休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)
ラベル 大貫妙子 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大貫妙子 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023/11/17

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第5夜 しあわせな男達へ ***

 
 Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第5夜 しあわせな男達へ  ***
 
 
 
 
 
 
 
 
しあわせな男達へ / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子(Taeko Onuki)
編曲 / 清水信之(Nobuyuki Shimizu)

 
昨日に引き続き、アルバム「copine」収録曲となっております。
アルバム「copine」についての情報は、Wikipediaの「copine」をぜひご覧ください。
 
参照リンク
Wikipedia 「copine」 https://w.wiki/8Aej
 
アレンジャーの清水信之(Nobuyuki Shimizu)は、日本のポップシーンを主に編曲家として牽引している大変な方で、現在ジャズミュージシャンとして活躍している大江千里(Senri Oe)のポップミュージシャン期や飯島真里(Mari Iijima)や平松愛理(Hiramatsu Airi)そしてEPO(【epo】)の出世作「う、ふ、ふ、ふ」のアレンジなどが、シティ・ポップというジャンルを愛聴しておられる方にとってはわかりやすいキーワードではないでしょうか。
 
発音記号 参考リンク
GSET Academy 様
【音声付き】英語の発音記号一覧|英語の「音」に挑戦してみよう!
https://gset.co.jp/academy/pronunciation-symbol/
 
 
Wikipediaによると大貫妙子や山下達郎(Tatsurou Yamashita)と同期のミュージシャンで、編曲家へも進まれたそうです。
清水信之が編曲として携わっているミュージシャンは星の数ほどいるんですけれど、主に大貫妙子や山下達郎、坂本龍一が切り開いたミュージックシーンの後続世代達との関わりが深いようです。
詳しくはWikipedia 清水信之のページをご覧ください。
新しい日本のポップミュージシャンやシティ・ポップの楽曲の発見があるかもしれません。
個人的には、池田聡(Satoshi Ikeda)の「モノクローム・ヴィーナス」がおすすめです。
 
参照リンク
Wikipedia 清水信之(Shimizu Nobuyuki)
https://w.wiki/8Aej
 
 
「しあわせな男達へ」は、窓から床に落ちる六角形が連なる光を思わせる、美しいピアノの音から始まります。
その第1音から、非常に明るく、静かでくつろいだ視線がこの楽曲のテーマであることをリスナーに伝えてきます。
 
大貫妙子の楽曲の特徴として、歌詞の発音、言葉の持つ意味とメロディラインの調和や融合があげられると思うんですが。
この「しあわせな男達へ」もその大貫妙子のスダンダードなエッセンスを強く表現できている1曲ではないかと、個人的には考えています。
 
日本から新しく発信されているBento Waveの提唱者である、みのミュージックのみのさんが、歌詞は詩ではなく、歌詞である。という考えを動画内で示されたことがあります。
私もそれには、自分の誤った認識をあらためる良い機会となったのですが。
大貫妙子の愛聴者としては、大貫妙子の歌詞はメロディラインに乗った状態では歌詞ですが、文字単体としては詩である、という認識をしています。
 
余談ですが。
現在、みのミュージックチャンネルでは、松本隆(Takashi Matsumoto)が出演し、みのさんと「HAPPY END」や「風街ろまん」(こちらの表記は、最初は漢字とひらがなの「風街ろまん」でお願いします。後続としてカッコ内にKazemachi Romanと表記してください。個人的なこだわりです!)について、語っています。(20231117現在)
 
ぜひ、自動翻訳をお住まいの地域の言語に設定して、ご覧ください。
私も、時間を作ってソッコー視聴してきます!
私はただの視聴者です!(いいから落ち着けよ。)
 
参照リンク

YouTubeチャンネル みのミュージック 様
https://www.youtube.com/channel/UCDkAtIbVxd-1c_5vCohp2Ow
 
 
「しあわせな男達へ」の歌詞ですが。
文字表記された詩を読むと、いままで大貫妙子が取り扱ってきた情景、想い、時間の経過、シチュエーションとは、全く異なる世界観であることがわかる、と思います。
 
これは、大貫妙子の全worksの言葉をチェックしたわけではないので、私が勘違いをしていたら申し訳ないのですが。
おそらく、こういった俯瞰の世界観を大貫妙子が言語化し、詩に推敲し、メロディに乗せたことは「copine」以前にはなかったという認識です。
 
もちろん、「若き日の望楼(ぼうろう)」(明日やります)の後半でも試みられてはいるんですが。
 
完全に第三者、小説でいうなら、登場人物以外のことを話す、自己紹介していない透明人間なアイツ。の視点というのは、昨日触れた、大貫妙子の得意分野だといっていい、物語世界を楽曲内で再構築する視点以外では、これが初ではないでしょうか。
 
これは大切なことです。
これは大切なことです。(2回目)←(笑)
 
大貫妙子の歌詞世界と詩作という切り口で、登場人物の視点を考えた場合、大貫妙子は「若き日の望楼」で試みたシャンソンの手法を、運命の傍観者の視点を、その後も発展させていったと判断してもいいのではないでしょうか。
 
いいですか。
「ピーターラビットとわたし」では、詩のなかに「わたし」は出てきませんよね?
これを便宜上、傍観者の視点と定めます。

ですが、アルバム「copine」以前の大貫妙子の楽曲には、必ず登場人物に語り部の大貫妙子が憑依する視点があるはずなんです。
ですが、アルバム「copine」は、ファーストトラックの「タンタンの冒険」で、大貫妙子の得意分野であるといってもいい、当時、すでにお馴染みであった物語世界の再構築での傍観者の視点を披露し、「Siena」の詩では「あなた」と呼びかけてはいますが、完全に登場人物から離脱し始めるんです。
 
「OUT OF AFRICA」では、登場人物はいませんが、視点はあくまでも私なわけです。私の視点が詩のなかに登場しています。
そして視点は、私の解釈ですけれども、アフリカの情景のそばで様々な謳歌を描写しています。
 
「Jacques-Henri Lartigue」では、最後に本を閉じる人間として出演しています。
ですが、ここではこの手の持ち主が誰なのかは限定されていません。
けれど、歌詞を聴き、この描写の人称がおそらくは大貫妙子の視線である、とリスナーがイメージしやすい造りになっています。
 
・・・大丈夫ですか?(笑)
ついてきて下さいよ?(笑)
 
すごく大事なことを書いています。
うわ、ナード出てきたコレ。と引かずに、是非とも、この話についてきて下さい!(熱烈)
これはとても重要なことです!
 
大貫妙子の楽曲内でのカメラワークの推移が、このアルバム内の楽曲で、徐々に移行する、という表現がなされているんです。
 
そして、「しあわせな男達へ」では、完全に俯瞰からの視線となって、楽曲世界が象られているんです。
 
で、最終トラック「野辺」では、日本の古い言葉、文語長の語り口で、一貫して、無人の世界が歌われているんです。
 
これは完全に、私の個人的な解釈の範囲になってしまうんですけれど。
物語世界を再構築する、という大貫妙子の得意技であるらしい手法、当時の商業ミュージックシーンでお馴染みの、大貫妙子といえばこれ!の傍観者の視点の手法から、楽曲ごとに視点を自由自在に動かし始め、最後の楽曲で、物を語る世界、物語りそのもの「だけ」を、音楽で、ただ構築してみせたんです。
大貫妙子が存在しないで物語る世界を、「野辺」で生み出したんです。
 
これは大貫妙子の発明ではなく、みなさんもお馴染みの、マザーグースや童謡、日本では唱歌の世界で取られている、誰もそこにいないのに、世界が物語られる、詩作の手法です。
名前は、不勉強で申し訳ないんですが、私は知りません。
 
この手法を、1985年の日本の、商業的成功を目指して創られたアルバム内で、「タンタンの冒険」という物語の再構築の視点でスタートしたアルバム「copine」という作品集が、最終的には、唄の始まりに存在する童謡・唱歌によく見られる、詩作の手法に回帰しながら、自分が出演しない、人称のない、ただの物語り、として独立性と独自性を同時に併せ持った楽曲「野辺」をそこで構築して、このアルバムは終わるんです。
 
簡単に言うと、大貫妙子にとって、視点の移動や人称の移動くらい、なんでもない創作である、ということを、あっさりとやってのけたんです。
 
そりゃ、こんなことをあっさり、やすやすとやれば、大貫妙子が1985年の時点で、1目も2目も置かれていたミュージシャンであった理由が、おわかりになるのではないでしょうか。
 
そして、アルバム「copine」がいかに凄まじいアルバムであったかを物語る、非常に重要なポイントでもあります。
ただし、これは大貫妙子にとっては、本意の方向性ではなかったそうです。
つまり、この時点で大貫妙子がとてもやりたかったことではない創作レベルで、このアルバムのクオリティだということです。
 
正直申し上げて、今日の楽曲は「野辺」でも良かったんですが、「しあわせな男達へ」のなかで、カメラワークの情景として表現されている大貫妙子の視点が、非常に自由自在に楽曲の中で構築された空間内を動き回り、最終的には屋外のかなり高い上空まで移動しているのが、はっきりわかるという点で、私は、楽曲の好みもさることながら、1番、愛聴者の皆さんに伝わりやすいという判断から、この楽曲を選びました。

本日、「しあわせな男達へ」をなぜ取り上げたか、わかっていただけた時点で、私見に満ち溢れた本日の投稿を終わります。
 

以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第5夜 しあわせな男達へ  *** でした。
 
 
 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカでは朝の8時に、お会いしましょう!

 
 
2023111722:16 わかりにくい点を補足しました。 
2023111808:58 誤字をなおしました。
 

 




2023/11/16

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第4夜 タンタンの冒険 ***

 
 
 Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第4夜 タンタンの冒険  ***
 
 
 
 
 

 
 
タンタンの冒険 / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作詞:作曲 大貫妙子(Taeko Onuki)
編曲: 坂本龍一(
Ryūichi Sakamoto)
 
クレジット ウィキペディア copine より
https://w.wiki/8Aej
 
 
 
 
現在は「タンタンの冒険」となっていますが、本来のタイトルは「Les aventures de TINTIN」です。



・・・タンタンって? と思われた方、どうかご安心ください。

タンタンのことに詳しい一般人は、日本にはほとんどいません。
断言できます。いません!
 
外国の漫画に詳しい人か児童文学に詳しい人じゃない限り、どこにもいません!
 
「あー、タンタンね!あの、・・・あれ! うん。絵本の・・・?」みたいな人ばっかりです。大丈夫です!
 
タンタンは、フランスのコミックの主人公だったはずです。←お前もあやしいじゃねーか!(笑)
 
いまWikiを見てきましたが、正解でした!よかったです!(ベルギーとフランスは違う国ですよ)
 
タンタンとはベルギーの漫画家エルジェによるキャラクターです。
歌詞内に登場するスノーウィはタンタンの相棒である犬です。
著者のエルジェは、ミヒャエル・エンデやル=グウィンと同じ、偉大な作家です。
エルジェはバンド・デシネでしたが、新たに近代の年齢制限を設けなくとも良いキャラクターを生み出した方です。
詳細はWikipediaをご覧になってください。
 
参照リンク Wikipedia タンタンの冒険
https://w.wiki/59uA
 
大貫妙子にとって生涯にわたる盟友であった坂本龍一がアレンジに参加しています。
楽曲がいまでも十分通用するアレンジに包まれ、とても難解なメロディラインを創り出し、歌いこなしているという、色々とあちこちでざわつく1曲ですね。
 
大貫妙子の楽曲の特徴のひとつでもある、難解なメロディラインについては、著書かライナーノーツで、大貫妙子自身が、作曲家の自分とシンガーの自分は別人なので、創っているときは楽曲のことだけを考えて作曲しているけれど、いざ唄う時になったら、マイクの前で「このメロディを創ったのは誰なの?」と途方に暮れる、と語っていました。
 
大貫妙子の楽曲は難解なメロディか?という問いには、初期から徹底して、歌詞の音とメロディの調和を好みつつ、若干の違和感をスパイスのように使って楽曲を構築する、という見解を私は持っています。
 
これは広告の手法でもよくあるやり方ですし、1時期はニューウェーブの旗手とまで言われていた大貫妙子のサウンドは、現在の楽曲までカウントすると、かなりの数がテレビコマーシャルに使用されていますので、「届く音楽」というものを創る時の非常に理路整然とした思考が、楽曲の基礎作業後のプリプロダクションに強く反映されているのではないでしょうか。
 
タンタンの冒険が収録されているアルバム「copine(コパン)」は、ライナーノーツだったのかは忘れてしまいましたが。
売れるアルバムを作ろう。という大貫妙子以外の音頭で始まったアルバム制作だったらしく、その不本意な方向性とこれだけの豪華製作陣であっても伴わなかった商業成績に、大貫妙子自身が「ほら、ごらんなさい。」としみじみしてしまった経緯を持っています。
 
ですが、このアルバムは商業的には、そちらへのアプローチはかんばしくなかったものの、2023年現在に改めて聴きなおしてみても、1985年の製作とはにわかに信じられないほどの、テクノロジーの遅れは全く感じられないどころか1歩も引いていないクオリティーなのは、お聴きのとおりです。
 
さて、タンタンの冒険という物語(バンド・デシネ)世界を楽曲にしているということは、オール・ラウンダー大貫妙子の特筆すべき作家性。
特定の物語世界を壊すことなく、楽曲に再構築できる才能。
の楽曲でもあります。
これは「ピーター・ラビットとわたし」「テディ・ベア」「メトロポリタン美術館」「月のきざはし」などでも、愛聴者のみなさんがよくご存知の通りです。
 
私は、あまり大貫妙子のこの作家性についての批評や論評から熱いファンライナーまで、きちんと調べたことはないんですが。
「ピーター・ラビットとわたし」1曲だけで、他者の追随を全く許さなかったこの作家性は、かなりの衝撃を与えていたのではないかと思っています。
 
理由は、「ピーター・ラビットとわたし」がドロップされた後、同じ日本のポップシーンで、この手法を引用した楽曲が商業でいくつか見られたからです。
ただし、そのどれもは、二匹目のドジョウを狙っても仕方がありませんので、それぞれのクリエイター達の色や販売戦略が反映されており、「ピーター・ラビットとわたし」だけで調べても、なかなか引っかかってはこない成績だったと記憶しています。
 
大貫妙子自身は、この作家性をどう思っているのか、私はこちらについて語っている彼女の言葉を読んだことはありません。
おそらく、
「人には凄いと言われても、本人にとってはそう苦労をするものでもない。」
というものなのではないんでしょうか。

その後、日本の子供向け音楽番組で楽曲提供をしているところを見ると、その特性も自分の音楽性として商品にはなる、という自覚があるようですので、私見ながら、この基準はそう外れてはいないように思っています。
 
ですが、そう苦労はしない、といっても、朝起きて10分でできるものではないとは思います。
ただ聴いていると、作品世界を楽曲に再構築しているトラックと、他のオリジナルトラックとでは、聴くときの緊張感が全く違うんですね。

最初に空間に音が流れる時の、滑らかさの度合いが、全然違うんです。
そこまで大貫妙子がコントロールできるのかどうかは、ちょっとアマチュア耳の私には判別できないんですが。
個人的には、これは大貫妙子にとって得意分野ではないのか、という判断をしています。
 
みなさんは、どう聴かれるでしょうか。
 
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第4夜 タンタンの冒険  *** でした。
 
 
それでは、また明日の日本時間では22時に、主にアメリカでは朝の8時に、お会いしましょう!
 
 

 
 
 

2023/11/15

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第3夜 カイエ(Ⅰ) ***


Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第3夜 カイエ(Ⅰ)  ***
 






 
 
カイエ(Ⅰ) / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作曲: 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲: Jean Musy
(クレジット Wikipedia カイエより
 
 
来た来た来た来た来ーたー!といま画面の前のいく人かの方々が前のめりになっておられるのが目に浮かぶようですが(笑)
 
カイエというアルバムがあるんです。
ジャケットは、ドローイングのような、天使の姿がかろうじてイメージできるだけの線で描かれているジャケットです。
確か、全身を描いてあるのではなく、上半身だけで、身体の部分は風にかき消えかけているようなイラストレーションでした。
 
(これを書いた後、iTunesのジャケットを見ると、イラストの前にスタンドマイクらしきものが! これはそういうことなんでしょうか。その評価は大賛成です。)
 
どうして大貫妙子がこのアルバムを創ろうと思ったのか、その経緯はなんだったのかは、ライナーノーツ自体がついておらず、このアルバムの意図を、言語で饒舌に説明するものではなかったと記憶しています。
 
私は自分のわかる範囲で、イマジネーションを音で具現化しようとしたのかな、と考えていました。
 
アルバムタイトルのカイエで検索すれば、おそらくWikipediaにこのアルバムについて知りたいことが書いてあるのではないかとは思うのですが。
 
今回、イベントをやるにあたって、大貫妙子の楽曲を自分でセレクトしてiTunesで購入した時に、カイエを聴き直して、やはり私は、この楽曲やこのアルバムの意図の説明を求めていないな、と感じました。
 
ですので、詳細を知りたい方は、「カイエ 大貫妙子 アルバム 」で検索していただければと思います。
 
そもそもカイエという名前自体、誰の手による、この世界の具象の一体何を当てて、その存在を縁取る名前にしたのかが知りたくて、確か、私はダンテの神曲を開いたんですけれど、あまりにも難解で、最初の方で挫折してしまったので、カイエというものが司どる名称の由来もわからないままです。
 
歌詞らしいものがない、言葉の響きと大貫妙子の柔らかく、天上の旋律や降ってくる光から連想される声で、天界の存在が奏でられています。
 
春、夏、秋、冬と季節を通して聴いて確かめてみたんですが、どの季節にも合っているという、大変なサウンドです。
あとはもう好みの話なので、個人的には、やはり冬の早い夕方、雲間から降り注ぐ金色の光を私は思い浮かべます。
 
天使というと、羽を纏った、または隠した、巻き毛で金色の美しい髪を持った、ビスクドールのような頬の持ち主を想像されると思います。
 
私は、それに加えて、実はモダンバレエ、クラシックバレエのダンサーのイメージがあります。
クラシックバレエがトゥ・シューズで天上の舞踏と称されたように、モダンバレエは滞空を躍動し滑走してみせた、あの瞬間の肉体の動き、に、私は、あまりにも不確かな至高の存在を見てとります。
 
多分、化身を見ているのだと思います。
 
そういう理由で、普段、ここでやっているファンブログの部分では、天使さんと呼んでいる方がおられるのですが。
その方も、また、大変優れた舞踏をご自身の世界とされているので、最初、なぜ、自分がその方のことを天使さんと呼んでいるのかよくわからなかったんですけど、確か、私はこの方達のパフォーマンスで最初に見たのが、こちらの方の凄まじい舞踏だったので、天使さんとお呼びすることは、私の中ではなんの不思議もありません。
 
話を元に戻しますと。
大貫妙子は時々実験的なアルバムを出すことがありました。
前衛というより、ポストモダン、ポストポップス、ポストロック、というような、壊す、というテーマの作品を発表することがあり、私はこのカイエというアルバムでは、どういう経緯だったのかは知らないまま、アルバムという作品集を構築するテーマというものを破壊したのではないか、と考えています。
 
言葉で限定することで、音楽が縛られてしまい、リスナー側のイマジネーションすら、決して額縁から外に出られない絵画のように区切られてしまうことから、可能な限り離脱し、逸脱しようと試みたのではないかな、と思います。
 
どうしても実験的というと、難解なサウンドや楽曲で構成された作品集を想像されるかもしれませんが。
 
そこが大貫妙子のオールラウンダーたる矜持がそこかしこに見える、どの楽曲も、商業音楽のレベルに達した上で、解釈は個人の好きに委ねられている、とても制限されないアルバムであり、そのタイトルトラックとしてのカイエを大人になって聴いても、理解というものに怯えなくてすむ、安心して好きなように音を聴ける1曲となっています。
 
 
以上、 Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第3夜 カイエ(Ⅰ)  *** でした。
 
 
それでは、また明日の夜22時にお会いしましょう。
 
 
 
 
 
 

2023/11/14

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第2夜 蜃気楼の街 ***

 

Let's listen to Taeko Onuki, shall we?

<大貫妙子を聴こうじゃあないか>

*** 2夜 蜃気楼の街  ***

 

 

 

 

 

 

蜃気楼の街 / 大貫妙子(Taeko Onuki)

作詞・作曲:大貫妙子(Taeko Onuki)
編曲:加藤和彦(Kazuhiko Kato)
アルバム「ROMANTIQUE」収録
 
 
当ブログでも以前、話題にしていますね。
楽曲収録アルバム「ROMANTIQUE」については、ウィキペディアのページがとても熱いので、そちらをぜひご1読していただければと思います。
 
参照リンク
ウィキペディア アルバム「ROMANTIQUE」
https://w.wiki/6D6e
 
私はですね、公開しているプロフィールを何かのきっかけで知ることは、別にどうとも思わないんですけれど。
ご本人が公開していないプロフィールや、ご本人についての細かい情報を自分から調べることは、あまり好きではありません。
もちろん、私も人並みに興味を抱いて調べることもあります。こういう女性が好みなんだー?とか、そういうこともたまにはします。
 

ただ、なんだかあまり本人の了承なしに調べて、公表しているデータ以外の先入観を持ちたくないんですね。
潔癖だったり清く正しい心根からではなく、若者だったときに、応募した企業から前勤務先の就労状況を調べられたことがあって、前の勤務先から連絡をもらったことがあったんです。
 

これは、企業としても人事としても、とても正しいことですし当たり前のことです。
なので、当時も、そんなもんかな、と思っていました。
 

その後、しばらくしてあまり親しくなかった人と話していて、その話題になった時に、その人がはっきりと不快感を示したんです。
自分だったら、そんなところには行かない。とまで言われたんですね。
 

結局、そこに合格したのかどうかは覚えていないので、落ちたんだと思うんですけれど。
私は、自分が世の中の正しさの顔色をうかがってしまって、自分の中の気持ちにすら正直になれないことに、すごく驚いたんですね。
その頃、そう思うのは、とても子供っぽいと思ったんです。
 
実はいまでも、不愉快である、と気持ちを出すのは苦手です。どうしても平気なフリをしてしまうんです。
この頃は意識して、不愉快さを態度や言葉に出すようにしてはいるんですが、すぐ反省会始めちゃってダメです(笑)。
 
まあ、そういうことがあってから、私はその人の作品をまず最初に聴いて、自分はどう思うのか。自分はどう聴こえたのか。ということをとても大切にしています。
 

それでそのアーティストのことを、自分にとってどういう存在であるかを決めたいんです。
そこに、プロフィールはあまり重要ではないんです。
 

私のミュージシャン観というのは、創ったもので自分の言いたいこと、表現したいものを雄弁に語る。なので、それでいいと思っています。
 
私がWikipediaをよく参考リンクにするのは、集合知の結晶だからです。
いま書いたことと矛盾しているようですが、私は手弁当で持ってくる情報というものが1番、価値があると思っています。
 

そこに個人のフィルターがかかってることは、現在のWikipediaではないと私は判断しているので、「知りたかった知らないこと」を知る機会として、とても助けられています。
 

そしてネットでは、知りたくないことは検索しない、というスタイルを大切にしています。
 

なので、私は大貫妙子の愛聴者ですが、彼女のことは何も知りません。
リスナーとして、私個人は、彼女のプロフィールはさして重要ではないからです。
語りたければ著書やライナーノーツ、インタビューで語っているだろうし、そうでなければ公表したくないのだろう、と思って、私は彼女の音楽に用があるので、自分に従っています。
 
前置きが異様に長くなってしまいましたが(笑)
楽曲の話題に入ります。
 
この「蜃気楼の街」は、大貫妙子が参加していたシュガー・ベイブ時代の楽曲です。
こちらはシュガー・ベイブのアルバム「SONGS」に収録されているそうです。
 

シュガー・ベイブとは山下達郎(Tatsurou Yamashita)が中心となって活動していたバンドですね。そこに大貫妙子も参加していました。
参加メンバーを見ると、そうそうたるメンバーが勢揃いしています。
 

参考リンク
Wikipedia シュガー・ベイブ
https://w.wiki/88mN
 
Wikipedia SONGS
https://w.wiki/62U4
 

 

「ROMANTIQUE」に収録されてるバージョンと「SONGS」に収録されているアレンジが違うかどうかが、どうしても思い出せないんですけれど(笑)。ごめんなさい。確か、聴いたはずなんですけれどね。
でも、普通に考えてアレンジは違うと思うんですけれどね。シュガー・ベイブ、バンドだし。
あ!いま解決しました。ありがとう、iTunes!
 
全然、違いますね。シュガー・ベイブバージョンは若者のふさぎ込んだ憂鬱な気分が根底にある声で唄っているように、私には聴こえます。
対して「ROMANTIQUE」バージョンは、ひどく現実から離脱した、古い時代のヨーロッパやニューヨークの都会によく似た、架空の街を舞台にしたような趣き(おもむき)があります。
 
私は、どちらの大貫妙子の声も好きですが、最初に聴いたのは「ROMANTIQUE」の「蜃気楼の街」なので、刷り込みという点で、「ROMANTIQUE」バージョンが僅差で好きです。
 
「蜃気楼の街」では、少し琥珀色がかった旅情が歌われています。
 

私は旅というものは、その人の漂泊観の表現が実体化したものである、という考えを持っています。
 

旅というものがどこか寂しく、懐かしいのは、人は定住しながらも常に漂泊し続けているから、かもしれません。
その表裏一体の矛盾こそが、人というものの決してとらえられない部分として、誰もが持つ、個別の蜃気楼の街に漂っているのではないでしょうか。
 
日常に時々姿を現す、「少しの虚ろ」は、そんな蜃気楼からの残像なのだ、と、この楽曲を聴くたび、そう思います。
 


以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第2夜 蜃気楼の街  *** でした。
 


それでは、また明日の夜22時にお会いしましょう。
 
 

 

 


 
 

2023/11/13

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第1夜 彼と彼女のソネット ***

 Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
 
*** 第1夜 彼と彼女のソネット  ***
 
 




 
こちらは、日本の女優でもあり、シンガーでもある原田知世(Tomoyo Harada)に日本語詞で大貫妙子が参加した楽曲のセルフカバーです。
 
そもそも「彼と彼女のソネット」は、「哀しみのアダージョ」というタイトルだったそうなんです。
私はアナログアルバムを両方買ったんですけれど、その経緯は全く知りませんでした。
 
以下は、ウィキペディア 哀しみのアダージョ より引用です。
 
「哀しみのアダージョ(彼と彼女のソネット)」(かなしみのアダージョ(かれとかのじょのソネット)、原題:T'en va pas)は、フランスの女性歌手エルザのシングルである。1986年にリリースされた。作曲はロマーノ・ムスマッラ、作詞はレジス・ヴァルニエとカトリーヌ・コーエン。
 
(中略)
 
日本では1987年の日本盤発売時に「哀しみのアダージョ」という日本語題が付けられた。その後、1994年のシングル再発売時に日本語の副題が加えられ、「哀しみのアダージョ(彼と彼女のソネット)」となった。
 
(中略)
 
1987年7月1日、原田知世が大貫妙子の日本語詞により、「彼と彼女のソネット」の題名でカバー(編曲は後藤次利)。
大貫も自身の日本語詞により、同年のアルバム『A Slice of Life』でカバー。この際、歌詞の一部が変更され、原田盤・大貫盤は全く同一の歌詞ではない。
 
ウィキペディア 哀しみのアダージョ より
https://w.wiki/88ie

 
原田知世バージョンはアルバム「Schmatz」に収録されています。
私はどちらもそれぞれの個性があって好きですが、センシティブなのは原田知世バージョン、追憶のソフトフォーカスの情景が思い浮かぶのが大貫妙子バージョンではないかと、個人的には思っています。
 
当時から大貫妙子は日本国内で1目も2目も置かれていた存在で、「知る人ぞ、知る。」と私のような愛聴者は得意がっていたものですが、結構ヒット曲もあるにはあったので、楽曲を聴けば、「ああ、この曲が大貫妙子かぁ・・・。」という方も多いのではないでしょうか。
 
2023年の現在、世界でどのような聴かれかたをしているのかは、先入観を持ちたくなかったので調べていませんが。
 
このアルバムが出た当時の1987年頃はすでに、とてもリスペクトされていたので、熱いファンの方々はどうかご安心ください(笑)
 
大貫妙子の楽曲や音楽性への信奉者は当たり前に存在していたのですが、彼女の普段の声の支持者も、これまた熱く、熱く存在しており、自身の楽曲の歌詞となっている詩を朗読するアナログレコードなどもありました。
 
タイトルを忘れてしまったので、現在リリースされているのかどうかはわかりませんが、配信データを見る限り、私には探せませんでしたので、興味のある方は探してみてください。
 
彼女の声の素晴らしさは、F Mラジオで「仮想熱帯」と題したプログラムがあったほどで、こちらは音源としてまとまってはいないとは思うんですけれど、このプログラムタイトルが、大貫妙子というソングライターの力量を通り、大貫妙子というシンガーの表現を経て、リスナーであるこちらの脳内に存在している、大貫妙子というイメージにとても合っていたので、こちらのタイトルを思いつかれたのは一体誰なのかな、と、「調べないで楽しむ素敵な謎」として、いまでも大切にしているひとつです。
 

以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第1夜 彼と彼女のソネット  *** でした。
 

それでは、また明日の夜22時にお会いしましょう。
 
 
 

2022/03/19

夜に聴いてリラックスできそうな曲  第2夜

 

 

 

 

今夜の1曲は、大貫妙子で「春の嵐」

途中から大きな音になりますので、音量注意です。

 

アルバム「コパン」に収録されています。

 

シティポップで世界的に大バズり中の大貫妙子ですが、

初期から中期ごろ、こういう楽曲も手がけていました。

基本的に大貫妙子というミュージシャンは、オールラウンダーだと思うんですけれど、どうでしょう?

 

このアルバム自体、ちょっと異色な作品なんですが。

収録されている楽曲達は結構好みです。

 

荒れ狂う嵐の景色に、静けさを見出し、また静かな想いの中に、激しさをあわせ持つ、という、真逆だからこそ調和している世界観がとても好きです。

 

夜中に目が覚めてしまった時や、眠りそびれた時に、私は聴いています。

 

みなさんのリラックスタイムのお供になれば。

 

それでは、おやすみなさい。

また明日の夜10時に。

 

↓ワンクリックいただけると励みになります:)

 

2021/05/07

雨の夜明け ー 大貫妙子

 

 

だいたいどのシーズンでも、朝、雨が降っていると、いそいそとカーテンを開けて、コーヒーを落として、窓辺でずっと外の様子を眺めています。

 

いまは新緑の季節なので、暗い朝でも、新しくてみずみずしい葉が雨に打たれながら仄かに発光しているようで、見ていて飽きません。

 

出かける前に降ってこられると憂鬱という人もたくさんおられると思いますが、私は、予定していた服を変えなければならないのはめんどうだけど、雨の日に出かけるということがけっこう好きです。

 

やっかいなのは、雨の降る前の方で、この頃はだいぶおさまったんですが、偏頭痛持ちなので、気圧が変わる時が1番つらいんです。

でも、私の場合は、降ってくるとそこで気圧が低いなりに安定するので、そう痛まないし、時間の経過で考えても、降りそうな時に常備薬を飲むので、もう降ってるときは薬が効いて快適なんですね。

 

なので、雨の日は好きです。

雨音がずっと続いているのも好きですし、傘を打つ雨の音や、水を弾くタイヤの音、いつもより響くように感じる靴音、雨のせいで濃く匂いたつ緑の香り、低くなった雲から、時折割れて落ちてくる光の筋などを、傘の縁から見ていると、普段暮らしている街は、ものすごく美しい場所なんだな、とその都度、軽く驚いています。

 

また、少し冷えて、帰ってから淹れるコーヒーの味も格別なので、雨の日に出かけると、だいたい家に帰ってからお茶と一緒に食べるものを買って帰ります。

 

傘は、好きなデザインのものを使っています。

持ち手の部分に傷が入ってしまっているんですが、お気に入りなので、ずっと使い続けています。

もとはWORLD ONLINE STRE の通販で買いました。

https://store.world.co.jp/?link_id=wos_H_wos

 

リンク先のトップページにある検索から、「傘」で探すと、さりげないデザインの傘や可愛い傘、いまのシーズンだったら日傘も出てくるので、もし傘を探されている方おられましたら、検索して吟味してみてください。

 

私はここでお気に入りを見つけるまで、好きなデザインのが無くて、ぼんやり困ってたんですね。

それで、間に合わせで買ったのとか、ビニール傘を使ってたんですが、よく盗まれたり、忘れてきたりしてて、これは意識して持つものにした方がいいな、と思って、ここで買いました。

おかげで、忘れてくることも、盗まれることも無くなりました。

先のことはわからないけれど、傘を持っていく人の感じは、無個性の傘の方が持っていきやすいんじゃないかな、と考えています。

 

・・・雨の日って、何かすごく大きくて、感触があるかないかくらいの柔らかいものに、街ごとすっぽり包まれている気がするんですよね。

そのささやかな親密さが、好きです。

 

 

 

 

 

 

表題曲は大貫妙子で「雨の夜明け」

アルバム「ROMANTIQUE」に収録されています。

 

”愛の手紙 火を灯して

思い出だけ 灰にする”

(大貫妙子 「雨の夜明け」より)

 

実際に手紙を燃やしたことはないんですが、よく小説やドラマ、または現実の人達が、手紙を燃やすのを見聞きするたび、少し芝居がかった行動すぎて、やってる途中に醒めてしまいそうなのに、なぜそうするんだろうと、抱いていた疑問が、この歌詞で解消されました。

あれは思い出を灰にしているんだな、と、衝撃を受けた曲です。

「新しいシャツ」「蜃気楼の街」等、良トラックぞろいのアルバムとなってます。

 

Spotify iTunesで配信中です。

 

 

 お帰りの前に応援のワンクリックをお願いします。

2021/04/27

夏に恋する女たち  ー 大貫妙子

 


 

家で作る麺ものは、マルちゃんの焼きそば麺を使う以外は、全て乾麺から作っています。

 

理由はそっちの方が、自分の好みに麺の硬さを調整できるからです。

人に訊いたことはないんですけれど、そうめん、パスタ(スパゲッティーニとかペンネとか)を、乾麺から茹でたり、する人は多いと思うんですけど(私はスパゲッティーニはレンチン派です)、うどん、そば、きしめん、まで行くと、ちょっと好みの別れる話ではあると思います。

 

そもそもなんだって乾麺から茹でたりし始めたかというと、昔、きしめんをお土産に頂いたんですね。

本場って大きくパッケージに書いてあるやつで。

その時まで、私、きしめんを食べたことがなかったんです。

それで、作り方もわからないし、目指す味もわからないし、困ったなぁと思って、人に訊こうか迷った挙句、お腹も空いてたし、箱の裏に書いてあるレシピ通りに、茹でて食べてみたんです。

そしたら、ものすごく美味しかったんです。

ちょっと目から鱗って感じで。

 

それまでうどんや蕎麦は、スーパーの生麺を使う派だったんですが、以来、乾麺で、蕎麦、うどん、を茹でて、水でシメて食べる様になりました。

 

自分で乾麺からやると、調整がしやすいんですね。

私の好みは、もちもちのちょい硬め、でも全体に火が通ってるよ、ぐらいが好きなんですが。

 

麺をお湯からあげて水でシメてる間も、麺には火が通っていくので、その余熱が通る時間も含めて、お皿に乗せるゴールから逆算していって、全体の茹で時間を調節すると、だいたい、好みの麺が食べられるんです。

 

ざっくりいうと、8分と書いてある茹で時間なら、7分で上げて、水でシメて、お皿に乗せて、麺つゆの小鉢用意して、箸ですくって食べ始める、までがちょうど8分になる様に、調節するんですね。

 

 

あと、大鍋で茹でなくても、中鍋にお湯を沸かして、乾麺を入れて、菜箸でぐるぐるかき混ぜ続けると、均一に茹であがるので、私はそうしてます。

 

大鍋で茹でろって必ず書いてある理由は、鍋の中のお湯がたくさんあると、中で対流が起こって、混ぜなくても、麺が踊って、均一に火が通るからなんですよね

 

だから、鍋の中のお湯が対流してる状態を、菜箸でかき混ぜて発生させて、麺を茹でれば均一に火が通るので、私はその方法で、中鍋や片手鍋で麺を茹でてます。

 

乾麺から茹でる場合、あったかいお蕎麦やうどんでもできるけど、やっぱりザルが美味しいかなと思います。

 

麺つゆは、セブンで売ってる「枕崎産かつお使用 つゆ」っていう3倍濃縮のを使ってます。

(使う時は希釈するのを忘れずに)

 

いまの季節だと、まだ水道から出る水が冷たくて、麺をシメるのに適した温度ではあるので、ちょっとやってみようかな?という方は、よかったら乾麺、試してみてください。

 

 

 

 

 

表題曲は、大貫妙子で「夏に恋する女たち」

アルバム「SIGNIFIE」に収録されています。

 

"短い愛の戯れは 鮮やかすぎて 哀しい”

”きらめく街を振りむけば 想いは遠く 虚ろう”

(大貫妙子 「夏に恋する女たち」より)

 

 

再注目されている、「4:00A.M.」も素敵ですが、

毎年、初夏に聴きたくなる1曲です。

あと大貫妙子さんは、皆が知ってる童話の世界を音楽で再構築する才能にも長けた方でもあるので、そのシリーズを聴くのも好きです。

 

 

Spotify iTunes で配信中。

 

 

 

 

 

 お帰りの前に応援のワンクリックをお願いします。

2021/03/28

春の嵐  ー 大貫妙子

 


 

春を告げる花は、地域によって微妙に違いますよね。

 

私の場合は、水仙を見ると、まだ冬の寒さが残ってるけど、春が来始めてるんだなぁと、静かに春への期待が高まります。

 

でも水仙ってご存知の方も多いように、ギリシャ神話のナルキッソスのエピソードが有名で、花言葉も「自己愛」とか「私のもとへ帰って」とか、ろくでもない(言い方)ものしかないんですよね。

 

唯1、ましなのは「神秘」とありますね。

んー、これだけだと、やっぱり自分で楽しむにはいいけど、人に贈るには躊躇してしまいますね。

花言葉って普段、意識しないけど、人からいただくと、なにかな?と調べたりするので。

 

春を告げるささやかな花で、日本だとお正月の生花にも使われることが多いんですけど、なぜこうまでひどいエピソードがついているんでしょう?

毒性があるからかな?(wikiより)

まあ、私は好きな花ですけど。

 

参考リンク

LOVE GREEN 様

水仙(スイセン)の花言葉|種類、特徴、色別の花言葉より

https://lovegreen.net/languageofflower/p26065/

 

 

他の花では、梅、白木蓮、菜の花、ビオラ、チューリップ、桜が、私の中で春を順に運んでくる花です。

 

菜の花は、太陽が落ちているような輝きをこの季節は持っているので、見かけるたびに、菜種油の天ぷらが食べたくなったり(なんでその方向なんだよ)、少し分けてもらって、家に飾ろうかな?と毎年迷うんですけど、結局、自然の中にあるのが、1番菜の花には似合う気がして、電車の窓から、陽の中で揺れているのを楽しむに留めています。

 

ビオラは、今年はやれてないんですが、季節になると、鉢植えを買って来て、植え替えて、長いシーズンを楽しんでいます。

元はパンジーが好きだったんですが、ふと、大きすぎないか?と思い、ビオラ派になりました。

 

桜、そろそろあちこちで咲いているみたいですね。

今年はガッツリお花見に行くというより、出かけた先で、満開の桜や、まだ4分咲きの花を眺めて、楽しんでいます。

 

ちょうど今日(めずらしく今日の分を今朝書いています)、予報では全国的に春の嵐だそうですね。

これで、完全に冬の季節の名残りはどこかへ行ってしまって、春から初夏への駆け足の季節が始まります。

 

災害になってしまうのは困るけど、私はこの季節の雨風がとても好きです。

 

吹いて来た風と雨に混ざって、桜の花びらがアスファルトの上を舞っている様が、ヘッドライトに浮かびあがったり、あたたかい雨が、出して来たばかりの春着の肩を濡らすと、暴力的でもある春の勢いを感じて、息をのみます。

 

なので、私にとっては、春は、始まりは「静的」であっても、盛りは「動的」なものです。

 

そろそろストーブの残りを炊いてしまって、冬装備をしまう準備をしたり、完全に薄物への衣替えをしないといけないので、この時期は何かと、せわしないですね。

 

そんな中、ちょっと句点を打つみたいに、雨に閉じ込められている休日も、深呼吸できる日という感じがして、結構好きなので、今日は午後から、お茶を淹れてお菓子を楽しむ予定です。

 

 

 

 

 

 

 

表題曲は大貫妙子で「春の嵐」

アルバム「Copine」(コパン)に収録。

「ベジタブル」「タンタンの冒険」も同アルバムに収録されています。

 

動的な春の中心に、ふと静けさを感じることがあるんですが、

この曲は、その静謐を完璧に表現していると思います。

 

Spotify iTunesで配信中です。

 

 

 

 

 お帰りの前に応援のワンクリックをお願いします。