休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2023/08/31

DIVA from JAPAN : Akina Nakamori ー 飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜(Akina Nakamori)ー


 
 
 
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(「中森明菜 ラッカーマスターサウンド」
 「Akina Nakamori Lacquer Master Sound 」
  でサーチするとこの盤が出ます。)
 
 
どちらも、2022ラッカーマスターサウンドMIXのライブ盤となります。
会場はYOMIURI LAND EAST.
 
ライブ盤ですが、歌唱中に歓声は入っておらず、中森明菜の当時の生歌唱がどれほどものすごいかがよくわかります。
 
 
飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜(Akina Nakamori)
 
作詞・曲 井上陽水(Yousui Inoue)
編曲 萩田光雄(Mitsuo Hagita)
 
レーベル:ワーナーパイオニア
 
 
そうです。ここで「飾りじゃないのよ涙は」です。
 
このイベントの最終日は明日を予定していますので、最後に取り上げるだろう曲は、もちろん「アノ楽曲」となります(笑)。
 
 
日本には、井上陽水というレジェンドがいます。
ご存知の方も多いと思います。
メロディ、歌詞の世界観、その詩情、歌唱力、ミュージシャンとしての才能の輝き。
どれをとっても「他の追随を許さない」圧倒的な伝説的存在です。
 
英語圏に向けては、2019年に日本文学研究者であるロバート・キャンベル氏によって、井上陽水英訳詩集が出されていますね。
 
Amazon リンク
 
「井上陽水英訳詩集」
ロバート・キャンベル著
(Robert Campbell)
 
 
 
なぜ、なかなか明菜さんの話にならないのかというと、それくらい井上陽水という人物は、音楽界において最重要人物のひとりであり、巨人だからです。
 
その井上陽水が「飾りじゃないのよ涙は」の作者だと知り、多くの方々は、「ああ!」と非常に深い納得があったと思います。
私もその1人でした。
 
 
おそらく、Google Chromeで来られている方や、お住まいの国の言葉に当ブログの文章を訳されている方は、「飾りじゃないのよ涙は」が母国語に翻訳されて表示されていると思います。
 
ですが、私個人のこだわりとして、この楽曲のタイトルは、ぜひ「KAZARI jya nai noyo NAMIDA wa」と覚えていただきたい。
 
 
それほどに、当たり前の言葉の組み合わせで、この楽曲が持つ、「壊れた渇き」を圧倒的に表現しているタイトルは類を見ないし、タイトルひとつ取っても井上陽水の作家性、独創性の独壇場なんですね。
 
ただの楽曲ではないですし、聴衆にとっても「一時期だけに消費される楽曲では断じて無い」、とても強い楽曲です。
 
 
私は、初めて中森明菜が「飾りじゃないのよ涙は」を歌唱するのを、体育館前に集っていた女子達が持つラジカセから流れるのを聴いて、「今度の明菜ちゃんの新曲はこれなんだ!」と度肝を抜かれたのを強烈に記憶しています。
 
「とんでもない楽曲を歌ったんだ。もう明菜ちゃんじゃなくて、中森明菜というアーティストになったんだ。」
と、その時の私は腹のど真ん中で知ったのですが。
 
同じ意味合いのことがWikipediaの「飾りじゃないのよ涙は」のページに書かれていたので、あの頃の私の感覚は、絶対に1人きりではなかったんだ!と、とても勇気づけられる思いです。
 
 
中森明菜の代表曲として「飾りじゃないのよ涙は」は、2023年の現在も支持されているはずですけれど、私は、中森明菜の代表曲にして問題作、という表現をしてもいいくらいの、非常にセンセーショナルな歌唱だったと考えています。
 
この楽曲がどういう経緯で明菜さんの元にやってきたのかはわからないのですが、私は聴衆の1人として、「少女A」のカタキを「飾りじゃないのよ涙は」で討ったのではないかとずっと思っていました。
 
誤解のないように書きますが。
中森明菜というシンガーの道程を語る上でも、キャリアを語る上でも、「少女A」はとても重要な楽曲ですし、優れた楽曲です。
 
ただあの頃の「中森明菜」と「チーム中森明菜」は、「少女A」で時代に描写されたアキナというイメージを、持て余していたのではないかと思うんです。
 
「少女A」の後続曲がどれも全部優れているのに、どこか同じイメージを繰り返すだけで、この方向、
街にいる孤独な少女、というイメージを消化するのに、「飾りじゃないのよ涙は」という楽曲が出てくるのを、中森明菜と「チーム中森明菜」は待っていたんじゃないでしょうか。
 
すべて私の勝手な想像であり、憶測ですけれど。
 
中森明菜というシンガーを見た時、かならず起こる胸の奥がかすかに痛んで疼く感じ。
胸騒ぎに似た切なさが、もっとドライに存在している、あの感じ。
 
それが「飾りじゃないのよ涙は」の歌詞に登場する、「街を漂流する、寂しい、すこし壊れた状態の女の子」のキャラクターとピッタリ一致したんだと思うんですよね。
 
 
この女の子は、自分のことを「あたし」ではなく「わたし」と発音します。
その差は、彼女が自分のことを「1人の人間として独立した人格である」と、すでに自覚しているからこそ「わたし」と発音しているのではないでしょうか。
 
「あたし」は、自意識にピッタリとくっついていて、自分の姿がよく見えない情熱的な哀しさをもつ、一人称だと私はとらえています。
 
でもこの女の子は、彼女は、違う。
「彼女は」とても頼りない場所にいながらも、自分を確かに保っていて、彼女は流されていかないんです。
 
 
私は泣いたことがない
灯の消えた街角で
速い車にのっけられても
急にスピンかけられても恐くなかった
赤いスカーフがゆれるのを
不思議な気持ちで見てたけど
私 泣いたりするのは違うと感じてた
 
(中略)
 
私は泣いたことがない
本当の恋をしていない
誰の前でもひとりきりでも
瞳の奥の涙は 隠していたから
 
いつか恋人に会える時
私の世界が変わる時
私 泣いたりするんじゃないかと感じてる
きっと泣いたりするんじゃないかと感じてる
 
 
(飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜(Nakamori Akina) 作詞 井上陽水 (Yousui Inoue)
歌詞提供 Uta-Net 様
https://www.uta-net.com/song/1266/より
 
 
スリルにも流されないし、恋らしきものにも流されない。
 
いつか、を予感しながらも、彼女は涙を求める情緒に対して、常に乾いた態度を崩さず、
 
 
飾りじゃないのよ涙は HA HAN
好きだと言ってるじゃないの HOHO
真珠じゃないのよ涙は HA HAN
 
きれいなだけならいいけど
ちょっと悲しすぎるのよ 涙は
 
飾りじゃないのよ涙は HA HAN
かがやくだけならいいけど HOHO
ダイヤと違うの涙は HA HAN
 
さみしいだけならいいけど
ちょっと悲しすぎるのよ 涙は
 
 
(飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜(Nakamori Akina) 作詞 井上陽水 (Yousui Inoue)
歌詞提供 Uta-Net 様
 
 
と、「本当は泣きたいんだろ?」とかいう情緒を誘う、浅慮や下心を、カラッと突っぱねるわけです。
 
この時の彼女はどういう表情なのかなと、歌詞を読まれて疑問に感じる方もおられると思いますが。
そういう方は、ぜひ、中森明菜の歌唱を聴いてみてください。
 
私は、中森明菜の歌唱を聴き、
 
この彼女は顔だけで笑って、
「飾りじゃないのよ涙は」
そう言ってのけたと、思います。
 
 
 
 
明日が「DIVA from JAPAN : Akina Nakamori」という当ブログのイベントの最終日となります。
みなさんが、あの曲が出ていない・・・、と思われてる曲だといいのですが。
 
 
それでは、明日の夜7時に、またお会いしましょう。
 
 
 
 
 
 
 
20230831 21:52 萩田光雄氏のお名前のローマ字表記の誤字をなおしました。大変失礼しました。
 
20230831 22:03 誤字をなおしました。 
20230901 00:30 文章をなおしました。