本日はですね、終日、素敵な名前を持つ庭の手入れをしておりました。
ずっと一ヶ月弱ぐらい、他のことをやっておりまして、庭がずっとお留守だったんです。
で、バラの一番花のシーズンも終わったことだしと気を抜いていたら、2番花(であってますか?)が咲かない・・・? ということに気がついてちょっと呆然としておりました。
どうしてか2番花が咲かないんです。
ええ、切り戻しもお礼肥と呼ばれる、花後に粉末の肥料のアレをちゃんとまぶしてですね、そっとしておいたんですけれど、黒星病らしきものが出たり、虫食いが出たりして、薬剤散布をしようにも日を逃してしまったり、風が強く吹く日だったりして、いままでほったらかしにしていたんです。(いやダメだろ。)
で、今日、私の住んでいる街では最高気温が25度くらいだったので、腕まくりをして西条八十の帽子をなんか峠の底から拾ってきて、割烹着を着てストールを巻いて長ズボンはいて、暑くないですか?って全世界から心配される格好で、お庭の手入れと組み立てなければならないなんかソウイウノを組み立てて、いま、鼻の頭が真っ赤でこんがり小麦色です。
そうそう、この頃、古い楽曲をiTunesで購入するのにはまっておりまして、先日はSeiko Matudaの楽曲を鬼のようにDL購入して聴きまくっております。
よく考えれば、私は松田聖子さんの熱いファンだった時期が幼少期と青春時代を過ごしていたのに、なぜか聖子ちゃんの(私は、自称 ”ちゃん”呼びをしていいファンです。)特集をしていませんでしたね。
実は、先日やった「みずいろの雨」イベントは一晩だけのもので、本来なら、終わってすぐ消していたんですけれど、ちょっと欲が出てしまって少し置いておいたんです。
でも、とても信頼している方から、すぐに消すべきだ、というご指摘を受けて、我に返りました。
欲とかそういうのは私はちゃんと考えてきませんでしたので、いまの思うことですけれど。
自分に背負い水というものがある、と以前本で読んだことがあります。
考え方として。と前置きますが。
人は一生に飲む分量の水が決まっていて、それを背負って生まれてくるんだそうです。
欲も、きっとその人の適量というものがあると思います。
分相応ではなく、あくまでもその時々の「適切な量」です。
それはセルフコントロール可能な量、ともいえますし、
客観という自分が、きちんと見て取れる量。
「あ、この欲はいまこんなんだ、と心で”描画” できる量」でもあります。
いまいる自分がとらえることができる欲の量が、おそらく「いまの適切な量」です。
私はそう思います。
そしてその量は、年齢によって比例していくのではなく、その時、その時のその人の見ている景色に左右されるのだと思うんです。
ささやかな灯りを点し、夜、カーテンを開けた先に広がる、小さな窓辺の銀河を見て、ふと、そう思える量が、私にとっての適切な欲の量です。
その量は、ネットワークの向こうに広がる画面の灯りへの思慕や敬意という返礼でもあります。
<ネットワーク・ネットワーク>
ここにいます。ここにいます。
元気ですか? 元気です。
私はここです。
僕はここです。
いま、どうですか?
どこにいますか?
笑っていますか?
微笑んでいますか?
少し真面目な気持ちですか?
必ず来ると知っている熱い約束は、もう訪れていますか?
今夜は、雨を思い出させますか?
あなたは誰ですか?
私は、エナメル。
いつか、どこかで、きっと交わした。
適量から溢れたものを知っている人達の、たぶん仲良し。
<おやすみなさい>
20240616 09:59 騙るような箇所を訂正しました。