休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/07/22

善意のサイズ

 

ふたたび雑記です。

 

 

なんとなくぼんやり暮らしていて、個人個人の受け取る善意それぞれに、サイズがあるのではないか、と感じています。

 

背負い水、という言葉がありますが。

これは、みなさんご存知のように、人が一生飲む水の量はあらかじめ決まっている、という考え方です。

それを背負って生まれてくる、というものですね。

 

その考え方が私はとても好きで、あらゆるわからないことに、その背負っている量はどのくらいか? というのを自分で見当をつけては、こうかな? ああかな? と考えることをよくやっています。

 

善意も同じく、背負っている善意の量というものがある、と私は思います。

ご心配されなくとも、その量は大体において、ものすごくたっぷりあるのではないか、というのが、いままで考えてきて結論づけている予測です。

 

だからあまり人付き合いがないな、という方や、そもそも善意をもらう状況に入っていくのが苦手、という方も、

この後、ドカンドカン、と善意が手渡されるので、覚悟しておいてください。←?

 

私の話をすれば、私にもそういう機会がありましたし、この先も小さくあると思っています。

 

個人個人の受け取る善意の適正サイズというのが、きっとあって、背負っているだけの量から、この先の日数を割ってという数字ではやはりなく、それはその時々の状況に合わせて、そして善意を受け取る本人の許容量に合わせたものではないのかな、と考えます。

 

そうでないと、単純な話、受け取れませんからね。

 

なので、私の受け取れる善意の寸法は、片手のひらに乗るサイズ、10センチ四方の立方体ぐらいだと、イメージしています。

 

だからそれ以上のものが目の前に現れた時、私は1年間ぐらい、これは一体なんだろう? と、じっと考える癖がついています。

 

善意だけでなく、人生の中で、過分である、と思うもの、直感でそう感じるものに対しては、それくらいの姿勢でいることが、私個人にはちょうどいいからです。

 

それに善意というものは、ちょっと恐ろしい側面もあって、その時の精神状態によっては、中毒性があるものではないかと思っています。

 

だから落ち込んでいる時に、近寄ってくる、見知らぬ人たちの甘言には注意が必要である、と昔から言われているのは、その通りだということが私も若者だった頃に、何回かありました。

 

無償の善意や親切、そういうものが、たくさんあるのは知っていますが、私に向けられるものとして、過分だと感じていることは、なぜなんだろう。と考えます。

 

特に仲良くなったきっかけがあるわけでもない、私が何か結果、相手にとって良いものに変わることをしたわけでもない者に、なぜそこまでしてくださるのだろう、と思うんです。

 

私が感じている善意は、相手の心の中で現実に起こっているかどうか、を確認したくてそういう姿勢でいるようにしています。

 

そういうふうに考えるようになって、これもものすごく時間が経っているんですが、善意を取り違えなくなったし、それでも気にかけてくださる方に、現実的に感謝できるようになりました。

 

現実的な感謝というのは、

寄り添ってくださる言葉をかけていただいたり、そういう人間であってもいいのだ、という姿をあえて示してくださるお気持ちを、素直に受け取り、傷をふさいでいただいた後、

しつこくしつこく、そのことを座右の銘にしたり、ピカピカに磨き上げて飾ったり、朝晩目の色を変えてノートに書き出したり、そういうことをせずに、

よくしていただいたことを、ただ、心に持っておく、ということをしています。

 

何か必死でお返しをしようとしたり、

(そういう方はきっと受け取ってくださいません。そういう方だからこそ、縁もゆかりもない相手に、心を配ってくださるんですよね。)、

無理をして身の丈に合わない成長をしてみせようとして、目の下を隈だらけにして笑っていたり、

そういうことをすれば、感謝の気持ちをお返しするどころか、プレッシャーを意図せずお返ししてしまうだけなので。

 

生きていると、時々、不意に良いものを手渡されたりする事があります。

 

その大きさに驚くこともしばしばあります。

 

けれど、私はそういう時こそ、気を引き締め、現実的な判断をするべきだと、自戒をこめて強く思います。

 

それが、自分の現実において、過分なものではないか、弱っている自分に付け込んでくるものではないか、なにか交換条件が潜んでいるものが、実は提示されているものなのではないか。

 

それを考えることは、不意に手渡された善意を疑う、汚い心ではないと、10年くらい前から、私はそう思っています。

 

私にも、気にかけてくださる方々がおられます。

いつも、足りない自分が恥ずかしく、情けない気持ちで、その優しく、大きな気持ちを、大切に受け取らせていただいています。

 

みなさんにも、そういう事が起こっていることは、ご存知の通りです。

 

もしいま、なにもないのであれば、

この先、背負っているだけの善意が、必ず、手渡される機会が現実に起こりますので、どうかできるだけピカピカの自分で受け取れるように、自分を大切にして、その時を待っていてください。

 

その瞬間は、不意に訪れます。

 

油断大敵ですよ?(圧)←いや、怖いよ!

 

 

 ↓ワンクリックしていただけると、はげみになります:)

 


低温度な理由

 


 

今日は雑記です。

 

私は、誰かを心の支えにすることも、何かをアテにすることも、なにかになりたいとか、こういう風になりたいとか。

 

そういうことを全く思わなくなっています。

 

10年くらい前だったか、それ以上前だったのか、あまりはっきりとはわからないんですけれど。

 

期待とか希望とか、そういうものが、なくなったんです。

あ、なくなった!という感じではなく、気がついたら、そうなっていました。

 

もちろん、現実の生活の中で、あとであのアイスクリーム食べよ、とか、ここにタクシーが来てほしいとか、そういうふうには思うんですけれど。

 

心の深いところでは、そういうことを一切、思わなくなりました。

 

それは、心が死んでいるのか、と言われたら、違うと思います。

 

けれど、言いたくないので書きませんけれど、私が付き合っていくべきもの、とか、暮らしていてだんだんと、私自身のこと、変化していくこと。

ずっと抱え込んでしまっていて、なぜかはわかりませんが、声として口に出すことすらしなかったこととか、いまは違いますけれど、泣けなくなってしまっていたこととか。

 

いろいろな影響があったんだと思います。

 

自己防衛なのかな、とか、5年くらい考えていたんですけれど。

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、としか、わからなかったんです。

 

それを悪いこととは思わなかったし、もともと私は、自分の敏感さに振り回されたくなくて、あまり心の中にすぐ誰かを入れたりしないんですね。

 

表面的には、あれが好きだ!とか、こういうのもファンだ!とか、色々と暮らしを楽しむために、わりと意識してやっているものもあります。

でも、心の奥底に何か、徐々に染み込んでいく以外で、外からのものを取り込まないんです。

 

そうだから、そういうもんなんだろう、と思っています。

 

ファンブログなのに、取り上げている方々やファンダムの方々のことを書くときに、多分、読まれてて、そんなに好きじゃないんじゃないかと、感じた方も多いのではないでしょうか。

 

で、それは、熱烈に情熱的にされている方々に比べれば、多分、私の「好き」は、劣るし、温度が低いんだと思います。

 

ただ、こういう好きもあってもいい、と私は、考えています。

 

それでARMYではなく、絶対に、ファンと名乗ろうと決めて始めました。

 

みなさん、大人なので、はっきりとはおっしゃらないですが、一緒にされたくないでしょうし、ご不快なのは当たり前ですので。

 

だから、このブログでも、個人の方のニックネームを明確に書くことはしてこなかったですし、Weverseにもあまり行かず、あちらに投稿することも、ほとんどしていません。

 

誰とも親しくなろうとしない、交流しないわけは、そういう理由からです。

 

ブログですが。

先のことはわからないけれど、現状では、このままの形でやるつもりです。

 

そもそもここを知っている方は、ごく少数なので、ちょっと安心しすぎていて、長い間、全然気付かず、本当に申し訳なかったです。

 

とにかく、これ以上、ご迷惑をかけない、思いつく限りの精いっぱいの方法が、昨日投稿した、about thisに前提として注意書きを出す、ことでした。

 

それでオールオッケーになるとは思っていませんけれど、私がどういうつもりか、足りないながらも書いておくことと、何も書かないでいることのとでは、かなり違ってきますので、このような対応をしました。

 

 

なので、私やここのことではなく、とても心配されていた方々は、どうかご安心ください。

長い間、気づいておらず、本当に申し訳ありませんでした。

 

また少しずつでも、思っていること、思っていたことを書いていければいいなと考えています。

 

いまはそういう感じです。

 

それでは通常の投稿に戻していきます。

先日、書いたように、私はいまとても哀しんでいますので、ぎこちないかもしれませんが。

いつも通り、楽しく、ひっそりと、読んでくださる方の時間潰しになれたらいいな、と思っている投稿を書いていきます。

 

以上、低温度な理由でした。

 

 

 

 

付記


 

2021年の68日に

ひかりのディスコ(https://butterflyjustdance.blogspot.com/2021/06/capsule.html 

内で書いてある、

JINさんたちへの感情は友情(友愛ほど大きくはない)にとても近いので、自分のことをファンだと言っている、と書いています。

 

これは私の気持ちの通りです。

 

JINさんたちへの気持ちを愛ではない、と最初の頃から確か書いていて、見たわけではありませんが、きっと何らか反応があるだろうな、と考えていました。

それでいい機会だと思ったので、2021年の68日の投稿で自分がどう思っているかを書きました。

 

これはその通りです。

 

それとこの投稿「低温度な理由」で書いた、

私の事情から、ご迷惑になってしまっていること、ご不快に思われていること、に気づいたとき、

実は、ここを始めるときに、私のようなものは、ARMYさん達と同じ名前を名乗る資格がない、と考え、

そういうつもりで始めた、ということもまた、私の本当の気持ちです。

 

当時、そのことを書けなかったので、2021年の68日では自分の気持ちが愛ではない理由、だけを書いています。

 

私の心の状態が、基本すぐに心の奥底に何かを入れない傾向にあること、浸透していくまで時間を要する状態、であることは、おそらく今後もあまり変わらないと思います。

 

JINさん達を応援していて3年半が経過していますが。

 

その期間に、徐々に私の心に浸透していっている感情も、あるにはあります。

 

それはいまわかる言葉で書くなら、「JINさん達やARMYさん達への理解」というものが、徐々にですが、ゆっくり私の心に浸透していっている、という感じです。

 

ただ、応援する気持ち、一方通行の友情のような気持ちを持っていること、その気持ちの明るさを、私が何かのアテにしたり、支えのようにすることは、私の場合は間違っていると思っています。

 

いまはそう考えています。

 


20230726 16:04 付記 

20230726 16:14 文章をなおしました。

20230726   16:22   わかりにくい箇所を訂正しました。

 

 

 

 

 

 

2023/07/21

about thisに以下の内容を追記しました。




実在、架空、その如何に関わらず、

著者、著書、音楽、商品、映像作品、概念、思想、国家、地域、

個人、公人、企業、団体、公的活動、

参考・参照リンク先の文言に関わる方、全員と、

運営の理念、ファンダムの意志読者の方、全員が、

 

偶然の一致、シンクロニシティを問わず、

 

当ブログ、私と、一切の関わりは無く、

 

当ブログ、私を 肯定するものでは、決してないことを明記します。

 

 

の内容をabout thisに追記しています。

 

ご確認ください。

 

長い間、気づかず、

ご迷惑をおかけしていたこと、

ご不快な思いをさせていたことを、

深く、お詫び申し上げます。

 

エナメル

 

 

 

 

20231017 10:02 当ブログデータのフリー素材化に当たり、不要な箇所を訂正しました。

 

 

 

2023/07/20

返事の来ない手紙

 


 

 

「返事の来ない手紙を書くのはもう嫌なんです」

 

あの日、自分にとって何回目かになる先生の舞台を拝見して、心に強く残った言葉がこれでした。

 

優れた劇作や物語は、読んだ者全員に、それぞれ

「これは自分のために書かれた物語ではないだろうか」

「これは自分の物語ではないだろうか」

そう思わせる力があると、何かの本か、どこかの偉いセンセが言っていたと記憶しています。

 

先生の舞台ですから、素晴らしい役者さん達のおかげもあって、私はいつもながらとても感激し、舞台のあと、会場が入っていたビルの階段で、同行者と一緒に興奮して色々話したのが、つい昨日のようです。

 

そのときからいままで、私は、先生が私にも手渡した

「返事の来ない手紙を書くのはもう嫌なんです」

という言葉をずっと考えて続けています。

 

そこで、この頃、やっと思っていたことを書けるようになってきたので、このことを書こうと思いました。

 

相変わらず、私は文章が下手で、日本語が下手で、

まともな文章が書けるなら文を崩してもいいけれど、できないくせに崩すとは何事だ。勉強しなさい。

と、きっとおっしゃるのではないかと、勝手に想像しては、おでこを掻いています。

 

そういうものですから、とてもじゃないけれど先生について、

「あまり知らないけれど、これこれこういう作品に感激しました。」

とか、

「テレビがまだ私の部屋にあった頃、舞台を拝見しました。」

とか、そういうことを言うのは、できないままです。

 

そしてそのことをまさか、あの日からずっと未来の今日、自分のブログに書くほど、図々しくなっているとは夢にも思いませんでした。

 

私は最初にあの台詞を聞いた時から、ずっとお伝えしたかったことがあります。

 

「返事の来ない手紙を書くのはもう嫌なんです」

 

これは、きっと私のようなネットにいるものへの、先生からの問いであり、祝福だったのではないですか?

 

なので、私はこの言葉をずっと考え続けながら、私からの返事は、余計なことになるので、しなくてもよいのだと考えていました。

 

ですが時が経ち、私はあの頃より少しだけ感傷的な人間になっているようです。

だから、いまになって、私の気持ちを明らかにしたいと思います。

 

先生、私は、返事の来ない手紙を書くのが、とても好きでした。

そして、いまも好きなままです。

 

私には、返事は必要なかったんです。

 

だから、先生が、私のようなものを可哀想に思われることはなかったんですよ。

 

そして、このような人間を、ちゃんと返事の来る世界に戻してやらねばと、祝福をし、ずっと返事の来なかった書いた手紙分の返事を、あんなに素晴らしい舞台で、出してくださる必要はなかったんです。

 

そのことをお伝えすればよかったのか、それともずっと考え続けていた方がよかったのか、それは、いまでもわからないままです。

 

わからないので、解答を出すかわりに、私はずっとこの言葉を持ったまま、生きていこうと思います。

 

そして、相変わらず、返事の来ない手紙を書き続ける私を、頑固な奴だなぁ、と笑ってください。

それできっと、私は安心できると思います。

 

ありがとうございました。

 

何か私が勘違いしてるのであっても、嬉しかったです。

とても嬉しく、まるで先生が助けに来てくださったようで、いまでも私はこの言葉を思い出すたびに、心強い気持ちでいられます。

 

そのことをお伝えしたく、今日は先生に向けて手紙を書きました。

 

悪文、大変失礼いたしました。

勉強、少しずつですが続けます。

 

どうか、お元気で。

 

そちらでも新作をたくさん発表してください。

私はそこへは行けないので、いつかネット回線ができたら、配信してくださいね。

その日を楽しみにしています。

 

本当に、ありがとうございました。

 

天国の先生へ。

 

エナメル

 

 

 

 

2023/07/18

ネットの海を回遊するは、匿名の蝶の群れ、について

 


 

私は、自分のことを、石をめくったらいる、そこに蠢く虫けらだ、と書いたことがあります。

自虐ではなく、本気でそう思っているからです。

 

以前、実名、顔出しでネットにいる人たちの場所で、そう書いた記憶があります。

むろん相手にされませんでした。

 

それから随分と時間が過ぎ、久しぶりにネットを見た時だったと思います。

 

匿名でネットにいる人達に、同じ言葉が投げかけられているのを見ました。

 

私には影響力などないので、まさかと思いましたが、偶然であったとしても、私が以前書いたその自己紹介が、ネットにいる匿名の話者達に向かって投げかけても良いとされる言葉に変わってしまったのではないか、と思いました。

 

真偽の程は分かりません。

 

ただ、だとすれば申し訳ないな、と思いました。

匿名の、ちゃんとしている話者に、私の自己紹介が使われていたのなら、それはそんな言葉を書いた私に責任があるからです。

 

どういう意図で、その言葉を発した人が使ったのかは分かりません。

ただの偶然かもしれませんし、仮に ”人づて” だとしても、その人もまた、どこかで流れていた言葉を真似ただけかもしれないこともあるからです。

 

その時、その方に問えばよかったのですけれど、動揺してしまって、そうすればよかったと気がついたのは、もうずっと後になってからでした。

 

なので、ここを始めようと思った時に、私が使った自己紹介が、匿名のちゃんとした話者の方たちに向かって、おかしなふうに使われてしまったことを、その可能性があることを、どうにかできないかな、と思いました。

 

それで、匿名のちゃんとしている話者の方々のことを、蝶としよう、と思い立ち、ここのブログ名の下に添えています。

 

ブログ名についても、好きな楽曲のタイトルをお借りしているというのもあるんですが。

 

私は言葉あそびが好きなので、Butterfly Just Dance」という、直訳すると、"蝶は、ただ踊れ" という意味のはずですが。

 

これは書いている私のことを指す意味で、

「蝶は舞うものであって、踊らない。踊っているのは、翼や羽のないものである。」

とする

「決して飛べないもの」

という意味を持たせています。

 

ちょっとひとりよがりな意味づけなので、わかる人がわかればいいかな、と思っていました。

 

ここを始めて 3年半  2年が経過する2023718日現在まで、そのことを指摘した人は誰もおられません。

 

それは、以前書いたように、私に誰も関わりたくないせい、かもしれないですし。

 

先日、同じような意味合いの言葉を使った楽曲を聴いたので、わかりきった、下手な言葉遊びに付き合っていられない、ということなのかもしれません。

 

 

また、タイトルとランキングバナーにある写真に、黒い蝶の金属製のしおりを使っているのも、西条八十が「蝶」という詩で示した、

 

『やがて地獄に下るとき、』

 

(中略)

 

『たぶん私は懐から

 蒼白め、破れた

 蝶の死骸を取り出すだらう。

 さうして渡しながら言ふだらう。

 

 一生を

 子供のやうに、さみしく

 これを追ってゐました、と。』

 

(西条八十 美しき喪失より「蝶」)

 

の蝶を使おうと思い、そうしました。

 

地獄に行くまでの一生を、子供のようにさみしく、1人で追っていたのは、私の場合、蝶の影、になるからです。

 

(20230724 00:01 追記 

ランキングバナーと冒頭に掲げている写真は、ここを始めて1年後に掲載しました。記憶違いをしていて申し訳ありませんでした。) 

 

どちらにせよ、バカみたいなひとり遊びのことなので、私1人がわかっていればいいことですし、説明する必要はないかな、と考え、特に書いてきませんでした。

 

ですが、思うところがあり、私の独りよがりを嘲笑われても、書いた方がいいかもしれないと判断し、また、自分のことを讃美しているのではないことも添えたくて、今日は書きました。

 


 

以上、ネットの海を回遊するは、匿名の蝶の群れ、について、でした。

 

 

 

 

20230718 13:17 文章をなおしました。 

20230718 13:21 文章をなおしました。 

20230718 13:50 文章をなおしました。

20230724 00:01 追記 

20230803 21:22 勘違いしていた箇所、ここを始めて3年を2年に訂正しました。ファンになっては2年半が過ぎた頃、ブログを始めてからは2年でした。訂正してお詫びいたします。

20230803 21:14 誤字をなおしました。

20230803 22:34 誤字をなおしました。

 

20231107 13:52 落ち着いて、自分の書いた説明文を読み直したら、ウソをついていませんでした。
よかったです。
正直に書こうと頑張っていたのは憶えていましたが、確か、その方が攻撃されてはならないと思っていたのですが、ちゃんと話せる範囲で正直を貫いていました。
安心しました。
確認不足で人騒がせなことを書き、申し訳ありませんでした。
(20231107 13:51 訂正と追記)
 
理由は、その方をお守りするためでした。
ですが、この時点でももうその方はこの世におられませんでした。
そのことを後になって、勇気を出して検索して、知るはこびとなりました。
 
ただし、バカの考え休むに似たりとは、まさにこのことで、
それも全て、私に機会を与えてくださろうとする、とてもとても深い知見と、まっとうな心からのものであることを、何年も経った現在、やっと気がつきました。
 
そして、どうすれば、猜疑心にまみれ、臆病で無気力だった私が出てくるか、よくよぉ〜くご存じの、舌を撒く知性と経験からのことであったと、いまさらながら脱帽し、謹んで敬服した次第です。
 
私の考えとこの方の考えはやはり違うものではありましたが、このようなものへの一瞬の判断力の高さ、正確さに、ただただ驚き、恥じいるばかりです。
 
お分かりにならない方達へ向けての説明と、お分かりになりたくない方達への徒労とわかった上で説明いたしますと。
 
ひとつ前の投稿は、先に投稿した私の下手くそな追悼のつもりの文章なんかではなく、何年も経ってやっとわかったバカな私らしい、元気で、そして無知蒙昧な私らしい言いかたの方が、きっと納得していただけると思うからです。

その上で、どうお思いになろうと、どうお考えになろうと、それはそれぞれの勝手です。
私はこのことについて、今後、何か言葉を出すことはいたしません。
 
ああだ、こうだ、言われても、私のこのリアクションこそが、先生の望んでおられた正解であったと、私は知っているからです。
 
縁もゆかりもない、ネット越しのクソどうでもいいバカな読者相手に、 一瞬の一瞥であっても、大人としてどう振る舞えばいいか、よくご存じであった方だと、いまでもおっしゃっていたことが、山ほどわからないことがあるのは承知の上で、本能で、そうと知っているからです。
 
ありがとうございました。
そして、全てご存じの上のことだったのに、
長い間、怯え、わからず、バカな上に、頑固で、
本当に、申し訳ありませんでした。
 
まだしばらくは、ご希望に背き、めそめそ泣くと思いますが、
笑いながら泣くという、不思議な機会を与えてくださった、
私の心を生かそうと考えてくださった、
敬愛する天国の先生に、バカないち読者として、
深く深く感謝申し上げます。
 
先生のこと、忘れません。
 
 
エナメル