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うっかりカツカツやって来て、うっかり居ない。( By O.)
 

2023/07/23

マシュマロフィニッシュパウダーとミシャのクッションファンデ

 

 

日曜日なので、穏やかな内容を書いています。

 

 

久しぶりにコスメ話です。

 

デイリーメイクは、いま私はプチプラばかりになっています。

基礎化粧品はちふれ、日焼け止めはアリー(これはプチプラとは言えませんね)で、下地込みで、ミシャのクッションファンデとマシュマロフィニッシュパウダーで仕上げ、あとはカラーメイクもセザンヌ、メイベリン、レブロンというラインナップで固めています。(チークはosaji

 

ミシャのクッションファンデを買ったのは、すごく有名なので欲しいな、と思ってたんですよ。

で、人気だから手に入りにくいのかな? と思っていたら、たくさんあるのをお店で見つけて、ウキウキと購入しました。

 

さっき知ったんですけれど、ミシャって韓国コスメなんですね。

知らないうちに韓国コスメデビューも果たしていたという・・・。

 

私の肌は、敏感肌という枠に入れてもいいかな? ぐらいなんですけれど。

ミシャのクッションファンデ、大丈夫でした。

 

というのも、これを書くにあたって、商品名の確認のためにミシャのクッションファンデで検索したら、検索候補に危険という項目があったんですね。

私が見たページでは、ミシャのクッションファンデは特に危険な要素はなく、肌荒れをする人もいる、という話でした。

ちょっとネガティブな情報になってしまうので、そちら様の参考リンクは貼りません。

 

ミシャのクッションファンデ。

私は、白のマット、「自然な肌色」を使っています。

 

Amazonリンク

ミシャ M クッション ファンデーション(マット)No.23(自然な肌色) 15g 1 (x 1)

https://amzn.asia/d/90f43Mh

 

検索してすぐのAmazonのページを見ると、2023722日現在、過去1ヶ月に700点以上購入されている、とのこと。

 

わかります。わかります。

すごく使いやすいですし、私はマシュマロフィニッシュパウダーのモイスチャー オークルを合わせていますが、さほど崩れが気になることはいまはありません。

でも暑い季節ですので、日に一度はパウダーをブラシで塗り直しているので、その分、崩れにくいんだと思います。

 

まだ1回目なので、なんとも言えませんが、今のところ、乾きやすいというよりは、どちらかというと、日中ずっとつけててもしっとりなので、パウダー併用して、ちょうどいい感じです。

 

次回は、こっちを買おうか、いま迷い中です。

 

MISSHA(ミシャ) ミシャ M クッション ファンデーション (プロカバー) No.23 自然な肌色 単品 15g

 

Amazonリンク

https://amzn.asia/d/ayjzoal

 

最終的には、リップスやアットコスメでレビューを見比べて決めようかな、と思っています。

 

マシュマロフィニッシュパウダーは、説明不要なお馴染みのスグレモノパウダーですよね。

 

Amazon リンク

キャンメイク マシュマロフィニッシュパウダー リフィルMO マットオークル 10g

https://amzn.asia/d/8qBtElE

 

こちらにおいては、2023722日現在、過去1ヶ月で3000点以上購入されているとのこと。

 

すごいです!マシュマロフィニッシュパウダー。

すごい勢いです!

 

元々、手に入りやすい価格のパウダーにU Vカット機能が付いているのを見つけきれなくて、私はこのパウダーを買いました。

 

私の肌には、春、梅雨、夏と、少し乾燥しやすいかな、というぐらいです。

とにかく使い回しやすく、お値段以上のクオリティなので、普段使いを始めて半年ですが、とても満足しています。

 

こちらも特に、私は、肌トラブルはありませんでした。

 

もうあちこちで言われ尽くしていることですが、この頃のプチプラコスメの発展の目覚ましさと、クオリティの高さには、驚くばかりです。

 

私はシャネル大好き人間なので、この頃は買えていないけれど、大切に使っているシャネルのコスメはコスメで、大事に使い分けています。

 

ですが、もう正直、デイリーコスメは、これで十分ですし、このラインナップで夏から秋までやっていこうと思っています。

(秋口からのアイシャドウは、相変わらずのディオール、ミッツァにするつもりです。)

 

またトラブルが出た時は、こちらでご報告しますね。

 

以上、今日は、マシュマロフィニッシュパウダーとミシャのクッションファンデ、でした。

 

暑いですから、冷たいものを上手に取り入れて、食事をきちんと摂り、くれぐれも熱中症、夏バテにはお気をつけくださいね。

 

それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。

 

 

 

 ↓ワンクリックしていただけると、はげみになります:)

 


2023/07/22

善意のサイズ

 

ふたたび雑記です。

 

 

なんとなくぼんやり暮らしていて、個人個人の受け取る善意それぞれに、サイズがあるのではないか、と感じています。

 

背負い水、という言葉がありますが。

これは、みなさんご存知のように、人が一生飲む水の量はあらかじめ決まっている、という考え方です。

それを背負って生まれてくる、というものですね。

 

その考え方が私はとても好きで、あらゆるわからないことに、その背負っている量はどのくらいか? というのを自分で見当をつけては、こうかな? ああかな? と考えることをよくやっています。

 

善意も同じく、背負っている善意の量というものがある、と私は思います。

ご心配されなくとも、その量は大体において、ものすごくたっぷりあるのではないか、というのが、いままで考えてきて結論づけている予測です。

 

だからあまり人付き合いがないな、という方や、そもそも善意をもらう状況に入っていくのが苦手、という方も、

この後、ドカンドカン、と善意が手渡されるので、覚悟しておいてください。←?

 

私の話をすれば、私にもそういう機会がありましたし、この先も小さくあると思っています。

 

個人個人の受け取る善意の適正サイズというのが、きっとあって、背負っているだけの量から、この先の日数を割ってという数字ではやはりなく、それはその時々の状況に合わせて、そして善意を受け取る本人の許容量に合わせたものではないのかな、と考えます。

 

そうでないと、単純な話、受け取れませんからね。

 

なので、私の受け取れる善意の寸法は、片手のひらに乗るサイズ、10センチ四方の立方体ぐらいだと、イメージしています。

 

だからそれ以上のものが目の前に現れた時、私は1年間ぐらい、これは一体なんだろう? と、じっと考える癖がついています。

 

善意だけでなく、人生の中で、過分である、と思うもの、直感でそう感じるものに対しては、それくらいの姿勢でいることが、私個人にはちょうどいいからです。

 

それに善意というものは、ちょっと恐ろしい側面もあって、その時の精神状態によっては、中毒性があるものではないかと思っています。

 

だから落ち込んでいる時に、近寄ってくる、見知らぬ人たちの甘言には注意が必要である、と昔から言われているのは、その通りだということが私も若者だった頃に、何回かありました。

 

無償の善意や親切、そういうものが、たくさんあるのは知っていますが、私に向けられるものとして、過分だと感じていることは、なぜなんだろう。と考えます。

 

特に仲良くなったきっかけがあるわけでもない、私が何か結果、相手にとって良いものに変わることをしたわけでもない者に、なぜそこまでしてくださるのだろう、と思うんです。

 

私が感じている善意は、相手の心の中で現実に起こっているかどうか、を確認したくてそういう姿勢でいるようにしています。

 

そういうふうに考えるようになって、これもものすごく時間が経っているんですが、善意を取り違えなくなったし、それでも気にかけてくださる方に、現実的に感謝できるようになりました。

 

現実的な感謝というのは、

寄り添ってくださる言葉をかけていただいたり、そういう人間であってもいいのだ、という姿をあえて示してくださるお気持ちを、素直に受け取り、傷をふさいでいただいた後、

しつこくしつこく、そのことを座右の銘にしたり、ピカピカに磨き上げて飾ったり、朝晩目の色を変えてノートに書き出したり、そういうことをせずに、

よくしていただいたことを、ただ、心に持っておく、ということをしています。

 

何か必死でお返しをしようとしたり、

(そういう方はきっと受け取ってくださいません。そういう方だからこそ、縁もゆかりもない相手に、心を配ってくださるんですよね。)、

無理をして身の丈に合わない成長をしてみせようとして、目の下を隈だらけにして笑っていたり、

そういうことをすれば、感謝の気持ちをお返しするどころか、プレッシャーを意図せずお返ししてしまうだけなので。

 

生きていると、時々、不意に良いものを手渡されたりする事があります。

 

その大きさに驚くこともしばしばあります。

 

けれど、私はそういう時こそ、気を引き締め、現実的な判断をするべきだと、自戒をこめて強く思います。

 

それが、自分の現実において、過分なものではないか、弱っている自分に付け込んでくるものではないか、なにか交換条件が潜んでいるものが、実は提示されているものなのではないか。

 

それを考えることは、不意に手渡された善意を疑う、汚い心ではないと、10年くらい前から、私はそう思っています。

 

私にも、気にかけてくださる方々がおられます。

いつも、足りない自分が恥ずかしく、情けない気持ちで、その優しく、大きな気持ちを、大切に受け取らせていただいています。

 

みなさんにも、そういう事が起こっていることは、ご存知の通りです。

 

もしいま、なにもないのであれば、

この先、背負っているだけの善意が、必ず、手渡される機会が現実に起こりますので、どうかできるだけピカピカの自分で受け取れるように、自分を大切にして、その時を待っていてください。

 

その瞬間は、不意に訪れます。

 

油断大敵ですよ?(圧)←いや、怖いよ!

 

 

 ↓ワンクリックしていただけると、はげみになります:)

 


低温度な理由

 


 

今日は雑記です。

 

私は、誰かを心の支えにすることも、何かをアテにすることも、なにかになりたいとか、こういう風になりたいとか。

 

そういうことを全く思わなくなっています。

 

10年くらい前だったか、それ以上前だったのか、あまりはっきりとはわからないんですけれど。

 

期待とか希望とか、そういうものが、なくなったんです。

あ、なくなった!という感じではなく、気がついたら、そうなっていました。

 

もちろん、現実の生活の中で、あとであのアイスクリーム食べよ、とか、ここにタクシーが来てほしいとか、そういうふうには思うんですけれど。

 

心の深いところでは、そういうことを一切、思わなくなりました。

 

それは、心が死んでいるのか、と言われたら、違うと思います。

 

けれど、言いたくないので書きませんけれど、私が付き合っていくべきもの、とか、暮らしていてだんだんと、私自身のこと、変化していくこと。

ずっと抱え込んでしまっていて、なぜかはわかりませんが、声として口に出すことすらしなかったこととか、いまは違いますけれど、泣けなくなってしまっていたこととか。

 

いろいろな影響があったんだと思います。

 

自己防衛なのかな、とか、5年くらい考えていたんですけれど。

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、としか、わからなかったんです。

 

それを悪いこととは思わなかったし、もともと私は、自分の敏感さに振り回されたくなくて、あまり心の中にすぐ誰かを入れたりしないんですね。

 

表面的には、あれが好きだ!とか、こういうのもファンだ!とか、色々と暮らしを楽しむために、わりと意識してやっているものもあります。

でも、心の奥底に何か、徐々に染み込んでいく以外で、外からのものを取り込まないんです。

 

そうだから、そういうもんなんだろう、と思っています。

 

ファンブログなのに、取り上げている方々やファンダムの方々のことを書くときに、多分、読まれてて、そんなに好きじゃないんじゃないかと、感じた方も多いのではないでしょうか。

 

で、それは、熱烈に情熱的にされている方々に比べれば、多分、私の「好き」は、劣るし、温度が低いんだと思います。

 

ただ、こういう好きもあってもいい、と私は、考えています。

 

それでARMYではなく、絶対に、ファンと名乗ろうと決めて始めました。

 

みなさん、大人なので、はっきりとはおっしゃらないですが、一緒にされたくないでしょうし、ご不快なのは当たり前ですので。

 

だから、このブログでも、個人の方のニックネームを明確に書くことはしてこなかったですし、Weverseにもあまり行かず、あちらに投稿することも、ほとんどしていません。

 

誰とも親しくなろうとしない、交流しないわけは、そういう理由からです。

 

ブログですが。

先のことはわからないけれど、現状では、このままの形でやるつもりです。

 

そもそもここを知っている方は、ごく少数なので、ちょっと安心しすぎていて、長い間、全然気付かず、本当に申し訳なかったです。

 

とにかく、これ以上、ご迷惑をかけない、思いつく限りの精いっぱいの方法が、昨日投稿した、about thisに前提として注意書きを出す、ことでした。

 

それでオールオッケーになるとは思っていませんけれど、私がどういうつもりか、足りないながらも書いておくことと、何も書かないでいることのとでは、かなり違ってきますので、このような対応をしました。

 

 

なので、私やここのことではなく、とても心配されていた方々は、どうかご安心ください。

長い間、気づいておらず、本当に申し訳ありませんでした。

 

また少しずつでも、思っていること、思っていたことを書いていければいいなと考えています。

 

いまはそういう感じです。

 

それでは通常の投稿に戻していきます。

先日、書いたように、私はいまとても哀しんでいますので、ぎこちないかもしれませんが。

いつも通り、楽しく、ひっそりと、読んでくださる方の時間潰しになれたらいいな、と思っている投稿を書いていきます。

 

以上、低温度な理由でした。

 

 

 

 

付記


 

2021年の68日に

ひかりのディスコ(https://butterflyjustdance.blogspot.com/2021/06/capsule.html 

内で書いてある、

JINさんたちへの感情は友情(友愛ほど大きくはない)にとても近いので、自分のことをファンだと言っている、と書いています。

 

これは私の気持ちの通りです。

 

JINさんたちへの気持ちを愛ではない、と最初の頃から確か書いていて、見たわけではありませんが、きっと何らか反応があるだろうな、と考えていました。

それでいい機会だと思ったので、2021年の68日の投稿で自分がどう思っているかを書きました。

 

これはその通りです。

 

それとこの投稿「低温度な理由」で書いた、

私の事情から、ご迷惑になってしまっていること、ご不快に思われていること、に気づいたとき、

実は、ここを始めるときに、私のようなものは、ARMYさん達と同じ名前を名乗る資格がない、と考え、

そういうつもりで始めた、ということもまた、私の本当の気持ちです。

 

当時、そのことを書けなかったので、2021年の68日では自分の気持ちが愛ではない理由、だけを書いています。

 

私の心の状態が、基本すぐに心の奥底に何かを入れない傾向にあること、浸透していくまで時間を要する状態、であることは、おそらく今後もあまり変わらないと思います。

 

JINさん達を応援していて3年半が経過していますが。

 

その期間に、徐々に私の心に浸透していっている感情も、あるにはあります。

 

それはいまわかる言葉で書くなら、「JINさん達やARMYさん達への理解」というものが、徐々にですが、ゆっくり私の心に浸透していっている、という感じです。

 

ただ、応援する気持ち、一方通行の友情のような気持ちを持っていること、その気持ちの明るさを、私が何かのアテにしたり、支えのようにすることは、私の場合は間違っていると思っています。

 

いまはそう考えています。

 


20230726 16:04 付記 

20230726 16:14 文章をなおしました。

20230726   16:22   わかりにくい箇所を訂正しました。

 

 

 

 

 

 

2023/07/21

about thisに以下の内容を追記しました。




実在、架空、その如何に関わらず、

著者、著書、音楽、商品、映像作品、概念、思想、国家、地域、

個人、公人、企業、団体、公的活動、

参考・参照リンク先の文言に関わる方、全員と、

運営の理念、ファンダムの意志読者の方、全員が、

 

偶然の一致、シンクロニシティを問わず、

 

当ブログ、私と、一切の関わりは無く、

 

当ブログ、私を 肯定するものでは、決してないことを明記します。

 

 

の内容をabout thisに追記しています。

 

ご確認ください。

 

長い間、気づかず、

ご迷惑をおかけしていたこと、

ご不快な思いをさせていたことを、

深く、お詫び申し上げます。

 

エナメル

 

 

 

 

20231017 10:02 当ブログデータのフリー素材化に当たり、不要な箇所を訂正しました。

 

 

 

2023/07/20

返事の来ない手紙

 


 

 

「返事の来ない手紙を書くのはもう嫌なんです」

 

あの日、自分にとって何回目かになる先生の舞台を拝見して、心に強く残った言葉がこれでした。

 

優れた劇作や物語は、読んだ者全員に、それぞれ

「これは自分のために書かれた物語ではないだろうか」

「これは自分の物語ではないだろうか」

そう思わせる力があると、何かの本か、どこかの偉いセンセが言っていたと記憶しています。

 

先生の舞台ですから、素晴らしい役者さん達のおかげもあって、私はいつもながらとても感激し、舞台のあと、会場が入っていたビルの階段で、同行者と一緒に興奮して色々話したのが、つい昨日のようです。

 

そのときからいままで、私は、先生が私にも手渡した

「返事の来ない手紙を書くのはもう嫌なんです」

という言葉をずっと考えて続けています。

 

そこで、この頃、やっと思っていたことを書けるようになってきたので、このことを書こうと思いました。

 

相変わらず、私は文章が下手で、日本語が下手で、

まともな文章が書けるなら文を崩してもいいけれど、できないくせに崩すとは何事だ。勉強しなさい。

と、きっとおっしゃるのではないかと、勝手に想像しては、おでこを掻いています。

 

そういうものですから、とてもじゃないけれど先生について、

「あまり知らないけれど、これこれこういう作品に感激しました。」

とか、

「テレビがまだ私の部屋にあった頃、舞台を拝見しました。」

とか、そういうことを言うのは、できないままです。

 

そしてそのことをまさか、あの日からずっと未来の今日、自分のブログに書くほど、図々しくなっているとは夢にも思いませんでした。

 

私は最初にあの台詞を聞いた時から、ずっとお伝えしたかったことがあります。

 

「返事の来ない手紙を書くのはもう嫌なんです」

 

これは、きっと私のようなネットにいるものへの、先生からの問いであり、祝福だったのではないですか?

 

なので、私はこの言葉をずっと考え続けながら、私からの返事は、余計なことになるので、しなくてもよいのだと考えていました。

 

ですが時が経ち、私はあの頃より少しだけ感傷的な人間になっているようです。

だから、いまになって、私の気持ちを明らかにしたいと思います。

 

先生、私は、返事の来ない手紙を書くのが、とても好きでした。

そして、いまも好きなままです。

 

私には、返事は必要なかったんです。

 

だから、先生が、私のようなものを可哀想に思われることはなかったんですよ。

 

そして、このような人間を、ちゃんと返事の来る世界に戻してやらねばと、祝福をし、ずっと返事の来なかった書いた手紙分の返事を、あんなに素晴らしい舞台で、出してくださる必要はなかったんです。

 

そのことをお伝えすればよかったのか、それともずっと考え続けていた方がよかったのか、それは、いまでもわからないままです。

 

わからないので、解答を出すかわりに、私はずっとこの言葉を持ったまま、生きていこうと思います。

 

そして、相変わらず、返事の来ない手紙を書き続ける私を、頑固な奴だなぁ、と笑ってください。

それできっと、私は安心できると思います。

 

ありがとうございました。

 

何か私が勘違いしてるのであっても、嬉しかったです。

とても嬉しく、まるで先生が助けに来てくださったようで、いまでも私はこの言葉を思い出すたびに、心強い気持ちでいられます。

 

そのことをお伝えしたく、今日は先生に向けて手紙を書きました。

 

悪文、大変失礼いたしました。

勉強、少しずつですが続けます。

 

どうか、お元気で。

 

そちらでも新作をたくさん発表してください。

私はそこへは行けないので、いつかネット回線ができたら、配信してくださいね。

その日を楽しみにしています。

 

本当に、ありがとうございました。

 

天国の先生へ。

 

エナメル