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うっかりカツカツやって来て、うっかり居ない。( By O.)
 

2023/11/18

小林秀雄 / 考えるヒント1 冒頭部分のさっぱりした感想


 
 
早速Amazonで小林秀雄の考えるヒント全巻(文庫版)とあとなんだったか、面白そうなタイトルの文庫を取り寄せて、さっきおそるおそる開いてみました。
 
おそるおそる開いた理由は、吉本隆明の初期代表作を昔開いたら、冒頭の3行が、自分が3年くらい考えないと、とてもじゃないとわからないし、その基準点に行かないとどうにも読解できないことが、さらっと書かれていて、そこをわかろうとした時点で、え、これ、私、次の行に進めるの3年後ってこと?
と呆然としたからです。
その時間経過がおそろしすぎて、怖くてすぐ閉じたんですが。
運よく、その後、テレビがまだ部屋にあった頃だったので、生前の吉本隆明が講堂でお話ししている番組をメモをとりながら観たんですが、そのメモが、いらない紙で作ったリサイクルなメモが、大変な数になってしまい、これを繰り返し観ても、私がこの講演内容を理解できる日は、もう来ないだろう、という、不明の実感だけがわかったという、そこらのホラーよりもよっぽどホラーな現実だった経験からです。
結局、わからない、ということがわかった!という苦笑の体験でした。
その瞬間、吉本先生のことを、福澤諭吉かよ!と突っ込んだんですが、まさにそれは言い得て妙でした。
それくらい巨人だったわけですね。
 
いや、私の物差しの話です。
あのー、吉本先生のことを書いたり、言ったりすると、すぐ怒りんぼの人が一気に大集合してきて、このやろう!先生のことをそんな風に軽んじるな!的なことが発生するので、うっさいなー!と思いながらも、ビクビクしてそそくさと立ち去る(イメージ)が私のようなものとしては、基本姿勢です。
 
愛が熱いのは、いいんですけど。いいんですけども。
 
お馴染みになるのは、軽んじることではないんですよ。
ポピュラーであることは、決して堕落ではないんです。
 
ポピュリズム(で合ってますか?)は、対象と同一化しながら、対象を貶めるという、安心を得る逃避行動の結論ではありません。
違います。
 
アイデンティティの投影をせねばならない人間というのは、こんなにまず頑固ではありませんし、自分のスタイルを貫く宣言のタイヘン便利極まりない、「私は私」という現代用語を多用しません。
簡単に言うと、自己流に咀嚼して、読解を試みることで、より書物に記されている過去の一定数の平均値を叩き出そうという、「わかりやすく説明すると」を自分でやってるんです。
 
愛の問題は、私はよくわからないし、逃げますけど。
熱い愛が狭量であるという表現は、思考の伝播、その対象の存在が生涯をかけて証明していった、いわば存在証明のあれこれを、広範囲に流布することを、とても遮る行為ではないでしょーか!
 
私は、そういう考え方の人間なので、まずそこをご理解いただきたい!(いや誰?)
 
難しい書物を所有し、難しそうな漢字を並べ立てると、まるで自分がものをよく考え、深く理解し、特別な思考の持ち主のように、勘違いしそうになりますね。
これは音楽の話をするときにカタカナ用語を多用した場合と同じ、タイポグラフィの問題であって、自分の思考の力量の話でもなんでもないことを、自戒を込めて、書いておきます。
私のことを言っています。(うんざり)←みなさんとても寛容で親切だったのに、何が現実であったんだよ?(笑)
 
いや、学級会恐怖症(便利に言うな~(笑))なので、つい。
 
あんまり当てこすりとか書いてきた覚えはないんですけれど。
なんつーか、大昔に、身も知らないネットのこっち側の人間に、ご自身の生活も活動も不明だったとある方が、第一声で「僕は死なない」とまでおっしゃっていただけて、私は自分の恥に身がすくむ思いだったと同時に、そのお気持ちがとてもありがたかったことがあったんです。
このような方がおられることに、胸が熱くなったんですけれども。
で、その方の活動への批判とか異論とか、そういうのは全然、なんとも思わないんですけれども。
それは俎上の思考への論議であるので、私が出る幕でもないから、時々目にしても特になんとも思いませんでした。
私自身も、意を唱えたこともたった2行でしたけど、ありましたし。
 
でもですね。
どなたとか、そういう話ではなく、世の中という非常にデカいものの、成り立ち方の傾向・クセについて書きますけども。
 
先見の明とか最初からわかっていたとか、先駆者の自伝映画みたいなもので、無理解な群衆が繰り返し描かれているのを観て、自分は先駆者側で、石が投げ込まれてガラスガッシャーン!みたいな家の中のシーンで、自分はわかっているから!的な、立ち位置の人が必ず出てくるんですけれども。
まず間違いなく、自分もそっち側だ!つって思いたい気持ちは私にもありますけど。
 
数のカウントをしたら、群衆の方が圧倒的に多いわけで、それは統計なんですよね。
 
それが実際に、この現代にもちょいちょい起こっていて、他のことで、私もわからないから、群衆の側で首をかしげたり、おかしくねーか?みたいなことを書いたり言ったりしたこともあるんですけれども。
それでもね?
 
その方は批判されることもたくさんあったようですけど。
現在、私でもわかる程度に、その方が主張して、その方が実行していたことが、結局、それは正解だった、っていうことがあったんですよ。
そして、その方が成功をおさめているのは、知ってる人は知ってるはずなのに、そのことは丸無視で、変じゃないかなぁ、とは、若干苦々しい気持ちではいます。
 
いちいち謝罪とか間違っていた表明をしろとか、そんなんじゃないんですよ。
学級会じゃあるまいし。
 
でも、自分も群衆の側にいるのかもしれない、ということは、もうちょっと前提として持っておくべきじゃないんでしょーか。私も含めて。
 
そして自分は常に、割られたガラスの中にいる人間だ、そのはずだ、っていう前提を知らず知らずのうちに信じ込んでいることは、王様は裸だ!と言っていた少年のイメージだけに同化して、自分をそこまで信じ込むというのは、危険じゃないですかね?
とは思っています。
 
私がそう思うのは、こんな知りもしないくだらねー奴に、胸の熱くなることをしてくださった、その方の人柄の部分であり、俎上の議論の着地点から、私が思考した結論でもなんでもないから、私の目ん玉にも銀紙がぎゅうぎゅうに詰まってることは、自覚しております。
 
ただ、葉っぱ1枚で暮らしたがっている人が、そうするのはその人の勝手であって、私は別に関係ないからなんとも思わないけれど。
それを人に圧力のように、さも真理のように、ただ単にその人達が信じ込んでいる正しいマナーだっていう話なだけのことを、いつまでもいつまでもお題目のように唱えちゃあ、自分は必ず割れたガラス窓の部屋にいる人間である、と疑いもしないのは、私は現実見てない人だなとしか思わないし、かなり傲慢なように、2023年現在は見えています。
 
解がいつまでたってもわからない私に、投げるロープの一端として、その言葉をおっしゃってくださった方々のことを言っているのでは、もちろん、ありません。
 
これをポジショントークというのなら、フェアであることを追求していく先というのは、一体、何を切り出すのかな、という正真正銘の、純度100パーの疑問を、いまは抱く感じです。
 
あの日、やじられたことや、からかわれたことなんかとっくに忘れてて、私が、苦い気持ちを抱いているのは、このことだけです。
 
それとこれは世界の方に申し上げたいことなんですが。
 
すぐに恋愛とか欲情とか欲望とかに結びつけたいのは、それは単にあなたご自身の価値観であって、人が途轍もない美しい人間を前にしたら必ず恋愛感情を抱くものだ、誰もが多数決でセクシーである、かっこいいと判断するあらゆる条件を持っている人間を前にしたら、人は自分の理性に打ち勝てないだろう、っていう思い込みを自己紹介に使うのはご自由だとは思います。
ただ、この国にいる、恥ずかしい人間の私は、そういうことは小学生の時に済ませておいてくれ、としか思っていません。
 
そして、そこに明らかに「みくびり」というものが存在していることを、もう少し自覚していただけると、助かるなとは思っています。
 
私は、やみくもに尊敬を全面に押し出してくる物事や人には、警戒心しか抱かず、その場をそそくさと立ち去るタイプのものですけれど。
 
 
小林秀雄の冒頭部分の感想に戻ります。
 
それで、お前、そんなんでよく小林秀雄だな!という突っ込みがまた世界中から寄せられるわけですが、まあ、冒頭部分に、、なんと小林秀雄はエドガー・アラン・ポーを原文で読んでいた上に、その翻訳を学生の時に売ってお金を稼いでいたのだから、なんとも格好の良いインテリジェンスな遊び方だなと、感心しました。
まだまだ冒頭の部分ですけれども、ポーのことは肯定的に語っていて良いんだ!と、エドガー・アラン・ポーや江戸川乱歩の怪奇冒険譚をよく読んでいた、制服を来ていた小さな私を肯定してもらえた気がして、でーすーよ・ねー? とニヤニヤしています。
 
また小林秀雄の顔を見て、ハンサムだしねぇ、と思われる方は思われるかもしれませんが、私は本を買う時に初めて小林秀雄の顔を知りましたし、とてもスノッブなルックスで素敵だな、と思いますが、好みは、荻原朔太郎かな?(笑)
 
 
 
 
 
 

2023/11/17

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第5夜 しあわせな男達へ ***

 
 Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第5夜 しあわせな男達へ  ***
 
 
 
 
 
 
 
 
しあわせな男達へ / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子(Taeko Onuki)
編曲 / 清水信之(Nobuyuki Shimizu)

 
昨日に引き続き、アルバム「copine」収録曲となっております。
アルバム「copine」についての情報は、Wikipediaの「copine」をぜひご覧ください。
 
参照リンク
Wikipedia 「copine」 https://w.wiki/8Aej
 
アレンジャーの清水信之(Nobuyuki Shimizu)は、日本のポップシーンを主に編曲家として牽引している大変な方で、現在ジャズミュージシャンとして活躍している大江千里(Senri Oe)のポップミュージシャン期や飯島真里(Mari Iijima)や平松愛理(Hiramatsu Airi)そしてEPO(【epo】)の出世作「う、ふ、ふ、ふ」のアレンジなどが、シティ・ポップというジャンルを愛聴しておられる方にとってはわかりやすいキーワードではないでしょうか。
 
発音記号 参考リンク
GSET Academy 様
【音声付き】英語の発音記号一覧|英語の「音」に挑戦してみよう!
https://gset.co.jp/academy/pronunciation-symbol/
 
 
Wikipediaによると大貫妙子や山下達郎(Tatsurou Yamashita)と同期のミュージシャンで、編曲家へも進まれたそうです。
清水信之が編曲として携わっているミュージシャンは星の数ほどいるんですけれど、主に大貫妙子や山下達郎、坂本龍一が切り開いたミュージックシーンの後続世代達との関わりが深いようです。
詳しくはWikipedia 清水信之のページをご覧ください。
新しい日本のポップミュージシャンやシティ・ポップの楽曲の発見があるかもしれません。
個人的には、池田聡(Satoshi Ikeda)の「モノクローム・ヴィーナス」がおすすめです。
 
参照リンク
Wikipedia 清水信之(Shimizu Nobuyuki)
https://w.wiki/8Aej
 
 
「しあわせな男達へ」は、窓から床に落ちる六角形が連なる光を思わせる、美しいピアノの音から始まります。
その第1音から、非常に明るく、静かでくつろいだ視線がこの楽曲のテーマであることをリスナーに伝えてきます。
 
大貫妙子の楽曲の特徴として、歌詞の発音、言葉の持つ意味とメロディラインの調和や融合があげられると思うんですが。
この「しあわせな男達へ」もその大貫妙子のスダンダードなエッセンスを強く表現できている1曲ではないかと、個人的には考えています。
 
日本から新しく発信されているBento Waveの提唱者である、みのミュージックのみのさんが、歌詞は詩ではなく、歌詞である。という考えを動画内で示されたことがあります。
私もそれには、自分の誤った認識をあらためる良い機会となったのですが。
大貫妙子の愛聴者としては、大貫妙子の歌詞はメロディラインに乗った状態では歌詞ですが、文字単体としては詩である、という認識をしています。
 
余談ですが。
現在、みのミュージックチャンネルでは、松本隆(Takashi Matsumoto)が出演し、みのさんと「HAPPY END」や「風街ろまん」(こちらの表記は、最初は漢字とひらがなの「風街ろまん」でお願いします。後続としてカッコ内にKazemachi Romanと表記してください。個人的なこだわりです!)について、語っています。(20231117現在)
 
ぜひ、自動翻訳をお住まいの地域の言語に設定して、ご覧ください。
私も、時間を作ってソッコー視聴してきます!
私はただの視聴者です!(いいから落ち着けよ。)
 
参照リンク

YouTubeチャンネル みのミュージック 様
https://www.youtube.com/channel/UCDkAtIbVxd-1c_5vCohp2Ow
 
 
「しあわせな男達へ」の歌詞ですが。
文字表記された詩を読むと、いままで大貫妙子が取り扱ってきた情景、想い、時間の経過、シチュエーションとは、全く異なる世界観であることがわかる、と思います。
 
これは、大貫妙子の全worksの言葉をチェックしたわけではないので、私が勘違いをしていたら申し訳ないのですが。
おそらく、こういった俯瞰の世界観を大貫妙子が言語化し、詩に推敲し、メロディに乗せたことは「copine」以前にはなかったという認識です。
 
もちろん、「若き日の望楼(ぼうろう)」(明日やります)の後半でも試みられてはいるんですが。
 
完全に第三者、小説でいうなら、登場人物以外のことを話す、自己紹介していない透明人間なアイツ。の視点というのは、昨日触れた、大貫妙子の得意分野だといっていい、物語世界を楽曲内で再構築する視点以外では、これが初ではないでしょうか。
 
これは大切なことです。
これは大切なことです。(2回目)←(笑)
 
大貫妙子の歌詞世界と詩作という切り口で、登場人物の視点を考えた場合、大貫妙子は「若き日の望楼」で試みたシャンソンの手法を、運命の傍観者の視点を、その後も発展させていったと判断してもいいのではないでしょうか。
 
いいですか。
「ピーターラビットとわたし」では、詩のなかに「わたし」は出てきませんよね?
これを便宜上、傍観者の視点と定めます。

ですが、アルバム「copine」以前の大貫妙子の楽曲には、必ず登場人物に語り部の大貫妙子が憑依する視点があるはずなんです。
ですが、アルバム「copine」は、ファーストトラックの「タンタンの冒険」で、大貫妙子の得意分野であるといってもいい、当時、すでにお馴染みであった物語世界の再構築での傍観者の視点を披露し、「Siena」の詩では「あなた」と呼びかけてはいますが、完全に登場人物から離脱し始めるんです。
 
「OUT OF AFRICA」では、登場人物はいませんが、視点はあくまでも私なわけです。私の視点が詩のなかに登場しています。
そして視点は、私の解釈ですけれども、アフリカの情景のそばで様々な謳歌を描写しています。
 
「Jacques-Henri Lartigue」では、最後に本を閉じる人間として出演しています。
ですが、ここではこの手の持ち主が誰なのかは限定されていません。
けれど、歌詞を聴き、この描写の人称がおそらくは大貫妙子の視線である、とリスナーがイメージしやすい造りになっています。
 
・・・大丈夫ですか?(笑)
ついてきて下さいよ?(笑)
 
すごく大事なことを書いています。
うわ、ナード出てきたコレ。と引かずに、是非とも、この話についてきて下さい!(熱烈)
これはとても重要なことです!
 
大貫妙子の楽曲内でのカメラワークの推移が、このアルバム内の楽曲で、徐々に移行する、という表現がなされているんです。
 
そして、「しあわせな男達へ」では、完全に俯瞰からの視線となって、楽曲世界が象られているんです。
 
で、最終トラック「野辺」では、日本の古い言葉、文語長の語り口で、一貫して、無人の世界が歌われているんです。
 
これは完全に、私の個人的な解釈の範囲になってしまうんですけれど。
物語世界を再構築する、という大貫妙子の得意技であるらしい手法、当時の商業ミュージックシーンでお馴染みの、大貫妙子といえばこれ!の傍観者の視点の手法から、楽曲ごとに視点を自由自在に動かし始め、最後の楽曲で、物を語る世界、物語りそのもの「だけ」を、音楽で、ただ構築してみせたんです。
大貫妙子が存在しないで物語る世界を、「野辺」で生み出したんです。
 
これは大貫妙子の発明ではなく、みなさんもお馴染みの、マザーグースや童謡、日本では唱歌の世界で取られている、誰もそこにいないのに、世界が物語られる、詩作の手法です。
名前は、不勉強で申し訳ないんですが、私は知りません。
 
この手法を、1985年の日本の、商業的成功を目指して創られたアルバム内で、「タンタンの冒険」という物語の再構築の視点でスタートしたアルバム「copine」という作品集が、最終的には、唄の始まりに存在する童謡・唱歌によく見られる、詩作の手法に回帰しながら、自分が出演しない、人称のない、ただの物語り、として独立性と独自性を同時に併せ持った楽曲「野辺」をそこで構築して、このアルバムは終わるんです。
 
簡単に言うと、大貫妙子にとって、視点の移動や人称の移動くらい、なんでもない創作である、ということを、あっさりとやってのけたんです。
 
そりゃ、こんなことをあっさり、やすやすとやれば、大貫妙子が1985年の時点で、1目も2目も置かれていたミュージシャンであった理由が、おわかりになるのではないでしょうか。
 
そして、アルバム「copine」がいかに凄まじいアルバムであったかを物語る、非常に重要なポイントでもあります。
ただし、これは大貫妙子にとっては、本意の方向性ではなかったそうです。
つまり、この時点で大貫妙子がとてもやりたかったことではない創作レベルで、このアルバムのクオリティだということです。
 
正直申し上げて、今日の楽曲は「野辺」でも良かったんですが、「しあわせな男達へ」のなかで、カメラワークの情景として表現されている大貫妙子の視点が、非常に自由自在に楽曲の中で構築された空間内を動き回り、最終的には屋外のかなり高い上空まで移動しているのが、はっきりわかるという点で、私は、楽曲の好みもさることながら、1番、愛聴者の皆さんに伝わりやすいという判断から、この楽曲を選びました。

本日、「しあわせな男達へ」をなぜ取り上げたか、わかっていただけた時点で、私見に満ち溢れた本日の投稿を終わります。
 

以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第5夜 しあわせな男達へ  *** でした。
 
 
 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカでは朝の8時に、お会いしましょう!

 
 
2023111722:16 わかりにくい点を補足しました。 
2023111808:58 誤字をなおしました。
 

 




2023/11/16

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第4夜 タンタンの冒険 ***

 
 
 Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第4夜 タンタンの冒険  ***
 
 
 
 
 

 
 
タンタンの冒険 / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作詞:作曲 大貫妙子(Taeko Onuki)
編曲: 坂本龍一(
Ryūichi Sakamoto)
 
クレジット ウィキペディア copine より
https://w.wiki/8Aej
 
 
 
 
現在は「タンタンの冒険」となっていますが、本来のタイトルは「Les aventures de TINTIN」です。



・・・タンタンって? と思われた方、どうかご安心ください。

タンタンのことに詳しい一般人は、日本にはほとんどいません。
断言できます。いません!
 
外国の漫画に詳しい人か児童文学に詳しい人じゃない限り、どこにもいません!
 
「あー、タンタンね!あの、・・・あれ! うん。絵本の・・・?」みたいな人ばっかりです。大丈夫です!
 
タンタンは、フランスのコミックの主人公だったはずです。←お前もあやしいじゃねーか!(笑)
 
いまWikiを見てきましたが、正解でした!よかったです!(ベルギーとフランスは違う国ですよ)
 
タンタンとはベルギーの漫画家エルジェによるキャラクターです。
歌詞内に登場するスノーウィはタンタンの相棒である犬です。
著者のエルジェは、ミヒャエル・エンデやル=グウィンと同じ、偉大な作家です。
エルジェはバンド・デシネでしたが、新たに近代の年齢制限を設けなくとも良いキャラクターを生み出した方です。
詳細はWikipediaをご覧になってください。
 
参照リンク Wikipedia タンタンの冒険
https://w.wiki/59uA
 
大貫妙子にとって生涯にわたる盟友であった坂本龍一がアレンジに参加しています。
楽曲がいまでも十分通用するアレンジに包まれ、とても難解なメロディラインを創り出し、歌いこなしているという、色々とあちこちでざわつく1曲ですね。
 
大貫妙子の楽曲の特徴のひとつでもある、難解なメロディラインについては、著書かライナーノーツで、大貫妙子自身が、作曲家の自分とシンガーの自分は別人なので、創っているときは楽曲のことだけを考えて作曲しているけれど、いざ唄う時になったら、マイクの前で「このメロディを創ったのは誰なの?」と途方に暮れる、と語っていました。
 
大貫妙子の楽曲は難解なメロディか?という問いには、初期から徹底して、歌詞の音とメロディの調和を好みつつ、若干の違和感をスパイスのように使って楽曲を構築する、という見解を私は持っています。
 
これは広告の手法でもよくあるやり方ですし、1時期はニューウェーブの旗手とまで言われていた大貫妙子のサウンドは、現在の楽曲までカウントすると、かなりの数がテレビコマーシャルに使用されていますので、「届く音楽」というものを創る時の非常に理路整然とした思考が、楽曲の基礎作業後のプリプロダクションに強く反映されているのではないでしょうか。
 
タンタンの冒険が収録されているアルバム「copine(コパン)」は、ライナーノーツだったのかは忘れてしまいましたが。
売れるアルバムを作ろう。という大貫妙子以外の音頭で始まったアルバム制作だったらしく、その不本意な方向性とこれだけの豪華製作陣であっても伴わなかった商業成績に、大貫妙子自身が「ほら、ごらんなさい。」としみじみしてしまった経緯を持っています。
 
ですが、このアルバムは商業的には、そちらへのアプローチはかんばしくなかったものの、2023年現在に改めて聴きなおしてみても、1985年の製作とはにわかに信じられないほどの、テクノロジーの遅れは全く感じられないどころか1歩も引いていないクオリティーなのは、お聴きのとおりです。
 
さて、タンタンの冒険という物語(バンド・デシネ)世界を楽曲にしているということは、オール・ラウンダー大貫妙子の特筆すべき作家性。
特定の物語世界を壊すことなく、楽曲に再構築できる才能。
の楽曲でもあります。
これは「ピーター・ラビットとわたし」「テディ・ベア」「メトロポリタン美術館」「月のきざはし」などでも、愛聴者のみなさんがよくご存知の通りです。
 
私は、あまり大貫妙子のこの作家性についての批評や論評から熱いファンライナーまで、きちんと調べたことはないんですが。
「ピーター・ラビットとわたし」1曲だけで、他者の追随を全く許さなかったこの作家性は、かなりの衝撃を与えていたのではないかと思っています。
 
理由は、「ピーター・ラビットとわたし」がドロップされた後、同じ日本のポップシーンで、この手法を引用した楽曲が商業でいくつか見られたからです。
ただし、そのどれもは、二匹目のドジョウを狙っても仕方がありませんので、それぞれのクリエイター達の色や販売戦略が反映されており、「ピーター・ラビットとわたし」だけで調べても、なかなか引っかかってはこない成績だったと記憶しています。
 
大貫妙子自身は、この作家性をどう思っているのか、私はこちらについて語っている彼女の言葉を読んだことはありません。
おそらく、
「人には凄いと言われても、本人にとってはそう苦労をするものでもない。」
というものなのではないんでしょうか。

その後、日本の子供向け音楽番組で楽曲提供をしているところを見ると、その特性も自分の音楽性として商品にはなる、という自覚があるようですので、私見ながら、この基準はそう外れてはいないように思っています。
 
ですが、そう苦労はしない、といっても、朝起きて10分でできるものではないとは思います。
ただ聴いていると、作品世界を楽曲に再構築しているトラックと、他のオリジナルトラックとでは、聴くときの緊張感が全く違うんですね。

最初に空間に音が流れる時の、滑らかさの度合いが、全然違うんです。
そこまで大貫妙子がコントロールできるのかどうかは、ちょっとアマチュア耳の私には判別できないんですが。
個人的には、これは大貫妙子にとって得意分野ではないのか、という判断をしています。
 
みなさんは、どう聴かれるでしょうか。
 
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第4夜 タンタンの冒険  *** でした。
 
 
それでは、また明日の日本時間では22時に、主にアメリカでは朝の8時に、お会いしましょう!
 
 

 
 
 

スターバックスと池波正太郎

 
相変わらず、池波正太郎のエッセイを読んでいます。
ガッツリ一気に読むのではなく、休み休み、私の部屋の中のお気に入りスポットに置いておいて、読みたくなったら読む感じです。
 
グルマンであり、もののわかった方であり、粋な流儀に大変
詳しい方で有名ですので、私が若者だった頃に見聞きした、
 
食に関する考え方やお蕎麦屋さんでの作法、天ぷら屋さんではどうするべきか、お鮨を食べるときはどんな感じがいいのか、
 
そういうことは、全部池波正太郎発だったんだな、と、なんとなく抱いていた違和感と、で、その先の説明はないんですか? というもの、それでそっから前のハナシは一体どういう流れなんですか? という疑問が、池波正太郎のエッセイを読んで、一気に解決しました。スッキリ。(回し者ではありません)
 
そんな池波正太郎先生は、資生堂パーラーがお好きで、小学校を出て働き出してまもない頃、自分のお給金で資生堂パーラーで洋食を食べていたというから、大変なモダンボーイだったのだな、と思います。
 
この世界にスターバックスが現れた頃には、池波正太郎は、もうこの世に暇を告げた後だったのですが。
 
私は、資生堂パーラーに行くほどの方なので、もしご存命であれば、スターバックスのラテを必ず試されたのではないかという、ほとんど確信めいたものを読者として抱いています。
 
晩年の池波正太郎がどのような性分だったのか、そもそも池波正太郎自身が、エッセイの中とは別に、現実ではどのような風の方だったのか、私は知るよしもありませんし、特に調べようと思いません。
 
なぜなら、文章を書くというのは、アマチュアの私にとって、それはどこにも存在しない、ステージの上に立って、並いる観衆に向かい、その瞬間瞬間にいいと思った、たくさんの中からセレクトしたペルソナをかぶったまま 、口上を述べている状態なので、そこから降りてペルソナをさっさと外し、一服しようとポケットを探る時の顔を見ても、こちらは街のあちこちの壁に貼られたポスターに乗せられ、来場して席に座り、ステージ上の姿を見に来ているので、特に興味を抱かないし、見せられても逆に困ってしまうからです。
 
なので私がここで書く、池波正太郎像は私の見ている池波正太郎像でしかないのですが。
 
その中にもいくばくかの、本人の味のようなものが滲み出ているはずと信じたいので、私は、私の頭の中の池波正太郎について、きっとスターバックスを試しただろうし、アプリを導入しただろうし、ウーバーイーツの配達員さん達の姿に、昔の自分を重ねて、チップを弾んだり、時には話せる大人として、ちょっとしたひと言をかけたりしたのだろうな、と想像しています。
 
何か随分と、古いものだけを尊び、新しいものを嫌う、という変なイメージがまかり通っているみたいですが。
 
エッセイの中で池波正太郎が見せた流儀を、私が誤読していなければ、まず間違いなく、スターバックスに行かれて、カスタマイズまでとても上手になさっていたし、スターバックスのコーヒーの妖精さん達は、そんな池波先生のことが大好きになっただろうと、私は考えています。
 
読書予定としては、小林秀雄をちゃんと読んでみようと思います。
教科書に載っていたのを阿呆のように繰り返し読んで、反芻していたのに、いやまずは著書を読んでみてはどうか? ということに、何十年も気がつかずに来ていた私に、知恵をくださり、ありがとうございました(笑) 
気がついてないことに気がつけた瞬間、びっくりして、笑いました。感謝です。

 

追記
相変わらず、なにがなんだか、よくわかっておりません。
 
ですが、ずっと気がつかないふりをしていた、ワールドワイド悪目立ちなバカとしては、こっちに行くべきなのでしょう。
 
私は遅刻が大嫌いなのですが、自惚れ承知で書けば、ずっと長い間、先回りしてわかるようにしてくださっていたことに感謝しつつ、まずは小林秀雄から始めて、追いかけます。
療養していたので、あまり刺激的なものは読めませんでした。
 
レヴィナスは、私にはさっぱりわからず挫折しました。
 
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※後日注記:いろいろな層の方が読まれるのを考え補足いたします。直しの前に書いていた「何言っているのかさっぱり分からず」ですが。
これはレヴィナスが論じ提示している内容を侮辱しているのでは全くなく、私が理解のかけらもできなかったという意味です。
レヴィナス先生、門下生の方々、 門弟の方々、多くのフォロワーの方々へ、そのようなつもりが毛頭なくても誤解を招きやすい表記をしたこと、ご不快なお気持ちにさせてしまったことを、謹んでお詫びし改訂させていただきます。
(20240218 18:56 エナメル記)
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葉隠は面白かったという記憶しかなく、多分、そう目新しいことを発見できませんでした。
粋の構造学は、文字というか随想をグラフ化することのほうが面白いと思いました。
 
いまは調子を崩しており、メディアに全く触れられておりません。
図書館でファンフィクションの資料をどっさり借りてきたので、それをデータ化して、取り組む予定です。
いま、11月ですので、1月中には全部整理はつくと思います。
 
せめておっしゃっていることを理解できるまでの時間を、1ヶ月に短縮できればと思っています。
 
あと、天下の大変すぎる方がなぜか気にかけてくだすっており、怖ろしくて著書を拝読することができておりません。
どうか、これ以上、私に知識のご厚意を下さりませんよう、どうかどうかお願いしていただけないでしょうか。いま書いているだけでも、冷や汗がでます。びっくりしすぎてどうすればいいか、見当もつきません。
 
涙が出なくなったら、伺います。
これ以上、情けない姿を見られたくはありませんので。
 
だから、長生きしてください。絶対に生きててください。
ご健康にくれぐれも御留意ください。
 
絶対に気をつけてください。
夜は重いものは控え、朝食はバランスよく、サプリを活用し、月に一度は健康診断に行き、天気のいい日は、1時間は歩き、朝と晩は足の筋にくれぐれも気をつけてストレッチをし、熱いシャワーは控え、お酒もほどほどに、タバコはやめてください。 
 
苦手な季節を前に、必ず住環境をご自身に合うように整えることを習慣としてください。
季節ごとの模様替えはとても重要な予防生活習慣です。
 
安全運転を必ずし、コーヒーもいいですが、爽健美茶や黒烏龍茶をお飲みください。
体質が変わりますので、アレルギーテストを定期的に行い、服薬の副作用には気をつけてください。
気圧の変化にも必ず気をつけてください。血圧と深く関わりあります。
 
体に合った服は、AmazonやZOZOTOWN、SHEINでメジャーを準備して購入してみてください。
ユニクロの通販はとても優秀です。
あと靴はいいものを履いてください。自転車はやめてください。運転も安全運転をして、常備薬は車に置いておくこと。
インフルエンザワクチンは年1、マストです。
 

わからないことができたら、ここに書きます。
ですが、ほとんどのことは調べればわかるはずですし、勇敢な方々にお手を煩わせるわけにはいかないので、どうしてものことだけ書くようにします。 

お考えや思想とは全く違うものではありますが、とにかく頑張って追いかけます。
 
それでは、失礼いたします。 
くれぐれもご自愛くださいますよう。
 
エナメル

 

 

 

 

 

 

 


2023/11/15

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第3夜 カイエ(Ⅰ) ***


Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第3夜 カイエ(Ⅰ)  ***
 






 
 
カイエ(Ⅰ) / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作曲: 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲: Jean Musy
(クレジット Wikipedia カイエより
 
 
来た来た来た来た来ーたー!といま画面の前のいく人かの方々が前のめりになっておられるのが目に浮かぶようですが(笑)
 
カイエというアルバムがあるんです。
ジャケットは、ドローイングのような、天使の姿がかろうじてイメージできるだけの線で描かれているジャケットです。
確か、全身を描いてあるのではなく、上半身だけで、身体の部分は風にかき消えかけているようなイラストレーションでした。
 
(これを書いた後、iTunesのジャケットを見ると、イラストの前にスタンドマイクらしきものが! これはそういうことなんでしょうか。その評価は大賛成です。)
 
どうして大貫妙子がこのアルバムを創ろうと思ったのか、その経緯はなんだったのかは、ライナーノーツ自体がついておらず、このアルバムの意図を、言語で饒舌に説明するものではなかったと記憶しています。
 
私は自分のわかる範囲で、イマジネーションを音で具現化しようとしたのかな、と考えていました。
 
アルバムタイトルのカイエで検索すれば、おそらくWikipediaにこのアルバムについて知りたいことが書いてあるのではないかとは思うのですが。
 
今回、イベントをやるにあたって、大貫妙子の楽曲を自分でセレクトしてiTunesで購入した時に、カイエを聴き直して、やはり私は、この楽曲やこのアルバムの意図の説明を求めていないな、と感じました。
 
ですので、詳細を知りたい方は、「カイエ 大貫妙子 アルバム 」で検索していただければと思います。
 
そもそもカイエという名前自体、誰の手による、この世界の具象の一体何を当てて、その存在を縁取る名前にしたのかが知りたくて、確か、私はダンテの神曲を開いたんですけれど、あまりにも難解で、最初の方で挫折してしまったので、カイエというものが司どる名称の由来もわからないままです。
 
歌詞らしいものがない、言葉の響きと大貫妙子の柔らかく、天上の旋律や降ってくる光から連想される声で、天界の存在が奏でられています。
 
春、夏、秋、冬と季節を通して聴いて確かめてみたんですが、どの季節にも合っているという、大変なサウンドです。
あとはもう好みの話なので、個人的には、やはり冬の早い夕方、雲間から降り注ぐ金色の光を私は思い浮かべます。
 
天使というと、羽を纏った、または隠した、巻き毛で金色の美しい髪を持った、ビスクドールのような頬の持ち主を想像されると思います。
 
私は、それに加えて、実はモダンバレエ、クラシックバレエのダンサーのイメージがあります。
クラシックバレエがトゥ・シューズで天上の舞踏と称されたように、モダンバレエは滞空を躍動し滑走してみせた、あの瞬間の肉体の動き、に、私は、あまりにも不確かな至高の存在を見てとります。
 
多分、化身を見ているのだと思います。
 
そういう理由で、普段、ここでやっているファンブログの部分では、天使さんと呼んでいる方がおられるのですが。
その方も、また、大変優れた舞踏をご自身の世界とされているので、最初、なぜ、自分がその方のことを天使さんと呼んでいるのかよくわからなかったんですけど、確か、私はこの方達のパフォーマンスで最初に見たのが、こちらの方の凄まじい舞踏だったので、天使さんとお呼びすることは、私の中ではなんの不思議もありません。
 
話を元に戻しますと。
大貫妙子は時々実験的なアルバムを出すことがありました。
前衛というより、ポストモダン、ポストポップス、ポストロック、というような、壊す、というテーマの作品を発表することがあり、私はこのカイエというアルバムでは、どういう経緯だったのかは知らないまま、アルバムという作品集を構築するテーマというものを破壊したのではないか、と考えています。
 
言葉で限定することで、音楽が縛られてしまい、リスナー側のイマジネーションすら、決して額縁から外に出られない絵画のように区切られてしまうことから、可能な限り離脱し、逸脱しようと試みたのではないかな、と思います。
 
どうしても実験的というと、難解なサウンドや楽曲で構成された作品集を想像されるかもしれませんが。
 
そこが大貫妙子のオールラウンダーたる矜持がそこかしこに見える、どの楽曲も、商業音楽のレベルに達した上で、解釈は個人の好きに委ねられている、とても制限されないアルバムであり、そのタイトルトラックとしてのカイエを大人になって聴いても、理解というものに怯えなくてすむ、安心して好きなように音を聴ける1曲となっています。
 
 
以上、 Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第3夜 カイエ(Ⅰ)  *** でした。
 
 
それでは、また明日の夜22時にお会いしましょう。