「だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花が好きだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、幸せになれるんだ。」
子供の頃、クラスや帰り道、ちょっとした教室移動のすき間、給食の時間、図書室での内緒の囁き、そんなところで、星の王子さまの話をよく聞いていた。
小さな私は本を読むのが好きだったけれど、赤毛のアンやあしながおじさんは知っていたし、他の色々も知っていたけれど、あろうことか若草物語を飛ばしてきてしまったから、あれはいいよね、と微笑み合う彼女達を見て冷や汗をかいていたので、黙って必死で彼女達に追いついて、あれはいいよね。と涼しい顔で言うために、なんだか本を読むのに必死だった。
その頃だったと思う。
星の王子さま、いいよね、という女の子達に気づいたのは。
彼女達は、若草物語を知っている女の子達とは少し違っていた。
どこがどうと言うことではなく、
違う種類の女の子達だった。
いま言葉にすると、星の王子さまを知っていた女の子達は、おしゃれだった。
立ち振る舞い、話し方、言葉の選び方、小さな文房具、持っているペンケースまで、少し大人っぽかったし、シックだったし、それは本革だったし、お茶の時間には、手作りで本当に美味しい、洋菓子を食べているような子達だった。
その子達の共通点は「星の王子さまを知っている」だった。
私は気後れしてしまい、若草物語はすぐ読んだのに、星の王子さまは、私にはわからないのではないか、と思った。
読んでもわからないかもしれない。
だから、私は、自分が彼女達に追いつけないことを知るのが怖くて、星の王子さまを、お姉さん達の制服を着る頃まで読んだことはなかった。
晴れてお姉さんになった頃、ようやっと星の王子様を図書室で手にとって、その薄さに驚いた。
もっと超大作で、冒険物語だろうと思っていたからだ。
それで、その頃、放課後の1時間以内か、すき間休みの間に、一気に読んでしまった。
そして、思った。
え? これが本当にあの星の王子さま?
つまらなかった。
私は、制服を着たお姉さんになる前に、気後れしていた自分が予感した通り、星の王子さまがわからなかったのだ。
愕然とした。
私には星の王子さまがわからないのだ。
と、ものすごい衝撃だった。
私の星の王子さまのファーストインプレッションの読解は、
「・・・つまり、私はもう、一生かかっても、あの女の子達に近づけないのだ。」
というものだった。
なので、私は、全然わからなかった物語を気にしないことにした。
だって、こんなにつまらないのだし、きっとあの女の子達は、このおしゃれな挿し絵が好きだと言っていたんで、それがカッコよかったのであって、こんな退屈な展開と
なんだかよく泣く王子さましか出てこない、童話なのか、児童文学なのか、もしかしたらと内心ちょっと期待していた、大人のラブ・ストーリィでもない。
(それは、いわゆる、星の王子さまと何かしら、そういう、とにかくまぁ誰かの、素敵で胸踊る、隠れて読むべき、キスで終わる、素敵な素敵な恋愛ストーリィ。)
とりあえず私は、そう思うことにした。
だって、つまらないし、何が書いてあるのかわからない。
書いてあるのは、私の好きなものが多かったけれど、王子さまは気難し屋さんで、すぐ泣いて頼りないし、絵の方が断然、素敵という変な本だったのだから。
それから、私は、サン=テグジュペリという言葉が歌詞に出てくるポップスを聴くまで、星の王子さまのことをすっかり忘れていた。
少しだけ大人に近づいた頃だったと思う。
いつものように歌詞をノートに書き写そうとした時、ずいぶん変な名前だな、と手が止まった。
歌を聴いたとき、すごく素敵な響きの言葉だと気になっていたのが、どうも名前らしい表記がしてあった。
名前だとなぜわかったんだろう、と思った。
その時、ああ、アレ。
星の王子さまを書いた人の名前だ。
そして、夜間飛行の香水。あのシンボルの人だ。
とはっきりわかった。
驚いた。
まるで、昔、特になんとも思わなかった男の子が、ものすごいハンサムになって、やあ、実は僕は、昔、君のことが好きだったんだよ、と現れたような感じだった。
もしそういう時、現実だったらどうするだろうか。
まず、信じない。
そして、すっかりハンサムになっちゃって、と感心する。
なぜか。
それは、私の大好きなラブ・コメディの展開では、とてもハンサムな人は、いつもどこか女の子の敵だからだ。
だから、私は、ずっとハンサムな人というものを、心のどこかで怖れていたのだと思う。
その時、やっと私は、星の王子さまを読んだのだ。
以前のように、ただ目を通したのではなく、きちんと真正面に座って、私はサン=テグジュペリの物語る内容に耳を傾けた。
不思議な話だった。
とても不思議で、不可思議で、なんというか、合図のようなものが散りばめてあって、とても重要で、それでいて大事とか大切とか、そんなふうに言ってはならないことが、そう言ってしまうだけで、この物語が壊れてしまうような、そこを間違えると王子さまが泣いてしまうような、そんな気持ちで、大事に扱わないといけないものだと、私はわかった。
これはそういう本だし、これは決して、忘れてはならないものだ。
そして、王子さまは、どうなったのだろう。
と思った。
結末は分かっていた。
けれど、王子さま、結局どうなったのだろう。
そのことが胸にずっと残っていた。
じわりとした熱を帯びたものが、胸に残り続けた。
どうしてだろう。
どうしてそんな風に思うのだろう。
私は、この結末が納得できないのだろうか、そう何度も繰り返し自分に訊いた。
違う、と思う。
私は、物語の主人公のように自分に答えた。
うまく言えないけれど、そういうことではないと思う。
それから、
そうじゃなくて、何か、私は、この物語の結末の後に、描かないことで大きく示唆されているものを、ひろえていない。
そう思った。
それは何か。
それこそが、読書だった。
星の王子さまは、私に本当の意味での読書を手渡した本だった。
私に、世界を教え、私は全てを知らないことを教えた、本というものが、その正体が一体なんであるかを、はっきり手渡した著書だ。
なので、私の、星の王子さまへの思いは、想いであったし、はしかのようにひととおり、私の場合はセンチメンタルでしかなかった物語内での、やわらかく、優しいものを拾い集め、味わいおわった後、王子さまのことを本当に、慈しむ気持ちを持っていた。
星の王子さまは、その後どうなったのだろう。
私の中に残り続けていた疑問は、決して答えてはならない疑問だった。
答えのない問い、を抱き続けていたかったし、そうすることがサン=テグジュペリが読者に示した、決して終わりのない結末というものではないか、と、その思考の深さと手腕への敬意に胸を熱くしていたからだ。
ある日、テレビを見ていると、星の王子さまの宣伝が流れていた。
それは、東山紀之さんが星の王子さまを演じていたC Mだった。
私は驚いた。
そこで東山さんが演じていたのは、大人になった星の王子さまだったからだ。
あの星らしい場所で、相変わらずの不思議な佇まいで、大人になったせいか少しだけ憂鬱で、けれど毅然としていて、凛々しくて、知的で、清潔で、美しい、きっと星の王子さまが大人になるとこうだっただろうな、というもの全部を、全身で示していたのが、東山紀之さんだった。
大人になれたんだ。
私は、とっさにそう思った。
同じことを感じていた人がいたんだ。
やはりあの読解は、間違っていなかったんだ。
これが、答えだ。
何年も後になって、私は、サン=テグジュペリの読者から、解答をもらったのだと、強く感じた。
なぜ、そうわかったかといえば、東山紀之さんは、星の王子さまが大人になった全部を表現して、そのC Mに出演していたからだ。
なぜそんなことが、できるのだろうか。
何年も何年も経過した後に、一冊の本の答えを、解答を、絶対解を、作品世界からの応答を、どうして東山紀之さんは手渡せるのだろう。
このC Mを創ったサン=テグジュペリの読者は、なぜそれがわかったのだろう。
理由は、東山紀之さんなら、可能だったからだ。
それから私はこうも思った。
大人になった星の王子さまは、何を伝えたかったのだろう。
私達の前に姿を現し、
あの世界の中で、ぼくは生き続ける。
そう私達に手渡した、大人になった星の王子さまが示したものは、なんだったんだろう。
それは、終わることのない物語の果てにある、永遠ではなかっただろうか。
それからずっと後になって、私は不思議なめぐり合わせで、東山紀之さんが籍を置く、旧ジャニーズ事務所のグループを応援することになった。
その頃、初めて、CMの中に見た、大人になった星の王子さまを体現していた東山紀之さんが、旧ジャニーズ事務所の旗印だったことを知った。
東山紀之さんは、ご自身を厳しく鍛える方で有名だった。
いつも東山紀之さんは、必ず、徹底的に準備をして仕事に臨むことで有名だった。
少し朗らかなところ、何をしていても気品があり、凛々しく、堂々としていて、それでいてどこか内省の雰囲気があり、旧ジャニーズ事務所に所属していたタレント達の尊敬と憧れと、おそらくは、ちょっとだけ畏怖を集めていた。
東山紀之さんは、いつも正しくあろうとしていた。
常に恥ずかしくないように、振る舞っていた。
どうしてそこまでされるのだろう、と疑問に思った瞬間、すぐに答えがわかった。
東山紀之さんは、旗印という役割を絶対に間違えてはならない、という姿を見せていた。
その姿には、常に鞘に入れない、取り出したままの真剣のような緊張感があった。
人間には、色々な時がある。
けれど、どんな時でも、東山さんは必ず、模範的な解答をし行動をとった。
東山さんは、そうしながら、常に、旧ジャニーズのタレントを、そのファンを、スタッフを、守っていた。
高らかになびく旗として、東山紀之さんは、旗という役割りを渡された自身を続ける生き方を、選び続けていた。
私達は、東山さんを、そんな方が旗印になってくださっていることを、旗であり続けていること、そのように生きることで皆を常に勇気づけていることを、いつも誇らしく思っていた。
私は、とうに離れたものなので、これがファンダムを詳しく説明する言葉だと思われると迷惑がかかるので、そうではないことを、前置くが。
東山紀之さんは、私達の誇りだった。
誇りが人の形をしたものが、東山紀之さんだった。
私達の誇りであり続けることを選び、誇りであり続けようと生きている方だからこそ、少しの間、東山紀之さんが芸能のお仕事を離れ、苦しんでいる方達のために、全てを捧げる選択をされたことも、本当に誇らしい。
私達の旗印だったのだから、どんなに辛く苦しい時であっても決して降ろさない、たなびき続ける旗であろうとする人だから、この選択をされたのだと、誰もが深く敬意をはらっている。
東山紀之さんという方は、そういう人だ。
だからこそ、東山紀之さんは、大人になった星の王子さまを体現してみせ、サン=テグジュペリが描かないことで示した、ある解を、いつかの読者の未来に、手渡すことができたのだ。
永遠というものは、決して描くことができないが、終わりなくこの物語の結末に記されている、と、手渡すことができた人だからこそ、東山紀之さんは、ファンダムにとって永遠の存在なのだろう。
私にとって、東山紀之さんは、初めて読書というものを教えてくれたサン=テグジュペリからの訪問者だ。
時を超え、解を手渡してくれた絶対解の存在だ。
時々、東山紀之さんは、私にとっての星の王子さまなのだろうか、と思うことがある。
東山紀之さんは、いつまでもたなびく永遠の旗だし、その旗を胸に、高らかに前に進み続ける現代の王子様諸氏も同じく、それぞれのファンダムにとっては絶対的な旗だ。
そしてまた、ファンダムも王子様諸氏にとって圧倒的な旗だ。
揺るぎない、たったひとつの目印だ。
この関係を世界の方々は、不思議に思われるだろう。
ファンダムは王子様諸氏を、その永遠の旗を守り、共にあり続けるし、そこを後にした者も、どこかで共にあり続ける。
何かあればその胸で必ず応援し、支持し、美しい心で駆けつける。
伝統のある事務所だった。
時代により掲げられた旗も、王子から王になった方々も、それを支え続ける方々も、少しずつ変わっていった。
私達にとっての旗は、東山紀之さんだ。
それはこれからも変わらない。
変わるわけがない。
その旗を愛し、その旗の元に集まる王子達を愛し、王子達の旗である、ばら色の青春達は、ファンダムを離れても、なつかしく同じ気持ちを持ち続けている。
そのちょっとだけ不思議な、いつかどこかで確かに交わし合った素敵な約束は、案外、永遠というものかもしれない、なんて、私は結構、本気で思っている。
描かれなかったことで、受け渡してもらえた、あの物語の結末のように。
<過去も現在も未来も、私にとっての星の王子さま達へ、この文を捧ぐ。>
おそらく、人の生の中で最も輝かしいものであるとされる
青年期のひとときを、こちらのファンダムで過ごせたことが私の大切な思い出です。
そこに燦然といつまでも輝き続ける東山紀之さんという旗に、胸ふくらませた幸運を忘れません。
ありがとうございました。
東さんと最愛のファンの方々との未来での再会を、及ばずながら私も心からお祈りしております。
青年期のひとときを、こちらのファンダムで過ごせたことが私の大切な思い出です。
そこに燦然といつまでも輝き続ける東山紀之さんという旗に、胸ふくらませた幸運を忘れません。
ありがとうございました。
東さんと最愛のファンの方々との未来での再会を、及ばずながら私も心からお祈りしております。
20231228 16:08 句読点と誤字をいくつかなおしました。
20231228 16:13 冒頭の説明箇所をなおしました。
20231228 22:23 誤字をなおしました。