休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/09/03

お金の話 3


 
 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
 
2回の日曜日にわたってお金の話をしてきましたが、今日は3回目の日曜日ということで、お金の話 3です。
 
 
思春期の頃、そういえば私はなぜお金は汚いと思っているんだろう? と、ある日、ふと疑問に思ったんですね。
 
それでよくよく考えてみると、別にお金自体は汚くもなんともないし、むしろ非常に便利なものだと、頭の中でお金というものについて、あっさり整理がついたんです。
 
 
なのに見渡せば、お金は汚い、と思ってる人が、私のまわりには、とても多かったんです。
 
みなさんは、お金というものは汚いと思いますか?
 
いまから書くことは、私の個人的なとらえかたなので、同じだな、という方もいれば、自分とは違うな、という方もおられると思います。
 
いつもの日曜日のように、気軽に読んでいただけると嬉しいです。
 
お金について、わかる範囲で整理してみると。
 
お金そのものは、印刷された紙と製造された金属なので、とくに汚くもなんともないんですね。
この場合、汚いというのは、意識の上でのことですけれど。
 
じゃあ、何が汚いと思われているかというと、「世の中に小川のようにあちこちに流れているお金というものがあると、だいたいのものは買える」
という社会のしくみの中で私達は生きているので、
物やサービスが欲しくてガツガツしてしまったり、
お金のためにうっかり道を踏み外したりしてしまうことが、
汚い、怖いと思われているみたいなんですね。
 
汚いとか、あさましいとか、下品、とか、そういうの。
 
 
えー、日曜日の投稿史上、初の穏やかでない言葉がガンガン並んでいますが(笑)。
 
 
そういうふうに、お金というものに対して眉をしかめる姿勢が、上品であり、健全であり、ストイックであり、分別がある態度だと勘違いされていると、私はずっと思っています。
 
これは人と話していて出てきた、小さな句読点だったんですけれど。
 
お金について言われていることを、わかる範囲でさかのぼっていくと。
 
たぶん、昔の故事などにあった、
「お金に夢中になってしまうと、ときどき道を踏み外しそうになってしまうから危ないですよ」
という前もって注意しておくことが、
なぜか、卵から生まれたヒナが最初に見たものを親鳥と思いこんでしまうみたいに、「刷り込まれている」のではないか、という見当をつけています。
 
そして、その「刷り込み」を、それはお金に対して良い姿勢であると強く納得しているから、
まるで願いのように、
お金に対してそんなに一生懸命にならない態度を取るのが、「とても清潔でかっこいいことだ」ということに、なってる人の間ではなっているんでしょうね。
 
私はそこに、妙な価値観があるのを感じているんですね。
 
別にお金に対してかっこつけなくても、
お金って、現在の社会のしくみの中で、
大体のものやサービスと交換してもらえる、
誰が発明したのか忘れてしまいましたが、
非常にスマートかつ便利な、物やサービスと等価で交換できる物なだけ、なんですよね。
 
それ以上の価値があるわけでもなく、それ以下に無理やりする必要もなく、単にそれだけの存在なんです。
 
じゃあどうしてお金に一生懸命になると危ないよ、という注意がたくさんの人たちの納得になってるかというと、お金が原因で命を落とすことだってあるところにはあるから、なんだと思います。
 
でもですね?
車や料理や運搬されるものを取り落としたって、打ちどころが悪ければ、その可能性が決してゼロではないんですよね。
 
なのに、お金にもそれがあるから、お金にはとにかく注意が必要だ、と身構えている姿勢がいいとされるのは、
お金という物体が存在している目的や理由が、明確になっていない人にとっては、なっていないから、なんだと思います。
 
よくわからないものだから、
気がついたらなにかされそう、とか、
よくわからないものだから、利用しているうちにこちらの何かが汚れてしまいそう、とか。
 
お金についてぼんやりしたイメージしか持っていないから、
なんだかわからないものを自分たちは使っているという怖れ、からくる、
防御反応なんじゃないでしょうか。
 
でもさっきも書いたように、
お金は別に単なるお金であって、
物やサービスと等価で交換できる物なだけ、なんですよね。
 
商品を買ったり、サービスを買ったりする仕組みとして、基準となるものを定めて、それで交換していきましょう、と作られたものが、お金、なんです。
 
私は、これは非常にフランクな、システムの構築だと思います。
 
お金でなにもかも買えないですし、そういうものが存在していることは、わざわざ声を大きくして言われなくても、誰だって生きていればとっくに知っていることなのに、なぜかお金で買えないものだってある、とすごく言われていますよね。
 
そのお金で買えないものは、人の感情も入っていると思うんですけれど。
 
でも、いい面と悪い面がある、という話で、村八分ってありますよね?
好き嫌いが基準で、野菜やお肉、お菓子、薬などを売ってもらえなかったら、どうします?
 
私は、お金を得るためにしようとすることと、
相手に好かれる、という正体不明の、
まったく個人個人のさじ加減にしか頼りがいがないもの相手に、
自分の生命維持や社会との関わりを維持するものが、どうこうされることは、
お金よりももっと危険な状況を生み出すところでは生み出す、と思っています。
 
相手に好かれるためにしようとすることは、明確なゴールがありません。
相手が物を渡してもいいと、その気になるまで、
永遠と相手に好かれるために、あれもこれもしなければなりませんよね。
 
物やサービスが欲しくて、その価格となっているお金を得るためにしようとすることには、
「いくらまで稼げばいい」
という明確なゴールがあります。
 
嫌われないためにやることと、お金を得るためにやることと、どちらが怖ろしいですか?
 
その相手が、気の合わない相手だったら?
その相手が、みなさんや私を嫌っていて、ひどい目に遭わせようと、虎視眈々とチクチクやってくる相手だったら?
 
世の中はそんなに悪い人ばかりではありませんが、良い人ばかりでもありません。
 
最悪、非常に危険なゾーン(領域)にまで踏み込んで、逃れられなくされる仕組みなのは、この二つの場合では、どっちなんでしょうか。
 
人の好意や嫌悪を基準に物事を動かすほうが、私は、
よっぽど”支配”の関係を発生させやすいと思います。
それがクローズな社会であればあるほど。
 
そして多くの場合、都会であろうが田舎であろうが、人の参加する最も小さな社会は、家族、会社の部署、売り場、学校などの、クローズな場所から、始まります。
 
私は、ただでさえそういう場所の人間関係で神経をすり減らしてきたので、フランクであっさりさっぱりとした、お金を利用できる仕組みをとても歓迎しています。
 
なので、もしですね、ふだん暮らしていて、
お金という汚いものに自分は押しつぶされている、
と重たい気持ちになったとき、
お金があまりなくても生きていける場所はたくさんあるけれど、
お金というものを利用して生きていく場所のほうが、
自分にとって選択肢は多いのではないか。
 
という考え方をしてみてはいかがでしょうか。
 
私はそういう考え方をして、そういう価値観を持っているので、常々お金と宝石は大好きです、と言っています。
 
あまり向こうからは、好かれてませんが。
 

 
さて、日曜日なのに、ちょっと真面目になってしまいましたが、たまにはこういうのも「考えのスパイス」になるかな、と思ってやってみました。
 
次の日曜日からは、またいつものふんわりした話題に戻します。
 
次回は、いまのところ、紅茶の話をする予定です。
スコーンとか茶葉からいれる紅茶、使うポットとお茶などについての話です。
読んでくださると嬉しいです。
 
徐々に秋が始まってきていますね。
思うところがあって、コーヒー一辺倒だったのに、紅茶や発酵茶、カフェインレスのハーブティーをいれて飲む時間を作り始めました。
けっこうリラックスできていいですね。
 
もう9月ですから、今年もあと3ヶ月しかありませんね。
冬支度もちょっとずつ始めていきたいと思っています。
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。