休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/11/16

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第4夜 タンタンの冒険 ***

 
 
 Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第4夜 タンタンの冒険  ***
 
 
 
 
 

 
 
タンタンの冒険 / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作詞:作曲 大貫妙子(Taeko Onuki)
編曲: 坂本龍一(
Ryūichi Sakamoto)
 
クレジット ウィキペディア copine より
https://w.wiki/8Aej
 
 
 
 
現在は「タンタンの冒険」となっていますが、本来のタイトルは「Les aventures de TINTIN」です。



・・・タンタンって? と思われた方、どうかご安心ください。

タンタンのことに詳しい一般人は、日本にはほとんどいません。
断言できます。いません!
 
外国の漫画に詳しい人か児童文学に詳しい人じゃない限り、どこにもいません!
 
「あー、タンタンね!あの、・・・あれ! うん。絵本の・・・?」みたいな人ばっかりです。大丈夫です!
 
タンタンは、フランスのコミックの主人公だったはずです。←お前もあやしいじゃねーか!(笑)
 
いまWikiを見てきましたが、正解でした!よかったです!(ベルギーとフランスは違う国ですよ)
 
タンタンとはベルギーの漫画家エルジェによるキャラクターです。
歌詞内に登場するスノーウィはタンタンの相棒である犬です。
著者のエルジェは、ミヒャエル・エンデやル=グウィンと同じ、偉大な作家です。
エルジェはバンド・デシネでしたが、新たに近代の年齢制限を設けなくとも良いキャラクターを生み出した方です。
詳細はWikipediaをご覧になってください。
 
参照リンク Wikipedia タンタンの冒険
https://w.wiki/59uA
 
大貫妙子にとって生涯にわたる盟友であった坂本龍一がアレンジに参加しています。
楽曲がいまでも十分通用するアレンジに包まれ、とても難解なメロディラインを創り出し、歌いこなしているという、色々とあちこちでざわつく1曲ですね。
 
大貫妙子の楽曲の特徴のひとつでもある、難解なメロディラインについては、著書かライナーノーツで、大貫妙子自身が、作曲家の自分とシンガーの自分は別人なので、創っているときは楽曲のことだけを考えて作曲しているけれど、いざ唄う時になったら、マイクの前で「このメロディを創ったのは誰なの?」と途方に暮れる、と語っていました。
 
大貫妙子の楽曲は難解なメロディか?という問いには、初期から徹底して、歌詞の音とメロディの調和を好みつつ、若干の違和感をスパイスのように使って楽曲を構築する、という見解を私は持っています。
 
これは広告の手法でもよくあるやり方ですし、1時期はニューウェーブの旗手とまで言われていた大貫妙子のサウンドは、現在の楽曲までカウントすると、かなりの数がテレビコマーシャルに使用されていますので、「届く音楽」というものを創る時の非常に理路整然とした思考が、楽曲の基礎作業後のプリプロダクションに強く反映されているのではないでしょうか。
 
タンタンの冒険が収録されているアルバム「copine(コパン)」は、ライナーノーツだったのかは忘れてしまいましたが。
売れるアルバムを作ろう。という大貫妙子以外の音頭で始まったアルバム制作だったらしく、その不本意な方向性とこれだけの豪華製作陣であっても伴わなかった商業成績に、大貫妙子自身が「ほら、ごらんなさい。」としみじみしてしまった経緯を持っています。
 
ですが、このアルバムは商業的には、そちらへのアプローチはかんばしくなかったものの、2023年現在に改めて聴きなおしてみても、1985年の製作とはにわかに信じられないほどの、テクノロジーの遅れは全く感じられないどころか1歩も引いていないクオリティーなのは、お聴きのとおりです。
 
さて、タンタンの冒険という物語(バンド・デシネ)世界を楽曲にしているということは、オール・ラウンダー大貫妙子の特筆すべき作家性。
特定の物語世界を壊すことなく、楽曲に再構築できる才能。
の楽曲でもあります。
これは「ピーター・ラビットとわたし」「テディ・ベア」「メトロポリタン美術館」「月のきざはし」などでも、愛聴者のみなさんがよくご存知の通りです。
 
私は、あまり大貫妙子のこの作家性についての批評や論評から熱いファンライナーまで、きちんと調べたことはないんですが。
「ピーター・ラビットとわたし」1曲だけで、他者の追随を全く許さなかったこの作家性は、かなりの衝撃を与えていたのではないかと思っています。
 
理由は、「ピーター・ラビットとわたし」がドロップされた後、同じ日本のポップシーンで、この手法を引用した楽曲が商業でいくつか見られたからです。
ただし、そのどれもは、二匹目のドジョウを狙っても仕方がありませんので、それぞれのクリエイター達の色や販売戦略が反映されており、「ピーター・ラビットとわたし」だけで調べても、なかなか引っかかってはこない成績だったと記憶しています。
 
大貫妙子自身は、この作家性をどう思っているのか、私はこちらについて語っている彼女の言葉を読んだことはありません。
おそらく、
「人には凄いと言われても、本人にとってはそう苦労をするものでもない。」
というものなのではないんでしょうか。

その後、日本の子供向け音楽番組で楽曲提供をしているところを見ると、その特性も自分の音楽性として商品にはなる、という自覚があるようですので、私見ながら、この基準はそう外れてはいないように思っています。
 
ですが、そう苦労はしない、といっても、朝起きて10分でできるものではないとは思います。
ただ聴いていると、作品世界を楽曲に再構築しているトラックと、他のオリジナルトラックとでは、聴くときの緊張感が全く違うんですね。

最初に空間に音が流れる時の、滑らかさの度合いが、全然違うんです。
そこまで大貫妙子がコントロールできるのかどうかは、ちょっとアマチュア耳の私には判別できないんですが。
個人的には、これは大貫妙子にとって得意分野ではないのか、という判断をしています。
 
みなさんは、どう聴かれるでしょうか。
 
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第4夜 タンタンの冒険  *** でした。
 
 
それでは、また明日の日本時間では22時に、主にアメリカでは朝の8時に、お会いしましょう!