先日、プライベートで大きな出来事があったと書きましたが、通常の生活には戻っています。
けれど、気持ちの上ではなんだかまだ落ち着かなくて、そういう状態の時は、とにかく私は小さいミスを連発するんですね。
些細なことなんですが、例えばいつも置いているものを置き忘れたり、料理の火加減がおかしかったり、コーヒーを落としている時に水加減がちょっとズレてたり。
なので、ああ、動揺しているな、動揺が続いているな、という時は、基本的なことをしつこいくらいに確認して、日々のことを進めています。
文章を書くことは、私にとって気持ちが静まる行為なので、特に無理をしているわけではありません。
基本は、そっと楽しんでいただける場所、として動かしているので、やっていて気持ちが静まるんじゃないかと自己分析しています。
また、大枠では、無為なこととして続けることが、私の趣味のようなものなので、負担なくやっています:)
けれど、これらをブログで公開する時にやるログイン作業とか、そういう細かい作業は、いつも以上に確認してやっています。
この確認するということですけれど。
人生でものすごく忙しい時期に、知らず知らず身についたやり方です。
みなさんにもあると思うんですが、それくらい忙しい時にですね、もういちいちやり直したり、確認に戻ったりとかできないんですね。
だから、ひとつひとつをその場で完結させるように、連続する行為を、1回1回確実にしてから終わらせる。
その連続を保つ。
という基本姿勢を、知らず知らずやるようになりました。
そうすると、1回1回はちょっと面倒なんですが、積み重ねると結果スムーズに動いていくんですね。
なので、いまもそれをやっています。
あと「区切りのご飯」というのが私にはあってですね。
毎日のことなら、コーヒーを落とすということが、私のひと区切りの行為で、それで大体リセットされるんですが。
その延長線上にあるのが、「区切りのご飯」です。
なぜか大きな事柄が起こったあと、私は握り寿司を食べると、その行事の終わりが体にスイッチされて、精神的にも肉体的にも、ひと区切りついて「終われる」んです。
どうして、めでたくもないのに寿司なのかな?と思うんですけれど、どうも小さい時から、慶事・弔事問わず、大きな行事の後って、人が集まる場所で晩御飯を済ませることが多くて、その場で、供されていたのが、握りだったみたいなんですよね。
もうおぼろげな記憶になってますけれど。
確か、積み重ねられた醤油の小皿とか、ガリとかがあって、たくさんの人数分入れられた、握り寿司の大きな入れ物やお吸い物の椀、巻き物のお皿、お茶、そういったものが卓に並んでいる光景が、私の中に原風景として残っていて、子供ながらに、これでひと区切り、というものを体で記憶しているみたいなんです。
そういう「区切りご飯」って、人によって違うと思うんですけれど、私はなぜか握り寿司なんですよね。
なので、先日、買い出しに行ったついでに、お惣菜の握りを買ってきて、静かな気持ちで食べたら、それでやっぱり気持ちの上でも、身体感覚的にも、ひと区切りついたのでした。
(だからといってカッチリ、はい、おしまい!という風には、人間なかなかいかないので、気持ちのざわつきは残っていますが)
みなさんにもそういうご飯、探すとあると思います。
そのご飯を、大事に持っておくと、いざというときに、リセットしやすいし、ひと区切りつけやすいので良いですよ、とおすすめして、今日は終わります。
雨水になり、徐々に春の気配がし始めましたね。
寒いですけれど、この早春の始まり頃が、私はとても好きです。
それでは穏やかな気持ちで、日曜日をお過ごしくださいね。
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