先日、署名記事のニュースを拝読して知ったんですが。
音楽の力、という言葉を、坂本龍一氏は嫌っていたそうですね。
私は、右のメニューバー上部と中程に表示している、Abyssという投稿の中で、音楽の力、という言葉を使っています。
メニュートップのリンク集に記載しているのは、私のAbyssにまつわるJINさん観が出ているものを、興味を持っていただいた方に、まず読んでいただいた方がいいだろう、という考えでした。
ここでよく読まれている投稿の中にも、Abyssの投稿が入っていたのは気づいていましたが、その中に使っている言葉が、坂本龍一氏が嫌っていた言葉だったとは知りませんでした。
私は坂本龍一氏をリスペクトし、氏の音楽を支持するものです。
ですが、坂本龍一氏の活動や考え方を全部支持はしていません。
私とは考え方が違うな、という部分もあるからです。
私はこの音楽の力という言葉を坂本龍一氏が嫌っていたことを、冒頭で触れた署名記事を拝読するまで、知らずにいました。
この言葉が、よくない言葉なのかどうか、坂本龍一氏の音楽を支持するものとして、使うべきではないのか、音楽を愛好する素人として、使うのを控えるべきなのか。
考えてみたんですけど、
正直、明確な答えは出ませんでした。
冒頭で触れたニュース記事を拝読した後、検索してヒットした2011年の氏のインタビューを読み、
私の要約ですが、坂本龍一氏が
「音楽の力という言葉を使うのは、ミュージシャンとしておこがましいと思う」
という考え、価値観を持っていたという理解を、現状では、私はしています。
Abyssの投稿ではこういうふうに記述しています。
前述がないと何のことかわからないので、必要だと判断した部分を含めて載せます。
Abyss 本文より 抜粋
音楽には治癒という役割があります。
双方向の治癒です。
作り手は、言語化し、表音化したものを、繰り返し唄うことで、
その人自身の内部を整え、客観視することができ、
メロディの繰り返しが洗練を帯びさせていったその作品は、
やがて普遍性と同時に救済性を持ちます。
聴く側は、
言語以外の領域が、自身の最深部に作用する音楽体験を通して、
心の反応が唄の調べと繰り返し同調することで、
知らぬ間に自分が持っていた、
手の届きにくい部分にある、「傷」と呼ばれるものが、癒えていきます。
これは音楽の力と呼ばれるものの、ひとつの在り方だと私は考えています。
抜粋ここまで。
こう書いているんですが。
特に当時と今とでは、音楽の力と呼ばれるものの、在り方について、私の考えは変わりません。
坂本龍一氏は、おこがましいという思いから、この言葉を嫌っていた、ということを知っても、私は、音楽の力というものは、「作用する」という点で、存在していると考えています。
なので、特にAbyssという投稿のなかで使っている、音楽の力、という言葉を削除、改訂しなくてもいい、という判断をしました。
音楽というものへの価値観や、音楽とは何か、という考え、そこから出てくる思想にわたるまで、この言葉を使うことで、とても是非の分かれる投稿だとは、いまは思います。
その上で、私は、ブログ上での掲載を続行します。
もし何かご意見がある方、もう少しこの話を詰めて私の感じていることを知りたいという方、おられましたら、
お手数ですが、
こちらまでご連絡ください。
以上、音楽の力という言葉を使っていることについて、でした。