休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
おかえりなさい、JINさん。
ARMYさんおめでとうございます!:)

2024/09/08

移動する街

 

3年目のオリーブの実たち

 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
私の住む街は、旬の街が移動するという特色を持っています。
 
どういうことかと言うと、20年単位で、中心部が変わるんですね。
都市計画で次はここを仕掛けましょうという商業発展して欲しい所とは別に、予想に反したエリアに旬の街が移り変わります。
 
それすらも水面下で仕掛けられていたのかもしれないと考えていくとキリがありませんが。
おそらく違うでしょうね。
偶然そういう旬になっていく所が集まり始めて、ひとつひとつ通りに馴染んだ結果、最初に予定されていたターゲットとは違う人々が集まり始めて、新しい旬のエリアが出来ていくんです。
 
先日、そこにこっそり近寄ってみると、本当に楽しくって活気があって、旬の街特有の、誰も気にしないし誰が来ても良いし面倒くさいこと言わないし、どこかごった返していてワイワイしながら、すこし低温度の風が吹いている。
という私の大好きな街の要素がストリートにありました。
耳の早い、インバウンドと呼ばれている海外旅行客のみなさんもちょっと覗いてみようという感じで、「熱」のある空間でした。
 
私は青年ではないので、やっと重い腰を上げてみようかな、というタイミングだったんですけど。
おそらく街の若者や青年層にとっては、そこはもうお馴染みなんでしょうね。
 
古い言い方になるんでしょうか。
「河岸を変える(かし)」という価値観があります。
ごくミニマムであれば、呑んでいて場所を変える・店を変える、というやり方。
これは、入った店に腰を落ち着けて呑み続けてもいいけれど、ちょっと窓を開けて空気を変えるみたいに場所を移って、その人達がその時纏っている良い流れ、いい雰囲気を維持するためにやる、やり方です。
逆にちょっと今日もう飽きたな、という気配が漂い始めた時に、すっと場所を移動して仕切り直す、というやり方でもあります。
 
この「変える」ということ。「変わる」ということ。
少し寂しいような、さっぱりした気配があって清々しさがあることを、すごく悪いことのように信じ込んでしまう世代特有の価値観があって、私はそれがどうにも好きになれません。
 
変わらないといけないとか、変えないようにしようとか、そういう「逃さない感じ」が、とても嫌いなんですよね。
 
伝統とか新たに発見された素敵なこと。
そういうのを大切にしようが嫌なんじゃないんです。
あ、ここは違うな。
そうパッと判断する自分や、考えるより先に立ち上がって店を出ようとする人の腕を掴んで、無理矢理座らせる感じが、すごく執拗で嫌いなんです。
 
こういうことを遮るために、巧妙に手を変え品を変え、それこそが素晴らしいもののように言い募ったり、説得してるつもりの、新しい価値観を提示して、それこそがとても良いように見せかけるもの。
もっと言えば、教育したり教示しているつもりのもの。
 
そういうのは、嫌だな・・・、と堂々と思って、心の中で「あ、はーい」って返事しながら、相手にしなくていいんですよね。
 
またスタイルという、暮らしのお洒落な提案の中に、本人の自己判断や肌に合う合わないを頑強に拒否するものがあるでしょう?
 
ああいうのは誰も相手にしていないし、そうかな・・・?と不安になっても、あなたが無理をして窮屈な思いをする責任を、誰も取ってくれないので、さっさと席を立って自分の好きなこと、いいなと思うことに移って良いんですよね。
私の数少ない経験上、そこに上手なやり方を付け加えるなら、「黙ってやる」ですかね。
 
どうしてそういう人が存在しているのか、今まで考えてみても結局よくわからないので、もう考えるのを止めたんですけど。
鵜の目鷹の目で、自分じゃない人が楽しくて素敵な状況に入ることを、なぜだか邪魔しようとする価値観があるんです。
多分、自分と人の区別がつけられない、区別がつかない人なんだと思います。
そういう人を相手にするのは、心底、時間の無駄ですので、どんどん好きなこと、いま自分にフィットすることに、黙ってサクッと移っていいんですよね。
 
そして、どうにもこうにもあなたを遮れないとわかると、「どうして?」「なぜですか?」と質問攻めにして、足を止めさせようとまでしてきますので、「んーなんとなく」とか「あー、うーん・・・」って言いながら、パッとその場を離れて、そういうもの全般から距離を取りましょう。
 
あとこれも心の中だけ思っていればいいことですが。
タイパという言葉が使われるようになって久しいですね。
タイムパフォーマンスという言葉なんだそうです。
よく分からないまま、時間をかける理由に納得がいくかいかないか、というハナシだろうな、と見当をつけていたんですが。 
 
(前略)
限られた時間内にどれだけの効果・満足度を得られるかが強く意識されるようになっている、という指摘がある。『三省堂 辞書を編む人が選ぶ「今年の新語2022」』では「タイパ」が大賞に選出されたように、「タイパ」は最先端の言葉・概念として脚光を浴びるようになった。
(後略)
 
Z世代が重視する「タイムパフォーマンス(タイパ)」の意味とは? メリットやビジネスにおける事例を解説
HRプロ編集部
公開日:2023/07/05
https://www.hrpro.co.jp/series_detail.php?t_no=3165

 
この考え方を良いと思うか、そうでないと思うかは、個人個人に委ねることです。
ただ、この考え方を「ただ単に、待てない人が利用している」ことが非常に多いようですね。
 
ええ、待てない人です。
短気以前の問題で、少し待つ。状況を判断して自分の時間、順番が来るまで、そこで待つ。
ができない人が、上手いことこの言葉を利用して、時間がかかる人、時間がかかって当然の状況に圧をかけているのを見かけているので、そういう勘違い野郎どもに焦る必要はないですよ。
と書いておきます。
 
口に出すと面倒なことが起きるので(笑)、心の中でこのように思っておきましょう。
「でもあなたは、ここに来て買い物をする時間があるんですよね? 」
 
本当に忙しい人は、外出してそこまで歩き(または車ないし自転車で移動して)、物を購入して支払いを済ませ家に帰る時間すら無いはずです。
本当にタイパを意識して仕事をせねばならない人は、わざわざ忙しくて混む時間帯にそこに行って買い物をするという選択をしません。
 
そういう状況に入る前に、そうならないように生活の工夫ができる人(またはしないとスケジュールが回らない人)が、自分の時間を無駄にしないでくれ、とお店の人や順番待ちの時にアピっていい人ですよ?(にっこり)
 
待てない人は幼稚園生からやり直しですね。
放っておきましょう。
 
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごし下さい。
 
 
 
 
 
 

2024/09/07

美味しくない店に行ってしまった時の対処法

先人の教えを頂きました。
 
美味しくなかったお店に行っちゃって、食べてる途中でだんだん口数が少なくなってしまい、お店を出た後も、瞬間的にやつれ果ててそよ風にも吹き飛ばされそうになってしまう状態の時。
 
どうすれば良いかをレクチャーしてもらいました。
 
店を出た後、少し離れてから、
背筋を伸ばし、毅然と、一緒に行った相手に向かって、
 
「不味かったですね!
(きっぱり)」
 
と言い放つんだそうです。
 
その後、肩で風切るイメージで歩き出して、二度と思い出さない。
 
だそうです。
 
勇壮に、自分の背後に地平線が見えるほどの大草原が広がるイメージでやると、さらに良いそうです。 

1人のときは(ソロの場合)、
 
「不味かったね!
(断定)」
 
と胸の内で言い放つんだそうです。
 
その後、肩で風切る感じでやっぱり歩き出して、二度と思い出さない。
 
それでオッケーだそうです。
 
タイヘン参考になりますね。
 
誰のせいでもないですし、
誘ってしまって悪かったな・・・。
と思ってしまうし、
相手も、
気にしないで気にしないで、ホント気にしないで。
と全力で思ってる時に、
非常に有効です。
 
ぜひとも皆さん、今すぐやって下さい。
(エナメル指示
 
以上、 不味い店に行ってしまった時の対処法、でした。
 
 


 
 
 

2024/09/05

極楽浄土・天国というものへの1解釈

 先日、仏教の一般的な考え方に三十三回忌というものがあると知りました。

 

「弔い上げ」とは、故人様の死後、33年目(満32年目)に行う、最後の年忌法要です。
一般的な法要には、初七日や四十九日法要、一周忌や三回忌などがあげられます。そこでは、故人様の魂が極楽浄土へいけるよう、個別で法要をしてご供養します。
しかし一般的な仏教の教えでは、「弔い上げ(三十三回忌)」の時期には“どのような魂も、極楽浄土へいき往生する”といわれています。そのため、それ以降は、個別の法要は行いません。

霊園・墓石のヤシロ

https://www.yasiro.co.jp/colum/detail/colum74.html

 

法要を行う、行わないの選択とは別に、私個人としては、仏教の考え方として、故人となった後も最長三十三年間はこの世界に留まり静かに過ごす方もいるのだな、という気持ちでした。

ここからは、もっと私自身の捉え方というか、考え方なのですが。

極楽浄土や天国とされる場所に行くまで、時間がかかる人かからない人と色々あって、幾億の人々の縁や事情で望んでそうされている方もいるのかもしれない。

そして、いつかその人にとっての時間が来たら、明るい静かであたたかい場所へ行くのかもしれないな、と解釈すると、穏やかな、秋の始まりの今日の晴天のような明るいものが胸の中に吹き渡りました。

この世に留まっている故人について、暗かったり怖ろしかったりする話ばかりが多いようですが、そうではない事情もあるのかな、なんて、思いました。

ただ単に、淡々と歳をとっていく中、年月を経て、個人的な見当を持てる、こういった機会が嬉しいです。



 

Take Fiveを聴きながら街を歩く:本日の雑感(不定期)

 
UNIQLO FLOWERで購入した百合

 
台風の混乱はまだ収まっていませんね。
 
私は通販ヤロウでもあるので、来るはずのモノが仲々やって来ず、運送業者さんが必死なのがまた胸が痛いです。
 
当たり前ですが、日々の暮らしはAmazonを始め、大手通販サイトが誕生して20数余年経ち、物流というものが日本の大動脈になって久しいので、こういった災害が起こるとその影響力が如実に明らかになり、社会の混乱の破片が私達市井(いちい)の生活者の元に押し寄せます。
 
誰かが以前ネットで語っていたことですが、どうして物流が暮らしの経済の主軸となっているにも関わらず、運送業者さんという職業の価値は昔のままなんでしょうね。
低すぎると思うんです。
同じく、コンビニエンスストアの店員さんの価値も、以前のまま凍りついています。
 
コンビニってもう重要な社会インフラでもあるのに、あんな難しいことを次々やっている店員さん1人1人の給料や社会的立ち位置が、相変わらず誰がやっても一緒の職業だと思い込まれているなんて、本当に信じられないんですよね。
 
この方達のお給料を上げると商品や物流の一単位の価格が値上がりしてしまう。という世の中で当たり前のこととして信じられていることが、実はいくらでも商品価格を据え置き(もちろん物価の影響は受けますけどね。)、お給料を上げることがいくらだって出来るんですよね。
 
現在Uber Eatsを始め、ネット通販の変則的な形でコンビニの営業形態もまた変わりつつあるので、その手数料その他の「数量」をうまく工夫すれば、コンビニエンスストアの店員さんの賃金を上げることは出来るんじゃないでしょうか?
 
また、私はよくわからないですが。
労働組合を作り、自分達の労働環境を守ること。社会保険の適用範囲に入ること。なども、各店舗のオーナーの個別の判断に任せっきりじゃなくなり、だいぶ労働環境が整うのではないかな? なんて、思っています。
 
こちらはスーパーで購入した百合(アマリリス?)
 
実は私はこの頃、街を歩く機会が多く、人生の大先輩のお話を聞きながら、また他愛もないハナシを楽しみながら、ときに黙りながら、2024年の街を歩いています。
 
とてつもなく不思議だと思うことに。
リーマンショック以来の不況である。そして人々は暗い気持ちを抱え、ものすごく貧乏になり、私の住んでいる街の中心部を歩いているのは、すべてインバウンドと呼ばれる海外からのお客様ばかりで、日本人は出かける余裕すらない。
と言われているし、耳でそして目でインターネット上のメディアに漂っている雰囲気を感じています。
 
ですが、この十年ずっと言われ続けている日本の経済は底打ちで、もうダメになっていく一方。
というものが、街を歩いていて、それは本当なんだろうか?
としか思えない現状を私はじっと見つめています。

単に未だコロナの影響が残っていて、まだ街がきちんと建て治っていないだけではないでしょうか?

リーマンショック以降、一体いつ日本は金持ちになっていたんでしょうか?
 
例えば、デパートに人が行かなくなった。と信じられていますが、私の街のパルコには月曜日の時点で、夕方平日の人並みが普通に存在していました。
集まっている人達は、信じられている海外からの旅行客ではなく、ファッションを楽しまなくなったはずの若い女性や30代女性は攻めたファッションでお店に入っていき、中高年の女性はお友達とではなく、けっこうソロで動きやすい格好をして、やはりぐいぐいパルコに入っていっていました。
 
主に海外からの観光客は、安い日本の商品が売られている免税のドラッグストアや百均で買い物をしているようでした。
物価が安い国に旅行に行って、安い国ならではの、価格設定やお得なサービスを展開しているお店に集まり、こんな所にもあったのか・・・? という免税のお店にも外国語が飛び交っていたり、私が日常の買い物をするスーパーに楽しげに買い物カゴをカートに乗せて、売り場を珍しそうに見ているようでした。
おそらく、専用の口コミが共有されているんでしょうね。
安いお店で買い物をして帰国する。が、日本に来ている旅行客のステイタスなんでしょう。
お店側もちゃんと心得てて、外国語表記も言葉が通じない方相手の接客も慣れているようでした。
 
夕方の街と言えば、私のような特性のあるもの( HSP)は少し寂しくなってしまうものですが、夏の終わりに日常が始まってしまった、モラトリアムの終焉とよく象徴される、9月の始まりの中心部の風景は、元気いっぱいどころか相変わらず賑わっていて、私もどっかお店に入ってみよっかな? なんていう気持ちになりました。
 
ユニクロフラワーのコーナーは、海外からの買い物客のフォトスポットになっていましたよ。
 
あとCOOLジャパンと信じられて久しい日本のエンタメ世界ですが、街でビラを配っているアイドルグループのご本人達がいて、私はイチおばさんの暮らしの義務として、一枚受け取り、まず来ないだろうな、まず行けないだろうな、とお互い分かっていながらも「頑張って下さい」と右手でガッツポーズを作ってしまう私に、彼女は一生懸命笑顔で「よろしくお願いします」と答えてくれました。
 
他のメンバーさんも少し離れたところで同じビラを配っていたので、やはり「頑張って下さい」と私は声をかけ、彼女は会釈したあと、別の通行人に向かって、少しだけより大きな声で「ライブやります。来て下さい」と言ってくれました。
 
市井の声援に対する、配慮とはにかみがある彼女達の応え方に、私はとても爽やかな気持ちになりました。
 
インターネットのせいで、街に人が、主に若い方が居なくなったと信じられていますが。
私はこの2年で、むしろ街に若者や青年、私の年代の中高年達、ビジネスパーソン達が増えていっているように感じています。
 
また、お洒落をしないと信じられている若者達こそ、工夫と「生き金」の使い方が上手で、懐かしいバブルの頃のように(私はその後の世代です)、90年代の頃のように、全身を好きな服で包んで、街で遊んでいるのをよく見かけるようになりました。
 
私達は、一体どこから出てきた憂鬱を社会の前提として受け渡されているのかな? 
と、明るい気持ちになるばかりの街歩きを、私はこの頃やっています。
 
公園からスケートボーダー達を閉め出してしまった経緯には、双方の理由と事情があるのでしょうね。
けれど、閉め出した後に彼らに新しいスペースを提供するまでが、若者と青年達への社会からの解答ではないでしょうか?

いつの間にか、路上ライブをやる若者の姿も街から消えてしまいましたね。
 
彼らのような、集まる所がない人達、行き場のない人達が、独自の文化を形成し、やがて大きな潮流を作り、経済を動かし、社会を整え、引き継いでいくのに、どうしてこんなことになっているんでしょう?
 
アイデアは識者や市井の物を考え続ける人々に無数にあるのに、そのアイデアを発信し、伝播させるには現在の「古くなって行っているのに、発明や進化という開発をやむなく停めさせられている発信ツール」しか無いから、だと、これまた誰もが感じていることを書いて、今日の投稿を終わります。

あくまで理由であって、責任の所在を問うものではないことも、ちゃんと書き添えますね。


20240905 11:52 誤字を直しました。
 
 
 
 
 
 
 

2024/09/01

毒という名の香水


 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
 
クリスチャン・ディオール 「Poison」


クリスチャン・ディオールの名香のひとつに「プワゾン」という香水があります。
これは「毒」という意味で、刺激的で扇情的でもある名前です。
この香水について2024年の現在、どのように捉えられているかを知りたい方は、以下のリンク先をご覧ください。
 
Wikipedia プワゾン(香水)
https://w.wiki/B4mK
 
最近、私は「プワゾン」を買い直しました。
20代前半の頃、私はどうしても「プワゾン」をつけてみたくて、パルファンではなくオード・トワレの「プワゾン」を購入しました。
でも結局、思うように上手につけることが出来ず、結局しまい込んだままにしてしまいました。
年月が経ち、この頃なぜかとみに「プワゾン」のことを思い出すことが多く、この年齢になれば上手につけられるかもしれないという期待もあって、この度「プワゾン」のパルファン購入に至ったワケです。
 
「プワゾン」という香水に対し、今の私なりに真正面から思考してみると、私は長い間、「プワゾン」について或る疑問を抱いていたことに気づきました。
それは、イヴ・サンローランの「オピウム」を意識して「プワゾン」は創られたのかもしれない。という少しだけ確かさに近寄った疑問でした。
調べると、本当に「オピウム」を対抗する商品として開発されたのが「プワゾン」だったんだそうです。
 
要GoogleChrome
Wikipedia オピウム(香水 )
https://w.wiki/B4UL
 
私は「オピウム」を普段使いしていた頃があって、割りと近年なんですけれど、素敵なアンティークの調度品という調った(ととのった)イメージを私に想起させるので、「オピウム」を普段使いしていました。
 
「オピウム」というのは「アヘン(阿片)」の意味です。
こちらも非常にセンセーショナルな名前ですし、個人的には香水というものの概念を覆し、革命を起こした名香だと思っています。
当時も商品開発段階で、そういった名前を使うのはどうか、とイヴ・サンローラン社内外で物議と動議を巻き起こしていたそうです。
ですが、イヴ・サンローラン自身の「オピウムか名前が無いかだ!」という断固とした姿勢で商品化され、現在もセンセーショナルな名を纏った香水として知られています。
ファッションの開拓者であるイヴ・サンローランらしいエピソードです。
 
香水とは、私は、総合芸術だと考えています。
 
ただの嗜好品なのに、と思われるかもしれませんが、手に触れるものから手に触れられないものまで、その全部を表現し得る、総合芸術でありながら非常にプライベートな嗜好品が、香水というものだと私は切り出しています。
 
状況、記憶、物質(マテリアル)、空間、音、光、時間、そういう全部を表現できるのが香水なので、複合芸術でありながら総合芸術でもある、とても広くて巨大な存在が、瓶に入れられて販売され、良い香りとして愛好されているんです。
全体像としては、最も巨大で最も小さいものです。
 
私が知っている範囲では、香水は精神を表現するもの、として存在していること多いようです。
「精神性が香りとして表現されている」と書くと、私の捉えている「香水とは何か」が伝わりやすいと思います。
香水は「精神の香りが象られているもの」です。
 
それが目に見え、手に触れられる液体と美しい瓶(または容器)で商品化されているのに、「目に見えない香り」が実際の正体です。
 
難解なのにシンプル過ぎて解きようもない哲学書のようですが、私が特に好きなのは、それでいて香水はとても個人的なものだという点です。
トンデモナイサイズのものが、日常に存在して、お洒落に使用できる。
そこがとても浪漫的でありダイナミックでもあり、非常に現実的な神秘なので、私は子供の頃から香水が好きなままなんでしょうね。
 
日本には香道という、今度は香りの持つ意味を広げ、十二単のように組み合わせによって、自身の大切にしている森羅万象のセレクトを相手に伝えたり、メッセージやその時々の季節を薫らせる「遊び」があります。
こちらも感性的かつ、香と紐付く意匠が示す言葉すらも自在に見えないものにしてしまう、莫大な世界観というものを手のひらの上から覗いて香る、典雅なものですよね。
時々、お寺さんなどで香道のレクチャーをやっていたりするので、興味がある方は体験してみてはいかがでしょう。
 
いま書いたような、香水へのそういう考えの取り組み方をすると、「プワゾン」という香水はどうして「毒」という名前なのか、をもっと自分なりに考えてみてもいいかな? と勇気をもらえます。
 
現実では、「オピウム」の向こうを張る圧倒的な名前を持つ香水を開発したかったクリスチャン・ディオール社が「毒」という名前を持つ香水を売り出し、大成功を収めた。
という情報です。
 
しかも、なんとこの香水は、アダムとイヴが楽園で蛇に誘惑されて手にした知恵の実である林檎をイメージし、毒としているんですって!
だから「プワゾン」パルファムの瓶は、林檎をイメージさせる形をしているのだとか。
 
私が大昔に購入したオードトワレの瓶はもっとなだらかな紡錘形だったんですが、こちらは知性が点るの、灯りの形に見えなくもないな、と今では思います。
買った当時は、あ、意外と都会的な形なんだな、と少し不思議な心持ちがしました。
「毒」というからには、もっと強烈なデザインの瓶なんだろうな、と思っていたので、拍子抜けしてホッとした感覚が今でも残っています。
 
どうしてその知恵の実である林檎を、毒としたのか。
 
諸説紛々或る中、白雪姫の食べた毒林檎の意味も持つ、ということもあり、直線的にセクシャルなイメージへの想起をこの名香に抱くのが妥当である、とい風潮が今もあるようです。
「毒婦」を気取ったりセクシーなイメージを逆手に取ったり、または危険そのものとして香らせている、と1時期信じられていたことも私が知っている範囲ではありました。
 
その価値観はそれとして、「プワゾン」は知的な風に香らせるべきだという決心が私にはあります。
 
わたくしのフランス語の先生が当時「プワゾン」を愛用しておられ、先生が通った後の残り香漂う廊下で、あ、フランス語のテストもうすぐだな、と思ったことを今でも強烈に記憶しています。
とてもエレガントで茶目っ気をお持ちの素敵な大人の女性でした。
特に言葉を交わしたり、お気に入りになれたことはなかったのですが、私はなんだか先生が好きで、先生も私を好ましく思っていてくださっていたことを当時から感じていました。
懐かしい、数少ない良い思い出です。
 
いま考えると、その影響もあって、
「違うのよ、プワゾンっていうのはね、そういう付け方をするもんじゃないのよ。もっと、もっと・・・こう、ね。なんて言ったらいいんだろう、これ・・・?」
という気持ちが私の底にあり、「プワゾン」を上手につけてこそ大人の女性、という飽くなき探求の原点となっていたんでしょうね。
 
アダムとイヴが楽園を追われる原因となったのが、知恵の実である林檎を食べて羞恥心やその他諸々を抱いてしまい、地上に降り立ったというエピソードがこの「プワゾン」の軸となる思考なら。
 
私は、この香水の正体は「知性」の香りだと思います。
あの林檎の味こそが「知る」を知った二人が楽園を追われる原因だったので、楽園からの視点では林檎は「毒」でもあります。
けれど二人は死ぬどころか、新たな探求を求めて世界を広げてしまい、知性をもって大いなる旅を始めてしまった。
もし本当に毒なら、なぜその林檎の木は楽園にあったのでしょうか?
蛇は本当に良くないものだったのでしょうか。
なぜ蛇はアダムとイヴに知性の存在を教え、自らの意思で食べることを選ばせたのでしょうか。
私には、そこまでがワンセットで楽園の機能のように思えます。
 
知性は毒にも薬にもなる、というエスプリをその名にダブルミーニングとして持ち、あれは良くないものだよ、と眉をひそめているフリをしながら、その実、甘い果実でもある、という官能性をも併せ持つ、非常に不思議で、不可思議で、調和しているのにいくらでも考え続けることができる騒ぎをも持っている。
 
この「毒」という名前の香水は、その実となる香りが持つとおり、確かに知性そのものの広がりを香らせていると、味わいながら思いを巡らせています。
 
きっと知性という態度を纏えるのでしょう。
 
 
まったく無関係なのに、延々と考え続けられることが身近にあるのは、日々をとても豊かに充実させるものだと私は思います。
香水について検索したり、アットコスメのレビューを見てあれこれ購入計画を立てたり、歴史の図表(で合ってますか?)の香合わせを見て、あ、この香り今でも使われてる!と感心するのも楽しいですよね。
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごし下さい。