休刊 キム・ソクジン



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休刊 キム・ソクジン 
おかえりなさい、JINさん。
ARMYさんおめでとうございます!:)

2023/11/24

好きな服を着る


 
この頃、疲労解消に洋服の話題をよく検索したりして見ています。
愛情の強いところではなく、淡々とお話ししているところを見て、今ここで話をしている人たちは、こういう服が好きなんだな。とか、知らなかった服についての考え方に、なるほどなー、と思ったり。
この年代の層の人たちは、こういうことに詳しくて、こういう方面で厳しい感覚を持っているんだな、とか。
そういうことを考えながら見ています。
 
 
私は、普段、外出する時や、部屋着でも気持ちが元気な時は、好きな服を着ています。
それは、似合う服とか、楽な服とか、色々の自分の都合に合った服です。
ただ根底にあるのは、好きな服であること。という条件です。
 
と、遮光カーテンを引いた室内で、寝起きの頭が不思議な形にボサボサになってるすっぴんのまま、ぬくぬくのスエット着て、これを書いてるんですが。
 
だから夏場は、ユニクロの厚手のオーバーサイズのTシャツというか、もう七分袖と言っていいのでは? という上着で、肌触りがよかったり、カラー展開がよかったり、楽ちんで尚且つ体のラインを拾わない上に、なんとなく太っても痩せても見えないところが、気に入ってる好きな服で過ごしたり。
 
出かける時は、若い方の劣化版年配者コピーにならないように、こういう感じの服が売れていて、その中で私が着たくて、今度行こうと思っているお店でご飯を食べるときに、小技の効いた感じだと自分が思える、なんだかよくわからない格好をするときに、いま若者層に支持されている服を取り入れながらも、こういうのもあっていいよね、と思うスタイルの服を、SHEINで買ったりしています。
こちらも好きな服というものに入ります。
 
で、それは似合ってるか。
と言われると、よく分かりません。
いいんじゃない? と言われることはあっても、似合うね。という言葉にあまり気をつけていないので、似合うと言われることがどのくらいあるのかよくわかりませんし、私は「似合う」という言葉をあまり頼りにしていないからだと思います。
 
それは、あんたは好きなところに行くだけでいいからであって、こっちはT P Oを考えないといけない時もあってですねー!という気持ちはわかります。
 
それは確かにそうなんです。
だから、おそらく多くの方が言っている、似合う、は、見ている人の主観であって、その「似合うカウント」をとって平均出していかなきゃならないし、見ている人と、一緒にいたい人の言う「似合う」も違うし、参加するコミュニティによっては、似合うは、招待状でありパスワードだという、難しさがありますよね。
 
私も、TPOを考えて行かなければならない時や、見えないドレスコードが存在する場所に住んでいる時は、「大丈夫そう」かつ「全条件をクリアする」上で、好きな服を着る、という面倒くささに包まれていましたし、います。
 
いま私が住んでいるエリアは、比較的、元気な年齢層の方が多く、見えないドレスコードではなく、じっと見ていると、その人達が思う、その時の「一軍」を着ているようで、おしゃれだし、格好いいし、身綺麗だし、ピッタリきているような、そういう「シュッとしている」感があります。
 
多分、私は年齢的に、そういう方達が、ご自身のご家族を思い出すスイッチになっているのではないか、と考えています。
 
どうして好きな服を着るようになったかというと、日曜版で書いたように、若い頃から注意をよくされていたので、正直、うるせーばーか。としか思わなかったからなんです。
こうしたら似合うようになるよ。こうしたらセンス良く見えるよ。こうしたらいいんじゃない? って私に言う人は、私が素敵と思わない人達だったんです。
あなたは何を着てても、いつも変ですね。としか思わなかったんです。
アドバイスをされてたということは、向こうも同じことを思っていたので、こちらも素敵な両思いというわけですね。
 
なので、好きな服を着よう。買える範囲でオシャレをしようとしか思わなくなったんですね。
時々、本当の意味で、オシャレになりたいな、という気持ちが出てきて、ファッションインフルエンサーさん達を見たりして、真似したりするんですが。
そういう時は、すごく安心できて、長い間、大切にしている服を購入したりもしていました。
 
でもそのうち、必ず、そうは言っても、買うのは私なのに、なぜ自分がそんなに好きではない服を買っているのか・・・?
という気持ちになって、やめてしまうんです。
 
なので、人に対しても、着たいものを着ればいいのではないでしょうか・・・、としか思わないので、また冒頭の話が始まって、永遠にループするんですね。
 
私は服に興味があっておしゃれが好きです。
けれども、おしゃれな人間ではありません。
じゃあ、人に対して、うわーダサっ!と言ったりするかといえばしません。
だって、私が流行最先端じゃないから(笑)。
私が好きな服は、私が好きだから着ているだけであって、自分が着たくない服は嫌だと思ってるけれど、強制されない限り、ダサいとは思わないんです。
 
それに本当におしゃれな人は、ファッション雑誌を見なくてもおしゃれだし、流行りを追わなくてもおしゃれなんじゃないでしょうか。
 
何をもっておしゃれとするか、は人の数だけ正解があるし、結局はその人がおしゃれか否か、というのは、ファッションは自己表現である、ということを知っているか知らないか、だと思います。
 
自分をどのように見せたいか。
自分が何を好きであるかを着る服でメッセージするか。
自分が何を信じ、何を大切にし、どういうことを信じたいと思っているのか。
それを服を使ってやってもいい、ということを知ってるか知らないか、でしかないんです。
 
だから、おしゃれというのは、情報量だし、累積だし、経験値であり、思考であり、思索であり、試行錯誤であり、永遠に完成しない自己探索なんですよね。
 
自分は服なんか二の次である。というのなら、それがその人のファッションでありスタイルです。
清貧であることを自己表現のテーマとするなら、それがその人のファッションです。
それを服を使ってやってもいいのなら、やらなくてもいいんです。
 
好きにすればいいし、誰でも自分が素敵になる権利があるのと同じく、自分が思う素敵でいる権利がある。
 
人と自分は違う。
それだけのことを飲み込むのに、軽薄であるとか、頭が悪いとか、若作りであるとか、時間が止まっているとか、いい時を忘れられないとか。
経済に踊らされているとか、いちいちいちいち、自分がやらない理由を人におっかぶせて、責任転嫁してもいいというスタイルは、ファッションにはない、というだけです。
 
私の現実の身近におられる方で、年配の男性がいらっしゃって、その方は大変にお洒落です。
あまりにもお洒落なので、何年も経過した後、一生懸命さりげなさを装って(笑)、「お洒落ですよね」と言ってみたことがあります。
 
その言葉には、なぜそんなにお洒落なんですか? という、どうしてお洒落する必要があるんですか?ではなく、あなたはどうしてそんなにお洒落なんですか? という疑問があったことを、その方は1発で理解されて、(なぜわかられたかというと、お洒落な人だからです(笑) お洒落な人というのはそういうものです。)、答えは、お洒落をするのが好きだから、というものでした。
 
じっと見ていると、良いことがあった日には、お洒落をされていることが多く、失礼にならない範囲でうかがうと、私の理解ですが、それはどなたかを迎えるための、礼儀として、もてなしとして、相手に失礼にならないように、歓迎の意味を伝えるために、お洒落をされていたりします。
また、日常に楽しいことを創り出すために、お洒落をされている時もあります。
 
また、私が見えないドレスコードのあるエリアで暮らしていた時、素敵なご年配の方々がおられました。
言葉遣いも美しく淑やかで、柔らかな物腰の方もおられれば、毅然とされていた方もおられ、その方達は、ご自身のお洒落という流儀をルールとして持っていました。
できない時は、無理をなさらない。けれども、ご自身の好きな服を身につけ、おそらくはご気分が良い状態に自分を保つために、お洒落をされていました。
またずっと仕事を持っておられる方もいました。
その方は、今度はお仕事でのお洒落をされている方で、華美な色の服はお召しになっておられませんでしたが、いつも小物や色使いで、動きやすい仕事着の中に、いつもお洒落をされていました。
 
当時よく行っていたクリーニング屋さんの中高年層の女性は、私が出す服を見て、ファストファッションだったり、通販で購入した、品質はなんとか保っているけれど、まぁはっきり言って高い服ではない、ただ気に入っている服を見て、「おしゃれですよね」と言ってくれました。
どういう意味かな?と身構える私に、彼女は、「このスカートなんか特に、一年中着ても映えますしね。」と服がお好きだからそのお仕事につかれているようで、よせばいいのに、「この服は本当は夏物なのに、年中着てて・・・」と私がグジグジ言い訳をするのに対して、「いいんですよ。これは一年中着てもいい服です。」とファッションとは、ルール違反である。という、たくさんあるスタイルの中のひとつの考え方をあっさり教えてくださったりしました。
この方も、好き、がどういうことか、大変よくご存じのお洒落な方でした。
 
また、年若い方では、とても素敵な仕立てのいい服を着ていたのを見かけたことがあります。
お話を聞くと、明言はされませんでしたが、それはその方にとってとても重要な決まりのようで、たまに見かけるたびに、その方はいい服を着ています。こちらは全身、そうと感じさせないけれど、隙のない服、組み合わせをしていて、お洒落です。
 
街をいく方では、ついこの間、車椅子ユーザーの方に、お手伝いしましょうか、と声をかけた時、大丈夫です。ありがとうございます。と答えられたその方は、いまはなんというか知りませんが。
細心の注意を払って染められた、とてもニュアンスのある赤茶色のフラッパーヘアに、濃紺のピーコート、赤いタータンチェックのミニのプリーツと濃い色のタイツを合わせ、ショートブーツを履かれた、プレッピースタイルでした。
 
他にも、一緒にいるあなたのために今日のこの服を用意したのよ。という、パステルカラーのアンサンブルを着て、少し緊張しているお洒落な女性を、大変自慢げに歩く若い男性や、
私は言うことは聞きません。好きな服を好きなように着ますよ? とライダースを着こなした、ロックというよりパンキーな女性と一緒に、どうよ?俺のパートナー?と鼻高だかな男性を見かけたり、
シャネルの店頭で、香水を購入して、俺はいま一歩先に進んだぜ!と言わんばかりに、席を立つ、若い男性のかぶっていた、ちょっとどこにも売っていない帽子などを見て、その方のパートナーは、そうしてあげたくなってしまう相手なんだな。と思ったり。
 
お友達と一緒にそぞろ歩く、華やかな蘭のような女性達、ウィンドウを見ながら、今日のアタシのファッションちょっと違ったかも・・・、と1人、厳しく、今シーズンの百貨店の提案を見ながら、うむむ、やるな・・・。と考え込んでいるらしいお洒落さん。
安いスーツなのに、親身になってシュッとして見えるには、もうワンサイズ細いシルエットを、と教えてくださり、合わせるネクタイは、そのスーツのスタイルがデザインされた年代にリスペクトを表明する、ペイズリー柄のネクタイを合わせてみせた、確か、王さんというお名前であった、凄腕でありながら、ご自身が大変シュッとされているお洒落な店員さん。
 
そういう方達を見かけたり、うらやましいな、私もそんな風になりたいな、とひっそりと暮らしながら、
 
お洒落は決して評価ではない。
ジャッジでもない。
 
たぶん、・・・なんの変哲もない、
非常に物静かな、小さな知性ではないか、と、
この頃では思うようになりました。
 
 
ーーー、まぁ、天国のムッシュかまやつにそんなことを聞かれたら、きっと優しい顔で、ただ黙ってクスッとお笑いになるだろうな、と、ゴロワーズを慌てて買いに行って、むせ返りまくって大変なことになった全員で、涙を流して笑い転げた思い出をもつ、私なんかは思うわけですが。
 
 
 
 
 
 私は、ゴロワーズといえばコレ。
 
 
 
 20231124 16:47 誤字といくつか文章をなおしました。