先日、調子が良かったのか、それとも悪くてやけになっていたのか、はわかりませんが、大丈夫かな? と思ってネットをうろついていたときに、この頃では、ママ同士がお子さんの衣服を交換したり、いらなくなったお古をあげたり、そういうことを割とオープンにしているのだな、という情報を見ました。
そこに参加してお話しても良かったんですが、もう終わった話題だったこと、私がいま誤読の恐れが非常に高く、ニュースすらまともに読めない状態であることから、1日考えて、自分のブログで書こうと思いました。
こうすることが、当てこすりである。という考えをお持ちの方はお読みにならないでください。
説明するのも長くなるし、この頃、私は直接問われたことではないが、長期にわたって示唆されていると判断したことで、わかる範囲で答えていますが、正直申し上げて、メールを送ってくるでもないそのような姿勢の問いに、答える義理はないからです。
それでも答えているのは、私が勝手に親切にしていただいたと一方的に感謝している方達から、示唆されているのではないか? という判断からです。
そしてその問いらしきものが、これだけ長期間にわたるのであれば、長い間気づかず申し訳なかった気持ちからです。
ただそれだけなので、基本、私は当ブログで書いている内容を読んでくださって、どう思おうとどうお考えになろうと、それはその人の勝手であるし、自由にしていいという考えを私は持っています。
そして、そういう風にお考えになる方々は、ここに書いている私の考えや思うことに対し、この話題に対し、この人がこう思っているだけで、私はここは同じだし賛成だけど、ここは意見が違うな。ここは思ってることと違うな。
という、そういう読み方をしてくださるだろう、という予測からです。
それで意見をたたかわせたい、その意見交換で新たな地平が切り出せるとお考えなら、メールをくだされば私はできる範囲で意見交換をしますし、こういう考えもありますよ? という声を届けてくださるのなら、やはりメールでいただくのが私のネットでのスタイルに合っています。
そういうことですので、その方法がどうしても嫌だ、という方には、私の方ではどうすることもできません。
嫌だと思っていることを無理強いすることは私も大嫌いですので、これはやらない理由がお互い一致しているので、無理にメールをくださいとは言えません。
私はそういう考えの持ち主であり、それを3年間ずっと当ブログ上でやっています。
なので、そのやり方の基準がわからないのであれば、読まない、という選択をしていただくのが1番ではないかと、現状では思っています。
前置きが長くなりましたが、本題に入ります。
私は子供がいません。それは望んだことがないからです。
なので、現在、ママやパパをやってらっしゃる方々、今後パートナーとの間にお子さんを考えてらっしゃる方々に向けて、極力何か書くことはしてきませんでした。
私にはそちらの方面のことが、全くわからないからです。
ただ、今回の、お子さんの衣服をシェアしている、お古を譲っていることについては、私は貧乏を経験していますので、その点からわかることがありますので、情報提供をしたく書こうと思いました。
私が申し上げたいのは、お子さんの服を譲り受けるのは、そのお子さんが物心つくまでにしておいた方がいいのではないでしょうか。ということです。
昔、読んだことのある海外児童文学の中で、キリスト教が深く根付いたところででは、当時の翻訳の言葉で、慈善箱というものに、いらなくなった子供の服を寄付し、その服を貧しい、服がない子供がもらい受ける、というシステムがありました。
現在の社会でそうなっているのかどうかはわかりません。
そのシステムについて、いくつかの物語の中で、それは本当に、服をもらい受ける子供にとって、屈辱意外なにものでもないことだ、と再三、描かれています。
それは、欲しい服が買えないことではなく、その慈善箱に入れる服の元の持ち主の子が、自分のものであった服を覚えているからです。
そうして、誰のものかわからない服を譲り受けた子は、それを学校に着ていきます。
そして、あっ、それ・・・。という視線や、「あの子の服、私のお古よ」とトイレでの内緒話で言われ、誰も当の本人には言わないのに、教室の「ついうっかりした声の大きさの内緒話で」、服を寄付された当人が、いま自分の着ている服が誰のものであったのかを知ります。
そういう素晴らしい子供同士でのシステムが、これを書いている2023年の今からもう何十年も、ひょっとしたら3桁の数の昔の学校にもありました。
そして、それは現代でも有効かつ、実用的な、生きているシステムです。
食うに困っているということは、着るものにも、住むところに困っているということです。
なので、当時の教会の慈善箱システムは、とても助かる、ありがたいシステムでした。
そのおかげで、冬に寒い思いをしなくてすんだ人々は感謝しかなかったと思います。
そのことは、その家の子供も、心から同じ気持ちですし、誰よりもわかっていたことです。
でも、学校に行くと、屈辱を味わう現実が持っていたのも、また、その子達は誰よりもよく知っています。
けれど、親御さんを悲しませたくないがために、自然と自分の家が貧しいことが世の中で非常に不利であることを知っていくので、そんなことは言えなかったんです。
1人、耐えていたんです。
そういうことを、ご存知ないというのは、2023年の日本は、とても幸せなんだと思います。
豊かなんだと思います。
私のわかる範囲で書くと、お子さんが赤ちゃんの時は、服はいくらでもあった方が助かるし、3歳くらいまでは、お古をいただけるのはとてもありがたいことだと思います。
どんどんサイズが変わりますからね。
けれど、現在は、リユースの場所、古着店、ネットオークションが数多く存在していますので、3歳以降は、どうかそのブランドの服や、縫製の良い服を、そちらに放出してください。
そうすれば、欲しい人の手に渡り、みなさんのやさしい気持ちが長生きできます。
人に物をあげるのは、とても難しいことです。
うまくできる人は、私の知る限り、誰もいない。
大人になれば、「これはもういらない服だから、良かったら着る?」 という風に、お互いが「それは素敵な服だから」「それは欲しかったブランドの服だから」と、さっぱりした気持ちだけで、服を譲り受ける状況を作り出すことができます。
でも、お子さんが就学年齢に達したら、それはいくら仲の良いママ同士パパ同士であっても、悪手です。
その子が言わなくても、他の子が言う。
誰も何も言わなくても、もらったその子は、自分はあの子のお古を着ている、という誰にも言えない秘密を抱えます。
どうか、そのことを思い出していただければと思います。
追記
「いらなかったら捨てても良いから」
は、なるべくなら言わないほうがいいワードとして、知っていてくださると、どうして? と思うことが少しは減るかもしれません。
私は、人からの親切には頭を下げて感謝するタイプです。
何かをプレゼントしてもらえることも単に喜ぶタイプです。
ですが、そうではない人も、います。
そっち方面でプライドが高いんだと思います。
ご存知の通り、誰にでもプライドはあります。
そのことを責める権利はおそらく誰にもありません。
ただ、処世術として、人の親切には気持ちよく応えるほうがうまくいく、ということを、大体の人は経験していきます。
私もその考えには大いに賛成です。
「いらなかったら捨ててね」
は、ある種類の人には、
「ゴミをくれるってこと?」
と受け取られます。
「じゃあ、自分で捨てて」
と言われたことがあるかたも、少なくないのではないでしょうか。
そういうこともあります。
あなたがどう思おうと、どう考えようとも、そういう人はいるんです。
なので、その言葉は、なるべくなら言わないほうがいいワードとして、記憶していただければと思います。
あなたがそんなつもりじゃなかったことは、その人をのけて世界中の人が知っています。
だから、大丈夫。