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うっかりカツカツやって来て、うっかり居ない。( By O.)
 

2023/11/19

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第7夜 黒のクレール ***


 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第7夜 黒のクレール  ***
 
 
 
 
 
 
 
 
 
黒のクレール / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子 (Taeko Onuki)
編曲 / 坂本龍一 (Ryūichi Sakamoto)
 
Wikipedia 黒のクレール
 
 
大貫妙子を検索すると、楽曲プロフィールに日本では主に、この黒のクレールが代表曲に入っていることが多いです。

アルバム「Cliché」収録ということで、いま知りましたけど、クリシェって売れてたんですね。
 
「ピーターラビットとわたし」や「色彩都市」が収録されてて、私もカセットテープに録音してよく聴いていました。
私は、他には「LABYRINTH」が好きです。
 
アルバム「Cliché」のページには、大貫妙子自身がこのアルバムと収録曲をどう思っていたのか、という情報が盛りだくさんですので、ぜひご覧ください。
私も色々と初めて知れて嬉しかったです。
 
なかでもたくさんのアーティストの方々が大貫妙子の楽曲をカバーしているそうで、「色彩都市」が多いんですね。やっぱり。
私も、「色彩都市」というのは、とてもくつろいだ大貫妙子のイメージがあって、好きな曲です。
 
Wikipedia 「Cliché」
 
 
「黒のクレール」は1聴してフランスの海辺を連想するサウンドと歌詞世界だと私は思います。
前述したWikipediaの「Cliché」のページでは、大貫妙子はアルバム制作の前にパリに行っているので、伝えてくるイメージの正確さにも、舌を巻かれるかたが多いのではないでしょうか。
 
アレンジは盟友:坂本龍一ですが。
坂本龍一にしては、ずいぶん素直なアレンジをしたものだな、と私は思っていたんですけれど、これは大貫妙子の好みが強く反映されていたようですね。
こちらも「黒のクレール」ページを参照してください。
 
私は大貫妙子の頭の中にある、大貫妙子しか行くことが許されない、どこかに似ているどこでもない街や町は、おそらくパリの雰囲気に酷似しているのではないか、と考えています。
 
「Cliché」は1982年制作ですから、意外にも、その前に初めてパリに渡ったそうですので、才能というと簡単すぎますが、大貫妙子の意識というのは、イメージの輪郭がひどく正確なのではないでしょうか。
 
その後の未来で、大貫妙子はアフリカや南極まで足をのばしているので、おそらく、どこかに似ている、どこでもない街や町は、その後も拡大し続け、
ある通りでは「When I Met The Grey Sky」に出てくる様相を持ち、
ある街角では「いつも通り」に出てくる空っ風吹く東京のどこかによく似た通りのまま、
雄大な暁をもつ地平や音が降ってくる星空が見える窓がそこかしこにあり、自由に行き来ができるのかもしれません。
 
そう考えると、大貫妙子の頭の中にある、どこかに似ている、どこでもない街や町の中で、正確にリスナーの私達にイメージを手渡していく、このミュージシャンの感覚は、とても信頼できる感性だと思います。
 
私個人のイメージは、「黒のクレール」は、フランソワーズ・サガンが過ごしたことのある海辺だし、マリ・クレール誌が日本に浸透させたブランドイメージにあるような、明るいけれど、明るすぎない、どこかしら憂鬱な郊外の港。
そんな、機能しているけど寂れた、いつか見たことのある海にまつわる景色です。
その上、それがなぜかサローヤンの「パパ・ユー・アー・クレイジー」の海辺に繋がっていくんですよね。舞台はアメリカなのに。
 
「黒のクレール」で歌われているのは、恋の終わりですが、ここに出てくるソリティアでしかない、終わった恋の行方を占う、非常に退廃的なカードを繰る動作そのものが、哀しみや諦め、孤独、なのに心地よくさえある、孤立した「恋」の世界の象徴のようで、この楽曲をどうしてもエレガンスという装飾にしたかった大貫妙子の感覚に、礼賛だけを胸に、ただ黙って頷くのみです。
 
 
 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第7夜 黒のクレール  *** 、でした。
 
 
 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!
 
 
 
 
 
 

いい靴


 
日曜日なので、穏やかな内容を書いています。
 
 
インフィニティローズのピンク

 
 
 
永遠の名作 「花より男子」の素敵な登場人物:藤堂静が主人公つくしにこう言います。
 
「とびきりいい靴をはきなさい。いい靴は、はき主を素敵な場所に連れて行ってくれる」
 
参考リンク
Otajo 様
花より男子、SATC……『Ane Can』9月号には靴にまつわる名言集がズラリ
 
というわけで、今日は私が危ない目つきで、日々情熱的に愛している靴の話です(笑)
 
先日、靴はいいものを履いてください、と大きなお世話極まりないことを私信で書いたんですけれど。
 
「花より男子」の作中で言われている靴は、とてもいい靴。高い靴。の意味だと私は解釈しています。
 
高い靴というのは、みなさんご存知の通り、足にピッタリ合うサイズに、オーダーで注文して、履いてみると健康にとても良い、歩くときのあの辛い感じがあまり感じられない、と評判の靴のことですね。
 
その他にも、いい靴、というのは、自分が気に入った靴、というものがあると思います。
 
私は、靴は好きですが、自分の足型を持ってるほどではありません。
理由は、常に、オーダーで靴を作ると、それ以外が履けなくなってしまうからです。
 
経験がないので、想像するしかないんですが。
オーダーで靴を作るとき、デザインも自分の好みのものを描いてもらうと、その分、料金が上乗せされてしまうのは当然ですから、私は、そうそう靴にそんなにお金をかけられない層の人間です。
 
ただ、靴に無限にお金はかけられないけれど、素敵な靴というのは、そこそこやはり値段はします。
 
これは私の世の中に対するロマンティックな目線の産物なんですけれど。
 
3980円の靴でも、それが将来、有名デザイナーさんになる人が修行中でそのメーカーの中で仕事をしている可能性。
将来、素晴らしい職人さんとして独立する人が、そのメーカーの工場で携わっている可能性。
 
そういうものがあるかもしれない。
とは思っています。
 
実際、18の時に買った1980円のバレエシューズタイプのエナメルシューズは、かなり履き心地が良かったし、それから3年くらいは余裕で持ちました。
 
だから、お金をそんなにかけないで、素敵な靴を手にいれる、というのは、そう難しいことではないのではないかと思います。
 
いまとは物価が違うので、後で擦り合わせますけれども。
 
若者だった頃、いい靴、ヒールの靴はとりあえず1万円代のものから、という基準を私は持っていました。
 
そこらへんの靴は、とても履き心地がよく、履いて歩いても具合が悪くならず、履いた後、陰干しをして、手入れをして、大切に使っていたら、何年ももちました。
 
いまだと、店頭では、2万円くらいから、になるんでしょうか。
 
お馴染みの「みんな大好き2に0をつけた分の額を引くマジック」でいうと(笑)、19800円ですね。
それが大体、ネット通販では8千円代からで取り扱いがあるようです。
 
スニーカーなら、私の価値観ですけれど、メーカーのもの。
やはり足専門のメーカーのものが私には合っています。
 
私はABCマートで購入しています。
これも6千円から1万円前後。高くて(新し目のモデルで)1万五千円くらいから。
 
こちらは、必ず靴の中の中敷きも店員さんに見つくろってもらって、家に帰って、自分の足のクセに合わせて調整してから履いています。
 
私信で、いい靴をと言ったのは、デザインや品質もですけれど、靴は健康に強く影響があるからなんです。
 
足裏のツボの話もありますし、親指、爪、小指、土踏まず、踵、そのあたりの、足の悩み = 靴の悩みというのは、健康と体調とストレスに直結していますから。
オーダーで靴を作らないのであれば、既製品は必ず自分に合った微調節をしてから履く、というようにしています。
 
みなさんご存知の通り、健康中敷や100均で売っている靴のパットを駆使して、自分の足に合うように既製品を微調整してから履くと、かなり違いますよね。
 
私の場合は、車酔いのようになって気分が悪くなること、めまい、貧血、歩いた後の疲れ方が全く違いました。
 
なので、好きなデザインの靴を見つけたら、必ず、調整して、自分だけの靴にして、長く付き合うようにしています。
 
そろそろ12月ですね。
美味しいものを食べたり、お酒を飲んだり、部屋の中を心地よくしたり、好きなお茶を新しくあつらえたり、クリスマスシーズン限定のコーヒーを買ったりして、自分にプレゼントをしても、どこから見ているのかわからない厳しい自分から、なにかしら許可が出やすい(笑)、月です。
 
もし、いま特に欲しいものが思い当たらないなら、靴をご自身にプレゼントするというのはどうですか?
 
これをお読みになってくださっているプレゼントを探してる方々も、靴をプレゼントに選ぶ、というのは、とてもお互いにとって特別なことではないでしょうか。
サイズ、履く方の好み、履いていく所も一緒にプレゼントに含まれているので、愛情の腕の見せ所のように、私は思います。
 
 
寒くなってきましたね。
温かくして、美味しいものを食べて、とにかく無理をしないで、リラックスしながら、1年で最も世界がデコレーションされる月を過ごしましょう。
 
 
 
それでは、素敵な日曜日をお過ごしください。
 
 
 
 
 
 

書いて良かったです。

 
ただの罵倒でしかない本文を削除しました。 
20231216 11:39

追記
そんなに精神状態悪い感じしますか?
うーん。
 
私としては、誰でも知ってる作家の誰でも知ってる作品あげたことで、結構、簡単だと思ってるんですが。 
悪くなると、もっとねじくれたセレクトをするので、自分では特に危ない感じはしていません。

でも、ここを読んでくださるみなさんが、1番、私の状態をよくご存知ですので、しばらくは、通常投稿やイベント以外は控えますね。
 
教えてくださり、ありがとうございました。
ちゃんと食べて、寝ますね。
どうか、温かくしてお過ごしください。
嬉しかったです。


 
 

2023/11/18

書いた理由

私も言わないでおこうと思っていたんです。
 
黙って、自分だけがわかってる、激しい怒りの気持ちを持っていたら、それでいいし、沈黙は金だと私は思うので。
 
で、そうしていたら、なんか、果てしなく誤解・曲解されていくし、無表情で、しら〜っと数年間、無反応でいても、いつまでも続けてくるし。
 
どうすりゃ気が済むのさ。と思っていたんですけれど。 
 
よくわからないけれど、怒らせたいんだろうな、と見ていたので、じゃあ、そろそろ感情を出してみようかな、と思いました。
 
それで、10年以上くらいぶりに(もっとかな?)、ちょっと本当に怒ってみようかな。と思って、ネットで怒ってみました。
 
 

いま応援している方達のライブイベントやコンサートにも行くつもりもありません。

なので、必要なところに登録をしてません。
 
何か、国内で、私の興味がある会? 集まり? みたいなのがあっても、まず行かないと思います。
 

 
明日は日曜版とイベントの投稿を予定しています。
よかったら読んでいただけると嬉しいです。 
 
怒ると疲れますね。ぐったり。
 
追記
 


ちょっと疲れてるんです。新しく書こうと思っている物語のネタに引っ張られてるだけです。

 
 
 

Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第6夜 若き日の望楼 ***

 
Let's listen to Taeko Onuki, shall we?
<大貫妙子を聴こうじゃあないか>
*** 第6夜 若き日の望楼  ***
 
 
 
若き日の望楼 / 大貫妙子(Taeko Onuki)
作詞:作曲 / 大貫妙子(Taeko Onuki)
編曲 / 坂本龍一(Ryūichi Sakamoto)
 
クレジット Wikipedia 「ROMANTIQUE」より
https://w.wiki/6D6e
 
 

アルバム「ROMANTIQUE」収録。
Wikipediaを見ると、大貫妙子のこのアルバムについての考えがたくさん記述されています。
それだけ誤解もあったのだろうし、曲解されたのかもしれませんね。
私は前述したように、まず聴いて、自分がどう思ったか、感じたか、を大切にするので、もしアルバム「ROMANTIQUE」を未聴の方は、私は、聴いてから、そちらを読まれるのをお勧めします。
 
確か、私も、最初に大貫妙子を聴いたのは、「ROMANTIQUE」だったのではないでしょうか。
それ以前に、F Mラジオで大貫妙子の「ピーターラビットとわたし」をエアチェックしていて、知ってはいたんですが、ちょうどその頃、シャンソンを聴いてみたかったので、確か、お店の人に日本のシャンソンでニュー・ミュージック寄りの好みを伝えて、出してきてもらったのが、大貫妙子の「ROMANTIQUE」だったような記憶があります。
その頃、まだ小学生だったので、お店の人もすごく困ったと思います。
でもこれ、阿川泰子(Yasuko Agawa)をたどっている最中に、隣のコーナーに「ROMANTIQUE」が置いてあって、なんかヨーロッパっぽいし、と思って、手に取ったのかもしれません。
 

 

 
それで「ROMANTIQUE」の中で、シャンソンではないかと思ったのが、「若き日の望楼」です。
同アルバム収録曲の「BOHEMIAN」の歌詞にシャンソンという言葉が出てくるし、大貫妙子ってきっとシャンソン歌手なんだろうけど、別の曲も創る人なのだろう、くらいの認識です。
でも、おかしいなと思ったのが、「若き日の望楼」って、ギターが出てくるんですけれど。
そのギターの音触がロックの音なんですよ。
あれ? と思って。
それで確かお店に行って、大貫妙子の他のアルバムジャケットを見て、それで大貫妙子がギター(ベース?)と一緒に写っていたのを見て、まず間違いなく、この綺麗な人は、シャンソン歌手ではないな、と1人、納得をしておりました。
 
さあ、綺麗だと書いてしまいました。
もしかして、みなさんは、どうして大貫妙子が才能があり、楽曲も声も文章も語りも素晴らしいだけでなく、美しいということを誰も何も言わないんだ!
大貫妙子は辛い思いをしていたのではないのか? 
と心配に思っている方がおられるかもしれませんが。
えー、これも今回のイベントで取り上げる予定ですけれど。
さっくり書くと。
日本社会には、特に文化人系と言われる世界の中にある、ごく一部の考え方なんですけれど。
正直であることを尊ぶ風潮のわりには、綺麗な人のことを綺麗だとする、ことが、なんというか、相手を軽んじていることにつながる、という警戒心が存在しているみたいなんです。
そういうことには惑わされずに、こっちはあなたをきちっと評価しているんですよ!アピール。なんですけれど。
これは、女性に限らず、いろいろな性の方にも共通して存在しているんですよ。実は。
 
だから、大貫妙子について、綺麗である。ということを言ったり書いたりするのは、よくないことだぞ? 
そういうことを言うのは、違うんじゃないかしら?
という風潮があったんだと私は思っています。
この話は、きちんと、あのぅ、書きますので。
どうかご心配なさらないでくださいね。本当に大丈夫ですから。
 
「若き日の望楼」を聴くにあたって、やっぱりシャンソンのことを私がどう捉えているかという話をした方がいいと思います。
で、日本には、Wikipediaによるとシャンソン歌手も数多くおられたそうなんですけれど。
子供だった私の耳にも届いてきたほどのシャンソン歌手といえば、五輪真弓(Mayumi Itsuwa)による「恋人よ」をカバーした淡谷のり子(Noriko Awaya)とエディット・ピアフの愛の讃歌を歌唱した越路吹雪(Hubuki Kosiji)だったんです。
このお二人は、私見ながら、歌手という使命を生きた方達でした。
なので、ジャンルで括ることは失礼である、と言われるのは百も承知なのですが、日本におけるポピュラーシーンにおけるシャンソンというもののさわりだけでもと思って、このように記述することをどうかお許しいだたければと思います。
詳しくはWikipediaのシャンソンをご覧ください。
 
Wikipedia シャンソン 
https://w.wiki/3M6n
 
 
昨日の投稿で、私はシャンソンを運命の傍観者の視点、と書きましたが。
私の理解が間違っていなければ、シャンソンというのは、大きく全体を捉えると、詩を吟ずるもの、でいいはずです。
上記に出したWikipediaのシャンソンの項目に、
 
シャンソン(フランス語: chanson)は、中世の吟遊詩人をルーツとした歌曲と、フランス語の歌曲の総称である。

Wikipedia シャンソンより
https://w.wiki/3M6n

 
とあるので、勇気を出して(笑)続けますが。
 
日本には、「とはずがたり」(問わず語り)というジャンルがあります。
ジャンルでもあり、書名でもあるんですけれど。(本ではなく巻き物です。)
1313年に成立したものとされている後深草院二条(Go Hukakusain no Nijyou)の手によるものです。
で、この「とはずがたり」というのは、自身の体験を語る形式の物語で、当時新しい形式として、長い間、宮中で発禁本だったという(笑)、いつの頃も、センセーショナルであるものは、最初は、なんということを書くんだ!というお叱りを受ける象徴となっている事例なんですが。
 
こちらは、何もそんな大変なことが書かれているわけではなく、紫式部(Lady Murasaki Sikibu)の源氏物語(Tale of Genji)に影響を受けているとされる、そうですが、私は教科書に載っていたかどうか、かなりあやしい記憶しかないんですが、多分、読んだりはしていたはずです。
  
「とはずがたり」と言うのは、Wikipediaにあります通り、「問わず語り」と表記し、自発的に物語ることなんですね。
 
で、シャンソンは、歌曲なんですけれど、私は語るための歌であると考えています。
それは表現としての歌の根幹部分の在り方として、なるべくしてなった、姿だと思うんです。
その形式を引用して、大貫妙子が語ったのは、とても遠い時代だと感じるほど、客観の過去でした。
 
アルバム「ROMANTIQUE」って、多分、すごく売れたんだと思うんです。

瞬間的なチャート順位ではなく、ロングセラーでも、セールスはトップに入るものではないでしょうか。

楽曲の中で、歌われ、語られているのは、過去が物語りになるほど遠くなってしまった記憶で、それが事実かどうかという話すら霞むほど、この楽曲で表現されていたのは、「過去」ではないでしょうか。
 
これは私のとてもロマンティックな想像なんですけれど。
 
大貫妙子が過ごしていた多感な若者期って、日本ってすごく熱を帯びていた時代だったのではないでしょうか。

私は、文献や映像を遡ることでしかわからないんですけれど、おそらく、あちこちで熱が充満していた時代で、大貫妙子自身は、その頃、というものを完全に過去だと思っていて、特に過去に理由を持たなかったんじゃないでしょうか?
 
私はその時代を描いた映像作品として、
当時を若者として生きた男と過去として当時を知っているだけの若い女性が、偶然、男がそのとき恋人と暮らしていた部屋に住んでいたことから、酔って昔を懐かしんで、当時の部屋までやってきて、その当時のやり方で鍵の隠し場所を探り当ててしまい、部屋のドアを開けて、今にも警察に電話しようとする、今の部屋の持ち主と、なぜか奇妙なひと晩を部屋の向こうとこっち側で過ごす、というドラマが、とても好きです。
 
また、ドラマ「反乱のボヤージュ」がとても好きです。
 
配信されていないのがとても残念なんですが。
私がこの二つのドラマが好きなのは、私にはわからないその時代を、過去であるが、いまだ熱を帯びているものが残っている、ものとして描いているのが、非常に現実的だと思ったし、記憶に対して真正面に対峙した、当時の日常から未来という現在に繋がっている、としているところです。
 
そこに、過去以外はない、という捉え方の流儀と言いましょうか、とても私にとっては咀嚼しやすい切り出し方だったんです。
  
なので、ウィキにあるように、大貫妙子が「若き日の望楼」について、このアルバムリリースの3年後に、あえて語っているのだから、この時代は、やはり特殊で、個人の時間と、共有の時間が、縄のように編まれているような、そんな、特異であり、誰もが持つ、2度と来ない熱い日々の中に、黎明期の精神の色彩を放っているのだという、聴き方と捉え方を、私は、しています。
 
「若き日の望楼」って、アルバム「copine」でもフランス語でカバーし直したりしているところを見ると、大貫妙子にとってこの時期は、青春時代の経過として、決してデコレーションしなくともいい、自分を取り巻く世界に、身ひとつで全力でぶつかっていけた、過ぎ去りし日のワンエピソード。それ以上でもそれ以下でもない、とにかくもまっさらな世界だったのではないでしょうか。
 
” パンとワインで仲間たちと過ごした ”

(若き日の望楼 / 大貫妙子(Taeko Onuki)より)
 
それが一体、どのようなものか子供だった私は知りたくて、自分が若者になった時に、ワインとパンでたくさんの夜を過ごしました。

正直、ワインにはカマンベール・チーズかプロセスチーズ。時々、ボイルしたウィンナーかサラミの方が好きでしたし、ビールと柿の種の方が、自分にはピッタリだな、と思いながらも、結構な期間、真似していたことは、楽しかった記憶として私の中に、大貫妙子の楽曲が運び込んでくれた、大切な財産になっています。

 
以上、Let's listen to Taeko Onuki, shall we? <大貫妙子を聴こうじゃあないか> *** 第6夜 若き日の望楼  *** でした。

 
それでは、また明日、日本時間では22時に、主にアメリカではだいたい朝の8時に、お会いしましょう!