ち負けはありません。
とも、しっかりと。
 
おそらくブルーベースが勝ち組と言われるのは、その芸能人さん達のイメージがカッコいい、クール、で、どの方もとても美しい方々だったので、気楽な話として、そういうことになったのではないかと、そちらのオフィシャルサイトにもありましたし、私もそう思いました。
 
私も、お洒落やメイクの参考になるかな、と思って、ブルーベース冬(だろうということでした。混合かもとも教えていただきました。)の芸能人の方々を見たんですが、
どの方とも「ちっとも似てねー・・・(低い声)」
という私がいます。
 
みなさん、大丈夫です!
似合う色をどんどん見つけましょう!!(力説)
 
 
以上、イエローベースとブルーベースでした。(そんだけかーい!)
 
 
 
 
 
 
 

2023/12/17

私が決めていること。私が知っていること。


 

 
・・・それは?
と思われている方が多いと思うので、先に説明を。
 
写真は、1月に余裕があればやっているエピファニーというお祭り?のガレット・デ・ロワというお菓子に入ってるフェーブという、なんか、そういうものです。
 
この投稿は、ほんわりした気持ちで読んでいただきたいので、再掲いたします。
 
うまく書けるかどうかわかりませんが。
誰のことも責めるでもなく傷つけるでもなく書けますよう、がんばります。
 
昔ですね、私はボーイフレンドとこういう話をしたことがあります。
「私達は占いは見たりするけれど、もしそれが予知だったら見てもらいたい?」
答えは同じ、
「予知なんかごめんだ。」というものでした。
 
理由は、先のことが心配で知りたい気持ちはあるけれど、確実に未来のことがわかってしまうことは嫌だし、そんなことはとても恐ろしい。
 
未来になにがあるかわかって生きていくことは、なにひとつ希望が持てない、期待も持てない人生を生きていくことで、そんなのは生き地獄だからです。
 
私は以前書いたように、H S Pです。
それもかなり過敏で、そのおかげでとんでもない半生でした。
その間に、決めていたことがあります。
なにがなんだかわからないことだらけの感覚過敏の世界で、もし、何かメッセージのようなものを受け取ったら、それを絶対に信じないようにしよう、というルールです。
 
私は綺麗100%の心を持っていないので、もし、そんなメッセージをあてにしてしまったら、自分が自分でなくなってしまう、とすぐに思いました。
そうでなくとも、なにがなんだかわからないものをあてにして、自分を決めたくはありませんでした。
 
私は、自分に従いたいし、物事を自分の意思で決めたいと思っています。
いままでのことを振り返ると、それを自分で満足いく程度までできるようになるための訓練を、私は、どうもしているのだな、と思います。
 
それに、こうも思いました。
もし、そのメッセージが、最初は良くても、次第に暗く、支配的になり、最後は私に、死ね、と言いだしたら?
私は、それにも従うのか、と考えました。
まずやらないな、とソッコー思いました。
 
じゃあ、何かそのメッセージが頼み事をしてきたら?
しつこく、あそこの街角にいるおばあちゃんの家に行って、ご飯を作ってあげろ、と言ったら、私は従うのだろうか。と考えたとき。
いや、やらないわいな。とあっさり思いました。
 
おばあさんの側に立って考えたら、薄気味悪いだけだし、年金目当てだと思われるだけが関の山で、おばあさんが怖がるだろうから。
 
 
私は物語がとても好きですし、ファンタジーも好きです。
ただ、私自身は、ファンタジーが好きだけど、ファンタジーには随分とヘンテコなところがたくさんあるな、と思っています。
 
例えば、
「あなたは世界を救う選ばれた人間なので、いまから私の言うこと聞きなさい」
と言われたとします。
私だったら、「なんで?」
と聞き返します。
 
「なんで私が世界を救うってわかるんですか?」
「なんで私が選ばれた人間だってわかるんですか?」
「なんでそんなご大層な人間なのに、訪ねてこないで、こんな誰も信じないようなやり方で伝えてくるんですか?」
「そもそもあなたは誰なんですか?」
「ていうか、仮に選ばれた人間としても、誰が選んでるんですか? その人達はどこに居てなにやってる人なんですか?」
「その前に、世界って救われないといけない状態でしたっけ? 私、普通に暮らして、毎食、とりあえず食べれてますけど?」
 
と聞きます。
 
まあ、私は、そういう奴だから
「せっかくいいことを教えてやろうと思ったのに、お前のせいで世界はダメになるぞ。ずっと後悔して暮らせ!」
と言って、そのなんらかは怒って帰っていくと思うんです。
人のせいにして、ね。
 
私は、こうも言うかもしれません。
「なんであなたは選ぶばっかりで、自分でやろうとしないんですか? もう体が無いなら、誰かに取り憑いて世界を救って、周囲の人に実は私はこういう考えでこの人に取り憑きました。世界を救えてよかったです。って言って去ればいいだけなんじゃ無いんですか?
私は嫌ですけど。」
 
「仲間にならないか?」
なんて言われた日には、
「なんで? え、なんで? 私はそれでなくても嫌な人にめぐり逢う確率が高く生まれついてるのに、よく知りもしない、今日、初めてなんだかよくわかんないやり方でメッセージ送ってきた人と仲間にならなきゃいけないんですか? 言ってることおかしくないですか?」
前のめり気味に訊きます。
 
なぜそんなふうに思うかと言ったら、私は心が美しい人間ではないからですし、物語を趣味で書いているからではないでしょうか。
 
私は、ファンタジーの中で起こっていることを、その物事が起こるように創られている理由は、そうでなければ物語が進まない作者の都合だからだ、ということを知っているからです。
 
同じことが、人間社会の現実でもよくあります。
それはあなたの都合でしょう? 
どうして私のせいにするんですか? 
どうして私にさせようとするんですか?
そう思う瞬間が現実によくあることは、みなさん、ご存知の通りです。
 
だから私は、現実で、
「あなただけに教えてあげる」
という言葉を絶対に信用しません。
 
私は、「いいこと」は、自分がまず味わいたいし、「いいこと」の取り分が減ると困るので、人にはまず教えません。
大体の人はそうではないかと思っていますが、それがどうかはわかりません。
 
なぜそうなのかといえば、
「いい情報は人に教えない」し、この世界には「人に教えてもいい情報」と「そうでない情報」というものがあることを知ってるからです。
「人に教えたくない情報というものは、人に知られると困る情報」で、「人に教えてもいい情報は、人に知られても自分が困らない情報」だと考えているからです。
 
整理するとそうなだけで、私は人にあれこれ詮索されること自体が嫌いなので、困るか、困らないか、では決めず、なぜそんなことを聞くんだ。その理由はなにか。というところで決めます。
 
私の狭量さとダルっダルなトコの自己紹介が終わったところで。
 
メッセンジャーっていますよね。
この世の中には、いろいろなメッセンジャーがいることは、私も少しは知っています。
 
1番馴染みがあるのは、クリエイターや表現者です。
芸術や娯楽、物作りの分野に多いですよね。
他にも本当に本気のメッセンジャーという方がおられるのかもしれません。
私がなんとなく見当をつけているのは、ヒーラーという、体や精神を治癒する分野で活躍する方も、そうなんじゃないんでしょうか。
 
その方達が共通して伝えてくることは、安心、癒し、幸福、慰め、励まし、生きる喜び、人生の楽しさ、この世というものにある素晴らしさにつながる断片、ではないか、といま考えてみましたが。
受け手である私にも確実にわかっているのは、そのメッセージは、少なくとも人を不安にさせるものではないんだ、ということなんですよね。
 
メッセンジャーである使命をお仕事にされている方、またはライフワークにされている方は、私の目には、とても美しい人達なんだろうな、というふうに見えています。
なにが、かは、私にも良くわかりませんが、少なくともその人の中に美しさを持っていて、そこで何かメッセージを受け取って、表現しながら伝えている。
 
だから、悪意ではないんですよね。
自分はメッセージを伝えるものなんだ、という自覚があるだけで。
私と比べたら、その方達は、とても優しい心の持ち主なんだと思っています。
 
昔ですね、ノストラダムスの大予言というのがあったんですよ。
1999年の7の月に世界が滅びてしまう、という予言が主に知られているんですけれど。
詩篇だったそうです。私も原文は読んだことがありませんので、記憶で書いています。
 
いま2023年ですから、当然、その予言は当たりませんでした。
そしてそれは予言であって、予知ではありません。
あくまでも予言だったんです。
でも私も、そうなのかなぁ? とは思っていました。
あらら滅びちゃうんだ。と思って、思っただけで特になにもせずに、7月が来たことも、後で、あ、そういえばそうだったね。と思いました。
憶えている限り、日本では多くの方々がそうでした。
 
それから、2011年の震災が日本で起こりました。
その時私は、やっぱりこの世には予知能力者なんていないんだな、と思ったし、タイムマシーンはいつまで経っても完成しないんだな。と知りました。
 
もしどちらかでもあったら、絶対に知らせるはずだから。
どんな人間であっても、どんなルールや規則が未来にあっても、必ず知らせに来ることを、私だけでなく、世界中の人間が知っているからです。
 
人間は、そういうふうにできているんですよね。
それくらいは、私でも知っています。
 
私は、ノストラダムスは、なんだってそんな予言を書き記そうとしたんだろう、と思うんです。
その理由はなんだったんだろう。と思うんですよね。
 
ノストラダムスが世を呪っていたかどうかは知らないけれど、そこまで全力で呪っていたのなら、もっといろいろと脅すと思うんですよ。
でも、なんかそういう、いかようにも解釈できるやり方で、1999年の7月に世界が終わるんですけれど。と書き残した。
 
私は、なんでその伝え方を選んだんだろう、という理由を考えます。
 
なんとなく思うんですが。
ノストラダムスは、自分が生きている先の、見えてる(いたらしい)先の、もっと果てに世界が終わらないと、世界が始まっている理由が立たないから、終わりを記したんじゃないか、と思うんですよね。
始まりがあるから、終わりをつけないと、作品は終了しない。
ただ、それだけだったんじゃないでしょうか。
(大丈夫とは思いますが、ノストラダムスをディスりたいわけではありません。)
 
もしね、本気の本気で、少なくとも近くにいる自分の子孫とか身内とかに伝えたいなら、絶対に何年の何月の何時何分にこういうことが起こって、こんなことになるから、ここに逃げて、何年前から食糧はこれだけ備蓄して、お金はこれくらい貯めておいて、家はこことここに所有して、あと貨幣価値がこれになるから、その物質をなんでもいいから倉庫に貯めておけ、っていうはずなんですよね。
 
私はね、世界の終わりを心配する優しい人達を、責める気持ちにはなれないんですよ。
 
その人達は、優しいんですよね。
ただ、優しいだけなんですよ。
 
そういう人達にめぐり合ったら、私も、できる限り、その人達を傷つけないように心配りをしようと思います。
 
もし、私が感覚過敏世界で、世界の終わりのメッセージとか、お金が儲かるメッセージとか、株価が上がる日にちとかいうメッセージを受け取ったら、「は? なに言ってんだ、お前」で、翌朝、起きた頃には忘れちゃうので、世の中はよくできているもので、そういう奴のところには、決してそんなメッセージはやってこないということも、私の経験上、とてもよく知っていることです。あははー。(無表情)
 
そういうわけで、年末だし、ちょっと大きな話題にしてみました。
お正月休み、クリスマス休暇と時間が取れる時期でもありますので、そういう世界規模のロマンティックな映画を観て楽しむのもいいですよね。
 
ちなみに私は、映画「インディペンデンス・デイ」が好きです。
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以上、私が決めていること。私が知っていること。でした。