休刊 キム・ソクジン



休刊 キム・ソクジン 
あと2ヶ月ですね。
ARMYさん達も待ち遠しくされていると思います。
アルバコエルレアオクラータは花が終わりました。
無事のお戻りを待っています:)

2024/02/24

古い並木道の記憶


 



 
写真は、東京、日本橋からの一枚。


東京の空と言えば、ある世代から上の方々は、薄曇りの空をイメージされると思います。
 

実は、私が東京に行くといつも快晴です。
そしていつも暑いです。
なぜか分からないんですけれど、滞在時の数日はだいたい平年より高めの気温で、なぜこうなんだろう? と無表情になっています。
 

寒い日も普通の日もあるので、そういうもんなのかなとは思っているんですが、私は晴れ女なので、ここまで体質がお日様がダメなのに、いつも予定を立てるとカンカン照りなのは、一体どういうことかな・・・とこちらも無表情になっています。
 
東京は本当に櫻が多く、どの木もとても大切にされています。
街路樹がどこも立派なんですね。
 

植栽が若くても、ある程度の成長を見越してスペースをとられているので、植えられたばかりの街路樹を見かけて、一生懸命ここで大きくなってもそのうち切られちゃうのかな、という不安が一瞬胸をよぎることはありません。
 
あまり木を切りたくて切る人、その判断を下す人はそう居ないと思います。
 
こんなとこに木なんか植えやがって、この野郎、たたっ切ってやる!なんて人はあまり居ないでしょう。
 
木を切るという判断をする人って、

木を植える人イコール善良な人。

木を切る人イコール悪徳な人。

という先入観で不必要に悪人にされてしまうので、よく気の毒だな、と思っていますし、同じ気持ちの方も少なくないはずです。
 
昨今の木や森の存続についてひっそり思っているのは、もっと前の、切ろうかどうしようかの判断をすることを検討する段階で、どうして、この木を切らなければならないという意見が出てきたのか、その要因を公開してくれればな、と思っています。
 
そうすれば、仮に病気が原因として、
それは治療が可能かどうか、
どのくらいの予算がかかって寄付でまかなえるのか、とか、
枝が落ちる恐れがあるのであれば、
支えをつけるだけではダメなのか。
近隣に目の不自由な方や歩行にどうしても平坦な道が必要不可欠の方がおられて、その都合はつけられるのか、つけられないのか。
防犯であれば、その木があることで何が起こっていて、その対処は本当に伐採でしかできないのか。
小さな森であれば、全部切ってしまうより、周囲を柵で覆って、公開時間を設ければ、防犯に効果はあるのかどうか。
 
そんな、持ち寄ったアイデアが提供できることを開示していただければなと思っています。
 
いまこんな要因で、こういうことを考えている。
という情報公開に、すぐ飛びついて、反対反対、なにがなんでも反対!と騒ぐのは、良い方向に向かうこともダメにしてしまうので、それは正直、地域の木を大切にして長い間愛してきた人達にとって、とても迷惑なんですね。
 
前、私がひっそり暮らしていた地域では、とても古くて素晴らしい櫻並木があったんです。
 

地域の人と知っている人は知っている場所で、私も若者だったとき、酔っ払って歩いて帰る途中に、角を曲がったら突然、花びらを静かに散らす夜の櫻並木に出くわして、その幻想的な力強さと静謐さに息をのんだ記憶があります。
当時でとても古い立派な木達だったので、すべて老木だったんです。
 

結局、病気が治せないという理由で、苦渋の決断から小さな並木道はなくなりました。
誰も反対運動を起こさなかったところを見ると、みな、とても悲しかったけれど、ギリギリまで維持し大切にした上での決断だったことをご存じだったのでしょう。
 

やがてある日、珍しく回覧のビラがポストに入っていました。


そこには、どういった経緯で伐採が決定したのか、静かに記され、その地区の責任者の方、市の職員の方、住人のみなさんが悩んだ末の決定であったことが報告されていました。
そして、新しい櫻の木を植えますので、これからはその木を愛していきましょう。という言葉で、お知らせは締めくくられていました。
 
その文章は、伐採の決定までに非常に苦しまれたのだろうという、絞り出すような言葉で、静かに深く悲しまれているのが如実に伝わってくるものでした。
 
やがて、新しく植えられたのは、病気に弱いソメイヨシノではなく、違う種類の元気な櫻でした。


私は、その若木を見たときに、我々は二度とあのような惜別を経験したくないのだ、という、地域の人達と関わった人達全員の断固とした意思を知りました。


 
対話は、威力を知らしめることでもないし、自分達は怒らせたら怖い相手だから機嫌を取れと、思い知らせることではないんです。
 
ときにはすぐに声を上げなければならないとき、とにかく状況を回避せねば命に関わることもあります。
 
でも日常で姿を現す、私達の暮らしに関わることの多くに必要とされる、オフィシャルな対話は、まず感情的になってしまう口を閉じて、一体、いま自分の前にあるのは何か、を考えることから始まります。
 
そして物事は複雑であるのが常なのですから、まずはテーブルにつき、そこに座ったのならば、対話に参加する資格というマナーをそれぞれが自分に課してから、対話を試み、その場に来た全員が未来を望んでいるのだ、という信頼を持って対話を続けていくべきなんだと、私は考えます。
 
問題がある。
では、その先に向かうために、何をすべきなのか。
どうしたらいいか。何ができるのか。
 
 
意見は苦情では無いし、アイデアは不信ではありません。
 
並木道を守ろう、と言うのであれば、維持するため、そこをよけて新しいビルを建てるための特殊な工事の必要経費を、全員が出し合ってまかないあえるのかどうか。
そこまでちゃんと計算して、予算として提出できる、具体的な感覚がとても重要だと思います。
 
現実には、悪役は存在しません。
勧善懲悪も胸アツ展開もその演出も必要ありません。
 
現実と物語の区別をまずつけて、騒ぎ立てずに、大きな声を出して相手の意見を聞こえなくさせることばかりに気を取られずに、
対話という、複雑な物事に取り組む人達全員を助ける可能性をとても多く含むもの、の存在意義を再確認し、テーブルについて具体的な明日の話ができるように、もっとなると良いな、と思っています。
 
意見を出せなくとも、その環境を整えることは全員にできます。
 
私達は、もう大人になるべきです。