休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/10/01

ウソについての考え


 
今日は気分がいいので、ウソについての考えを書いてみます。
 
私は嘘とウソと書き分けていたのは、やばい嘘に関わることは嘘で、その他のことはウソ、というふうに分けたかったからなんです。
じゃないと、生きていけないから。
 
私は嘘をついてしまってそれで失敗しているんですけれど。
それでも、ウソをつく時はウソをつきます。
ホントのことを言うときはホントのことを書きます。
と頑迷に書き続けるのは、
私は、それが人の世のありのままの姿だと思うからなんです。
 
私の生きている現実では、私は、ふだん、よくウソをついています。
 
たとえば、
全然いいと思っていないのに、「わあ、それ似合いますねー!」と言ったり。
どこがいいんだろう?と思ってることでも、「うん、いいですね。これで行きましょう!」と言ったり。
嫌な人だなと思ってても「いいところもありますよね」と言ったり。
ウソは言ってないから・・・、というウソをついたり。
ありのままで生きています、というフリをしたり。
お金様と言わない、と強がったり。
「いや、ウソはつかないよ」と言ったあと、思いっきり「うわぁ、これ美味しいねーっ!ほんと、美味しい!」と言ったり。
 
いやそれは本音と建前で、とか、いやそれは本当のことだけを取り出して言ってるんだ、とか、言わなくてもいいことを言わないだけ、とか。
 
まあ、みなさんが、きっとエナメルはこのことを言っているんだろうな、と思っていてくださったことを、私はウソだと言っています。
 
はっきり書いたことがなかったので、言語化してみました。
 
意地悪な気持ちから言ってるんじゃなくてですね。
 
私は、ウソはつかない、という人に対して、それはウソだろう、と思っています。
 
だって、今朝、君に会えるのが嬉しくてオナニーしてきたよ。とか、あなたのことは好きだけど、嫌いなところもいっぱいある、とか、わざわざ言わないですよね?
 
それをね?
正義バカのように、それもウソだ!ウソウソウソ、はいウソついたーっ!
って思ってるわけじゃないんです。
 
そんなことは当たり前だし、そうして、自分をどこか誤魔化したり、ウソにしないところで、言葉にしないでいることとか、誰でもいっぱいあるんですよ。
そうでなきゃ生きていけませんから。
 
でも、ウソとホントをきちっと分けると、それがどちらに入るかは、みなさんお分かりの通り、それは全部ウソなんです。
 
いいや、自分は絶対にウソつかないって言ってる人は、きっとそれはその人にとっては本当なんだろうけど、それは、それができる、ものすごく珍しいその人だけの世界で生きている、そこでだけのすごい権力持った人なんだろうし、もう言っちゃうと、めんどくさいから、はあそうですか、って言われてるだけなんですよね。
 
その上で、人を疑いまくって、ウソじゃないだろうか、これは? これは? といっつも思ってて、正直じゃないと済まさないっていう人がいるとして。
それって誠実なんじゃなくて、人を自分の思い通りにしないと気が済まない、支配欲が強い人だと、私は思います。
 
私は、ウソをついてそういう支配的な人に抵抗する時もすごくあるし、そのフリしてるときも、バレバレのフリして相手をバカにする時もあるし、逆に気に入られようとへつらってフリする時もあるし、あとはなんだろう。自分を誤魔化したり、気まぐれで”正直をついたり”、色々です。
そうやって自分の気持ちや日常をなるたけ守ろうとします。
 
その気持ちを全部差し出せっていうのは、正直という権力ですよね?
相手が全部が全部、気持ちを取り出してみないと気が済まない、ただののぞき趣味じゃないんでしょうか。
 
私は人は言葉にしないことの方が多いし、言葉を使うならなるたけウソをつかないでいよう、という努力目標もそれはそれでわかるし、よくない嘘はとんでもないことを引き起こすので、そういう嘘はやめましょう。という厳しいルールの存在も知っています。
 
ただ、私は、ウソはつきますから、ウソをつきますし、ここ3年、ウソをつかないように書いてきましたけれど、静かに暮らす上で、公表したくないことは公表しないという自分に従ってやってきましたけれど、この先はウソの一種である、ウソはついてないからね、という書き方をしたり、昔はフェイクと呼ばれていましたけれど、現実をそのまま書くわけにはいかないから、現実を模したフィクション的な構図を書くことに戻します。
 
BTSのことでお世辞を書いていたと書きましたけれど、それもウソですよね。
 
私はいつの間にこの世界には、
まあいいじゃない、で済ますこと。
あははそうだねーで適当を打つこと。
はっきりさせたって誰も幸せにならないよ、と最もらしいことを言ってしれっと逃げてしまうこと。
そのほか、まだいっぱいありますけれど。
 
そういうことをしない、という人ばかりが発言するようになってしまったのかな、とずっと悲しかったんですよ。
 
でも、そんなわけないんですよ。
私が生きていた療養中の現実空間で、当たり前にそれは行われてきたし、それで誰かは困っていたり、そうでもなかったり、そうやって、曖昧なことは曖昧なまま、豊かに時間が流れていっていました。
私が知っていると思っていた現実の通りでした。
 
だから3年前にネットに戻ってきて、このことを言葉にするかずっと迷っていたんですね。
ご迷惑がかかるから名前は書きませんけれど。
とある本を読んで、その現実が当たり前にたくさん記されていて、そんなことは普通である、という描写がこれまたたくさんあったので、そりゃそうだろう。これはもう、私の現実では間違いではないと判断していい、と決めたので。
気分がいい時に書こうと思って、やっと今日書いたというわけです。
 
昔、私は「ウソついたことない人はいないんじゃない?」というセリフを物語の中で登場人物に言わせたことがあります。
当然、それは、こういうドラマがあったらいいんじゃないか?こういうドラマに出てほしいと思ってるから書いているんだ、と前置きを、口を酸っぱくして(笑)書いていた物語の中の、フィクションです。
 
でも、ある時、私はそれは間違っていた、と書きましたが、それは怯え、押し出されるようにして書いた、別の後悔からのことでした。
 
なので、前言撤回します。
 
「あの物語で私が言ったことは間違っていません」
 
理想はわかりました。
誰もそこに向かわないなんて言ってない。
どこをどうしたらそういう解釈になるのかもわかりませんでした。
 
私のいる現実では、たくさんのウソがあり、そこにいる人はウソをついていますし、私もよくウソをつきます。
生きていく上で当たり前の、潤滑油なんです。
 
そのウソから間違いが起こり、しなくてもいい思いもするけれど、それでも私たちはウソをついて生きている。
それが私のいる現実です。
 
物語に、私は、ですが、自分の中の現実を転写したこともなければ、自分の願望を書いたこともありません。
 
そうするのが正しい物語の書き方なら、私は間違った物語を書いていたのでしょうし、これからもそれは変わりません。
正確に物事を書くことも、昔も今もできないままです。

ちなみに私は誕生日は密かに祝ってほしいタイプです。
それはとうの昔にかなっています。
 
 
これもデータになっていないデータです。
そして、あの頃、お気持ちがありがたく、あの時の状況が申し訳なくて、ウソをついてたことでもあります。
 
そのウソ「も」私は悪いことだとは思いません。
 
人はどう生きようとその人の勝手である、という誰でもわかっていることを私も思っています。
 
なので私も、好きにします。
 
 
以上、ウソについての考え、でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
20231001 12:37 文章をなおしました。
20231002 17:57 アドバイスで指摘された箇所を消しました。