日本のドラマで私が思う、
若者から青年になる途中にいる人々に、1番寄り添ったドラマは、
後にも先にも「ロングバケーション」というドラマしかないと思っています。
このドラマについては、たくさんの言葉がネットにもメディアにもあります。
それは、ドラマ「ロングバケーション」が化け物のような視聴率を叩き出した番組で、当時、日本で社会現象を引き起こしたドラマだったからという理由が、表面的にはあるからです。
ですが、このドラマについて書かれたいくつかの文章が取り上げているように、この物語は、ただのひとつ屋根の下モノにあるような、ラブ・ストーリーではありません。
最初意識していなかった同士が、互いに惹かれ合い、やがてぎこちなく気持ちを自覚して、という、いまやお馴染みとなった、そして昔からある手法を取りながらも、まったく違う物語を描いていた。
その部分が、日本の当時、若者から青年になっていく人たちの心を圧倒的に打ったのだと、私も思っています。
では、何が描かれていたかというと、この物語では、ラブ・ストーリーを期待してテレビを観る人たちの時間帯に、人生をお休みしている人々の、哀しさと沈黙の中の怒りという、人生の苦さが描かれていました。
主人公の1人、南(みなみ)は、30を超えた女性でした。
そしてあまり美人ではなく、何をやってもいつも損な役回りを押し付けられるか、自身が輝くことはない、輝くチャンスも巡ってこない、いつも人生の端っこを歩く、そういう女性でした。
彼女は、勝ち気で、姉御肌で、さっぱりした性格で、何が起ころうとも、その性格で、苦すぎる自分の現実を薄めて生きていました。
彼女がさっぱりした性格だったのは、何も彼女の天分ではありません。
「人生というものにおける、己の役割りの現実」を
早くから嫌というほど知っていたからこそ、
さっぱりした性格で物事をやり過ごし、取り組んでいくのが、これ以上損な役回りが巡ってこないためのたったひとつの方法であり、彼女なりの人生への抵抗の姿でした。
非常に不器用な女性であり、不器用極まりない青年です。
世にあふれる不器用な人間像などメじゃないくらい、彼女は不器用で誰にも弱みを見せない人間でした。
生きていると、だんだんわかってくることに、人生というのは意地悪な人には大変意地が悪く、そしてまったくもって平等ではありません。
当時の日本には、女は25歳から価値がなくなる。女は30歳を超えれば女ではない。
という価値観が、常識としてありました。
私も言われたことがあります。
24歳の時、自分の年齢を初対面で訊かれたので答えると、「クリスマスイブなんだね」と嘲笑した男のことは、顔は忘れてしまったけれど、そのミソジニーっぷりとルサンチマンっぷりに、大変、驚いたことをいまでもよく覚えています。
クリスマスイブとは、25歳、24歳という年齢が、もう若い女の子ではないので、お前は平気そうな顔をしているけれどもう女として通用しないんだよ、可哀想な存在なんだよ、という現実を教えてあげようという、たいそう親切な歪んだ嘲笑の言葉です。
当時の女性達はそのことに従っていたのではありません。
闘っていました。
ある人は賢く、ある人はしなやかに、ある人は毅然と、そしてある人は、平気なふりをして、闘っていました。
南は、人生を諦めている人間として描かれていました。
俯き、弱々しく泣く代わりに、明るく、笑いながら、自分を笑っていました。
人生をも笑っていました。
それは彼女の鎧でした。
彼女の精一杯の人生への抵抗でした。
その南は、ロングバケーション、第一話、冒頭で、日本の古式ゆかしい結婚衣装、白無垢を着て、道を走り、結婚式当日に式場に現れなかった男の家に行きます。
南は、そういう男との愛を信じていました。
きっと南は、愛だけは平等だと信じたかったのでしょう。
本当はドレスが着たいのに、婚期を逃している自分に似合うのは日本古来の結婚衣装だと、それを選んで、また人生に、わかっているから、もうわかっているから、この愛だけは平等にしてくれ、と、まるで願掛けのように、願っていたのかな、と私は考えています。
普通、式場に相手が現れなければ、その時点で、全てを悟ります。
足が震えて、もう一歩も動けなくなります。
けれど南は、男の家まで行った。
何かの間違いではないか、と信じたかったからでしょう。
南は、それでも信じたかったんでしょう。
相手の男ではなく、
愛だけは、自分の人生にも平等に与えられるはずだ、と。
当然、部屋には男はいませんでした。
代わりにそこに居たのは、セナという若い男でした。
ドラマ「ロングバケーション」のもう1人の主人公、瀬名です。
彼は音大に通う、ピアニスト志望の青年でした。
才能に恵まれず、裕福な生活もできない彼は、内向的でサエない人物でした。
いつも、口の中でもごもごと言葉を発し、あまり意思表示も明確にできません。
生まれつきそうだったのか、そうでなく彼の人生が彼をそう形造っていったのかは、物語では描かれていません。
彼の現実もまた、苦いものでした。
彼は自分に才能がないことを嫌というほど知っていました。
そして、自分が恋をしている相手、可愛らしく美しい、裕福な若い女性には、その才能があることを、薄々勘づいていました。
だから自分の気持ちが、彼女への恋慕なのか、才能への憧れなのか、才能がない自分はせめて才能を肯定する人間でありたいという、哀しさなのか、彼自身もあまり考えたくない現実にいました。
瀬名は知っていました。
才能の世界では、才能がない人間にはまったくもって用がないことを。
お金がないということは、人生においてたいそう不利な上に、そこから抜け出す術は、泥水を啜って探さなければならない現実を。
自分に無いもの全てを持っている相手を好きになってしまった自分の惨めさ。
よりによって、その女性の先輩として、好人物としてふるまわなければならない自分、その狡さ。
そのことに、瀬名はとても傷ついていました。
自分に全く期待でない、期待するだけ無駄だという人生から、瀬名もまた、内向的であることで、自分を守っていました。
瀬名と南には共通点がありました。
それは、人生を休みたい、という現実です。
解決もチャンスも前向きも努力も、もう十分やった。
もう充分だ。
自分は強くない。そんな風にできていない。
もうわかった。
足りないことも、できないことも、望めないことも、もう十分わかった。
もう、休みたい。
人生というものを、休ませてほしい。
それが瀬名と南の共通点でした。
その2人が出会って、すぐさま恋が始まるわけもなく、すぐに相手を意識するわけもなく、トラブルが部屋に飛び込んでいた男と、トラブルを部屋に持ち込んでしまった女の、奇妙な同居生活が始まります。
何話目だったかは失念しましたが、物語の最初の方で、2人が初めて心を通わせるシーンが、スーパーボールというよく跳ねるゴム製のおもちゃの小さなボールを、中途半端な高さの窓から落とし、それが跳ね返ってきたことで、2人はそっと喜びあうという描かれ方をしています。
これは私の勝手に感じたことですが。
2人は、スーパーボールが跳ね返ってくるだけのささやかな嬉しさ、という瞬間が訪れたことで、ずっと自分を無視していた人生から返事が届いたみたいだと、どこかで信じたかったのかもしれません。
そして、それは、人生のお休みを過ごす2人の、たわいもない時間潰しでもありました。
ドラマ「ロングバケーション」は、ラブ・ストーリーです。
でもただのラブ・ストーリーではありません。
人生への哀しみと内に持った怒り、人生の苦さを知りたくもないのに知ってしまった、2人の青年の再生の物語でもあります。
このドラマの主題歌、久保田利伸が歌う「LA LA LA
LOVESONG ( with NAOMI CAMPBELL)」も大ヒットを記録しました。
けれど、この楽曲がヒットしたのは、ドラマのおかげではなく、再生の始まりを歌っているからだと私は思います。
ロングバケーションという再生を描くドラマに、再生の始まりを高らかに宣言する久保田利伸の楽曲が、あまりにも一致していたから、これほどまでに支持されたのではないでしょうか。
だからこの「LA LA LA LOVESONG ( with NAOMI CAMPBELL)」は、いまでも久保田利伸が歌うと、皆が笑顔になる楽曲として愛されています。
最後に、このロング・バケーションが大ヒットした、根底にある、世の中の理由のようなものを、私なりに簡単に書きます。
このドラマがただのラブ・ストーリーではないことを、人生の苦さ、哀しさ、を生きていく2人に、少しだけ許された、お休みの物語りであることを、その先に再生があることを、
視聴していた人が全員、心のどこかで知っていたから、あそこまで支持されたのではないでしょうか。
私は、そう思っていたし、いまでもそう思っています。
南と瀬名がどうなったのか、どういう時間を過ごしていったのか、選択したことはなんだったのか。
よかったら、ドラマ「ロングバケーション」を観て、ぜひ確かめてください。
とてもとても、優しいドラマです。
以上、ドラマ ロングバケーション、でした。
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20230802 17:00 文章をなおしました。
20230802 23:47 誤字・脱字・文章をなおしました。