休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/10/08

10×14.8の窓


 
ポストカードやポストカードサイズの写真をよく集めていました。
実際に人に送ったり、ちょっとしたプレゼントとしてポストカードセットを贈ったり。
私は全然、筆まめではない上に、そうそう交友関係も広くなかったので、実用というより、暮らしを広げる小道具としての役割が強かったように思います。
 
いまは通信手段がメールが多いので、あらためて文字を書いて送るというのがとても特別なことになっていっているそうですね。
 
私は、そのポストカードやポストカードサイズのものを、窓として冷蔵庫に貼っています。
 
普段暮らしている部屋を選ぶとき、窓の外の景色を大切にしている方も多いと思いますが、そこまでこだわれるほど余裕がある方のほうが少ないのではないでしょうか。
 
なのでどこか暮らしていて、窓の外の景色にほんの少しだけあきらめがあるな、と思っていた時に、ちょうど郵便受けに、近所に新しくできたバーの室内写真が載ったポストカードサイズの広告が入っていたんです。
 
その写真がとても好きで、よく見るとその写真の隅にクレジットがついていたので、多分、お金をかけて撮影されたものなんだと思います。
 
最初は気に入って冷蔵庫のマグネットに挟んでいたんですけれど、ある日、あ、窓ができてる。と気づいて以来、私の冷蔵庫には窓があります。
 
好みの写真をプリントアウトしてもいいし、プリンターがない方は雑貨店の入り口そばに大体ある、回転する商品棚に置いてあることが多いポストカードの中から、気に入った「景色」を見つけて、数百円で手に入れた「窓からの眺め」を部屋の好きなところに貼るだけで、これから外の景色が冬枯れになっていくことで、淋しいなと思う方の気持ちが明るくなるきっかけになるんじゃないでしょうか。
 
私の好みは、室内景観だったり、台北の古い街並みだったり、ブーゲンビリアの景色だったりなので、当ブログではお馴染みの写真A Cで検索してみると、好きな写真がありました。
 
 
 
台北 おしゃれな通りの夜 photo by ay_photo from 写真AC



 
 
ブーゲンビリア photo by カモノブブ from 写真AC



 
いま貼ってある窓がかなり気に入っているので、変えるつもりはないんですけれど、新しく見つけた「景色」を写真立てに飾ってもいいし、モニターの端や部屋のコーナーに、ランダムにマスキングテープで貼ってもいいかな、と思っています。
 
参照リンク
写真AC 様
https://www.photo-ac.com/
 
無料登録できます。
私はダウンロード会員です。
 
 
こちらはArk Nail様内の雑貨コーナにあるポストカードセット
1380円
 
手動 楽天リンク
Ark Nail様
ボタニカルフォトデザインシート
https://item.rakuten.co.jp/arknail/ko-03/
 
 
こちらはsunsumart 様内のポストカード30枚セット
680円
 
手動 楽天リンク
sunsumart 様
ポストカード30枚セット
https://item.rakuten.co.jp/sunsumart/c1063/
 
 
ポストカードは、郵便として送ることだけに縛られずに、
普段使いとしては、少しリッチなメッセージカードとして使えるので、ちょっとした気持ちを書いて飲み物やお菓子に添えたりしてもいいですよね。
 

10×14.8の窓。
よかったら、試してみてください。
 
お好きな「眺め」が見つかりますように。
 
 

すっかり秋が深まってきていますね。
今朝は、紅茶を淹れるお湯が沸くのが遅くなったのに気づいて、台所に流れ込んできた大好きなシーズン到来の知らせに、静かに喜んでいました。
 
日本では今日と明日は連休なんですけれど。
私は昨日ウーバーイーツで発見した、ものすごく美味しいお蕎麦を、今日も注文するつもりです。(もちろん天ざる)
 
いまからワクワクです(笑)
 
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。
 
 
 
 
 
 
 

2023/10/07

予定通り削除しました。

 予定通り、穏やかでない内容を含む投稿を削除しました。
 
メール等も来ていないので、
おそらく誰も何もしていないと判断していいと思います。 
(どんな秘密集団だよ(笑))

そして、誰も死んでないみたいですね。
よございました。
 
私に関係あった人も、ある人も、どうでもいい人も、この野郎と思ってる人も、
現実が繋がってる無限の場所の人たち全員、
向こう岸の方々も、 
 
この世界にいま存在しているすべての人が、
みなさん、どうかお元気で、
お互いに自分の時間を最期のときまで、
幸せに、穏やかに、一生懸命に、時々はダルダルに、
しっかり生きて死ぬことを
私もみなさんと同じように、願っています。
 
 
 
よかったよかった。何もなくて(笑)。
 
エナメル
 
 

2023/10/02

ヒーロー見参


 
記者会見のニュースを拝読しました。
 
ポンコツなので視聴することができないのですが、せめて記事だけでもと思っていたら、概要をまとめた記事があり、私のようなものにはとても助かりました。
 
ですが、冒頭の動画だけでも、胸がつまってしまい、身を切られる思いでした。
 
過去に身を寄せさせていただいていた私ですらそうなのですから、現在、応援している方々の辛さを想うと、とてもではありませんが、言葉になりません。
 
ふと、別の記事を拝読して、会場に偉大な方が現れたことを知りました。
 
どなたかは、わかりようもありませんが、30年応援してらっしゃるとのことで、大先輩です。
 
その方は、わざとピエロ役を買って出てきてくださり、
過去にその場所にいたものや
現在おられる方々のつらい、身のすくむ気持ち、
心配している気持ち、やり場のない気持ちを、
なにより、
途方もなく勇敢な壇上の方々へのこちら側の想いを伝えてくださり、
ファンダムの伝統への誤解をあっさりと解いてしまわれ、
本当に尋ねたかったことを訊いてくださいました。
 
みなさん、この方こそが、たくさんおられる伝説のファンのお一人です。
 
私が、過去にわかりもしないのにやった架空の人物などではなく、
 
勇敢で、
怖れなどに一切、怯まず、
寄せられるであろう嘲笑をものともせず、
 
知的で、
きめ細やかな心配りと、
途方もなく大きな愛情を持っておられる、
美しく、とてもかっこいい、
偉大な伝説のファンの姿です。
 
私があまりにもバカで、当時見ていた先輩方の姿を汚すことしかできないのに対し、なんという偉大な姿を示してくださるのでしょうか。
 
私が信じていたものは、絶対に間違っていなかったと、私などが余計なことをせずとも、こうしてヒーローは助けに来てくださるのだと、胸が熱くなり、また、いっぱいになりました。
 
誇らしさと身のすくむ想いの中で、謹んで脱帽し、敬服いたします。
 
大変なご迷惑をおかけし、申し訳ございません。
 
 
それでも、私も、お礼を申し上げたいです。
 
偉大なお心遣いは、このような者にもしっかり届きました。
 
 
助けに来てくださり、ありがとうございました。

 
生涯、忘れません。
 
 

2023/10/01

モビールの朝


 
 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 

お月見はいかがでした?
私は、今年はいつもより楽しいお月見ができました。
 
Amazonの手を借りて、私も粟をまぶしたお餅を作ってみたんですが。
美味しかったです。素朴な味わいで。
覚えている通りの味になったので、まずまず成功と言ってもいいと思います。
 
お・美味しかったですか?
 
ご自身の美味しいに合わせていただければ、と保険をかけておいたので(いや言い方)、きっとお口にあっただろうと思っています。
違っていたなら、すみません。
 
 
「粟をまぶしたお餅」という、同じキーワードを頭の中に描いているのに、現実に取り出してみるとそれは全く別々のものになる。
って、すごく面白いと思ったんです。
 
きっと私たちが過ごしている現実でもそうで。
同じものを見ているようでいて、見ているものは本当は少しずつ違う、というリアル。
 
私はこのことを考えると、すごく安心するんです。
どれも同じであるはずがないのだから、自分たちも同じであるはずがない。
同一であるわけがない。
と気持ちが励まされます。
 
これは、もう10年くらい前にネットでどなたかがそう書いていたのを強烈に記憶していたことが、たぶん私の中にずっと沈み込んでいて、先週の粟のお餅の話の時に顔を出したんだと思っています。
 
いま我が家には、ずっと欲しかったモビールが飾ってあります。
 
それを眺めていると、絶対にモビールって同じ形をしていないんですね。
当たり前のことなんですけれど。
 
そして同じモビールを見ていても、決して同じ形を見ているわけではない、という現象。
 
私は時々、なにもかも実際の在り方ってそうなのではないか、と妙な確信めいた気持ちになることがあります。
 
若者だった頃、そのことが言いたくて、気まぐれに作ったものを寄せ集めて無料展示をしたことがあるんですけれど。
 
その時から、考えていることが変わっていないので、たぶん私はそこで考えが止まってしまってるんでしょうね。
 
ただ、このことは、私の見ている世界にはすごくフィットしていて、それ以上、肉付けしなくとも、十分に暮らしの中に入っていけるパスワードになっています。
 
一般的ではない、人と同じではない、ということが不安になるとき、同じであるはずがないんだ。と明るい気持ちに連れて行ってくれる効果があるので、私はこのこともとても大切にしています。
 
 
普段意識していないけれど、あらためて考えてみると、インターネットってものすごくたくさん人がいますよね?
 
おそらく2023年の現在では、もう即座にイメージできないほどの天文学的な数の人々が、昔、仮想と呼ばれていた、現実をつなぐ無限に、自分の意志で参加している。
 
全員、全く別の日常を持っていて、そこからネットワークに参加したり、しなかったり、そうしていながら、時々はこうして同じものを読んで、違うことと同じかもしれないことを、一瞬、思ったり感じたりしている。
 
私たちは、なぜか集団になると、同じであることを強く求めてしまう傾向にあるみたいですが。
 
そもそもが同じではないので、個別のまま参加できる、テクノロジーが作り出した電子の宇宙の一角にある、奇妙な森の中で、日曜日についてみなさんに話している現実を私は持っています。
 
そしていまも、瞬時に過去に移り変わる時間にくるまれて、個別というものが織りなす、日曜日のイメージの交換を私たちは行っている。
 
それはなんだか、とてもロマンチックなことのように、私には思えるんです。
 
みなさんも”同じ”だといいんですけれど。
 
10月の朝、モビールを眺めながら、そんなことを思いました。
 
 
今日から10月ですね。
私の住む街では、今朝はもう気温が肌寒く感じられるほど下がりました。
熱い飲み物が楽しめる季節が始まっていますね。
 
私は、そのままになっていた冬支度を再開しようと思っています。
毎年ストーブの掃除を始めると、冬の匂いがして、どこか懐かしく、それでいて秋冬シーズンの始まりに、気持ちが新しくなるんですよね。
 
電気ストーブ、エアコン、膝掛けのチェック、室内履きの準備、やろうと思えば色々と忙しくなってしまいますが。
 
あせらず、まずは温かいお茶とお菓子で、10月最初の日曜日を区切ってみてはいかがでしょうか。
 
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。
 
 
 
 
 
 

20231001 16:11 誤字をなおしました。


ウソについての考え


 
今日は気分がいいので、ウソについての考えを書いてみます。
 
私は嘘とウソと書き分けていたのは、やばい嘘に関わることは嘘で、その他のことはウソ、というふうに分けたかったからなんです。
じゃないと、生きていけないから。
 
私は嘘をついてしまってそれで失敗しているんですけれど。
それでも、ウソをつく時はウソをつきます。
ホントのことを言うときはホントのことを書きます。
と頑迷に書き続けるのは、
私は、それが人の世のありのままの姿だと思うからなんです。
 
私の生きている現実では、私は、ふだん、よくウソをついています。
 
たとえば、
全然いいと思っていないのに、「わあ、それ似合いますねー!」と言ったり。
どこがいいんだろう?と思ってることでも、「うん、いいですね。これで行きましょう!」と言ったり。
嫌な人だなと思ってても「いいところもありますよね」と言ったり。
ウソは言ってないから・・・、というウソをついたり。
ありのままで生きています、というフリをしたり。
お金様と言わない、と強がったり。
「いや、ウソはつかないよ」と言ったあと、思いっきり「うわぁ、これ美味しいねーっ!ほんと、美味しい!」と言ったり。
 
いやそれは本音と建前で、とか、いやそれは本当のことだけを取り出して言ってるんだ、とか、言わなくてもいいことを言わないだけ、とか。
 
まあ、みなさんが、きっとエナメルはこのことを言っているんだろうな、と思っていてくださったことを、私はウソだと言っています。
 
はっきり書いたことがなかったので、言語化してみました。
 
意地悪な気持ちから言ってるんじゃなくてですね。
 
私は、ウソはつかない、という人に対して、それはウソだろう、と思っています。
 
だって、今朝、君に会えるのが嬉しくてオナニーしてきたよ。とか、あなたのことは好きだけど、嫌いなところもいっぱいある、とか、わざわざ言わないですよね?
 
それをね?
正義バカのように、それもウソだ!ウソウソウソ、はいウソついたーっ!
って思ってるわけじゃないんです。
 
そんなことは当たり前だし、そうして、自分をどこか誤魔化したり、ウソにしないところで、言葉にしないでいることとか、誰でもいっぱいあるんですよ。
そうでなきゃ生きていけませんから。
 
でも、ウソとホントをきちっと分けると、それがどちらに入るかは、みなさんお分かりの通り、それは全部ウソなんです。
 
いいや、自分は絶対にウソつかないって言ってる人は、きっとそれはその人にとっては本当なんだろうけど、それは、それができる、ものすごく珍しいその人だけの世界で生きている、そこでだけのすごい権力持った人なんだろうし、もう言っちゃうと、めんどくさいから、はあそうですか、って言われてるだけなんですよね。
 
その上で、人を疑いまくって、ウソじゃないだろうか、これは? これは? といっつも思ってて、正直じゃないと済まさないっていう人がいるとして。
それって誠実なんじゃなくて、人を自分の思い通りにしないと気が済まない、支配欲が強い人だと、私は思います。
 
私は、ウソをついてそういう支配的な人に抵抗する時もすごくあるし、そのフリしてるときも、バレバレのフリして相手をバカにする時もあるし、逆に気に入られようとへつらってフリする時もあるし、あとはなんだろう。自分を誤魔化したり、気まぐれで”正直をついたり”、色々です。
そうやって自分の気持ちや日常をなるたけ守ろうとします。
 
その気持ちを全部差し出せっていうのは、正直という権力ですよね?
相手が全部が全部、気持ちを取り出してみないと気が済まない、ただののぞき趣味じゃないんでしょうか。
 
私は人は言葉にしないことの方が多いし、言葉を使うならなるたけウソをつかないでいよう、という努力目標もそれはそれでわかるし、よくない嘘はとんでもないことを引き起こすので、そういう嘘はやめましょう。という厳しいルールの存在も知っています。
 
ただ、私は、ウソはつきますから、ウソをつきますし、ここ3年、ウソをつかないように書いてきましたけれど、静かに暮らす上で、公表したくないことは公表しないという自分に従ってやってきましたけれど、この先はウソの一種である、ウソはついてないからね、という書き方をしたり、昔はフェイクと呼ばれていましたけれど、現実をそのまま書くわけにはいかないから、現実を模したフィクション的な構図を書くことに戻します。
 
BTSのことでお世辞を書いていたと書きましたけれど、それもウソですよね。
 
私はいつの間にこの世界には、
まあいいじゃない、で済ますこと。
あははそうだねーで適当を打つこと。
はっきりさせたって誰も幸せにならないよ、と最もらしいことを言ってしれっと逃げてしまうこと。
そのほか、まだいっぱいありますけれど。
 
そういうことをしない、という人ばかりが発言するようになってしまったのかな、とずっと悲しかったんですよ。
 
でも、そんなわけないんですよ。
私が生きていた療養中の現実空間で、当たり前にそれは行われてきたし、それで誰かは困っていたり、そうでもなかったり、そうやって、曖昧なことは曖昧なまま、豊かに時間が流れていっていました。
私が知っていると思っていた現実の通りでした。
 
だから3年前にネットに戻ってきて、このことを言葉にするかずっと迷っていたんですね。
ご迷惑がかかるから名前は書きませんけれど。
とある本を読んで、その現実が当たり前にたくさん記されていて、そんなことは普通である、という描写がこれまたたくさんあったので、そりゃそうだろう。これはもう、私の現実では間違いではないと判断していい、と決めたので。
気分がいい時に書こうと思って、やっと今日書いたというわけです。
 
昔、私は「ウソついたことない人はいないんじゃない?」というセリフを物語の中で登場人物に言わせたことがあります。
当然、それは、こういうドラマがあったらいいんじゃないか?こういうドラマに出てほしいと思ってるから書いているんだ、と前置きを、口を酸っぱくして(笑)書いていた物語の中の、フィクションです。
 
でも、ある時、私はそれは間違っていた、と書きましたが、それは怯え、押し出されるようにして書いた、別の後悔からのことでした。
 
なので、前言撤回します。
 
「あの物語で私が言ったことは間違っていません」
 
理想はわかりました。
誰もそこに向かわないなんて言ってない。
どこをどうしたらそういう解釈になるのかもわかりませんでした。
 
私のいる現実では、たくさんのウソがあり、そこにいる人はウソをついていますし、私もよくウソをつきます。
生きていく上で当たり前の、潤滑油なんです。
 
そのウソから間違いが起こり、しなくてもいい思いもするけれど、それでも私たちはウソをついて生きている。
それが私のいる現実です。
 
物語に、私は、ですが、自分の中の現実を転写したこともなければ、自分の願望を書いたこともありません。
 
そうするのが正しい物語の書き方なら、私は間違った物語を書いていたのでしょうし、これからもそれは変わりません。
正確に物事を書くことも、昔も今もできないままです。

ちなみに私は誕生日は密かに祝ってほしいタイプです。
それはとうの昔にかなっています。
 
 
これもデータになっていないデータです。
そして、あの頃、お気持ちがありがたく、あの時の状況が申し訳なくて、ウソをついてたことでもあります。
 
そのウソ「も」私は悪いことだとは思いません。
 
人はどう生きようとその人の勝手である、という誰でもわかっていることを私も思っています。
 
なので私も、好きにします。
 
 
以上、ウソについての考え、でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
20231001 12:37 文章をなおしました。
20231002 17:57 アドバイスで指摘された箇所を消しました。