Japanese Summer Maniac Pops
ー 睡蓮の開く音がする月夜 第4夜 ー
ベガ / 斉藤和義 (Kazuyoshi Saitou)
アルバム 紅盤 収録
斉藤和義なので、正確にはロックなんですが。
ポップロックということで、このくくりに強引に入れています。
アルバム 紅盤は、斉藤和義のカバー曲中心のアルバム集で、その中に収録されている、ベガは、キセルが原曲となります。
参照リンク Wikipedia 斉藤和義 紅盤
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E7%9B%A4
キセルのベガと聴き比べていただければわかるとおり、紅盤収録のベガは、斉藤和義の手による編曲になっていて、前者とは同じ楽曲ではありますが、表情も聴いた後の余韻も、全く違うものになっています。
このベガという曲を通して、伝えたいメッセージの情景が違っていたからこその、斉藤和義版ベガなのだろう、というのが、私の見当です。
斉藤和義は、初期からのリスナーです。
といっても、そう堂々と書けるほど、皆勤リスナーではないので、ここを始めて3年と半分が過ぎたあたりですが、ちょっと自信がなかったので、いままで書いてきませんでした。
語りたいアーティストと、
黙ってずっと支持していたいアーティストって、
ありますよね。
私にとって斉藤和義は、後者のミュージシャンです。
どういう経緯で、斉藤和義版ベガを初めて耳にしたのか覚えていないので、おそらくラジオだったんだと思います。
それで確かC Dを探して、長らく原曲のキセルバージョンは未聴だったはずです。
ちょうど10年くらい前に、好んで聴いていたので、キセルバージョンを知ったのも、いまから考えると結構前ですね。
ベガは、斉藤和義のこちらのバージョンが初聴きで、
私はそれにヤられてしまったので、
キセルバージョンも、
すごく雰囲気が完全なものになっていて素晴らしいですけれど、
斉藤和義バージョンのベガが、この季節になると必ず聴く、
または思い出して探して聴く、大切な楽曲となっています。
ベガという楽曲は、私が好む、
やはりあまり限定しない言葉で描画されており、
それでいて描き出す輪郭をとても正確に、
聴くものに手渡していく、
非常に傑れた楽曲だと思います。
斉藤和義の解釈と言っていい、アレンジと歌唱で表現された、斉藤和義バージョンのベガは、
私に、
夏の夜に必ず充満している、
暑さに溶けてしまった時間の流れ、
遠い過去や遠い未来、そして現在地というものを、
随分と高い空中から俯瞰で見つめる作用として、
強く働きかけてきます。
それは青年期の途中や、
青年期の記憶が色濃く体内にまだこびりついている、
そういう人たち全員に共通する、
夏の夜として繰り返し訪れる、
都市の郷愁でもあると思います。
言い換えると、それは若さというものの手触り、でもあるんですが。
どうしてかわからないんですが、
この曲を繰り返し聴いていると、
青年期に過ごしていた、
本当になんの意味もない時間や会話が、
脳裏に浮かびます。
なんだって、こんなこと覚えてるんだろう。
もっと為になることを思い出しゃいいのに。
と、ちょっと情けなくもなるんですが。
私は、この曲が呼び起こす、たくさんの夜、
お酒とともにテーブル越しに交わした、
取るに足らない、
ほんとうに何も残らない会話やその時々の表情を、
すごく無駄だったけれど、
ちゃんと私の中に手渡すものがあるんだな、
と少しだけ安心な気持ちで確認できるから、
楽曲内で描かれている、
それは”願い”といってもいいものの力を
ちょっとだけ借りて、
毎年やってくる、天上での待ちに待った逢瀬の夜を、
大切にしたいのかもしれません。
「昨日、書いた 忘れないよ
本当になってしまうようにね
かた結びで ほどけないよ
後戻り 出来ないね」
(ベガ 斉藤和義バージョン より)
星が見えようが、見えてなかろうが、
どうか、ここを読んでくださるみなさんのもとに、
とてもよいものが、必ずや訪れ、
知らず知らず、その存在と、
大切な人や大切なものが、ただ在る祝福を
待ち望んだ約束のように交わせることを、
僭越ながら、願わせていただき、
今日の更新分を終わろうと思います。
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『 どっち行こう 誰も気にしない
あての無い その果てをあてに 』
(ベガ 斉藤和義バージョン より)
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それではまた、日本時間の明日の夜7時に、お会いしましょう。
タイトル副題 河出文庫 少年アリス 長野まゆみ(Mayumi Nagano) より、冒頭第1節を引用
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20230708 00:21 誤字をなおしました。
20230708 08:47 誤字をなおしました。