休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/05/07

新しいコーヒーカップ

 

開き切った薔薇のサボン


 

日曜日なので、穏やかな内容を書いています。

 

先日、毎朝のコーヒーカップを新しくしました。

 

以前にも書きましたが。

私は信じられないほど長い間、ひとつのマグカップを毎朝のコーヒーを飲むのに使っていて、あまりにも頑丈で壊れないので、このまま一生持つことになったらどうしよう、と少し気にしてたんですね。

 

お気に入りのものを長く使うことは私も大好きです。

 

でも、そのマグカップは、確かにお気に入りではあったけれど、気がつけば、若者だった頃からずっとそれを使っていて、確かに好きなデザインだったし、手にしっくり馴染んでいたけれど、もともとそんなに長く使うつもりは全くなかったものでした。

 

割れたわけではないので、今でも食器棚の奥にしまっています。←結局、処分することはできなかった。

 

きっかけは、普段使いしている日々の食器達を総入れ替えしようと決めた時に、偶然、ネットで開催を知った、ディスカウント陶器市に行った時、最後にふと目に止まったのが、新しいコーヒーカップでした。

 

あ、好きなデザインだな。欲しいな、と思っても、いつも使ってるの、まだ壊れていないし・・・、と躊躇する気持ちもやはりあって。

一旦はその場を離れたんですけれど、いや、もういい加減、新しいのを使おう、と、その時、急に踏ん切りがついて、思い切って買ってしまいました。

 

なんだか大それたことをしでかしてしまったような気がして、部屋に持ち帰りテーブルの上に置いた後も、戸惑うような、どうして買ってしまったんだろう、と今頃になってためらうような気持ちにもなって、しばらく、じっと眺めていたんですけれど。

 

思いついて、長いこと使っていたマグカップを出してきて並べると、ああ、そうだったんだな、とはっきりわかったことがありました。

 

それは、もうとっくに、そのマグカップが暮らしの中で担っていた役割りの賞味期限が切れていた、ことだったんです。

 

これは少し感覚的な話になってしまいますが。

 

物には、おそらく、賞味期限があります。

 

それは、その物、ひとつひとつが本来、持っている、瑞々しさ、鮮度のようなものが、空っぽになってパサパサになるまでの、短いものなら数ヶ月、長いものなら数年単位の、それぞれの長さのようなものがあると、私は今回、強く実感しました。

 

生鮮食品でもあるまいし、という方もおられると思います。

 

けれど、新しく買ってきたものを、ずっと使っていたものと並べると、それがすごくはっきりわかるんですね。

 

新しいものの方は、見慣れない真新しさとは別に、新しく部屋に持ってこられた、ここではコーヒーカップですけども、そのカップは鮮度に満ちていて、明るい瑞々しさに包まれていました。

 

それに対し、ずっと使っていたマグカップは、その物が持つ、水分にとてもよく似た、カップ自体に最初から充満していた旬の部分が、すでに空っぽになってしまっていたのがよくわかりました。

 

物が持つエネルギー、というと、なんだか大袈裟な話になってしまうんですが。

 

そうとしか言えない、空き家がなぜか、遠目にそうだとわかることと同質の空虚感が、長く使いすぎていたカップにはあったんですね。

 

カップとしての機能性は割って壊さない限り、永遠に続く物なんです。

でも、暮らしをいろどる、明確な瑞々しさ、その物が持つ物体としての潤沢した鮮度は、日々の中で使っているうちにやがて枯渇してしまうものなのだ、と私は、新しく買ったカップと並べてみて、それを目の当たりにしました。

 

もちろん、例外というものもあって。

アンティークだったり、譲り受けたものだったりするものは、そういった賞味期限を超えた、個人的な意味や目的がそのものにある場合、時間の経過がよりいっそうの輝きや、強い感情を纏うケースもあって、むしろ長く使えば使うほど、その物が持つ潤沢なエネルギーがチャージされていくものもあると思います。


けれど、所有していく間に、当初の目的やお気に入りだったものが、それらが持っている、その空間に存在している意味や自分にとっての価値が、徐々に薄れていき、しまいにはただの物質として、なんとなく所有している状態が続いてしまっている場合は、持っている理由やそれらが持つ価値、意味が、すでに消失してしまっている状態なんですよね。

 

そして、ものを買い替える、という行為自体、元気でなければできないことなんだな、と、今回、私はすごく実感しました。

 

たぶん、いま書いたことを、明確に意識しなくても、精神的にある程度元気であれば、特に躊躇することなく、新しく買い替えようという判断が素早く、的確にできるんです。

 

でも、私は、自分が若者だった時に雑貨店で買った、いいな、とは思っているけれど、一生使うつもりは毛頭ないカップを、捨てられずに鈍くなっているほどには、ずっと元気がなかったんだな、と実感しました。

 

気がつかなくなるんですよね。

そして、ずっと使っているから、という、やらない理由を挙げて、それ以上は考えなくなる、感じなくなってしまう状態に自分がなっていることに、長い間、気がつかずにいました。

 

新しいカップを使ってみて、それで突然、金運が良くなるとか、そういうことはないんですけれど。

 

そのカップから、真新しさが消えたいまでも、テーブルの上に置いてコーヒーを飲んだり、別の場所に運ぶとき、小さな、カップが持つ、風合いと呼ばれるものの中に必ずある、オレンジ色に発光する瑞々しさを、時々に感じています。

 

よくいわれている、生活をアップデートする、ということが、経済活動とは別に、暮らしていく上でとても必要なことだったんだ、と知った、小さいけれど大きな出来事でした。

 

きっと、自分にしかわからない、自分が持っているものの賞味期限に、ある時、ふとそれとなく気がついて、それを新しく取り替える。

 

そうしながら、居住空間の潤いを一定の瑞々しさに保つ、ということを、皆が無意識にやって、暮らしの気持ちよさ、元気さ、を整えているんだと思います。

 

なので、浪費や消費とは別に、あ、これいいな、というセンサーで物を選んだり、長く使いたい物を揃えるのが今はとても気分、という、普段何気なくやっている循環は、実は自分と自分が暮らしている空間を整える、とてもいいやり方なので、これからはもう少し、自分の価値観に注意を払うつもりです。

 

お気に入りの雑貨屋さんやインテリアショップって、実はすごく重要な物を店頭に並べていたんですね。

 

それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。

 

 

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