日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
制服を着る前や着た後も、ずっと心の中に残っている景色として、駅舎の外にあったコンクリート製の四角い屋外水道があります。 
2025年に鈍行を乗り継いで駅停車の15分や30分に、外に出て時間をつぶす機会は無いんですが。
どうしてか過去の私は、その時間に灰色に汚れたコンクリートで作られた、誰も見向きもしない屋外水道ばかりを見に行っていました。
何をするかというと、じっと見ていただけだったようです。
ものすごく細部にわたるまで観察していたらしいんですよね。
それで、いつもそこに生えている草を可哀想と思っていました。
水道のそばには必ず、地面に石がはめ込まれていて縁から灰色と紫色の草が出ていたり、コンクリートの割れ目から微かに草が生えていたりして、その草が可哀想と思っていました。 
その草が誰からも興味を持たれていない事に、傷ついていたんだと思います。
また、その草の名前を誰も知ろうとしないのが、悲しかったんだと思います。
誰がこの草に水をあげているんだろう。
飴色になった鉄の蛇口や流れる音を出している石鹸の匂いと、水が落ちていく排水溝に滲んだ苔も、このままだと掃除の時に削ぎ落とされてしまう。それがまた、気の毒で仕方が無かったんです。
駅舎に必ずあるソテツの枯れた葉が嫌で悲しかったし、大切にされているようにはとても見えない、細い松の枝、杉の針のような葉の暗い色。誰も居ない、活気というものが何処にも無い、静止画のような世界で、自分だけが動いているように感じ続けるのも、胸が詰まりそうでした。 
このまま草を持って帰ろうとしたこともあったし、制服を着る頃には、その内この草達を気に掛けてあげる生活をしなければならないな、と決めた時もあったように思います。
やがて、雑草という言葉の濁音が、実は「この草達は草だけど鑑賞する価値はありませんし、迷惑な存在です。」と決定されているような気がしてきて、あまり雑草という言葉を発音しないようにしていました。 
でも四葉のクローバーや朝顔の新芽は大切にされていて、皆、すごい笑顔で喜んでいて、それも嫌だったんだと思います。
ある時から四葉のクローバーを探すのも止めて、多分私はどこにも伝わらない抗議をしていたのではないか、と今では考えています。
クローバーじゃないと大切にしない。
誰も見ないから、綺麗とはしない。
気が付かない所にある物は、とても驚いたような顔をして急に騒ぐけれど、気が付きたくないから気が付いていない自分達の責任は取らない。
花や緑の名前を夢中になって探しながら、4枚の葉じゃないと詰もうとせず、セロテープで貼って栞に付けない。
白い花を夢中で編んで、後は悲しくならないように緑色の絨毯にそっと置いて、歩き出してしまう自分を秘密には出来ない。
なのに、優しい人間のフリをしたいように、汽車の日々が残っているあの松や杉のことは見ないでいる。
私が緑色すぎない草や淡く紫色を持つ草を見続けていたのも、きっと、触ってはいけないと言われ続けていた、価値が無い、という余計な判断に、自分が見ることでこの草達の価値が生まれるのだ、と、世界中を睨みつけていたんだと思います。
先日、素敵な名前を持つ庭で、どうして此処にある草の葉を目当てに、言葉を持たぬ小さな訪問者達が来るのだろう? 
と調べたら、「酢漿草(かたばみ)」という名前の、クローバーでは無い、優しい調べで歌われていた音を持つ草だと分かり、何だか非常に得意です。
それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。
20250825 11:29 文章を直しました。 
20250826 20:53 文章を直しました。 
 


 

