台風の混乱はまだ収まっていませんね。
私は通販ヤロウでもあるので、来るはずのモノが仲々やって来ず、運送業者さんが必死なのがまた胸が痛いです。
当たり前ですが、日々の暮らしはAmazonを始め、大手通販サイトが誕生して20数余年経ち、物流というものが日本の大動脈になって久しいので、こういった災害が起こるとその影響力が如実に明らかになり、社会の混乱の破片が私達市井(いちい)の生活者の元に押し寄せます。
誰かが以前ネットで語っていたことですが、どうして物流が暮らしの経済の主軸となっているにも関わらず、運送業者さんという職業の価値は昔のままなんでしょうね。
低すぎると思うんです。
同じく、コンビニエンスストアの店員さんの価値も、以前のまま凍りついています。
コンビニってもう重要な社会インフラでもあるのに、あんな難しいことを次々やっている店員さん1人1人の給料や社会的立ち位置が、相変わらず誰がやっても一緒の職業だと思い込まれているなんて、本当に信じられないんですよね。
この方達のお給料を上げると商品や物流の一単位の価格が値上がりしてしまう。という世の中で当たり前のこととして信じられていることが、実はいくらでも商品価格を据え置き(もちろん物価の影響は受けますけどね。)、お給料を上げることがいくらだって出来るんですよね。
現在Uber Eatsを始め、ネット通販の変則的な形でコンビニの営業形態もまた変わりつつあるので、その手数料その他の「数量」をうまく工夫すれば、コンビニエンスストアの店員さんの賃金を上げることは出来るんじゃないでしょうか?
また、私はよくわからないですが。
労働組合を作り、自分達の労働環境を守ること。社会保険の適用範囲に入ること。なども、各店舗のオーナーの個別の判断に任せっきりじゃなくなり、だいぶ労働環境が整うのではないかな? なんて、思っています。
実は私はこの頃、街を歩く機会が多く、人生の大先輩のお話を聞きながら、また他愛もないハナシを楽しみながら、ときに黙りながら、2024年の街を歩いています。
とてつもなく不思議だと思うことに。
リーマンショック以来の不況である。そして人々は暗い気持ちを抱え、ものすごく貧乏になり、私の住んでいる街の中心部を歩いているのは、すべてインバウンドと呼ばれる海外からのお客様ばかりで、日本人は出かける余裕すらない。
と言われているし、耳でそして目でインターネット上のメディアに漂っている雰囲気を感じています。
ですが、この十年ずっと言われ続けている日本の経済は底打ちで、もうダメになっていく一方。
というものが、街を歩いていて、それは本当なんだろうか?
としか思えない現状を私はじっと見つめています。
単に未だコロナの影響が残っていて、まだ街がきちんと建て治っていないだけではないでしょうか?
リーマンショック以降、一体いつ日本は金持ちになっていたんでしょうか?
例えば、デパートに人が行かなくなった。と信じられていますが、私の街のパルコには月曜日の時点で、夕方平日の人並みが普通に存在していました。
集まっている人達は、信じられている海外からの旅行客ではなく、ファッションを楽しまなくなったはずの若い女性や30代女性は攻めたファッションでお店に入っていき、中高年の女性はお友達とではなく、けっこうソロで動きやすい格好をして、やはりぐいぐいパルコに入っていっていました。
主に海外からの観光客は、安い日本の商品が売られている免税のドラッグストアや百均で買い物をしているようでした。
物価が安い国に旅行に行って、安い国ならではの、価格設定やお得なサービスを展開しているお店に集まり、こんな所にもあったのか・・・? という免税のお店にも外国語が飛び交っていたり、私が日常の買い物をするスーパーに楽しげに買い物カゴをカートに乗せて、売り場を珍しそうに見ているようでした。
おそらく、専用の口コミが共有されているんでしょうね。
安いお店で買い物をして帰国する。が、日本に来ている旅行客のステイタスなんでしょう。
お店側もちゃんと心得てて、外国語表記も言葉が通じない方相手の接客も慣れているようでした。
夕方の街と言えば、私のような特性のあるもの( HSP)は少し寂しくなってしまうものですが、夏の終わりに日常が始まってしまった、モラトリアムの終焉とよく象徴される、9月の始まりの中心部の風景は、元気いっぱいどころか相変わらず賑わっていて、私もどっかお店に入ってみよっかな? なんていう気持ちになりました。
あとCOOLジャパンと信じられて久しい日本のエンタメ世界ですが、街でビラを配っているアイドルグループのご本人達がいて、私はイチおばさんの暮らしの義務として、一枚受け取り、まず来ないだろうな、まず行けないだろうな、とお互い分かっていながらも「頑張って下さい」と右手でガッツポーズを作ってしまう私に、彼女は一生懸命笑顔で「よろしくお願いします」と答えてくれました。
他のメンバーさんも少し離れたところで同じビラを配っていたので、やはり「頑張って下さい」と私は声をかけ、彼女は会釈したあと、別の通行人に向かって、少しだけより大きな声で「ライブやります。来て下さい」と言ってくれました。
市井の声援に対する、配慮とはにかみがある彼女達の応え方に、私はとても爽やかな気持ちになりました。
インターネットのせいで、街に人が、主に若い方が居なくなったと信じられていますが。
私はこの2年で、むしろ街に若者や青年、私の年代の中高年達、ビジネスパーソン達が増えていっているように感じています。
また、お洒落をしないと信じられている若者達こそ、工夫と「生き金」の使い方が上手で、懐かしいバブルの頃のように(私はその後の世代です)、90年代の頃のように、全身を好きな服で包んで、街で遊んでいるのをよく見かけるようになりました。
私達は、一体どこから出てきた憂鬱を社会の前提として受け渡されているのかな?
と、明るい気持ちになるばかりの街歩きを、私はこの頃やっています。
公園からスケートボーダー達を閉め出してしまった経緯には、双方の理由と事情があるのでしょうね。
けれど、閉め出した後に彼らに新しいスペースを提供するまでが、若者と青年達への社会からの解答ではないでしょうか?
いつの間にか、路上ライブをやる若者の姿も街から消えてしまいましたね。
彼らのような、集まる所がない人達、行き場のない人達が、独自の文化を形成し、やがて大きな潮流を作り、経済を動かし、社会を整え、引き継いでいくのに、どうしてこんなことになっているんでしょう?
アイデアは識者や市井の物を考え続ける人々に無数にあるのに、そのアイデアを発信し、伝播させるには現在の「古くなって行っているのに、発明や進化という開発をやむなく停めさせられている発信ツール」しか無いから、だと、これまた誰もが感じていることを書いて、今日の投稿を終わります。
あくまで理由であって、責任の所在を問うものではないことも、ちゃんと書き添えますね。
20240905 11:52 誤字を直しました。