休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/11/27

子供服のシェア


 
先日、調子が良かったのか、それとも悪くてやけになっていたのか、はわかりませんが、大丈夫かな? と思ってネットをうろついていたときに、この頃では、ママ同士がお子さんの衣服を交換したり、いらなくなったお古をあげたり、そういうことを割とオープンにしているのだな、という情報を見ました。
 
そこに参加してお話しても良かったんですが、もう終わった話題だったこと、私がいま誤読の恐れが非常に高く、ニュースすらまともに読めない状態であることから、1日考えて、自分のブログで書こうと思いました。
 
こうすることが、当てこすりである。という考えをお持ちの方はお読みにならないでください。
 
説明するのも長くなるし、この頃、私は直接問われたことではないが、長期にわたって示唆されていると判断したことで、わかる範囲で答えていますが、正直申し上げて、メールを送ってくるでもないそのような姿勢の問いに、答える義理はないからです。
それでも答えているのは、私が勝手に親切にしていただいたと一方的に感謝している方達から、示唆されているのではないか? という判断からです。
そしてその問いらしきものが、これだけ長期間にわたるのであれば、長い間気づかず申し訳なかった気持ちからです。
 
ただそれだけなので、基本、私は当ブログで書いている内容を読んでくださって、どう思おうとどうお考えになろうと、それはその人の勝手であるし、自由にしていいという考えを私は持っています。
 
そして、そういう風にお考えになる方々は、ここに書いている私の考えや思うことに対し、この話題に対し、この人がこう思っているだけで、私はここは同じだし賛成だけど、ここは意見が違うな。ここは思ってることと違うな。
という、そういう読み方をしてくださるだろう、という予測からです。
 
それで意見をたたかわせたい、その意見交換で新たな地平が切り出せるとお考えなら、メールをくだされば私はできる範囲で意見交換をしますし、こういう考えもありますよ? という声を届けてくださるのなら、やはりメールでいただくのが私のネットでのスタイルに合っています。
 
そういうことですので、その方法がどうしても嫌だ、という方には、私の方ではどうすることもできません。
嫌だと思っていることを無理強いすることは私も大嫌いですので、これはやらない理由がお互い一致しているので、無理にメールをくださいとは言えません。
 
私はそういう考えの持ち主であり、それを3年間ずっと当ブログ上でやっています。
なので、そのやり方の基準がわからないのであれば、読まない、という選択をしていただくのが1番ではないかと、現状では思っています。
 
前置きが長くなりましたが、本題に入ります。
 
 
私は子供がいません。それは望んだことがないからです。
 
なので、現在、ママやパパをやってらっしゃる方々、今後パートナーとの間にお子さんを考えてらっしゃる方々に向けて、極力何か書くことはしてきませんでした。
私にはそちらの方面のことが、全くわからないからです。
 
ただ、今回の、お子さんの衣服をシェアしている、お古を譲っていることについては、私は貧乏を経験していますので、その点からわかることがありますので、情報提供をしたく書こうと思いました。
 
私が申し上げたいのは、お子さんの服を譲り受けるのは、そのお子さんが物心つくまでにしておいた方がいいのではないでしょうか。ということです。
 
昔、読んだことのある海外児童文学の中で、キリスト教が深く根付いたところででは、当時の翻訳の言葉で、慈善箱というものに、いらなくなった子供の服を寄付し、その服を貧しい、服がない子供がもらい受ける、というシステムがありました。
現在の社会でそうなっているのかどうかはわかりません。
そのシステムについて、いくつかの物語の中で、それは本当に、服をもらい受ける子供にとって、屈辱意外なにものでもないことだ、と再三、描かれています。
 
それは、欲しい服が買えないことではなく、その慈善箱に入れる服の元の持ち主の子が、自分のものであった服を覚えているからです。
そうして、誰のものかわからない服を譲り受けた子は、それを学校に着ていきます。
そして、あっ、それ・・・。という視線や、「あの子の服、私のお古よ」とトイレでの内緒話で言われ、誰も当の本人には言わないのに、教室の「ついうっかりした声の大きさの内緒話で」、服を寄付された当人が、いま自分の着ている服が誰のものであったのかを知ります。
 
そういう素晴らしい子供同士でのシステムが、これを書いている2023年の今からもう何十年も、ひょっとしたら3桁の数の昔の学校にもありました。
 
そして、それは現代でも有効かつ、実用的な、生きているシステムです。
 
食うに困っているということは、着るものにも、住むところに困っているということです。
なので、当時の教会の慈善箱システムは、とても助かる、ありがたいシステムでした。
そのおかげで、冬に寒い思いをしなくてすんだ人々は感謝しかなかったと思います。
そのことは、その家の子供も、心から同じ気持ちですし、誰よりもわかっていたことです。
 
でも、学校に行くと、屈辱を味わう現実が持っていたのも、また、その子達は誰よりもよく知っています。
けれど、親御さんを悲しませたくないがために、自然と自分の家が貧しいことが世の中で非常に不利であることを知っていくので、そんなことは言えなかったんです。
1人、耐えていたんです。
 
そういうことを、ご存知ないというのは、2023年の日本は、とても幸せなんだと思います。
豊かなんだと思います。
 
私のわかる範囲で書くと、お子さんが赤ちゃんの時は、服はいくらでもあった方が助かるし、3歳くらいまでは、お古をいただけるのはとてもありがたいことだと思います。
どんどんサイズが変わりますからね。
 
けれど、現在は、リユースの場所、古着店、ネットオークションが数多く存在していますので、3歳以降は、どうかそのブランドの服や、縫製の良い服を、そちらに放出してください。
 
そうすれば、欲しい人の手に渡り、みなさんのやさしい気持ちが長生きできます。
 
人に物をあげるのは、とても難しいことです。
うまくできる人は、私の知る限り、誰もいない。
 
大人になれば、「これはもういらない服だから、良かったら着る?」 という風に、お互いが「それは素敵な服だから」「それは欲しかったブランドの服だから」と、さっぱりした気持ちだけで、服を譲り受ける状況を作り出すことができます。
 
でも、お子さんが就学年齢に達したら、それはいくら仲の良いママ同士パパ同士であっても、悪手です。
 
その子が言わなくても、他の子が言う。
誰も何も言わなくても、もらったその子は、自分はあの子のお古を着ている、という誰にも言えない秘密を抱えます。
 
どうか、そのことを思い出していただければと思います。
 
 
追記
「いらなかったら捨てても良いから」
は、なるべくなら言わないほうがいいワードとして、知っていてくださると、どうして? と思うことが少しは減るかもしれません。
 
私は、人からの親切には頭を下げて感謝するタイプです。
何かをプレゼントしてもらえることも単に喜ぶタイプです。
ですが、そうではない人も、います。 
 
そっち方面でプライドが高いんだと思います。
ご存知の通り、誰にでもプライドはあります。 
そのことを責める権利はおそらく誰にもありません。
 
ただ、処世術として、人の親切には気持ちよく応えるほうがうまくいく、ということを、大体の人は経験していきます。
私もその考えには大いに賛成です。
 
「いらなかったら捨ててね」
は、ある種類の人には、
「ゴミをくれるってこと?」
と受け取られます。
「じゃあ、自分で捨てて」
と言われたことがあるかたも、少なくないのではないでしょうか。 

そういうこともあります。

あなたがどう思おうと、どう考えようとも、そういう人はいるんです。

なので、その言葉は、なるべくなら言わないほうがいいワードとして、記憶していただければと思います。
 
あなたがそんなつもりじゃなかったことは、その人をのけて世界中の人が知っています。
だから、大丈夫。
 
 
 
 
 
 

2023/11/26

アルバコエルレア オクラータを植える


 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
 
アルバコエルレア オクラータを植え付けました。
 
・・・・アルバコエルレア オクラータです。
 
アルバコエルレア オクラータ。
オクラじゃありません。
 
アルバコエルレア オクラータです。
いや、大鍋をかき混ぜながら言ってません。大丈夫です。
 
アルバコエルレア オクラータですよ。
エコエコアザラクとお間違えなく。
 
だからアルバコエルレア オクラータですってば!←苦笑
 
 
アルバコエルレア オクラータって一体何かというと、
青いチューリップでお馴染みの、アルバコエルレア オクラータです。
原種のチューリップですね。
 
というわけで本日は園芸ネタです。
 
アルバコエルレア オクラータの写真はこちらです。
 
 
Photo by hanam from 写真AC 加工エナメル
 
・・・青くないじゃん! 
 
ってあっさり言われそうですが。
 

中心部がなんとなくうっすら青紫ですよね。
2023年現在の原種チューリップで販売されている中で、1番青いのが、こちらのアルバコエルレア オクラータなんだそうです。
 
私はふだんタキイネット通販をよく利用しているんですけれど。
秋の園芸祭りの時に、そうだ! 球根を買わねば! と張り切ってチューリップの球根を探していたら、偶然アルバコエルレア オクラータの球根を見つけて、原種チューリップというものがあるんだ。と感心しつつ、あまりにも好きな姿なので、ひと目惚れしてしまい早速購入いたしました。
 
きっとこういう形のが原種チューリップ(原種系チューリップ)というんだな、という、ざっくり認識にとどめていただけなんですけれど。
 
今あらためて検索してみると、ふだん、春に目にする大きな花のチューリップではなく、水仙やムスカリのような花姿の、小さくて華奢で1年間植えっぱなしでも問題のない品種のことを、原種チューリップという、と、私は認識しています。
 
詳しくはこちらのリンクをご覧になってください。
 
参考リンク
GARDEN STORY 様
庭に植えっぱなしで楽しめる「原種系チューリップ」10選
 
パッと開けた場所に自生している花の群れのような感じと言ったらいいでしょうか。
こういう系統の花が私はとても好きみたいです。
華やかな大ぶりのチューリップもいいですけれどね。
 
アルバコエルレア オクラータの球根も、参考リンク先様にあるように、やはり小ぶりの球根でしたよ。
 
私、何年か前に、白いクロッカスをスクエア型の鉢全面に植えたことあって、花が咲いたときは、もう胸がいっぱいになるほど美しくて、静かで、毎日ニヤニヤしながら眺めていたんですが、花期がすぐ終わってしまって寂しかったんです。
 
けれど、アルバコエルレア オクラータは、原種チューリップなので、植えっぱなしにしていたら、繰り返し毎年咲いてくれるそうで、そういう意味でも出会っちゃったな、という感じです。
 
今年はなかなか寒くならなくて、ずっと保管していたのが、やっといい感じに寒くなってきて、イベントも1段落したので、先日早速植え付けました。
 
知らないで購入したアルバコエルレア オクラータは、希少なものらしく、最初は寄せ植えにしようかと思っていたんですが、大切に見たいので、小さな鉢にそっと植え付けました。開花は4月なんだそうです。楽しみです。
 
 
チューリップだけでなく、青い花ってどの花の種類でも難しいらしくてですね。
バラでいうと、現在は結構、青いバラって存在しているんですね。
この頃では、品種改良を重ねて、病気に強く、育てやすい青系のバラも登場していますが、最初は、どれもやはり育てるのが難しくて、あまり強くなかったそうです。
 
それが蘭の世界でも、なんと青い胡蝶蘭があるそうなんですよ。
こちらがその写真となります。
 
 
Photo by shirone731 from 写真AC 加工エナメル

 
なんとも美しく気品のある姿ですね。
 
こちらの青い胡蝶蘭は、石原産業株式会社が開発した、Blue Gene®という名前なんだそうです。
ツユクサと胡蝶蘭を掛け合わせて、青い胡蝶蘭を作ったんだそうです。
なんと!開発に15年かかったそうですよ!
詳しくは以下のオフィシャルページをぜひご覧になってください。
あまりの幻惑的な美しさに驚かれると思います。
 
参照リンク
石原産業株式会社 様
青色コチョウランBlue Gene®
 
 
私は、青ってすごく好きな色で、漢字では「蒼」の字がとても好きです。
 
ここぞ、という時に使いたいので、滅多に自分が書いている文章の中では使ったことがありません。
響きも、青の「せい」という音も瑞々しくていいですが、蒼の「そう」という音は、私にとっては格別に響く音です。
 
感覚の話になってしまいますが。
「そう」から連鎖するものして、「奏」「想」「窓」という漢字が、音楽や考えたりすること、部屋の中に雨の青を映しだすとても重要なガラスの区切りを象形するので、やはりそのあざなうイメージの始まりは「蒼」であることが、私の暮らしにはとても重要です。
 
そして、そのどれもの色は、やはり濃淡の差はあれど、すべて青いので、私個人だけでなく、少しの憂鬱と静けさを好む人にとって、青い花もまた、何かしら強い意味を持っているのかもしれません。
 
なんだか今年の11月はあっという間でした。 
みなさんの11月はどうでしたか?

素敵な名前を持つ私の小さな庭も、この冬を越す花を植え終わりましたので、あとはバラの植え替えをして、真冬を楽しみに待つのみです。
 
地域によるとは思いますが。
UberEatsでは、花屋さんの取り扱いもありますよね。
もしお住まいの地域のウーバーが対応していたら、お好きな花を探してみてはいかがでしょう。
切花や小さなブーケを届けてくれるそうです。
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。
 
 
 
 
 
 

2023/11/25

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 最終夜 Shall we dance ? ***


 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 最終夜 Shall we dance ?  ***
 
 
 
 

 
Shall we dance ? / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
 
作詞 : Oscar Hammerstein II
作曲 : Richard Rodgers
編曲 : 周防義和 (Yoshikazu Suou)
 
クレジット Wikipedia Shall we ダンス?より
 
 
・・・なぜ、驚かれるんでしょうか?(笑)
 
いえ私も、わかりきったことをやる、というカタルシスが決して嫌いではないので、みなさんの予想通りの最終夜にいたしました(笑)
 
 
映画「Shall we ダンス?」は、決して派手ではない、ささやかで温かく、日本社会で生きている市井の人々に優しい視線を投げかけ、その素晴らしい人生を描き切った名作としていまでも強く愛好され評価され続けています。
 
英語圏やその他の言語圏のみなさんには、リチャード・ギアの映画として「Shall we dance?」のほうが馴染み深いのではないでしょうか。
ハリウッドでリメイクされた経緯は、検索して調べていただくとして。
 
最初にお断りしておきますが。
私は、映画「プリティ・ウーマン」がど真ん中ですので、リチャード・ギアは素晴らしいアクターであるという認識をしています。
 
さて最終夜なので、映画「Shall we ダンス?」の話をします。
 
ネタバレを回避して書くやり方も、とても親切な方に遠隔で教えていただいたことがあるんですが、考えた末、映画の結末や内容について触れる書き方をします。
 
理由は、内容を事前に知った上で視聴しても、この映画「Shall we ダンス?」の素晴らしさは、決して、決して、奪われることはないと、私もまた、知ってるからです。
 
主演の1人である役所広司(Kouji Yakusyo)ともう1人の主人公であると言ってもいい、永遠のヒロイン草刈民代(Tamiyo Kusakari)の、とてもささやかな関係が軸となって、この映画は描かれています。
その周囲にいる人々は、みなさんや私のような市井の人々です。

彼らは、強がったり、一生懸命だったり、賢かったり、うまく話せなかったり、仕事を頑張っていたり、そういうよくある日常の中で、社交ダンスという趣味を持って生きています。
 
ここで日本社会における社交ダンスについて少し説明をします。
 
日本では社交ダンスと呼ばれている、ドレスを着て、タキシードのパートナーにリードされて踊る、あの正式なダンスは、まったく馴染みがありません。
けれど、社交ダンスの競技会というものは、日曜日の夕方にテレビで生中継されるほど、変わらず、静かに支持があります。
 
ダンスが上手だと1部で大変有名な(笑)私も、その中継の視聴者の1人でした。
 
そんな社交ダンスは、日本社会ではマイナーな趣味です。
実は、私もやってみたいわ、と若者だった頃に教室を探したんですけれど、どちらのダンススタジオもパートナー役不足で、自分のプライベートパートナー同伴ならさらに大歓迎!と銘打ってあったりして、いろいろと大変そうでした。
 
また、日本では、あまりハグをしたり、手を取ったりする文化は馴染みがありません。
2023年現在の日本では、ハグはパートナー同士であるか、盟友同士で、互いにそういう文化背景があるのならば、する。程度で、手を取ったりも、パートナー相手以外ではあまりしませんし、手を握るという行為そのものは、同性同士であっても、幼少期のもの。
自分の性以外とするのは、日常的ではありません。
 
そういう背景ですから、社交ダンスともなると、異性同士が体を密着させて踊るもの、という、社交ダンスが何だかもわかっていない人達からの認識があるところにはあって、社交ダンスが大好きで、ただその情熱に向かって日々レッスンを送ってる人々からすれば、そんな認識をされることこそ、最大の侮辱、なわけです。
 
映画の冒頭シーンで、役所広司演ずる主人公が、社交ダンススタジオの窓辺に佇み、遠くを見つめる
草刈民代演ずるヒロインを見て、強く心奪われるところから、この優しい物語は幕をあけます。
 
そして何度か逡巡したのち、きっと本当は憧れと同じだったはずのものを胸に、ダンススタジオの扉を開け、役所広司演ずる、真面目で穏やかで常識的で、情熱など昔のものであるとしている主人公は、そこで先生をしているヒロイン目当てに社交ダンスレッスン(有料)を受け始めます。
 
今回、書くにあたって、映画を観直したんですけれど(アマゾン・プライムで有料レンタル中)、こんなに長かったっけ? と思いました。
確認してないので、私の予想なんですけれど。
おそらく、公開当時やヒットした後、街のレンタルビデオ時代は、通常版が流通していたのではないでしょうか。
現在、アマプラで公開されているのは、ディレクターズカット版のような気がするんですけれど。
 
私は、この映画をテレビも含めて結構繰り返し観たので、
今回アマプラで観た時に、知らないエピソードやシーンがけっこう出てきたんですよね。
 
さて、私は、役所広司演ずる主人公が草刈民代演ずるヒロインに対して、本当は憧れと同じはずだったもの、を胸に、と書きましたが、主人公の自覚は実際はどうだったのでしょうか。
 
役所広司演ずる主人公には、妻子があります。
これを読んで、眉をひそめるのは自由ですが。
 
これは一体なんなのか。
これはどこかで見たような裏切りなのか。
浮気なのか。
男ってしょうがないんです、という聞き慣れた、ぬけぬけとした自己肯定なのか。
 
それは映画を最後まで観て、ご自身で決めていただければと思います。
 
単にヒロイン目当てでやり始めた、社交ダンスの適性が壊滅的に無い主人公が、少しだけダンスが上手に踊れるようになった頃、教室のあと、
主人公は先生であるヒロインを待ち伏せして、食事に誘います。
 
そうなんですよ。
主人公はバカなんです。食事に誘っちゃったんです。
それは社交ダンスに真剣な人からすれば、普段寄せられているのだろう、汗ばんだ気持ちの悪い下心に、たいそう辟易していたことが描きだされるシーンでもあります。
 
草刈民代演ずるヒロインは、「そういうことは非常に迷惑である」という気持ちを主人公にストレートに伝えます。
 
そうじゃあ、ないんだ。
と思うことってありませんか?
 
そうじゃあ、ないんだ。
そういうことじゃないんだ。
そういうこととは違うんだ。
 
けれど、それは多くの場合、誰もがうまく言葉にできない。
 
うまく言葉にできないのに、そういうことは、けっこうこの世界にたくさん、見慣れているほどに、たくさんある。
 
役所広司演ずる主人公もまた、そういう顔をして、その時の草刈民代演ずる、毅然とした態度を取ったヒロインを見つめます。
そしてヒロインもまた、自分の悔しい気持ちをうまく話せていない状況が映し出されます。
 
結局、そこで来なくなってしまったら、ヒロインの言う通り下心だけ、であったことを認めることになってしまいますから、そうじゃあないんだ、ということを表現できる精一杯の方法として、主人公はそのダンススタジオに通い続けることを決意し、より社交ダンスを真剣に習い始めます。
 
そこで触れ合う、社交ダンスを愛する、あなたに似ている、私にもそっくりな、そして誰かにもとてもよく似ている、そんなレッスンメンバーたちと触れ合い、素晴らしい先生である「たま子先生」のご指導のもと、主人公は社交ダンスの世界に、本当に夢中になっていきます。
 
若者だった頃、私はこう言われたことがあります。
「秀れた人は、1番になれなかったからその道を断念するほどの気概を持っている。自分も、1番になれなかったから道を諦めた」
私はそれを聞いた時、
「どうして1番になれなかったくらいのことでやめるの? 2番や3番や54番でも126番であっても、これだ!と思う道なら、一生懸命やり続ければいいじゃない。」
と言いました。
すると、お前にはわからんよ、と薄笑いを浮かべられてその話は打ち切られました。
 
これは、ある種類のダンディズムであり、それこそが、ある人たちにとっての道でもあるのだ、ということはわかりますが、私はいまでもその気持ちを持ち続けています。
 
まさか、2023年の現在、「どうしてうまくないのに続けるの?」「どうして他の有効なことに時間を使わないの?」「才能がないのに続けていることは目障りだ」
と言われるとは思っていませんでしたが、
この映画には、そんな大きなお世話極まりない問いに対しての、すべてのアンサーが描かれているように、私は思っています。
 
映画のクライマックスを前にして、役所広司演ずる主人公は、やっとあの時の自分の気持ちを、草刈民代演ずるヒロインに訥々と語る機会を得ます。
 
ヒロインもまた、次第に社交ダンスに本気で取り組み始める主人公を見直し始め、自分もまた、全く熱のこもっていないレッスンをしていたダンサーとしての自分、をやり直す時期に来ていましたので、ここは2人の気持ちが、一種の同志のような心で通じ合う、そんな味わいのある素敵なシーンとして描かれています。
 
その後、共通の目的のために、ダンスレッスン生達がひとつになって、やがてラストの名台詞に繋がっていくんですが。それは観てのお楽しみ、ということで、ぜひこの素晴らしい映画をご覧になっていただければと思います。
 
人生は喜劇である。とか、人とは滑稽なものである。とか、とうの昔に人生というものを熟考した結論の言葉があります。
 
私は未熟者で経験が人より少ないものですが。
人生や、人の世、そこでの人の姿を見つめていると、人というものは、そしてそこで織りなす生というものは、ちょっとだけ可笑しい、という性質を持っているのではないか、とよく思います。
 
世界共通の感覚として、どの人も嘲笑されるのは大嫌いです。
私が出会った人達も、人を笑うくせに、人から笑われるのが大嫌いな人が多かった。
私は、冗談が下手なくせに、人を笑わすのが好きでしたし、今でも好きです。
でもよく嘲笑されています。
私としては、クスッと笑ってもらいたんですが、なかなか難しいことです。
 
この国では、天才漫才師の出現によって、笑わせる、というものの価値が見直され、人を笑わせることができるのはすごいことだ。というふうに世界が変わりました。
 
それでも、ある種類の人々は、人は滑稽である、自分もそうだと言いながらも、どこかで自分だけは滑稽ではないと信じている。
だから正しいことにしがみつき、自分が正しいと信じて疑わないことを、わざわざ人の先回りまでして、相手に無理強いし突きつけるただの憂さ晴らしを、とても良いことにしたがる。
自分達の正しさを微塵も疑わない。
 
私が人を笑わせるのが好きなのは、人生というものをやっていく上で、笑ってた方がまだマシだからです。

そちらのほうにも才能がないので、爆笑させることはできませんが、時々は、クスッと笑ってもらえることができる。
そうすると、その人もちょっとだけマシな気分になるし、私も一緒になって笑うので、私もマシな気分になる。
 
それはダンスを踊る、という比喩にとても似ていますね。
 
この映画で描かれているように、人というものは、いつもダンスホールにいるのだと思います。
パートナーに恵まれれば、その人と。
相手がいないときは、きっと自分自身と。
 
でも多分、本当の意味で、人は、自分の人生と踊っている。
 
 
草刈民代演ずるヒロインは、とても魅力的な笑顔で、最後にこう言います。
 
「Shall we ダンス?」
 
その瞬間、大貫妙子の声で、このあまりにも有名な楽曲が流れ始めます。

 
描かれないことで、描かれているものが一体、なんなのか。
 
それをここで言葉にするのは、あまりにも余計なことですので、ぜひ、映画「Shall we ダンス?」を観て、みなさんご自身の人生を謳歌していただければ、と僭越ながら申しあげて、このイベントの最後といたします。
 
映画「Shall we ダンス?」
アマゾンプライムで有料レンタル配信中です。(回し者ではありません。)
 
 
2週間もの長い間、お付き合いくださり、本当にありがとうございました。
とても楽しかったです。

これから私の好きな「冬」が本番です。
温かくして、良いウィンターシーズンをお過ごしください。
 
当ブログ名物のわけのわからない、なにがなんだか相変わらずわからないイベントは、そのうちまた、突然こうして始まりますので、気がつかれた時は、楽しくおつきあいいただければと思います。
 
それでは、また、お会いしましょう。

お昼1時更新、週末に主に集中している通常投稿では、綺麗なお兄さん達について、その方達と深く愛し合っている素敵な方達、その他、最近では小林秀雄や池波正太郎について書いています。

そちらも、ぜひとも、よろしくお願いいたします!←笑顔で若干、圧強め。
 
 
20231126 15:00 お名前の英語表記の誤字を
なおしました。大変失礼いたしました。  
20231126 15:00 変な書き方をしていた箇所をなおしました。
20231126 15:17 文章をいくつかなおしました。
20231126 15:39 誤字をなおしました。

 
 
 
 

祝 窓ぎわのトットちゃんアニメ化


 
ついさっき知りました。
児童文学の名作「窓ぎわのトットちゃん」がアニメ化されるそうですね。
公開は2023年12月8日だそうです。
 
トレーラーを観て、初めてトットちゃんの顔を知ることができて嬉しいです。
思っていたとおりの子でした。
 
・・・遠い昔、トットちゃんは、私とも、遊んでくれたんだ。
 
だから、みんな、トットちゃんをよろしくね。
 
 
 
 
 

2023/11/24

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第12夜 突然の贈りもの ***


 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第12夜 突然の贈りもの  ***
 
 
 
 
 

 

 

 

作詞:作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
 
 
・・・考えたんですけれど。
やっぱり、私はこの楽曲について、特に知りたいことはないので、今回は検索していません。
なのでクレジットは私の記憶のみとなります。
 
 
この楽曲で描かれているストーリーは、みなさんご存じの通り、実話です。
大貫妙子自身が、これは実体験である。と公表しています。
そして、その後、また幾度も季節がめぐった後、その相手が誰であったのか、を公表しました。
 
この物語が伏線となり、Tema Purissimaでは、どうして何も言わずに去ったのか、その理由が明かされた、という主人公が出てきます。
それが実話なのか、フィクションなのか、それはわかりません。
 
私は、どうしてこの物語を大貫妙子は楽曲にしたのだろう、という疑問。
そして、どうしてTema Purissimaで再び、この物語を描いたのだろう、という疑問を持っています。
 
調べれば、おそらくインタビューが出てきますし、なんらか答えのようなものが出てくるとも予想しています。
 
ただ、私は個人的に、その物語はこの「突然の贈りもの」と「Tema Purissima」で十分、大貫妙子が必要である、と判断しただけが描かれているので、それ以上は不要である。という考えを持っています。
 
私はこの楽曲がとても好きで、おそらく大貫妙子愛聴者にとっても、この「突然の贈りもの」はとても大切に思われている楽曲です。
だからこそ、大貫妙子は、ライブで、この楽曲を歌うのだし、聴衆である私達は、最後の1音まで身じろぎせずに聴き入って、拍手をするわけです。
 
私は「突然の贈りもの」を初めて聴いた時から、変わらずに心の中に思い描く、自分の立ち位置があります。
 
それは、皆が大切に想っている、そんな素敵な年上の人がふと、ご自身の想い出をただそのまま話し始め、その話が終わった後、きっと誰も何も言わず、優しくて懐かしい表情の彼女を見て、ちょっとだけ安心しながら、少しずつ、その気持ちが全員に広まったところで、1人、2人と席を立ち、誰かが彼女を送り、また誰かがタクシーに乗り込み、そうやってその日のその夜が終わり、最後の1人になってその場所の明かりを消して、ドアから出て鍵をかける。
その最後の1人に、私はなりたいな、といつも思いますし、初めて聴いた当時から、変わらず私の中にあるイメージです。
 
ね? 結構、いいでしょう?
 
この楽曲について、私が書きたいことはこれが全部です。
 
あとはみなさんご自身が、この楽曲に対して思う通りになさったらいいのではないでしょうか。
私は、そう思います。
 
 
さて、当ブログ初となる2週間に渡ったイベントも、明日で最後となります。
お付き合いくださり、ありがとうございました。
 
これが最後の曲じゃないということは?
と思っておられる方、明日は私はなんの楽曲を持ってくるのでしょう。
ぜひ、明日も読んでいただければと思います。
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第12夜 突然の贈りもの  *** でした。
 
 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!