ひょんなことから教えて頂き、何か誤解があってはいけないと思ったので書きます。
私は、中学生とか、ひょっとしたら小学校6年生くらいで倉橋由美子を読み始めました。
倉橋由美子が当時よく手がけていたのは、桂子さんシリーズ、と呼ばれる、「桂子さん」というスーパーヒーローが出てくる、「夢の通い路シリーズ」です。
主人公の桂子さんは、ご自身のことをそう評する人達への冷たい眼差しとして、時折、自分のことを「端倪(たんげい)すべからざる女」と表情のない声で言ってのけます。
「端倪すべからざる女」とは、御免こうむる女、という意味だと私は読解しています。
いまでは、そんなことをたとえ陰であっても判じられれば、怒ったり声をあげたりするような、実に卑しい評し方ですが、桂子さんは、同性が当然反応するであろう、その声の大きさ自体をも冷たくとらえているパフォーマンスとして、そういう言い方をします。
おそらく本当は、大声をあげて抗議しても良いに決まっている事柄に対して、おっ?と相手の戦意を喪失させるやり方として、麗人の桂子さんはご自身のことをそう言ってのけるわけです。
感情的にはなりませんよ。
私ほどの女をそう言うあなた達みたいな輩(やから)を私はこのように解釈しています。とでも言っているみたいです。
制服を着ていた頃の私は、倉橋由美子の小説の舞台となる、典雅で教養に満ちているにも関わらず、モダンで洗練された世界観に憧れを抱きました。
ですが、これほどのことは到底真似ることは出来ないと、一読した後に識ったのを今でも強く記憶しています。
昔、頭の柔らかい時に読んだ小説ほど、強く身体と感覚に染みこみ、そこからまず抜け出すことが、読書の第一歩と言われたり、作文のモチーフ選びの前提と言われていましたが。(いまは違いますか?)
実は、私は倉橋由美子を愛読してはいましたが、倉橋由美子の価値観や思考には、このような手の届かない世界があるのだな、と関心するばかりで、あまりにも隙の無い舞台構築に圧倒されっぱなしのまま、倉橋由美子を読書する時期を終えています。
いま思うと、私は当時読んでいた倉橋由美子の世界から、というより、
私は、中学生とか、ひょっとしたら小学校6年生くらいで倉橋由美子を読み始めました。
倉橋由美子が当時よく手がけていたのは、桂子さんシリーズ、と呼ばれる、「桂子さん」というスーパーヒーローが出てくる、「夢の通い路シリーズ」です。
主人公の桂子さんは、ご自身のことをそう評する人達への冷たい眼差しとして、時折、自分のことを「端倪(たんげい)すべからざる女」と表情のない声で言ってのけます。
「端倪すべからざる女」とは、御免こうむる女、という意味だと私は読解しています。
いまでは、そんなことをたとえ陰であっても判じられれば、怒ったり声をあげたりするような、実に卑しい評し方ですが、桂子さんは、同性が当然反応するであろう、その声の大きさ自体をも冷たくとらえているパフォーマンスとして、そういう言い方をします。
おそらく本当は、大声をあげて抗議しても良いに決まっている事柄に対して、おっ?と相手の戦意を喪失させるやり方として、麗人の桂子さんはご自身のことをそう言ってのけるわけです。
感情的にはなりませんよ。
私ほどの女をそう言うあなた達みたいな輩(やから)を私はこのように解釈しています。とでも言っているみたいです。
制服を着ていた頃の私は、倉橋由美子の小説の舞台となる、典雅で教養に満ちているにも関わらず、モダンで洗練された世界観に憧れを抱きました。
ですが、これほどのことは到底真似ることは出来ないと、一読した後に識ったのを今でも強く記憶しています。
昔、頭の柔らかい時に読んだ小説ほど、強く身体と感覚に染みこみ、そこからまず抜け出すことが、読書の第一歩と言われたり、作文のモチーフ選びの前提と言われていましたが。(いまは違いますか?)
実は、私は倉橋由美子を愛読してはいましたが、倉橋由美子の価値観や思考には、このような手の届かない世界があるのだな、と関心するばかりで、あまりにも隙の無い舞台構築に圧倒されっぱなしのまま、倉橋由美子を読書する時期を終えています。
いま思うと、私は当時読んでいた倉橋由美子の世界から、というより、
圧倒的な世界観に触れたときに、それをどう読書していくか、という、
文学と対峙したときの、独自の距離感覚を養っていったのではないか。
その距離感こそが、私が初期の読書から影響を受けていたものではないか、と思います。
例えば、私が婚姻制度や性生活、個別のセクシャリティに異様にフランクなのも、この距離感からきて居るんだと思います。
きっと、いまではHSPと呼ばれる自分の特性である過敏な震えを、強い読書体験からガードする方法として、この距離感を持つようになったのだと思います。
私がネットで書き散らしてきた話題の傾向として、強い話題、欲望にまつわるあれこれ、スキャンダラスなものについての様々なことを、より距離を保ち、乾いた視点で語っている特徴を持っています
文学と対峙したときの、独自の距離感覚を養っていったのではないか。
その距離感こそが、私が初期の読書から影響を受けていたものではないか、と思います。
例えば、私が婚姻制度や性生活、個別のセクシャリティに異様にフランクなのも、この距離感からきて居るんだと思います。
きっと、いまではHSPと呼ばれる自分の特性である過敏な震えを、強い読書体験からガードする方法として、この距離感を持つようになったのだと思います。
私がネットで書き散らしてきた話題の傾向として、強い話題、欲望にまつわるあれこれ、スキャンダラスなものについての様々なことを、より距離を保ち、乾いた視点で語っている特徴を持っています
その理由は、倉橋由美子を読んだ多感な時期に己れで編み出した、読書世界でのあらゆる価値基準に、一定の距離を保ちながら、構築された世界を楽しむやり方を、知らず知らずに身につけていたからです。
なので、倉橋由美子を多感な時期に読んでいたのだからといって、すぐに、倉橋由美子の読者は皆、その世界観を彩るあれこれを真似していただろう、と思われるのは、少し短絡ではないかと思います。
私は、その流れから、現在でも人のセクシャリティは、どうでも良い、とするニュートラルな立ち位置から、決して動きません。
「どうでもいい」のでは無く、
「どうであっても、良い」の「どうでも良い」です。
そんなことは、必要なときに必要な者同士が確認し合えばいいことで、
普段からセクシャルマイノリティの運動や、価値観の頒布をなされていないのであれば、
わざわざ他人の性動向やセクシャリティの個別に興味を持つ必要など、断じてない、という考えを私は持っているからです。
だって、これからあなたとベッドインしないんですから。
だって、これからあなたとベッドインしないんですから。
20240414 10:16 わかりにくいところを直しました。