私は、不安に駆られる内容、
不安にさせる内容、
不明瞭なことが多すぎる内容、
まだ整理されていないだろう情報に触れたとき、
その情報に触れた者に、まず不安をイメージさせることで、何を目的にしているんだろう、とまず考えます。
それが、自分のいま属しているファンダムに向けられていると判断した場合、
よりいっそう強く、
その情報がなにかさせたいのかどうか、
目的を持っているものなのかどうか、
こちらに向けて投げられた情報がまとっているものを判断してから、なにか発信するなら、発信したい、という気持ちがより強くなります。
事実を確認するといっても、私はメディア越しに情報を受け取るしかありませんから、その場合、確認できる事実は、起こったこと、いま起こっていることのごくわずかでしかないのも、確かにそうです。
ですが、心配のあまり、
事実を確認することに無我夢中になってしまい、
事実を取りこぼし、
自分が心配していることに一致する言葉だけを、
やっぱりそうなんだ。
そうだそうだ、そうに違いないと、
やみくもに受け取ってしまうことは、
私はとても危険な姿勢だと考えています。
ネット越しの私が受け取れる事実の範囲はとても狭くても、その事実だけをまず目の前に置いて、なにか発信するなら発信したいと思います。
命の危険が迫っているとき以外で、
自分がなにか選択するために考えているときに、
横から、「早く、早く、時間がないから! 」
と急かす意志を、
私は100パーセント警戒します。
考えさせない、ことで、
何をさせようとしているのだろうか、
考えさせないことで、
その意思が得る利益はなんだろうか、と、
とても警戒します。
はっきり言わないことで、
発信する責任元を明確にしないで
(それが固定のニックネームであったり、発言が属するものを明確にしていないという意味です)、
遠回しに何かを繰り返し描いて見せて、
固定のイメージを想起させようとしたり、
何かの判断材料に組み込もうとするものを、
私は警戒し、遠ざけるようにしています。
そういうふうに考えているので、
私はいままでもそうしてきたし、
今回もそうします。
エナメル