”今の普段”はどうしているかというと、手指の消毒、うがい、手洗い、服の洗濯、買ってきたものの消毒、を日常に取り入れています。
そんなに毎週毎週、出かけてたわけでもないし、人に会っていたわけでもないので、そこまで不自由は感じていません。
私は比較的早く、コロナ対応を日常に落とし込みました。
その時、考えていたことは、とにかくやらなければならないことを頭の中でリストアップしていって、それをどう日常的にして、落ち込まなくて済むか、ということでした。
感受性の強い組から言わせてもらうと、こういう非常時に、感性で物をみて、たくさん人が亡くなっていることが・・・とか、死との距離が以前より変わってしまったことに対する自分の中の傷・・・とか、そういうことは、感じていても、感じている自分こそが正常だ、というふうには思わないようにしていました。
だから、1度も、世界が変わってしまったとか、もう以前の日常に戻れないとか、思ったことはないです。
そして、そういうことをさも情緒的に声高に主張している言説からは距離を取りました。
じゃ私は現在をどう捉えているかというと、社会が疫病に対して適応を開始している状態、だと思っています。
社会というのは、胃袋のようなもので、何か起きるたびに、それを消化して取り込むために、伸縮を絶えず繰り返し、可視化出来ても出来なくても、形を変えているものだ、という捉え方をするようになりました。
だから、私は、世界が終わってしまうとは、1度も考えたことはありません。
いまは世界の終わりじゃない。
繰り返しになるけど、対応をしているだけ、適応をしているだけ、が、今の街を歩いていて、見える範囲での変化、見えない範囲での変化、だと思ってるんですよね。
どう捉えようと自由だけど、何か起こったときに、感情的になることはあまりいいことではないと思います。
例えば、お葬式や結婚式の時、誰かが病院に運ばれたとき、病院に集まらないといけないときに、普段、集まらない人達が集まったり、普段しないことをやったりして、何時間か「いつもと違う時間を過ごす」でしょう?
そういう時、日常ではそうでもないのに、感情的になって喧嘩したり、言わなくてもいいことをいって遺恨を残したり、中には泣き叫んだりする人がたまにいるんです。
そういう人が敏感だというつもりはありません。
どっちかというと、普通の人達、と呼ばれる人達にそういう人が多い。
で、いつもと違う時間というもののうち、「いざという時」が、現在も含めて、さっき挙げた状況のことをいうんですけど。
その「いざという時」に、感情的になってる人の言ってることって参考にしますか?
感情的になってる人の指示に従いますか?
その人が、何かこちらには気づかない、見えないことが見えてると思いますか?
単に、自分を見失ってるか、見失いかけてる人でしょう。そういう人は。
そういう人に限って、声が大きい。
そして反射的なメディアの中で、口から泡を吹く勢いで、何か叫んでる。
何か起こったときに、まずすることは、口を閉じることなんです。
そして、状況を捉えるために、情報を集めたり、自分の経験を脳内で検索して似たことをしていないか探し、あれば対応の参考にする。
なければ、いざという時、の中で、静かな日常をどう維持していけるか、それを考える。
それが正しいかどうかはわかりません。
でも、私はそうやってます。
そうすることを選びました。
過食が出たりしたので、それが1番ダメージが少ないかというと、きっとそうではないでしょう。
でも、なんでも叙情的に捉えて、もう終わりだと言って回ることが、人よりも社会の傷に多く気がつくことが、1番いいやり方とは到底思わない。
世界は終わってなんかいない。
これは世界の終わりではない。
私たちはまだ日常の中にいる。
それを維持する選択肢はまだ残されている。
黙って、対応を続けていきましょう。
そして、日常の楽しみ、穏やかさ、聡明さ、そういったものを決して受け渡さない戦い、をしましょう。
いまは経る時。
そう思っています。
(▶︎ ボタンを押すと曲が聴ける仕様になっています。フルで聴く場合は要Spotify)
表題曲は松任谷由美で「経る時」
アルバム「
リインカネーション、というのは、輪廻転生という意味です。
なかなかにドラマチックかつロマンチックな世界観がテーマになってるので、通しで聴くのもいい感じです。
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