休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/05/08

訂正です。

 

訂正です。

 

先日のJINさんの謎コメントですが。

後半、J-HOPEさんのことに気を配っているように、私は読解したんですけれど。

 

すでにあちこちのメディアで取り上げられているように、あれは、JINさんからJ-HOPEさんへの、軽い、意地悪ジョークだったそうなんです。

 

不慣れなJ-HOPEさんを見て過ごすと、俺の軍生活が優越感で潤うから、お前も後から入ってきたメンバーに同じようにするといいよ、的な解釈なんだそうです(笑)

 

てっきり、優しいヒョン(お兄さん・兄貴)なJINさんのマインドで、J-HOPEさんのことをいたわっているのかと、私はうっかり感動すらしてしまったんですが。

 

JINさんはどこまでも相変わらずの通常運転で、ちょっと小憎たらしい、ヘンテコジョークも健在でありました。

 

元気そうでなによりです。←(笑)

 

以上、訂正でした。

 

20230508 20:00追記 

 


2023/05/07

新しいコーヒーカップ

 

開き切った薔薇のサボン


 

日曜日なので、穏やかな内容を書いています。

 

先日、毎朝のコーヒーカップを新しくしました。

 

以前にも書きましたが。

私は信じられないほど長い間、ひとつのマグカップを毎朝のコーヒーを飲むのに使っていて、あまりにも頑丈で壊れないので、このまま一生持つことになったらどうしよう、と少し気にしてたんですね。

 

お気に入りのものを長く使うことは私も大好きです。

 

でも、そのマグカップは、確かにお気に入りではあったけれど、気がつけば、若者だった頃からずっとそれを使っていて、確かに好きなデザインだったし、手にしっくり馴染んでいたけれど、もともとそんなに長く使うつもりは全くなかったものでした。

 

割れたわけではないので、今でも食器棚の奥にしまっています。←結局、処分することはできなかった。

 

きっかけは、普段使いしている日々の食器達を総入れ替えしようと決めた時に、偶然、ネットで開催を知った、ディスカウント陶器市に行った時、最後にふと目に止まったのが、新しいコーヒーカップでした。

 

あ、好きなデザインだな。欲しいな、と思っても、いつも使ってるの、まだ壊れていないし・・・、と躊躇する気持ちもやはりあって。

一旦はその場を離れたんですけれど、いや、もういい加減、新しいのを使おう、と、その時、急に踏ん切りがついて、思い切って買ってしまいました。

 

なんだか大それたことをしでかしてしまったような気がして、部屋に持ち帰りテーブルの上に置いた後も、戸惑うような、どうして買ってしまったんだろう、と今頃になってためらうような気持ちにもなって、しばらく、じっと眺めていたんですけれど。

 

思いついて、長いこと使っていたマグカップを出してきて並べると、ああ、そうだったんだな、とはっきりわかったことがありました。

 

それは、もうとっくに、そのマグカップが暮らしの中で担っていた役割りの賞味期限が切れていた、ことだったんです。

 

これは少し感覚的な話になってしまいますが。

 

物には、おそらく、賞味期限があります。

 

それは、その物、ひとつひとつが本来、持っている、瑞々しさ、鮮度のようなものが、空っぽになってパサパサになるまでの、短いものなら数ヶ月、長いものなら数年単位の、それぞれの長さのようなものがあると、私は今回、強く実感しました。

 

生鮮食品でもあるまいし、という方もおられると思います。

 

けれど、新しく買ってきたものを、ずっと使っていたものと並べると、それがすごくはっきりわかるんですね。

 

新しいものの方は、見慣れない真新しさとは別に、新しく部屋に持ってこられた、ここではコーヒーカップですけども、そのカップは鮮度に満ちていて、明るい瑞々しさに包まれていました。

 

それに対し、ずっと使っていたマグカップは、その物が持つ、水分にとてもよく似た、カップ自体に最初から充満していた旬の部分が、すでに空っぽになってしまっていたのがよくわかりました。

 

物が持つエネルギー、というと、なんだか大袈裟な話になってしまうんですが。

 

そうとしか言えない、空き家がなぜか、遠目にそうだとわかることと同質の空虚感が、長く使いすぎていたカップにはあったんですね。

 

カップとしての機能性は割って壊さない限り、永遠に続く物なんです。

でも、暮らしをいろどる、明確な瑞々しさ、その物が持つ物体としての潤沢した鮮度は、日々の中で使っているうちにやがて枯渇してしまうものなのだ、と私は、新しく買ったカップと並べてみて、それを目の当たりにしました。

 

もちろん、例外というものもあって。

アンティークだったり、譲り受けたものだったりするものは、そういった賞味期限を超えた、個人的な意味や目的がそのものにある場合、時間の経過がよりいっそうの輝きや、強い感情を纏うケースもあって、むしろ長く使えば使うほど、その物が持つ潤沢なエネルギーがチャージされていくものもあると思います。


けれど、所有していく間に、当初の目的やお気に入りだったものが、それらが持っている、その空間に存在している意味や自分にとっての価値が、徐々に薄れていき、しまいにはただの物質として、なんとなく所有している状態が続いてしまっている場合は、持っている理由やそれらが持つ価値、意味が、すでに消失してしまっている状態なんですよね。

 

そして、ものを買い替える、という行為自体、元気でなければできないことなんだな、と、今回、私はすごく実感しました。

 

たぶん、いま書いたことを、明確に意識しなくても、精神的にある程度元気であれば、特に躊躇することなく、新しく買い替えようという判断が素早く、的確にできるんです。

 

でも、私は、自分が若者だった時に雑貨店で買った、いいな、とは思っているけれど、一生使うつもりは毛頭ないカップを、捨てられずに鈍くなっているほどには、ずっと元気がなかったんだな、と実感しました。

 

気がつかなくなるんですよね。

そして、ずっと使っているから、という、やらない理由を挙げて、それ以上は考えなくなる、感じなくなってしまう状態に自分がなっていることに、長い間、気がつかずにいました。

 

新しいカップを使ってみて、それで突然、金運が良くなるとか、そういうことはないんですけれど。

 

そのカップから、真新しさが消えたいまでも、テーブルの上に置いてコーヒーを飲んだり、別の場所に運ぶとき、小さな、カップが持つ、風合いと呼ばれるものの中に必ずある、オレンジ色に発光する瑞々しさを、時々に感じています。

 

よくいわれている、生活をアップデートする、ということが、経済活動とは別に、暮らしていく上でとても必要なことだったんだ、と知った、小さいけれど大きな出来事でした。

 

きっと、自分にしかわからない、自分が持っているものの賞味期限に、ある時、ふとそれとなく気がついて、それを新しく取り替える。

 

そうしながら、居住空間の潤いを一定の瑞々しさに保つ、ということを、皆が無意識にやって、暮らしの気持ちよさ、元気さ、を整えているんだと思います。

 

なので、浪費や消費とは別に、あ、これいいな、というセンサーで物を選んだり、長く使いたい物を揃えるのが今はとても気分、という、普段何気なくやっている循環は、実は自分と自分が暮らしている空間を整える、とてもいいやり方なので、これからはもう少し、自分の価値観に注意を払うつもりです。

 

お気に入りの雑貨屋さんやインテリアショップって、実はすごく重要な物を店頭に並べていたんですね。

 

それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。

 

 

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2023/05/05

JINさん、矢継ぎ早に質問する!

 


 

WeverseJINさんが現れて、J-HOPEさん宛に矢継ぎ早に質問をしていますね。

 

文字情報だけなので正確なことはわかりませんが、おそらくJINさんのあの声で、あの早口で読むのが正解ですね(笑)

 

私の住む日本では本日、55日は端午の節句(たんごのせっく)という男児の誕生を祝い、成長を祈る風習から、子供の日という祝日で、兜(かぶと)を飾ったり、鯉のぼり(こいのぼり)を飾ったりして、「ちまき」や「柏餅(かしわもち)」を食べたりします。

 

そもそもの由来や、日本各地の細かい端午の節句の風習に関しては、ウィキペディアの端午の項目に詳しいので、興味がある方はご覧になってみてくださいね。

 

参考リンク

端午 ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%8D%88

 

韓国でも同じ日が祝日なんだそうです。

なのでJINさんはひょっとしたら今日はお休みの日だったのかもしれません。

 

なんだか、気持ちがふさぐことがあったり、心がざわついていたりすると、JINさんがとてもいいタイミングで颯爽と現れて、謎コメントを残し、風のように去っていくので、さすがJINさんだな、と誇らしいです。←?

 

JINさんのコメントの内容から察するに、J-HOPEさんはいまはまだ、ご自身のいる場所と周囲のことに集中している時期のようですね。

JINさんも最初はそうでしたので、聡明なJ-HOPEさんらしい判断だな、と、こちらも惚れ惚れします。

 

JINさんのいうように、きっとJ-HOPEさんも、次に入隊してくるメンバーに同じように気を配ってあげるのでしょうね。

こうして、グループの結束力で、助け合って、この時期を乗り越えていくんだな、と思うと、胸が熱くなります。

 

コメントの様子だと、JINさんは変わらず元気そうで良かったです。

J-HOPEさんの見送りの時、JINさんがインスタにあげた写真を見る限り、JINさんは体つきがしっかりしてきていて、とても健康的で、セクシーで、かっこよく、心の隅でJINさんに抱いていた、つまらぬ心配が吹き飛びました。

 

これからJINさんも得意な季節ですし、J-HOPEさんもいい時期に入隊したので、厳しい寒さがくる前に体を作って、万全の体勢で冬を迎え撃って欲しいです。

またお二人とも、慣れてきた頃が一番危ないと聞きますので、常日頃から、用心しつつ、心身ともの健康を第一に過ごして欲しいと思っています。

 

 

以上、JINさん、矢継ぎ早に質問する! でした。

 

 

訂正です。

 

上記のJINさんの謎コメントですが。

後半、J-HOPEさんのことに気を配っているように、私は読解したんですけれど。

 

すでにあちこちのメディアで取り上げられているように、あれは、JINさんのJ-HOPEさんへの、軽い、意地悪ジョークだったそうなんです。

 

不慣れなJ-HOPEさんを見て過ごすと、俺の軍生活が優越感で潤うから、お前も後から入ってきたメンバーに同じようにするといいよ、的な解釈なんだそうです(笑)

 

てっきり、優しいヒョン(お兄さん・兄貴)のJINさんのマインドで、J-HOPEさんのことをいたわっているのかと、私はうっかり感動すらしてしまったんですが。

 

JINさんはどこまでも相変わらずの通常運転で、ちょっと小憎たらしい、ヘンテコジョークも健在でありました。

 

元気そうでなによりです。←(笑)

 

以上、訂正でした。

 

20230508 20:00追記 

 

 

 


 

 

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To チョン・ホソク 2023 May

 


 

お元気ですか。

J-HOPEさんがいまいらっしゃるところは、美味しいコーヒーが飲めると聞いています。

コーヒー派のJ-HOPEさんなので、リラックスタイムにぜひ召し上がって、疲労回復や気持ちのオン・オフに役立ててくださいね。

 

植えたフローズン・クイーンは、しなやかに美しい花と葉を茂らせています。

初めて触る植物なので、その洗練されたフォルムに毎日驚いているところです。

 

まずは食事をしっかり召し上がることから、ご自身のペースを作っていってくださいね。

 

無事のお帰りを待っています:)

 

 

 

 

 

 

 

2023/05/04

3000° / Ambré

 



 

今日は音楽の話です。

 

デスティン・コンラッドつながりでおそらく出て来たんだと思うんですが、アンブレの3000°がお気に入りで、デスティン・コンラッドと一緒に繰り返し流しています。

 

2022年のEPだそうです。

 

ウィキペディアの英語版を機械翻訳にかけると。

音楽活動は17歳の時からで、ケラーニのオープニングアクトを務めたり、18歳の時にH.E.Rのソングライティングに参加し「Changes」「U」を共作していますね。

詳しく知りたい方はWikipediaをご覧になってくださいね。

 

 

 

私は洋楽と呼ばれるジャンルの中で、すごく個人的な音としか言いようない、聴くものがまるでそのミュージシャンのプライベート空間に一緒にいるような、そういう音を出すミュージシャンが好きです。

 

ときには車の助手席に座り、そのミュージシャンの独り言とも打ち明け話とも取れる言葉を聞いている時間だったり、

 

ときにはそのミュージシャンの自宅の床に座って、出されたスナックと軽いアルコールが混ざった炭酸飲料を飲みながら、くつろいだ中に鋭い視点が混ざっている話を聞くような。

 

これ確かSZAの時に、ライターさんがこういう表現を書かれていたと思うんですけれど。

 

そういう、すごく身体的な近さ、がある音楽を作るミュージシャンが好きです。

 

なのでSZAはもちろん、ケラーニ、ジェネイ・アイコもすごくその近さがあるので、ずっと繰り返し聴いています。

 

たぶんですけど、2020年代のR&B、ネオソウル系の音楽の、一つの潮流なんでしょうね。

 

私が知っている範囲では、SZAが最初に始めたんじゃないかなと思っている、この特殊な「近さ」を持つ音楽は、聴いていると、なんだか薄くスライスして重ねた日常というものを、何枚も通り過ぎているような錯覚をもたらします。

 

なのでそこに触れると、自分のいまいる日常の空気の延長線上に、たくさんの人たちの日常があるのだ。

という、

当然、知っているはずのことを、音や歌詞とともに再確認できるのがすごく好きなんです。

 

また、とてもその感触が、現実的な手触り、肌触りがあって、聴き終わると、窓の外を眺めて、今夜はちょっと飲みに出かけようかな、それともめんどくさくて後回しにしていた手の込んだご飯を作ってみようかな、という、淡々とした前向きさが私の中に置かれているのを発見します。

 

なのでこの系統の音楽を聴くと、現実に潜む息苦しさから離れることができるんですよね。

 

「すべて解決するわけではない。

けれど、少しだけそこから離れて、やっていけるようにはなっている。」

 

そんな感じです。

 

これがそういう創りなのか、聴いている私にだけ起こる、幸せな勘違いなのかは、わからないんですが。

 

トーンとしては物憂げだし、歌い上げる時は歌うけれど、独り言のような音の刻まれ方、言語の選び方なので、映像的に言うと、

 

晴れているけれど、少し灰色がかった薄陽の射す時間に、目の端で揺れているハルジョオンをなんとはなしに眺めているとき。

 

深夜2時を過ぎたあたりの妙な熱さをもった醒めてきてる、テーブルに残ったグラスの水の跡を指でなぞりながら、あてもなくぼーっとしている時間。

 

そういう、とるに足らないとされている、とても強烈な印象をもたらす時間を囁く楽曲群だと、私には聴こえています。

 

少し疲れたな、というとき、よかったら聴いてみてください。

 

以上、3000° /  Ambré でした。

 

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