今日は音楽の話です。
SZAの最新アルバムSOSはもう聴かれました?
私は発売日当日から夢中で聴きまくっています。
このアルバムは事件と言っていいんじゃないでしょうか。
いやー、すごいです。
ご本人のインタビュー等、言葉の断片を見ると、前作のあまりの評判の良さに、プレッシャーというか、逆に、だからと言ってプライベートでトラブル続きの人間に、高いレベルの作品を期待するというのは、人間に対する姿勢じゃない。機械に対してやることだ、というようなことを(私の覚え書きなので、正確な情報を知りたい方は検索してください。ごめんなさい)、言っていて、そりゃそうだろうなぁ、と思っていたら、このアルバムです。
びっくりしました。
良すぎて。
歌われている内容については、もう訳がガンガン上がり始めていると思いますので、それはおいおい語っていこうかなと思っているんですけれど。
もうタイトルがSOSなので、とても精神的に落ちてる状態を切り取った作品が多いようなんです。
楽曲面では、メロディラインがより透明感とプライベート感を増していて、ちょっと内面に踏み込みやすい音の連続で、その状態がしかもハイクオリティなため、危うさすら漂っているように私には聴こえました。
で、これはもうアーティストの宿命なんですけれど。
そういう状態でも良い音楽ができてしまう。
そしてそれをリスナーであるこちら側は愛聴している。
という、アーティストとリスナーの不思議な関わり合いが、これはこれで至福なんだけど、でもSOSって言ってるし・・・。
こうやって聴いていて、それだけで、本当に大丈夫なのかな? と、このアルバムがリリースされるまで過ごしていたSZAの精神状態を、やはり心配してしまう気持ちがあるんですね。
SOSを聴いて、SZAを待っていた人達は多かれ少なかれ、そう思うんじゃないでしょうか。
私もやっぱり、アルバムすごくいいんだけど、SZAは大丈夫なのかな? 作品に昇華できている時点で、自分の中で痛みや苦しみが整理できたのかな? とか、色々考えてしまうんですよね。
私はアーティストのプライベートって、本人が語らない限り、決して踏み込んではならない部分だと思っています。
どのような世界が作品に提示されても、それはあくまでも楽曲の世界観であって、作った本人の全てでは当然ないですし、時間の面で言えば、過去のことなんですね。
いま現在のアーティストのことは、本人が語らない限りわからないし、語った端から過去になっていってしまうので、いま現在を共有することは、決してできないものですから。
けれど、痛みというものが、確実にそこにはあったのだ、というものに触れると、その痛みとの関わりが、治癒に向かう作品昇華であってほしいな、と、すごく勝手なんですけれど、リスナー側のエゴと分かっていても願わずにはおれないんです。
カート・コバーンのこと然り、他のミュージシャンのこと然り、やっぱりありますしね。
私はそこまでポジティブでは無いんですが、創作という方向に生きる道を見い出すのが、アーティストの在り方のひとつと思っているので、痛みを作品にしていく過程で、よくアーティストの宿命と言われている、幸せになったら作品が創れなくなる、っていう、本当に馬鹿げている言葉に縛られないで欲しいと強く思っています。
身も蓋もないことを言えば。
幸せであっても痛みは続くし、暗い気持ちはやはりあるんですよ。
けれど明るいものに照らされている時間が長くなっていっていて、できていくものの彩度が上がっていく事象があって、作品がゆっくりとうねりのようなものを伴って変化してくことは、側から見たら、あれ、明るい方向に変わったな、と思ってしまうことがあっても、それは絶対にアーティストとしての失敗では無いんです。
その時触れているものを作品に変化させることができる人達の創造の記録なので、生きていっているんだから、変化して当然なんです。
それができている限り、失敗では断じてないんです。
商業的に成功するかどうかは、その時、人が聴きたい音の多数決がどれだけ分かっているか、ということであって、アーティスト性とは全く無関係なんですよね。
その両方できる人がトップミュージシャン、スーパースター、トップアーティスト、呼び方は色々ありますけれど、そういう巨大な存在になっていく。
そういうことなんだと私は捉えています。
なので、創作がアーティストにとって救いと言われるものの一片である限り、治癒の側面を持つ限り、明るい方向に向かうことを恐れないで欲しいと思っています。
以上、ざっくり言うと、
「SZA、すごいアルバムをありがとう!
大変だったんだね。
あなたを苦しめているトラブルが全部、解決するといいし、物事が明るい方向に向かうといいね!
リスナーもあなたのことを大切に思っているよ! 」
でした。
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