休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/11/25

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 最終夜 Shall we dance ? ***


 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 最終夜 Shall we dance ?  ***
 
 
 
 

 
Shall we dance ? / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
 
作詞 : Oscar Hammerstein II
作曲 : Richard Rodgers
編曲 : 周防義和 (Yoshikazu Suou)
 
クレジット Wikipedia Shall we ダンス?より
 
 
・・・なぜ、驚かれるんでしょうか?(笑)
 
いえ私も、わかりきったことをやる、というカタルシスが決して嫌いではないので、みなさんの予想通りの最終夜にいたしました(笑)
 
 
映画「Shall we ダンス?」は、決して派手ではない、ささやかで温かく、日本社会で生きている市井の人々に優しい視線を投げかけ、その素晴らしい人生を描き切った名作としていまでも強く愛好され評価され続けています。
 
英語圏やその他の言語圏のみなさんには、リチャード・ギアの映画として「Shall we dance?」のほうが馴染み深いのではないでしょうか。
ハリウッドでリメイクされた経緯は、検索して調べていただくとして。
 
最初にお断りしておきますが。
私は、映画「プリティ・ウーマン」がど真ん中ですので、リチャード・ギアは素晴らしいアクターであるという認識をしています。
 
さて最終夜なので、映画「Shall we ダンス?」の話をします。
 
ネタバレを回避して書くやり方も、とても親切な方に遠隔で教えていただいたことがあるんですが、考えた末、映画の結末や内容について触れる書き方をします。
 
理由は、内容を事前に知った上で視聴しても、この映画「Shall we ダンス?」の素晴らしさは、決して、決して、奪われることはないと、私もまた、知ってるからです。
 
主演の1人である役所広司(Kouji Yakusyo)ともう1人の主人公であると言ってもいい、永遠のヒロイン草刈民代(Tamiyo Kusakari)の、とてもささやかな関係が軸となって、この映画は描かれています。
その周囲にいる人々は、みなさんや私のような市井の人々です。

彼らは、強がったり、一生懸命だったり、賢かったり、うまく話せなかったり、仕事を頑張っていたり、そういうよくある日常の中で、社交ダンスという趣味を持って生きています。
 
ここで日本社会における社交ダンスについて少し説明をします。
 
日本では社交ダンスと呼ばれている、ドレスを着て、タキシードのパートナーにリードされて踊る、あの正式なダンスは、まったく馴染みがありません。
けれど、社交ダンスの競技会というものは、日曜日の夕方にテレビで生中継されるほど、変わらず、静かに支持があります。
 
ダンスが上手だと1部で大変有名な(笑)私も、その中継の視聴者の1人でした。
 
そんな社交ダンスは、日本社会ではマイナーな趣味です。
実は、私もやってみたいわ、と若者だった頃に教室を探したんですけれど、どちらのダンススタジオもパートナー役不足で、自分のプライベートパートナー同伴ならさらに大歓迎!と銘打ってあったりして、いろいろと大変そうでした。
 
また、日本では、あまりハグをしたり、手を取ったりする文化は馴染みがありません。
2023年現在の日本では、ハグはパートナー同士であるか、盟友同士で、互いにそういう文化背景があるのならば、する。程度で、手を取ったりも、パートナー相手以外ではあまりしませんし、手を握るという行為そのものは、同性同士であっても、幼少期のもの。
自分の性以外とするのは、日常的ではありません。
 
そういう背景ですから、社交ダンスともなると、異性同士が体を密着させて踊るもの、という、社交ダンスが何だかもわかっていない人達からの認識があるところにはあって、社交ダンスが大好きで、ただその情熱に向かって日々レッスンを送ってる人々からすれば、そんな認識をされることこそ、最大の侮辱、なわけです。
 
映画の冒頭シーンで、役所広司演ずる主人公が、社交ダンススタジオの窓辺に佇み、遠くを見つめる
草刈民代演ずるヒロインを見て、強く心奪われるところから、この優しい物語は幕をあけます。
 
そして何度か逡巡したのち、きっと本当は憧れと同じだったはずのものを胸に、ダンススタジオの扉を開け、役所広司演ずる、真面目で穏やかで常識的で、情熱など昔のものであるとしている主人公は、そこで先生をしているヒロイン目当てに社交ダンスレッスン(有料)を受け始めます。
 
今回、書くにあたって、映画を観直したんですけれど(アマゾン・プライムで有料レンタル中)、こんなに長かったっけ? と思いました。
確認してないので、私の予想なんですけれど。
おそらく、公開当時やヒットした後、街のレンタルビデオ時代は、通常版が流通していたのではないでしょうか。
現在、アマプラで公開されているのは、ディレクターズカット版のような気がするんですけれど。
 
私は、この映画をテレビも含めて結構繰り返し観たので、
今回アマプラで観た時に、知らないエピソードやシーンがけっこう出てきたんですよね。
 
さて、私は、役所広司演ずる主人公が草刈民代演ずるヒロインに対して、本当は憧れと同じはずだったもの、を胸に、と書きましたが、主人公の自覚は実際はどうだったのでしょうか。
 
役所広司演ずる主人公には、妻子があります。
これを読んで、眉をひそめるのは自由ですが。
 
これは一体なんなのか。
これはどこかで見たような裏切りなのか。
浮気なのか。
男ってしょうがないんです、という聞き慣れた、ぬけぬけとした自己肯定なのか。
 
それは映画を最後まで観て、ご自身で決めていただければと思います。
 
単にヒロイン目当てでやり始めた、社交ダンスの適性が壊滅的に無い主人公が、少しだけダンスが上手に踊れるようになった頃、教室のあと、
主人公は先生であるヒロインを待ち伏せして、食事に誘います。
 
そうなんですよ。
主人公はバカなんです。食事に誘っちゃったんです。
それは社交ダンスに真剣な人からすれば、普段寄せられているのだろう、汗ばんだ気持ちの悪い下心に、たいそう辟易していたことが描きだされるシーンでもあります。
 
草刈民代演ずるヒロインは、「そういうことは非常に迷惑である」という気持ちを主人公にストレートに伝えます。
 
そうじゃあ、ないんだ。
と思うことってありませんか?
 
そうじゃあ、ないんだ。
そういうことじゃないんだ。
そういうこととは違うんだ。
 
けれど、それは多くの場合、誰もがうまく言葉にできない。
 
うまく言葉にできないのに、そういうことは、けっこうこの世界にたくさん、見慣れているほどに、たくさんある。
 
役所広司演ずる主人公もまた、そういう顔をして、その時の草刈民代演ずる、毅然とした態度を取ったヒロインを見つめます。
そしてヒロインもまた、自分の悔しい気持ちをうまく話せていない状況が映し出されます。
 
結局、そこで来なくなってしまったら、ヒロインの言う通り下心だけ、であったことを認めることになってしまいますから、そうじゃあないんだ、ということを表現できる精一杯の方法として、主人公はそのダンススタジオに通い続けることを決意し、より社交ダンスを真剣に習い始めます。
 
そこで触れ合う、社交ダンスを愛する、あなたに似ている、私にもそっくりな、そして誰かにもとてもよく似ている、そんなレッスンメンバーたちと触れ合い、素晴らしい先生である「たま子先生」のご指導のもと、主人公は社交ダンスの世界に、本当に夢中になっていきます。
 
若者だった頃、私はこう言われたことがあります。
「秀れた人は、1番になれなかったからその道を断念するほどの気概を持っている。自分も、1番になれなかったから道を諦めた」
私はそれを聞いた時、
「どうして1番になれなかったくらいのことでやめるの? 2番や3番や54番でも126番であっても、これだ!と思う道なら、一生懸命やり続ければいいじゃない。」
と言いました。
すると、お前にはわからんよ、と薄笑いを浮かべられてその話は打ち切られました。
 
これは、ある種類のダンディズムであり、それこそが、ある人たちにとっての道でもあるのだ、ということはわかりますが、私はいまでもその気持ちを持ち続けています。
 
まさか、2023年の現在、「どうしてうまくないのに続けるの?」「どうして他の有効なことに時間を使わないの?」「才能がないのに続けていることは目障りだ」
と言われるとは思っていませんでしたが、
この映画には、そんな大きなお世話極まりない問いに対しての、すべてのアンサーが描かれているように、私は思っています。
 
映画のクライマックスを前にして、役所広司演ずる主人公は、やっとあの時の自分の気持ちを、草刈民代演ずるヒロインに訥々と語る機会を得ます。
 
ヒロインもまた、次第に社交ダンスに本気で取り組み始める主人公を見直し始め、自分もまた、全く熱のこもっていないレッスンをしていたダンサーとしての自分、をやり直す時期に来ていましたので、ここは2人の気持ちが、一種の同志のような心で通じ合う、そんな味わいのある素敵なシーンとして描かれています。
 
その後、共通の目的のために、ダンスレッスン生達がひとつになって、やがてラストの名台詞に繋がっていくんですが。それは観てのお楽しみ、ということで、ぜひこの素晴らしい映画をご覧になっていただければと思います。
 
人生は喜劇である。とか、人とは滑稽なものである。とか、とうの昔に人生というものを熟考した結論の言葉があります。
 
私は未熟者で経験が人より少ないものですが。
人生や、人の世、そこでの人の姿を見つめていると、人というものは、そしてそこで織りなす生というものは、ちょっとだけ可笑しい、という性質を持っているのではないか、とよく思います。
 
世界共通の感覚として、どの人も嘲笑されるのは大嫌いです。
私が出会った人達も、人を笑うくせに、人から笑われるのが大嫌いな人が多かった。
私は、冗談が下手なくせに、人を笑わすのが好きでしたし、今でも好きです。
でもよく嘲笑されています。
私としては、クスッと笑ってもらいたんですが、なかなか難しいことです。
 
この国では、天才漫才師の出現によって、笑わせる、というものの価値が見直され、人を笑わせることができるのはすごいことだ。というふうに世界が変わりました。
 
それでも、ある種類の人々は、人は滑稽である、自分もそうだと言いながらも、どこかで自分だけは滑稽ではないと信じている。
だから正しいことにしがみつき、自分が正しいと信じて疑わないことを、わざわざ人の先回りまでして、相手に無理強いし突きつけるただの憂さ晴らしを、とても良いことにしたがる。
自分達の正しさを微塵も疑わない。
 
私が人を笑わせるのが好きなのは、人生というものをやっていく上で、笑ってた方がまだマシだからです。

そちらのほうにも才能がないので、爆笑させることはできませんが、時々は、クスッと笑ってもらえることができる。
そうすると、その人もちょっとだけマシな気分になるし、私も一緒になって笑うので、私もマシな気分になる。
 
それはダンスを踊る、という比喩にとても似ていますね。
 
この映画で描かれているように、人というものは、いつもダンスホールにいるのだと思います。
パートナーに恵まれれば、その人と。
相手がいないときは、きっと自分自身と。
 
でも多分、本当の意味で、人は、自分の人生と踊っている。
 
 
草刈民代演ずるヒロインは、とても魅力的な笑顔で、最後にこう言います。
 
「Shall we ダンス?」
 
その瞬間、大貫妙子の声で、このあまりにも有名な楽曲が流れ始めます。

 
描かれないことで、描かれているものが一体、なんなのか。
 
それをここで言葉にするのは、あまりにも余計なことですので、ぜひ、映画「Shall we ダンス?」を観て、みなさんご自身の人生を謳歌していただければ、と僭越ながら申しあげて、このイベントの最後といたします。
 
映画「Shall we ダンス?」
アマゾンプライムで有料レンタル配信中です。(回し者ではありません。)
 
 
2週間もの長い間、お付き合いくださり、本当にありがとうございました。
とても楽しかったです。

これから私の好きな「冬」が本番です。
温かくして、良いウィンターシーズンをお過ごしください。
 
当ブログ名物のわけのわからない、なにがなんだか相変わらずわからないイベントは、そのうちまた、突然こうして始まりますので、気がつかれた時は、楽しくおつきあいいただければと思います。
 
それでは、また、お会いしましょう。

お昼1時更新、週末に主に集中している通常投稿では、綺麗なお兄さん達について、その方達と深く愛し合っている素敵な方達、その他、最近では小林秀雄や池波正太郎について書いています。

そちらも、ぜひとも、よろしくお願いいたします!←笑顔で若干、圧強め。
 
 
20231126 15:00 お名前の英語表記の誤字を
なおしました。大変失礼いたしました。  
20231126 15:00 変な書き方をしていた箇所をなおしました。
20231126 15:17 文章をいくつかなおしました。
20231126 15:39 誤字をなおしました。