2023/11/24
好きな服を着る
2023/11/23
Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第11夜 横顔 ***
2023/11/22
Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第10夜 お天気いい日 ***
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第10夜 お天気いい日 ***
お天気いい日 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
作詞 / 羽仁未央 (Mio Hani)
作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲 / 鈴木さえ子 (Saeko Suzuki)
アルバム「アフリカ動物パズル」収録
クレジット Wikipedia 「アフリカ動物パズル」 より
https://w.wiki/8EUN
いまクレジットを調べて大貫妙子の作詞でないことに、驚きまくっています。
いまのいままで、この楽曲はいつも通り大貫妙子の手によるものだとばかり思っていました。
作詞をされた羽仁未央の中に、どうしてこの世界があったのかは私は存じません。
驚いて羽仁未央の来歴をWikipediaで読みましたが、作品を読んでいないので、お天気いい日の世界が何とも推察できません。
ちなみに同アルバム収録の「裸足のロンサム・カウボーイ」「ソーン・トゥリーのうた」の作詞も羽仁未央の手によるものです。
アルバム「アフリカ動物パズル」については、前述したリンクをご覧になっていただければと思います。
「アフリカ動物パズル」については、私は、映画のサウンドトラックという説明が書いてあったかどうかもあまり記憶しておりません。
理由は、インストゥルメンタル(歌のない楽曲)が多く収録されており、大貫妙子のサウンドを読み解く上で、このアルバム制作前にアフリカに旅をしていますので、圧倒されるものに触れた後の大貫妙子が、どのようにそれを新しいサウンドで表現していったか、という興味を、私はあまり持てなかったんです。
アルバム全体を通して何回か聴いた時に、繰り返しますが、大貫妙子の著書を題材に、映画が創られ、そのサウンドトラックである。という事前情報を入れていなかったので、どうしてソーン・トゥリーのうたが英語詞なのか、お天気いい日は一体、誰の何のイメージなのか、わからなかったんです。音と歌詞でうまくイメージできなかったんです。
実は、今回のイベントで取り上げるために、私のフェイバリット大貫妙子特集簡易版を、iTunesのプレイリストに作ったんですけれど、そこにも「アフリカ動物パズル」の楽曲のことは忘れていて、入れてなかったんです。
それが、昨日の「ベジタブル」の投稿を書くときに、ひょんなことから、「お天気いい日」の音を聴き、そうだった。そうだった。と慌てて、今朝、「お天気いい日」と「ソーン・トゥリーのうた」の歌をダウンロード購入して、プレイリストに追加したんですね。
それが、どうもうまく言葉が出なくて、「地下鉄のザジ」にするべきだっただろうか、と後悔していた矢先に、大貫妙子の歌詞ではなかったことがわかって、すごく納得できています。
なぜ大貫妙子は、アフリカ滞在後に、「お天気いい日」のサウンドだけを創ったんでしょう。
おそらく、圧倒的なものに触れた体験が、まだ歌詞になる程消化できていなかったし、体験自体を寝かせる時間が足りなかったのかもしれません。
羽仁未央の詩世界が大貫妙子の楽曲に合っていないということを言っているのではなく、wikiによるとエッセイストだった羽仁未央の方が、体験を言語化して洗練させるまで練るスピードが早かったのだろうな、と私は考えています。
面白いですよね。クリエイターによって、詩に到達するまでの感覚が違う可能性がわかって。
もしかしたら、アフリカ滞在時の体験を記した大貫妙子の著書を映像化した羽仁未央というフィルターを通して、「アフリカ動物パズル」というアルバムが生み出されたので、その世界観を最も確実に「お天気いい日」のメロディに言語化できたのが、羽仁未央だったのかもしれませんね。
以前、当ブログで、何曜日が好きか考えたこともなかったけれど、水曜日が好きです。と答えましたが。
いま考えると、当ブログの時差であっても、これだけ出てくる言葉、感じたこと、思ったことで違いがあります。
多分、私の中に「お天気いい日」の女の子が好きな曜日が眠っていたから、パッと浮かんだのが水曜日だったのかもしれません。
ブログというのは、2023年のネットでとても遅い、スロウなメディアですけれど。
その遅いメディアであっても、情報公開するスピードが現実世界に比べれば早い方なので、旧ツイッター・Xの情報伝播スピードとアプリケーション上での経済のスピードは、比べ物にならないほど早く、それがなぜか現実に繋がっているのって、なかなか不思議で面白いですよね。
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第10夜 お天気いい日 *** でした。
2023/11/21
Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第9夜 ベジタブル ***
「降りしきる花びらで街中 夢から醒めたら」ベジタブル / 大貫妙子(Taeko Onuki)より歌詞提供 Misixmatch 様
2023/11/20
Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第8夜 Tema Purissima ***
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第8夜 Tema Purissima ***
Tema Purissima / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲 / Marty Paich
クレジット Wikipedia Purissimaより
https://w.wiki/8D5g
じゃあ、Purissimaの話に入りましょーか!(口調は盗用です。)←このスタイルも盗用です。
私が、Purissimaについてみなさんに言いたいことは、たったひとつです。
このアルバムのプロモーションで、当時F Mラジオ曲で大貫妙子のPurissima特集が組まれたんですが、その時のラジオD Jが、
「大貫さんて・・・、女性の心の中に住む妖精なんじゃないでしょうか!」
と感激しながら思わず口に出したひと言に対し、ラジオの前の大貫妙子を愛聴するリスナーが、
「おっしゃる通り!」
と、全員スタンディングオベーションを贈ったはずという話だけです。
プロモーションというと、プロモーションですから、それは大貫妙子に対する思わずのひと言ではなく、あくまでも準備された言葉なのでは?
と心配される方もいると思います。
いまは、私はラジオをアプリケーションradikoで聴いておらず、個人的な事情で私の部屋の中に相変わらず燦然と輝きを放っているトランジスタ・ラジオのスイッチを入れていないんですけれども。
ラジオというのは、色々と世の中の経済の仕組みに順応しながらも、そうであっても、1本、きっちり芯が通っている、非常にインディペンデントな部分が残りまくっているメディアでもあります。
当時、その番組は、プロモーションもあるけれど、これは良いですね!とラジオ側がガッチリ握手をしないと、かからないという顔も持っている「ハズ」だったんです。
真偽の程は別に大して重要ではありません。
大切なのは、その番組で、大貫妙子を招いて、Purissimaの特集を組んでも良い、と判断された上での放送だったということなんです。
ラジオは往々にして、そういう「これだ!」という楽曲をいち早く放送したり、アルバムを特集したり、ミュージシャンを招いたりして、生放送をしたりなんかしちゃったりなーんかしちゃってりして、あれ聴いた? と街のウワサになる放送をする、飛び道具的なメディアの顔を持っているんです。
なので、この時、大貫妙子本人を前にして、Purissimaの楽曲を聴いたD Jが思わず口にした言葉は、全世界の大貫妙子愛聴者達が全員、前々から思っていたことを放送を通じて、言語化できた、大変エポックメイキングな瞬間だったんです。
「大貫さんて・・・、女性の心の中に住む妖精なんじゃないでしょうか!」
そういうわけで、今日は、大貫妙子は綺麗なのに、なぜ綺麗とあまり言われていなかったのか。
という、みなさんの言うに言えないご心配について、私の個人的な見解を書きます。
楽曲「Tema Purissima」については、みなさんが思ってらっしゃるように、アノ曲で「壮大な伏線」が張られていますので、その楽曲の時に書きたいと思います。お楽しみに!←寝て食べたので、無駄に元気。
事実として、大貫妙子は綺麗です。
ビューティフルです。グレーテストです。神秘的です。
植物的であり、繊細であり、雰囲気があり、楚々としており、知的であり、健康的であり、たおやかであり、物憂げでもあり、しなやかであり、芯が強く、キッパリとしている時はキッパリとし、穏やかである時は穏やかな、美人なんていうチンケな漢字は当てはまらない、佳人です。
その上、音楽的な才能に満ち溢れ、ミュージシャンズ フォー ミュージシャンとたまにやっかまれながらも、その実力を、現在の日本のシティポップが世界中で聴かれちゃってるよ、大変だ! 現象で、きっちり結果を出して証明してみせたんです。
・・・まぁ、私の熱烈愛の表現はここまでとして。
大貫妙子が美しい人である、という事実をですね、当時のメディアは決して書こうとしなかったんです。
理由は、当時の日本では、綺麗な人に綺麗だということは、お仕事の世界では侮辱にあたるからだ。
と信じられていたからです。
これだから、日本人っていうのはシャイで困りものなんだよ。と思われますか?
そうでしょうか。
思うんですけれどね。
仕事しに行ってるのに、しつこくしつこく、あなたはグッドルッキングだ、と言われることって、面倒くさくないですか?
この面倒くさいというのを、もう少しくだけた感じで話すとですね。
「いや、私の家にも鏡あるし、一応、年頃を経て生きてきてるわけだし、C Mにも出たことあるし、そんなにまずいルックスではないだろうくらいは自覚はあるよ。褒めてくれてるのもわかってるよ。その点についてはありがとう。あなたも素敵でクールよ。
でもね。
私は私の気分を良くするためにメイクして服着てここに仕事しに来てるんだけども、あなたがそこまでしつこく言う必要、ある? 本当にある? 私が綺麗なことはあなたに何か関係ある? ここにいる人全員が、あなたのその審美眼の感想を聞かなきゃならない理由は何かあるんですか?」
という面倒くささなんです。
それをね? くどくどくどくど、仕事場で誰もに説明して回って、「今から大貫妙子がここにやってくるから、みんな、綺麗だと言わないようにしようね! 言った人はハッピー・アイスクリーム!(誤用)」とは言えないですよね。
そして、綺麗な人というのは、本当によく、自分以外の相手が抱く逆の面倒くささの発露から、不愉快な思いをたくさんしているんですよ。
それは、相手が、綺麗な人を綺麗だと認識した瞬間、
「自分は外見の綺麗さなんかに態度は変えませんよアピール」
をされるわけです。
嫌なことを言われやすかったり、他の人よりもぞんざいに扱われたり、急に毒づかれたり、
まるで、その時だけその人達は、「小学校低学年が、自分が相手を意識してしまったことをひた隠しにする、下手くそな照れ隠しのつもり」の態度と言動を、綺麗な人に向かってあからさまにすることで、
「これをやることで自分はどの人にも公平な態度を貫きますよ」
宣言をご本人じゃなく、周囲の人全員に、または心の中にある世間に向かって、するんです。
これは性を問わずあります。
多分、世界中でお馴染みの、綺麗な人々の共通体験なのではないでしょうか。
私の住んでいる日本という国でも、あまりにもその態度に辟易して、木村拓哉(Takuya Kimura)という、スーパースターグループsmapに所属していた中でも、ハンサムでセクシーで有名だった男性が、テレビで発言したことがあるくらいなんですよ。
彼の場合は、独身時代、友人達と遊びに行ったお店で、女の子達に「木村拓哉です」と自己紹介した瞬間、知らない人はいない名前ですから、それまで素敵だった女の子達のいく人かは、急に、目の前に立っている木村拓哉を鼻で笑って、あからさまに顔を背けて肩をすくめるような態度をとっていたそうなんです。
「私はあんたのことをうっとり見たり、すぐにわーきゃー言わないわよ」アピールですね。
それは自分の中にもある「木村拓哉はセクシーでハンサムで抗えない魅力を持っている」という価値観に、抵抗しないとならない理由が彼女達にはあったのだし、肩をすくめる態度を取ることで、私は「綺麗な顔には特別扱いをしません」アピールを、誰も気にしていない全世界に対してしていたんですね。
どうしてそこまでしないとならないんでしょうか。
それは、美しさというものを目の前にした時、どう振る舞えばいいか、の訓練ができていないからです。
訓練ができていないから、美しさというものをどう消化したらいいかわからないし、どう声をかけ、どう態度に現せばいいか、その正解がわからないからです。
その上、その正解がわからない言い訳を、相手は自分の美しさを知っているだろうから、自分の魅力に相手が組み敷かれるはずだと信じ込んで慣れているお前、私は他の女とは違うんだから、いい気になるなよ、と釘を刺してあげる模範的な態度である、という妙ちきりんなすり替えを行うんです。
そして、そう思うのは自分だけではなく、他の人も同じだろうから、自分が信じている、美しさに対抗できない人間の態度と違う振る舞いをする人間を、凄まじい嗅覚で見つけ、その相手までも、
美しさというものを前にした時の振る舞い方が自分と他者では違う事実が、それは不自然であると信じなければ自分が保てない。
その反応を大声で喚き立てないといけない。
そうしなければ、世の中の、美しさというものを目の前にした時の訓練ができていない他の人間に対して、不公平になってしまう、と思っているからなんです。
そうですね。ここまで書くのなら、私は絶世の美女なんでしょう。聞いたことないですけど。
続けますが。
この不公平である。と思い込んでいる感情は、結局は、美しさというのは平等ではない、ということを認めているんですけれども。
その平等ではないことを、どうにかして公平にしないといけない、という、よくわからない使命感なんですね。
わからないから、これは正しいのだ。と思いたいし、人間は顔ではない、ということを証明する態度を、自分は貫ける、これこそが最も知的な態度だと思っているんです。
美しさを前に、知的であろうとすること自体、美しさが本能からの反射であるという前提にしたがっているんですから、その人達は、美しさを前にすれば、本能的な衝動に抗えないと信じているんです。
そんな普遍的な、絶対的な美しさ、そうそうこの世に存在するはずないんですけれどねー。
だから芸術ってものが滅びないんだし。
優勢遺伝の話なら、確かにそれは本能でもあるんでしょう。私は門外漢なので、欲望ということでさっくり進めていきますが。
じゃあ、なんだって好みのタイプっていうのが存在するんでしょう。
それは、自分の本能や遺伝子情報からの、このタイプを攻略すると、未来にいいことが待っているよ、という予言ですよね。
今風に言うと、提案かもしれない。
その提案に是非とも従いたいのが、欲望であり本能だと私は考えていますが。
美しさを前にした時の態度が訓練されていないのは、その人達が美しさが存在している現実と本能からの提案を整理できていないだけの話であって、そんなことは綺麗な人達にも、綺麗な人にあっさり綺麗ですね。と言える人間にも、綺麗な人に綺麗だといちいち言っても、いまこの状況に関係ないし、とわかっている人達にも、全然関係ないし、目の前に美しさが存在する。このことは別に、誰に対しても不公平でもなんでもないという、訓練結果のたまものなんですよね。
そのことを大貫妙子と一緒に仕事をしてきた人達は、あえて口に出さずとも知っていたのではないんでしょうか。
そして、メディアの人達も、その大いなる世知慣れた経験上、大貫妙子を綺麗だと取り上げることは、大貫妙子の仕事と活動の邪魔になる、ということをよくご存知だったからではないか、と私は考えています。
大貫妙子は、綺麗であると称されないことで、おそらく、綺麗に不慣れな、たくさんのあれやこれやから、守られてきたのだし、自身の著書にあるように、当時の日本社会で生活する1人の女性として、ただでさえ不愉快な思いをしていたのに、その上、パブリックな場所で、つまらない不平等信仰から投げつけられる余計な荷物を背負わされずに済んでいる自分が、いったい何の知恵によって守られていたのかを、よくわかっていたのではないでしょうか。
その知恵がどこからくるものなのか、私はよく知りませんので、それがなんなのかは分かりません。
ただ、そこからくる態度の名前は、大貫妙子の仕事、という才能と結果と実力に対する、尊敬というものの形である、と、国内在住の大貫妙子愛聴者達と同様に、当時、制服を着ていた私もまた、知っている1人です。
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第8夜 Tema Purissima *** でした。
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!