休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2022/02/27

確認と「区切りご飯」

 


 

先日、プライベートで大きな出来事があったと書きましたが、通常の生活には戻っています。

 

けれど、気持ちの上ではなんだかまだ落ち着かなくて、そういう状態の時は、とにかく私は小さいミスを連発するんですね。

 

些細なことなんですが、例えばいつも置いているものを置き忘れたり、料理の火加減がおかしかったり、コーヒーを落としている時に水加減がちょっとズレてたり。

なので、ああ、動揺しているな、動揺が続いているな、という時は、基本的なことをしつこいくらいに確認して、日々のことを進めています。

 

文章を書くことは、私にとって気持ちが静まる行為なので、特に無理をしているわけではありません。

基本は、そっと楽しんでいただける場所、として動かしているので、やっていて気持ちが静まるんじゃないかと自己分析しています。

また、大枠では、無為なこととして続けることが、私の趣味のようなものなので、負担なくやっています:

 

けれど、これらをブログで公開する時にやるログイン作業とか、そういう細かい作業は、いつも以上に確認してやっています。

 

この確認するということですけれど。

 

人生でものすごく忙しい時期に、知らず知らず身についたやり方です。

 

みなさんにもあると思うんですが、それくらい忙しい時にですね、もういちいちやり直したり、確認に戻ったりとかできないんですね。

だから、ひとつひとつをその場で完結させるように、連続する行為を、11回確実にしてから終わらせる。

その連続を保つ。

という基本姿勢を、知らず知らずやるようになりました。

 

そうすると、11回はちょっと面倒なんですが、積み重ねると結果スムーズに動いていくんですね。

なので、いまもそれをやっています。

 

あと「区切りのご飯」というのが私にはあってですね。

 

毎日のことなら、コーヒーを落とすということが、私のひと区切りの行為で、それで大体リセットされるんですが。

その延長線上にあるのが、「区切りのご飯」です。

 

なぜか大きな事柄が起こったあと、私は握り寿司を食べると、その行事の終わりが体にスイッチされて、精神的にも肉体的にも、ひと区切りついて「終われる」んです。

 

どうして、めでたくもないのに寿司なのかな?と思うんですけれど、どうも小さい時から、慶事・弔事問わず、大きな行事の後って、人が集まる場所で晩御飯を済ませることが多くて、その場で、供されていたのが、握りだったみたいなんですよね。

 

もうおぼろげな記憶になってますけれど。

確か、積み重ねられた醤油の小皿とか、ガリとかがあって、たくさんの人数分入れられた、握り寿司の大きな入れ物やお吸い物の椀、巻き物のお皿、お茶、そういったものが卓に並んでいる光景が、私の中に原風景として残っていて、子供ながらに、これでひと区切り、というものを体で記憶しているみたいなんです。

 

そういう「区切りご飯」って、人によって違うと思うんですけれど、私はなぜか握り寿司なんですよね。

 

なので、先日、買い出しに行ったついでに、お惣菜の握りを買ってきて、静かな気持ちで食べたら、それでやっぱり気持ちの上でも、身体感覚的にも、ひと区切りついたのでした。

(だからといってカッチリ、はい、おしまい!という風には、人間なかなかいかないので、気持ちのざわつきは残っていますが)

 

みなさんにもそういうご飯、探すとあると思います。

そのご飯を、大事に持っておくと、いざというときに、リセットしやすいし、ひと区切りつけやすいので良いですよ、とおすすめして、今日は終わります。

 

雨水になり、徐々に春の気配がし始めましたね。

寒いですけれど、この早春の始まり頃が、私はとても好きです。

 

それでは穏やかな気持ちで、日曜日をお過ごしくださいね。

 

 

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